名乗り 穏やかな談笑の合間であったように思う。
そう。あのときは、まだ。
平家打倒はかたちの淡い理想でしかなかった。
伊豆の木陰で馬を休めて、木の幹にもたれて水を飲んで。
三郎は木々の狭間の空を見ていた。空の青を。弟たちは、三浦の牧の話をしながらそばに控えていて。
なぜそんな話になったのかは、覚えていない。
「名乗り。」
「うん。どうするかな、と思って」
相談というわけでもなかった。淡い思いを淡いまま呟きというかたちで外に出しただけだった。
与一は水筒を腰に結わえ戻した。
母から聞かされる工藤と三浦の血筋を思えば、三浦は桓武天皇の末孫高望王の末裔と高らかに謳う。一方工藤は藤原の清夏の末裔ということになろう。いずれにせよ三浦の人間として謳うのはおかしい。実際に華々しく名乗り上げて一騎打ちなど与一の柄でもないし、そんな場面があろうことをあまり想像できないので、ただの軽い思い付きだった。
「三郎はなにか考えているのか。どんな風に言おうとか」
ふふっと三郎は笑った。
「いやあ、おれはどうかな。遠いご先祖の名を付け加えるのもそれは誇らしいが。戦となればおれは佐殿をそばでお守りせねばならんから、一騎打ちどころではないだろう。小四郎の面倒も見なければならんことだし!」
急に名前を出されて三郎の弟は、大きな目を見開いてぱっとこちらを見たが、不本意な顔をちらっと見せて平六の顔に視線を戻した。平六は背中を向けていたので様子がわからないが、黙っていながら背中がこちらを伺っているだろうことはわかった。よくない話題かもしれない。弟に気を使わせてしまうかもしれない。
「名前だけを叫べば、おれはじゅうぶんだ。これなるは、北条の三郎宗時!いざや、お相手仕らん!」
言って、ははは、と三郎は笑いあげた。
その闊達さに胸がすっとした。
「ならばおれも、そうしよう。三浦与一近実。そうだな。それでじゅうぶんだ。」
三浦。
一族の名前。そこで生きるその場所の名前。
仮名の与一。
みなにそう呼ばれて育ってきた。
近実。
母の父、伊藤祐親の親の字を近に換えていただいた。
祖父の弟、烏帽子親である岡崎義実大叔父の実の字をいただいた。
おれの全部がちゃんと足りている。
「そうしよう。」
篝火が、衣笠のまっくろな夜を焦がしている。
その炎に照らされて、闇の中に浮かびあがる黄紫紅の吹き流し。
戦旗にある三本の、三浦の鮮やかな横線は、龍神。
「搦め手はおれと小次郎、金田の太郎どの、大手は…」
ずらりと一族の将が甲冑に身を包み、広間に打ち揃って、大将の義盛の声を聞いている。義澄の背を睨みながら、与一も各隊の配置を頭に描きながら聞き入っている。
「中の陣は、次郎叔父御と十郎叔父御」
「心得た。」
義澄が腹から声を出した。すでに声に殺気が籠っている。与一、よいか。と言われた。
「はい!」
武蔵の軍、三千騎がやがてここに押し寄せてくる。祖父義明の望みはここで華々しく戦って果てること。死戦。ここに至って必要なのは覚悟だけだ。
(一騎打ちか。武蔵の兵が相手なら、あるかもしれないな。)
思い出が。
あまりにも穏やかな美しい木漏れ日の情景が眼前に浮かび上がって消えた。
名前だけを叫べば、おれはじゅうぶんだ。
(三郎)
「そうしよう。」
与一は微笑んだ。
おそらくもう会うことはない従兄弟だ。
せめて臆することなく、敵に向かって吠えよう。誇らかに自分の名を叫ぼう。
夜が明ける。
長い一日になるだろう。
最後の日が。