船上逃避行天晴は子どもの頃から近所に住んでいる小雨によく世話を焼かれていた。
彼女は物心つく頃には、小雨への恋心を自覚していた。しかし小雨には既に許嫁がいたので、天晴から思いを伝えることはなかった。
数年後、天晴の破天荒な性格も鑑みた上で天晴を欲しいという男が現れた。家柄も申し分ない好青年だったので、空乃家はその人を天晴の許嫁にした。
天晴がそのことについて口を出すことは無かった。
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天晴が15歳になり、神前式を迎えた日。小雨は友人として式に呼ばれていた。
あの天晴が嫁入りか、未だに現実味が無いな。天晴のことだから途中で逃げ出して大騒動になるんじゃないか、と若干の不安を抱きながら、友人知人の列に混ざり本殿へ向かう。
入場して真っ先に目に入ったのは、白無垢と綿帽子に包まれた彼女が神前に大人しく座っている様子だった。
いつもの桃色の派手な羽織は着ていないし、赤い髪も隠されていて見えない。小さな背中は確かに見慣れた彼女のそれなのに、まるで別人を見ているような、なんだか不思議な気持ちになる。
式は粛々と進んでいき、天晴は逃げだす素振りも見せなかった。
誓詞奏上で、天晴が誓いの言葉を読み上げる。
「……今後御神徳をいただき、互いを敬い、信頼と愛情を以て、明るい家庭を築いていきたいと存じます。……」
淡々と、しかし明瞭に一語一語を紡いでいく。小雨の席からはその顔は伺えない。
天晴、お前は今どんな表情をしているんだ。
どんな気持ちで、この式に臨んでいるんだ。
そればかりがひたすら心に引っかかり、胸の辺りがざわついて落ち着かない。だというのに、退場時に振り向いた天晴から咄嗟に目を逸らしてしまったので、自分はつくづく臆病な男だと自嘲した。
小雨はこの式を通して、己の臆病さのみにとどまらず、自分が天晴を一人の女性として見ていた事実にまで気付かされてしまった。
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「天晴」
挙式後、集合写真の撮影前に少しの間歓談している時間。真っ白な背中に声をかけると、彼女はくるりと振り向いた。
自分から見ることの出来なかったその顔は紅化粧に彩られ、息を呑むほど美しかった。
綿帽子は外され、白い角隠しに赤い髪がよく映えて目に鮮やかだ。彼女は本当に自分の知っている空乃天晴なのだろうかと疑ってしまうほどに、その姿は花嫁として完璧だった。
「その……改めて、おめでとう。白無垢よく似合ってるな。綺麗だ」
"おめでとう"は何とか絞り出せた。けれど"お幸せに"とか、"相手方に迷惑かけるなよ"とか、軽口としてでさえ今後の二人の行く末について言葉を述べることは出来なかった。
今更自分の気持ちに気づいて苦しくなって、まともな祝福も伝えられないなんて。情けないにも程がある。
天晴はしばらくこちらを見つめてから、口を開いた。
「お前なら褒めてくれると思った。ありがとう」
柔らかな笑顔に、感謝の言葉。
初めてだった。天晴が自分に優しく笑いかけてきたのも、面と向かってお礼を伝えてきたのも。小雨は今まで一度も経験したことはなかった。
小雨が呆気に取られた瞬間、天晴は突然角隠しを取っ払い、鳥居の方へと走りだした。
「あっ……天晴!?」
突然の花嫁の逃亡。理解が追いつかず呆然とする周囲。
式前の不安が今になって的中するとは。
彼女がどこへ向かおうとしているのか、何をしでかそうとしているのか検討もつかない。小雨は慌ててその背を追いかけた。
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あいつは逃げ足は早い。重たく動きづらい衣装のはずなのに、よくもまあいつものように走れるものだ。
なんとか後を追っていくと、彼女がいつもカラクリいじりの場として使用している蔵に着いた。
中へ入ると、地面に掘ってある穴の上の石蓋がずれていた。そこから逃げたのだろうと下りてみると、海が面した洞窟が広がっていた。
目に入ったのは岩場に寄せられた、天晴の手作りであろう船。そこに本人が乗って作業をしていた。打掛や帯を取り払い、先程より軽装になっていた。
「天晴!何をする気だ……!?」
距離を詰めながら問う。洞窟内に自分の声が響き渡る。
天晴は振り向かずに答えた。
「旅に出る」
「は!?」
「元々地元からは出ようと思っていたし、嫁入りする気なんて最初から無い。婚約を断らなかったのも式に出たのも、お前にこの衣装を見せる為だ」
天晴がようやく小雨の方に顔を向ける。
薄暗い中、大きな瞳が潤んできらめいていた。
「小雨の許嫁が、俺だったら良かったのに」
小雨は言葉を失った。
天晴は最初から嫁ぐ気が無かった。
大人しく式に参加したのも、小雨と結ばれないならせめて白無垢姿だけでも見てもらおうとの意図で。
小雨はそこで初めて気づいた。
天晴は、ずっと前から自分を想ってくれていたのか。
天晴が前を向き、綱を引いて船を下ろす。
どぱん、と船底から水しぶきが上がる。
「じゃあな。お前も元気でやれよ」
ゆるゆると速度を上げて離れていく船から天晴の声が投げられる。洞窟を抜け、眩しい日の光が天晴の簪をきらきらと輝かせた。
このまま行かせて、本当にいいのか?
両の拳を強く握りしめる。
いいはずがない。
こんな形で別れたら、俺はきっと、いや絶対に後悔する。
そう思った時には既に体が動いていた。
すんでの所で足場から船に飛んでしがみつき、そのまま乗り上がる。
「!?小雨、何して……」
驚く天晴の言葉を遮るように、小雨は彼女を抱きしめた。突然の出来事の連続に、天晴は目を見開いて体を強張らせた。
「お前のその言葉を聞いて、黙って見送れる訳ないだろ」
よりきつく抱きしめられて、思わず涙が出そうになる。それでも背に手を回すことはできない。
「……早く降りないと戻れなくなる」
「それでいい」
「お前の許嫁はどうするんだ」
「今お前を一人で行かせるくらいなら諦める」
「……お前の、家族だって、心配する」
「お前も家族と同じくらい大切だ」
「……っ違う、俺は……こんなことさせるつもりじゃ……」
天晴の声が震える。堪えきれなかった涙が小雨の羽織に滲みていく。
だって本当は結ばれたかった。
けれど小雨には許嫁がいるから、自分から離れようと思った。小雨が褒めてくれて満足だと感じていたはずなのに、彼が全てを投げ捨てて自分を選んで抱きしめているという事実が。どうしようもなく嬉しくてたまらない。
「天晴」
震える背中を優しく撫でられ、頬に手を添えられる。
自分達はいつのまにか眩しい太陽の下にいて、船はとっくに岩場から離れていた。遠くから大勢のざわめきと、よく聞き慣れた怒声が聞こえた気がした。
「俺はお前が好きだ」
肩を掴まれ、目をまっすぐに見つめられる。
涙で滲んで顔がよく見えない。
「昔からお前のそばにいた。誰よりもお前を知っていた。それなのに俺は、ついさっきお前への気持ちに気づいたんだ。心底情けない」
溢れた涙を指で拭われる。少し視界が鮮明になり、小雨の困ったような優しい笑みがよりはっきり見えた。
「お前だけを生涯愛し抜くと誓おう。どうか、俺と人生を共にしてほしい」
その後雪ノ下村では、赤毛の花嫁と許嫁がいた下級武士が駆け落ちしたと、しばらく噂になったとか。