坊メ鯉月「海がみたい」
突拍子もない自分の言葉に目の前の男が顔をしかめる。
「分かりました。行きましょう」
お前はいつもそうだ。
鯉登グループの次男坊である私に、お見合いの話が来た。親からの紹介の相手。グループ拡大。政略結婚。頭をぐるぐると巡った言葉のはしっこにあったのは、私のお付メイドの男、月島基のことであった。
月島は私が8歳の頃に雇われたメイドだ。その頃の私はきかんたれで、いつも周囲にわがままを言って困らせていた。この人がお前専用のメイドだと紹介された時の衝撃と言ったら。メイドとは女がやるものでは?この坊主頭はなんだ?様々な疑問が浮かび固まる私に、月島は仏頂面でよろしくお願いします、と声をかけたのだった。
それからはとにかく月島にしごかれた。今まで屋敷内のメイドや執事達は私に強く出なかったのに、悪いことをすれば雷が落ち、時にはゲンコツも落ち、幼い頃の私は顔をしかめて月島を睨んでいた。
月島の教育が私のためのものだと気づいたのは10歳の頃だ。母上が大事にしていた花瓶を割ってしまって、素直になれない私は自分は悪くないなどとのたまった。
「音之進様、ご覚悟ください」
そう言って月島は私が集めた収集品やおもちゃを、私の目の前で壊していった。やめろと泣きわめき、月島の背中をポカポカと叩いた。
「ここにあったのが悪いんです、私は悪くありません」「どうせかわりはいくらでもあるので」
何かを言い返そうとした時、その台詞が私が発した言葉だと気づき、私は何も言えなくなってしまった。
「ユキ様の花瓶も、ユキ様にとっては大切なもので、その ”かわり” となるものはないのですよ」
たしなめるように私にそういう月島の目は、私をバカにする訳でもなく、ただただ慈しみを含んでいた。
「お許しください音之進様」
私の前でしゃがみこみ、私の頭を撫でる。この時に私は、この男を。月島基を意識するようになったのだ。
それからの私は月島になつき、事ある毎に月島を呼んだ。花が綺麗だとか、秘密基地を屋敷内に作っただとか、テストでいい成績をおさめたのだとか…
相変わらず月島は仏頂面だけれど、綺麗ですね、ご両親にはないしょですね、努力の賜物ですねと私の話に向き合ってくれた。
次第にこの気持ちが恋だと気づいた。月島にこの気持ちを伝えようかと思ったが、ただ月島を困らせるだけなのでやめた。月島のそばにいて、ゆくゆくは会社を継ぐ私の右腕としてずっと傍にいて貰えるだけでいい。
そんな矢先に見合いの話が出たのだ。
父上が取り決めたことに拒否はできない。私は顔も名前も知らない赤の他人と結婚することになってしまった。
月島が車を走らせる。しばらく道なりにいくと、海が見えてきた。小さい頃に月島にねだってこっそり連れてきてもらった 秘密の場所 。
窓越しに海を眺める。あの頃の無邪気な、これから月島と離れるかもしれないなんて微塵も知らない私と、相変わらずの仏頂面で私の遊びに付き合う月島の姿が見えたような気がした。
ずっと一緒にいたかった。大人になってからも、仕事で成功する度に隣で褒めて欲しかった。眠れなくなった夜に作ってくれたスープをこれからも作って欲しかった。
想いが涙となって溢れてくる。窓を開けて、潮風を浴びる。袖で涙なんかふいたら、月島に全てがバレてしまうような気がして。
「もう、そろそろよろしいでしょうか」
海の見える道の終わりかけ、月島が言う。結婚のための準備がまだのこってるんだぞ、とでも言いたげな声色。ああ、と返事をし、車はUターンして帰路につく。
「月島、おいはお前と会えて本当によかった」
ようやく涙が引っ込みそうなころ、声を上ずらせないように呟く。
「小さいころから面倒を見てくれてありがとう」
月島は何も喋らない。すると口を開き、
「私も、あなたにお仕えできて幸せでした」
と答えた。表情はやはり、変わらなかった。
それから月日が巡り、いよいよ結婚相手との顔合わせの日がやってきた。テーラーに仕立ててもらった新品のスーツに身を包む。顔合わせが行われるホテルの入口まで、月島は付いてきてくれた。
「ここから先は、あなたひとりで」
月島もこのあと別件で父上に呼ばれているとかで、ここで解散になるらしい。私にはこれが一生の別れのように思えてしまう。
「では、行ってくる」
月島は深深と頭を下げる。ホテルの入口に入っても、まだ頭を下げたまま私を見送っている。ロビーを突き進み、最後に目に焼き付けておきたいと入口の月島をみた。その時に。
あの仏頂面の男が顔を真っ赤にして、目から涙を流すのを始めて見たのだった。