袖に飼う猫のこと
茜の空に淡い藍の滲みはじめた、誰そ彼時の朱雀大路を行く、ひとりの牛飼童があった。
童とは云っても、幼子という訳ではない。
牛を引き、車に付き添う牛飼の者たちは元服をせず、成人であっても烏帽子を被らぬ童形であるのが習わしだった。
一見すると童子のような、簡素な水干姿をした彼もまた、本来ならとうに元服を済ませている年齢である。
牛飼は、烏の濡れ羽のように艶やかな毛並みをした牛を連れていた。
蹄の先まで手入れの行き届いた牛は、彼にとって何よりも大切な相方だった。
牛のほうでも彼を慕い、むやみに暴れる事もなく、まるで言葉の通じるように息が合った。
時の移ろいと共に、ますます荒廃の進む右京は、南にゆくほどに人の通いの絶えた物寂しい土地が広がる。
廃墟と化した貴族の邸、元の形すら留めぬ、小屋と思しきものの名残り。
そうした無常の中、木や草だけは豊かに生い茂っているので、牛に食べさせたり休ませたりするのに、牛飼はよく通った。
この日も右京の荒れ野で牛を遊ばせた後、帰路に就いているところだった。
すっかりと遅くなってしまったが、まだ火を灯さずともよい頃合いで助かった。
辺りがひっそりと暗闇に閉ざされてしまう前には、帰れるだろう。
牛飼はそんな事を思いながら、ほの赤く染まる築垣に沿って、朱雀門の方角へ歩いていた。
背中越しに、細々とした牛の息ざしが聞こえる。
実のところ少し前から、牛の体調がどうも芳しくなかった。
常に疲弊したように元気がない。何が原因であるのか解らず、牛飼を悩ませていた。心配が募る。
せめてもの気晴らしにと、牛の好む右京へ連れ出したのだが、足の運びは依然として重いままだった。
羅城門から朱雀門へ至るまで、等しい間隔で街路の両脇に植えられた柳が、穏やかにそよぐ。ようやく一日が終わろうとしていた。
その時である。
後方から疾風の如く何かが走り寄って来て、牛飼の足の間をくぐり、脛のあたりに纏わり付いた。
あまりにも唐突に、柔らかい毛の塊がざわりと触れたのに仰天し、引っ繰り返りそうになった。
普段はおとなしい気性の牛が、珍しく興奮して吼えた。牛飼は慌てて宥めようとして、眼前の光景に肝を潰した。
高らかに吼える牛の口から、何やら小さな生き物のような黒い影が、煙とともに飛び出したのだ。
そして地にまろび落ちるなり、恐るべき素早さで逃げ去ろうとしていた。
その影に、先ほど牛飼の足に纏わった毛玉のようなものが、すかさず逃さじと組み付く。
奇妙な二匹は激しく縺れ合い、暫しのあいだ格闘していた。
やがて、黒い影のほうが首の辺りを銜え込まれ、ヂッという短い悲鳴を上げた。毛玉の大きな口がそれを丸呑みにして、束の間の戦いは決着した。
恐る恐る近づいてみると、牛の口から出た影を食い終えた毛玉は顔を上げ、こちらを見た。
それは、茶と白の毛色をした猫だった。円い眼が宝玉のように、こがねの光を放っている。
猫は牛飼に向かって、しきりに何事か伝えるように、ねうねうと鳴いていた。
昨今は、貴族の間で猫を飼うのが流行していると聞く。主家でも子猫を一匹買い入れて、主は目に入れても痛くないほどに溺愛している。
逃げぬようにいつも紐で繋いでいるが、この猫の首には紐が着いていない。
この猫は一体、何処からやって来たのだろう。近くの貴族の邸から逃げて来たのだろうか。
ひとまず牛を落ち着けて柳の下に寄せ、牛飼は膝をついて猫を抱き上げた。牛には長年親しんで来たが、猫に触れるのは初めての事だった。
持ち上げると、なかなかの重みがあった。皮の下に骨が入っているのか疑いたくなるほど、妙にしんなりとして生温かった。
懐から抜け出ようと自在に身をくねらせる猫を抱えて、どうしたものかと思案に暮れていると、
「これはこれは、驚かせてしまいましたか。お怪我がなくて何より」
背後から、男の声がした。どうやら飼い主のようだ。
地に落ちた人影が大蛇のように伸びて、夕暮れの路上をどこまでも這って行った。
振り返ると、なんとも幻妖な出で立ちの法師が、佇んでいた。
人の容姿の識別が曖昧になる誰そ彼時だったが、そのような薄暗さでも、はっきりと判る。
袈裟を懸ける僧は数多あれども、彼の法師の袈裟は飛び抜けて鮮やかな色合いをしていた。見た事もない装飾を、あれやこれやと身に着けている。
足許まで垂れた長い髪は、きれいに白と黒とで左右に分かたれていた。
しかし何よりも目を瞠るのは、法師の身の丈であった。
六尺はゆうに超えているだろう。七尺近くはあるのかも知れない。これほど体躯の大きな人を見るのも初めてだった。
「近頃は鼠が多うございまして。巻子を食い破られますので、鼠除けにと拵えてみたものですが。気紛れに抜け出てしまうのは、困ったものです」
さして困った風でもない口調で、法師は言った。
その言葉に耳を疑った。猫を拵えたというのは、一体どういうことか。
牛飼が呆然と見上げていると、法師はうやうやしく両の手を差し伸べて来た。
猫のそれよりも研ぎ澄まされた緑色の爪が、墨の染み込んだような指先から突き出ていた。
物腰の柔らかさに反して、なんと威圧感のある手であろうか。
頭の整理が追いつかない。ひとまず法師の爪が刺さらぬよう気を付けつつ、抱えていた猫をそっと渡した。それほど小さくはないが、法師が抱え上げると子猫のようだった。
猫は、ささくれ立った舌を出して、自らの前脚をねぶっていた。
「おや。お利口、お利口ですねぇ」
獲物の余韻を味わうような猫の素振りを眺めながら、法師は大事そうに、猫の顔に頬を寄せるなどしていた。髪の先に括られた鈴が、涼やかに鳴っていた。
それに合わせるように、ごろごろという奇怪な音がしていた。
満足そうに目を細くしている、猫の喉から発せられているらしかった。
何はともあれ、飼い主と思しき人の元に戻って良かったと胸をなで下ろしていた牛飼は、更なる非常識な事態に直面することになった。
好き勝手に身をうねくっていた猫が、法師の腕を離れて。
くるりと。
宙を廻転した。
水気を含んだ、重い音がした。猫が着地した足音ではない。
地に降り立つはずの猫の姿は、掻き消すように失せて、
後には大柑子がひとつ、転がっているばかりであった。
「役を果たせば、こうして元の姿に戻りまする。仮初めなれど、猫なる獣、じつに趣深いものにございますなあ」
視線を落として、法師は呟くように言った。
訳もわからず唖然とする牛飼に気が付いたのか、法師はにっこりと笑顔を作ってみせた。
「行き掛けにとんだ捕物でしたが、櫃の中の輩よりは容易きものにて。害なす鼠は余さず食ろうてしまいましたゆえ、どうぞ心安らかに過ごされませ」
片手で袖を押さえて大柑子を拾い上げると、それでは是にてと一礼して、法師は歩き出した。
鈴の音色を往来に響かせながら、六条大路を東に折れて行く。
後に残された牛飼は、日の傾いた朱雀大路に立ち尽くしていた。
柳の下に待たせていた牛に促され、ようやく我に返り、ふらふらと手綱を握りしめる。
今しがたに起こった何もかもが、世の常ならぬ事だった。
誰そ彼時に狐狸ならぬ、猫に化かされたような心地がしたまま、牛飼は牛を連れて家路を急いだ。
それより、ひと月ほど後のこと。
或る日の昼下がり。牛飼は数名の車副とともに、待賢門の脇に牛車を停めて、主が内裏より戻るのを待っていた。
不思議な事に、朱雀大路の猫の一件から牛の体調はすっかり快復していた。
まるで憑き物が落ちたようだった。
年経た鼠は化生に変じ、人や獣を襲うというが、そうした類いのものが牛の中に巣食っていたのだろうかと牛飼は思った。
きっとそれを、あの柑子の猫が取り除いてくれたのだ。
あの法師に礼を言えなかったのが、未だに心に残っていた。
訪ねようにも、何者であるのかも判らない。行き逢えばまず見過ごす筈はないが、あれから一度も、往来で会う事はなかった。
路傍で物思いに耽っていると、誰かが門から出て来る気配があった。
現れたのは、誰そ彼時にも鮮烈な印象を残した、僧形の大男。紛れもなく、あの法師であった。
車に随伴していた雑色の一人の話には、彼の法師は、陰陽の術法にたいへん優れて、宮中に参内する事もあるのだと言う。
そのような人であるとは露知らず、牛飼は目を白黒させた。
こちらを顧みる事もなく、髪の先に括った鈴をちりちりと揺らしながら、法師はゆったりした足取りで大宮川に架かる橋を渡り、中御門の大路を真っ直ぐに歩いて行った。
風に吹かれて靡く、川の流水のような長い髪が、日差しを受けた水面の如く照り映えていた。
牛飼は慌てて後を追った。
相手は急ぎ足でも走ってもないのに、いつまで経っても、その大きな背に追いつけない。
焦るうちに、つまずいて転びそうになった。自分の足に気を取られた刹那に、法師を見失っていた。
大路に交わる辻々を探してみても、その姿はもう、何処にもなかった。