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    くまぐま

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    くまぐま

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    平安時代のモブ(山賊)が道満に遭遇し、百鬼夜行に巻き込まれる話。
    何でも許せる方向け。
    ・山賊の視点ですが、血生臭い事などは起こりません。
    ・妖怪が出たり、喋ったりします。
    ・最後あたりに晴明が出ます。
    ・蘆屋道満が出て来る物語ではありませんが、「今昔物語集」巻27・第44話、「宇治拾遺物語」巻1・第17話、「百鬼夜行絵巻」などをベースにさせて頂きました。
     初出 pixiv 2021.5.29

    うたげの夜に

     鈴鹿峠は、杉の木立の鬱蒼と茂る、昼なお暗い山路だった。

     伊勢の国と、近江の国の境。
     平安京の遷都に伴って開かれたこの峠道は、東国へ向かう都人、京へ上る旅人などが行き交うが、勾配の険しい坂が右へ左へ折れ曲がる、数ある街道の中でも屈指の難所である。
     それに加えて、山賊の横行がはなはだしく、人々を悩ませていた。



     しとしとと小雨降る或る日の夜半、鈴鹿の山に棲まう山賊の男が、雨宿りの場所を探して峠を駆けていた。

     深山では、急な悪天候に見舞われる事も珍しくない。
     初夏といえども、しんと冷えた夜気が肌を刺す。降り注ぐ雨が、少しずつ体の熱を奪う。
     あちこちから囁きのように、木々の打ち震える音が聞こえる。
     そうしているうちに、濃い霧のけぶる杉林の奥に、一軒の古寺があるのを見つけた。
     果たしてこのような処に、寺などあったろうか。とんと覚えがないけれども、何しろ広い山の事だから、今まで気付かなかったのかも知れない。
     男は、これ幸いとばかりに転がり込んだ。

     無人かと思われたが目を凝らすと、中には法師がひとり、静かに鎮座していた。

     座っていても、相当に身の丈が大きいのが判る。
     黒白の長い髪のうねりや、派手な僧衣がうつつのものとは思われず、端整に造り込まれた塑像ではないかと疑ったほどだった。
     燈台の炎が揺らめいている。差油をしてもいないのに、青白い陰火が不思議に灯っていた。
     賊が荒々しく上がり込んで来たのにも動じる様子がなく、法師はゆっくりと男に眼差しを向けた。

    「先にお邪魔をしておりまする。都へ戻る道すがら、折しもこの雨模様。さても山越えとは、難儀なもので」

     住持ではなく、どうやら雨宿りをしていたらしい。優しげな笑みを作った美しい顔ばせが、燈火の加減で、妙に艶めかしく見えた。
    「夜風が吹き込んで参りますゆえ、どうぞ此方へ寄られませ」
     法師が軽く手招きするのに、男は大人しく近付いて、差し向かいに腰を下ろした。
     堂奥には、よくわからない形をした像がこぢんまりと安置されていたが、どれほど眺め回しても、何の像なのか判らなかった。

     山賊に身をやつし、峠を行く人々を襲っては身ぐるみを剥ぎ、殺める事さえ厭わぬ残忍な男だった。どんな獲物も捕えて逃さぬという驕りがあった。
     しかし、そういう質の男であっても、眼前の法師に狼藉を働こうという邪な了見は、微塵も湧いて来なかった。

     もしそのような悪心を起こせば、かえってこちらの命が危うい。

     男の目は、法師の膝に置かれた両の手を見ていた。血の巡りが悪いのか、それとも毒のようなものが染み付いているのか、指先が黒い。人の体も易々と貫きそうな緑色の爪は、飾りや見かけ倒しの類いではない。
     あの凶器のような爪の鋭さに比べたら、自分が引っ提げている刀など玩具に等しいものだと、男は思った。

     品のある佇まいをしているが、獰猛な野の獣がどうにかして、美しい人の姿をとっているようだった。

     虎に睨まれた鼠の心地で、額に脂汗を浮かべて沈黙している男に対し、法師はにこやかに言った。
    「そう畏れずともよいのです。これより起こる事を見て見ぬふりは、拙僧とて忍びない。ですから、これを」
     僧衣の袂から符を一枚抜き、男に差し出した。ためらいがちに受け取って、男はしげしげとそれを確かめた。
     人のような形をした、独特な意匠の符だった。一つだけ描かれた大きな目が、じっと男を見つめ返している。
    「護符の如きものでございます。肌身離さずお持ちになると宜しい。信じるも一興、信じぬのも、また一興」
     全くもって、訳がわからない。
     これから此処で、何かが起こるのか。一体なにが起こるというのだ。
     男が問うても、法師は含み笑いで答えを濁す。
     埒が明かず、男は授けられた謎の符を、ひとまず懐にねじ込んだ。

    「そろそろ、他の方々もおいでになりましょう。しばし口を閉じられ、お声を出されませぬよう」
     まだ誰か来るのか。男は尚も問い掛けたが、答えはなかった。
     立てた人差し指をそっと唇に当て、法師はふいに天を仰いだ。つられて、男も上を見てしまった。

     堂の天井、格子に組まれた桟の一枡一枡から、無数の顔が覗いて、こちらを睨めつけていた。

     老若男女、様々の小さな顔だった。
     無論、これほど大勢の人が天井の裏に棲まうはずがない。男が仰けざまに引っ繰り返ると、枡目を埋め尽くした顔たちは一斉にけたたましく嗤った。一緒になって、法師も楽しげに笑っている。
     やがて、びっしりと面を並べたような顔の群れは、掻き消すように天井から失せた。

     とんでもない処へ来てしまった。

     古い堂には、鬼が棲まうものがあると聞いてはいたが、此処もそうに違いない。男は慌てふためいて逃げ出そうとしたが、時すでに遅し。

     堂の入り口には既に、手に手に松明を掲げた行列が到着していた。一行は雪崩なだれるように、どやどやと上がり込んで来る。

    「やれ間に合うた」
    「奥へ詰めよ詰めよ、まだまだ参るぞ」
    「小さきものは踏み潰されぬように」

     口々に言い合いながら堂内へ押し寄せて来るものたちの、なんと恐ろしい姿であることか。

     青や赤、色とりどりの肌をした厳めしい鬼たち。頭に生やした角の数も、一本から二本、三本と様々だ。十数本にものぼる鬼まである。
     目一つのもの、逆に目玉だらけのもの。
     たくさんの腕や脚を蠢かすもの。
     うっすらと透き通っているもの、ぶよぶよとした肉の塊のようなもの。
     古道具や楽器の化けたものも、多く居た。
     人のような体を持つ琵琶。獣の四肢で歩く琴。
     角盥つのだらいに目鼻の付いた女房。五徳を頭に被り、炎を吹く猫。
     銅拍子やしょう、鈴なども各々、人や獣の姿をして、聴いたこともない音色を奏でていた。
     獣たちも、思い思いに化けている。
     矛を担いで吼える狼。燐火をまとう狐の群れ。喉を鳴らして唄う蝦蟇。
     いずれも、単衣や狩衣などの装束に身を包んでいた。

     そう広くはない堂の中は、いつしか百にものぼる鬼や妖物の集まりで、満杯になっていた。
     山賊の男は声も出せぬまま、大磐石が如き鬼の背に圧されて平たくなり、片隅で壁の一部になりかけていた。

     狭い。

     それはもう、狭いのである。

     如何なることか、男の存在は鬼たちの視界に入っていないようだった。かろうじて息をしているが、気付かれずにいるのは奇跡としか言いようがない。

     男は今まさに、百鬼夜行の只中に居た。

     伝え聞いたところでは、こうした怪異に行き逢えば、食われて骨も残らぬと言う。
     声を出すなと言われているが、出したが最期、生きて朝日は拝めまい。くしゃみの一つも許されない。
     隣の法師は、涼しい顔をして正座していた。自らの周囲に、見えないとばりのようなものを張り巡らせて妖物との接触を避けているらしかったが、そのおかげで、男の居場所が余計に狭くなっている。

    「今宵は珍しい顔が居る。久方ぶりだが、変わりはないか」
     ひしめく異形を掻き分けやって来た、地獄の獄卒のような赤鬼が、法師に向かって胴間声を張り上げた。
    「都で会うた以来にございますな。いずれまた、碁のお相手でも致しましょう」
     法師は笑みを浮かべて一礼した。信じがたい事に、鬼と普通に話をしている。それもどうやら、知己であるようだった。

     水干を着た狐が寄って来て、嬉しそうに言った。
    「いつぞや、傷を負うた時に貰うた薬、よう効いた。ほんに御坊のおかげよ」
    「それは何より。お大事になされませ」
     この集まりの中には、面識のあったものが幾らか居るようで、次々と現れる妖物を相手に、法師は何気ない談笑をしたりしている。どこを向いても不穏きわまりない堂内において、和やかすぎて異様な光景だった。

     また別の鬼が、法師を詩歌に誘った。
    「呪を誦すのは得手であろうが、歌はどうだ。詠めるか」
    「歌人には及びませぬが、少しは」

     地にも響く声で、鬼が歌を詠む。
     僅かに思案して、法師はつらつらと次の句を続けた。よく通る声音をしていた。
     依然として平たく壁に貼り付き、山賊の男はそれを聴いていた。
     男にはその良し悪しが解らなかったが、歌のやり取りをしている鬼が感嘆の唸りを上げている様子から、さぞ秀逸な句なのだろうと思った。

    「御坊はこの道の才もあるのだな。これは良きものだ」
     歌の出来に、鬼は満足したようだった。
    「お粗末様でございました」
     衣の袖で口元を覆い、法師は慎ましやかに笑ってみせた。歌人に及ばぬと言うのは謙遜であろうと窺い知れた。

     しばらくして、大盤石が如き鬼が席を移ったので、壁際に追いやられていた山賊の男は、ようやく場所を確保できた。
     肝魂も身に添わず、そぞろに見渡せば、異形の群れはすっかり宴に興じていた。
     戯れに踊るもの、調子よく唄うもの、不可思議な音楽を奏でるもの。それぞれ得意な芸を、ここぞとばかりに披露している。どこから持ち出して来たのか、酒の呑み比べを始めるものもあった。
     恐ろしくはあるが、鬼や化生が愉快に舞い遊ぶ様は、人の世の宴とそう変わらないように、男には思われた。

     いつの間にやら法師までも、鬼たちと酒を酌み交わしていた。
     手にした盃には、澄み酒が並々と注がれている。三升は入りそうな大盃だった。
     驚いた事に、法師はそれを軽々と傾けて、一息に干した。水でも浴びるかのように、盃を重ねていく。
     うわばみのような凄まじさに、男は目を剥く事しか出来ない。人が一度に摂取していい酒の量を、遥かに超えているのではないか。
    「まこと威勢のよい呑み振りであることよ。大したものだ」
     さしもの鬼たちも驚嘆し、ついには呆気にとられていた。
     まるで幻術にたぶらかされているようだった。気品さえ漂わす所作に乱れはなく、顔色にも全く変化がない。
     法師は機嫌よく甘露甘露と言い、けろりとしていた。

     そのうち、後から入って来たものも加わり、堂内はさらに混み合って来た。
     さながら現世に描き出された、ささやかな地獄絵図だった。
     五徳を頭に被った猫が、隣の巨大な肉塊に押された弾みで、ころりと法師の前にまろび出た。
    「すまなんだが、そこな葛籠つづら、ちと寄せて貰えると助かる」
     猫は呼気に炎を混じらせながら言った。男は口をつぐんだまま辺りに目をやったが、葛籠などは何処にも見当たらなかった。
    「これは失礼。堂の外へ出しておきましょうか」
     法師は思い出したように立ち上がり、いきなり男を小脇に抱えると、戸口に向かってずかずかと歩き出した。
     これまで、妖物たちの視界に入らなかったのは奇跡ではない。自分の姿は今、周囲には葛籠に見えているのだと、男は運ばれながら理解した。
     思い当たる節は一つしかない。懐に入れていた、法師のくれた符の効力としか考えられなかった。
     不可思議な符を身に付けていた為に、男は命拾いをしていたのだ。

     もう雨は止んでいた。霧はいっそう濃さを増し、深山を覆い隠していた。寸分先の景色すら判然としない。
     法師は堂を囲う広縁に、男を無造作に放った。
    「先刻、符を棄てずにおいて良うございましたなあ。場をわきまえるのは賢明なる判断。人と知れれば今頃は、骨まで鬼の腹の中」
     菩薩のような微笑からは想像もつかぬ物騒な事を、法師は悪びれもしないで言った。
    「それも止むなきことわりなれど、それではあまりに殺生なれば。貴方がご無事で、良かった良かった」
     助けられているにも関わらず、男の背を何故か冷たい汗が伝う。
     自らの稼業が山賊であることも忘れた、ただひたすらに非力な人間が一人、在るばかりだった。
     泰然と見下ろしている法師を、男は振り仰いだ。

     この法師は一体、何者なのか。

     あらゆる怪異を恐れもせず、堂々と姿を晒しても食われず、いとも容易く鬼の目をくらまし、馴染みのように語らい、共に詩歌に遊び、相手が引き気味になるまで酒盛りをする、 
     
     御坊は一体、なんなのだ。

     そんな言葉が喉から出かかっていたが、声に出せるはずもなかった。出せたとしても、この法師は一笑に付すだけだろう。
     男はもう、あれこれ考えるのを止めた。
     
     それよりも、今なら広縁を降りて、逃げおおせるのではないか。
     はっと閃いて身を起こすと、
    「もう暫しお待ちなされ。夜が明ければ、鬼の宴も終いにて。無闇に飛び出しては、霧に足を取られますぞ」
     男の傍らに腰掛けて、法師が見透かしたように小声で囁いた。

     東の空が白むまで、あとどれだけ待てば良いのだろうか。
     壁を隔てて、妖物たちの笑い声が漏れて来る。男は膝を抱えて、それを聞いていた。
     途方もなく、夜明けが遠く感じられた。 


     
     そうして、どのくらい経ったろうか。
     
     手を伸ばせば指先も隠れるまでに垂れ込めた夜霧が、やがて薄ぼんやりと明かりを含み始めた。
     男は、伏せていた顔を上げた。
     彼方に丸い光輪が浮かび、段々と大きくなっていく。
     霧に覆い尽くされて、辺りの様子が判らないが、今や遅しと待ち焦がれていた日の出が、とうとう訪れたのだろうか。
     
     その時、堂の中から悲鳴が起こった。

    「日が昇るぞ。く逃げよ」
    「あなや、押すな押すな」 
    「明けの光の、なんといみじく恐ろしきこと」

     男は、震え上がった。
     朝日と思しきものが現れると同時に、厳めしい鬼たちが、楽器や古道具の妖物が、獣の群れが、押し合いへし合い、我先にと飛び出して来たのだ。
     みな散り散りに、霧に呑み込まれるように消えていく。

     小さいものは慌てて転び、手に手を取って駆けた。
     大きなものは大股でそれを越し、飛ぶものは翼をはためかせる。
     その場で雲散霧消するものもあった。
     どろどろと黒雲が沸き、強風が巻き起こり、飛び交う叫声や怒号がこだまする。
     よくこれだけ収まっていたものだと驚く量の妖物たちが、堂から溢れた。
     まさしく阿鼻叫喚、嵐の如き狂騒。

     恐ろしい異形の群れが立ち去った後には、水を打ったような静寂だけが残った。
     

     男は茫然自失の体で、傍らの法師を見上げた。
     法師は微動だにせず、白々と映える中天を凝視している。
    「否、夜明けにはまだ早い。あれは日輪に非ず」
     誰に言うでもない独り言を呟く。大きく開かれたまなこは散瞳していた。
     大盃を幾ら空けても変わらない白い頬が、うっすらと上気している。
     男にはこの時初めて、法師の身に血が通ったように見えた。
    「偽りの暁光をもって、鬼の群れをあざむくか。斯様な奇特を現すなど、彼の者の所業に他ならぬ。ンンンン見事、見事なり」
     そう言って哄笑した拍子に、獣のそれよりも尖った犬歯が覗いた。
     隣にいる男の存在など道端の草ほども眼中にない様相で、肚の底から笑う姿もまた美しく、男の目には映った。


     ひとしきり声高に笑って気が済むと、法師はようやく男に向き直った。
     振り乱した長い髪を掻き上げて見下ろす顔ばせは、先刻と同じ、菩薩のような微笑をしていた。
    「いやはや残念無念。思わぬ妨げにより、此度の夜行、早々に散会と相成りまして。最早これまで、拙僧もおいとまいたしまする」
     軽く一礼して、法師は静かに立ち上がった。僧衣の袂から、人の形をした符をまた一枚取り出し、何やら唱えて宙に飛ばした。

     ひらひらと舞った符は、一羽の大きな白鷺しらさぎに姿を変えた。

     白鷺のように見えるが、見たこともない形をしていた。ひょろ長い胴に、白い袴を穿いているので、正確には鳥なのか人なのかも判らない。

    「先にも申しました通り、まことの夜明けが訪れるまで、くれぐれも無闇に飛び出さぬよう」
     法師は、白鷺の背に乗った。身の丈が大きいので、白鷺の身体が若干しなっている。
     その昔、誰かから聞いた物語に出てきた、鳥や獣に乗って巡遊する唐土の仙人を、男は何となく思い出していた。
    「それでは、これにて」
     白鷺がふわりと舞い上がる。法師は髪に括られた鈴を軽やかに鳴らし、たちまち霧に溶け入るように姿を消した。


     喧騒から一転、不気味なくらいの静けさの中に、男はひとり残された。

     張り詰めていた緊張の糸が一気に解けて、力なく項垂れた。これほど夜が長く感じられたことはない。
     しばらく呆としていると、やがて少しずつ、景色が変わって来た。
     重く垂れ込めた霧が、潮が引くように晴れて行く。広縁の先も段々とはっきりしてきた。
     今なら、この寺を出られる。
     そう思い踏み出しかけて、男はすぐに後ずさりし、声にならない悲鳴を上げた。
     飛び出すなと法師に念を押された理由を、身をもって理解する羽目になった。
     
     足元に見えたのは、地面ではなく、巨大な楼門の瓦屋根だった。

     何としたことか、此処は鈴鹿の山ではない。それどころか、宙に浮いている。
     半分あまり瓦の崩れ落ちた有様を見るに、あれは、羅城門ではないのか。
     都の南端にそびえる、高さ七十尺にも及ぶ朽ちた建造物を、男は今、遥か真下に見ているのだった。

     寺ごと移動する百鬼夜行は、峠から遥々と都の近くまで来ていたが、何者かの妨害に遭って道半ばで解散となり、男ひとりを乗せたまま、羅城門の上空まで迂回していた。

     そのような事を知るはずもなく、男はとうに気を失っていた。



     さんさんと輝く朝の日差しを受け、目を覚ますと、男は藪の中に寝転がっていた。

     あの怪しい古寺も、恐ろしい鬼の群れも、不思議な法師の姿も、何処にもなかった。
     悪い夢でも見ていたのだろうか。
     痛む頭を押さえながら起き上がり、何気なく懐に手を入れると、何かが触れた。
     取り出してみれば、人の形をした符の一つ目と視線が合って、肝を潰した。符は軽く焔を上げて、消え失せた。

     夢ではなかった。そして男は今、見知らぬ地に居る。都でも鈴鹿の山でもない。
     どうしたものかと途方に暮れていると、通りがかりの僧に助けられた。無論、あの幻妖な法師ではない、至って普通の僧だった。
     僧の話では、此処は都より遠く離れた、西国の山奥であるらしかった。

     何はなくとも、生きて朝日を拝めただけで十分だった。男は随喜の涙を流した。
     あのような目に遭い、毒気も欲もごっそり抜け落ちてしまい、賊に戻る気にもなれなかった。
     恐ろしい怪異に行き逢ってしまったのは、今まで人々を散々苦しめ、重ねて来た悪行の報いであったろうか。本来ならば、向かう先は地獄だったのかも知れない。
     男はただ、そんな事を思った。

     それより後、山賊の男は前非を悔いて出家し、僧として生涯を送るのだったが、それはまた別の物語。 
     



     異形の群れが恐れをなして逃げ去った後に暁光は消え、月夜に戻っていた。

     蘆屋道満は白鷺に乗って、二条大路を西に向かっていた。
     急ごしらえの式神で、いつまでも飛んではいられない。
     とりあえず朱雀門の辺りに白鷺を降ろそうと、下方に視線を落とせば、門前に佇み、こちらを見上げている者があった。
     それが誰であるか、判らぬはずはない。

     安倍晴明。

     よりにもよって、晴明が居る。道満の到着を、既に見通していたかのように居る。
     そのまま素通りしたかったが、そういう訳にもいかず、道満は朱雀門の前に降り立った。
    「丁重なるお出迎え、痛み入りまする」
     平静を装い、道満は何食わぬ顔をしてみせた。
    「やけに帰りが早いと思えば、鬼の行列に混じって峠越えするとはなあ」
     晴明は飄々とした口振りで言った。
    「その鬼の行列も、貴方が出した日輪もどきに欺かれ、散り散りになってしまいましたが」
    「それも仕方があるまいよ」

     白鷺は符に戻り、焔を巻き上げて消えた。
     自然に振る舞ってはいるが、式神に乗って降下するという荒業をしたので、さしもの道満も少し酔いが回り始めていた。先刻の大酒が、今になって響く。
     それでも素面と変わらない態度を貫き通しているのは、晴明が居るからだ。
     この人の前でだけは、まかり間違っても酔態を晒す訳にはいかない。弱みを見せる事だけは、罷りならぬ。
    「今宵は外に出る者もない。せっかく月が佳いのだから、少し歩くか」
     夜空を仰いで、晴明は言った。
    「生憎と拙僧、山歩きをしたばかりなので」
    「酔い醒ましには、丁度良いだろう」

     道満は思わず、言葉を詰まらせた。
    「まったく、見ずとも良い事ばかり、しかと視ていなさる」

     朱雀門の楼上から、笛の音が聴こえた。
     古くから、この朱雀門にも鬼が棲まう。
     鬼の奏でる美しい笛の音色は、吹き抜ける風と共に、息をひそめた都の夜に響き渡っていた。

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