今は昔の
どことなく湿りを帯びた、春の気配が漂う。
月もないのに、不思議と明るい夜だった。
黒と白の石が並べられた遊戯盤は、淡い燈火に煽られている。
蘆屋道満は爪の長い指先を細やかに動かして、駒を進めていた。
少しの間を置いて、向かい合う相手の振る筒の音を、どうにも釈然としない思いで聴いていた。
やあ良い目が出た、ついている等と言い、呑気に駒石を置くその手元を見つめる。
長く深い溜め息が出た。
道満はこのような遊びをする為に訪れたのではなかったが、いつの間にやら安倍晴明の邸で双六をする羽目になっていた。
双六といっても、後世に伝わる絵双六とは異なる。
上下に十二ずつ区切られた遊戯盤で行う、盤双六である。
黒と白に分かれ、それぞれ十五の駒石を二つの賽の目に従い、相手の側へ先に進める事で勝敗を決した。
よく賭け事にも用いられたので、貴賤の隔てなく、世の人々はこの遊びに夢中になった。
「ほら、おまえの番ですよ」
飄々と促す晴明に、
「生憎と斯様な夜更けに、双六をしようと参った訳ではありませぬ」
道満はいよいよ、堪りかねて切り出した。
「掌中に隠したるものがありましょう。それをお返し頂きたい」
きょとんと澄まし顔でこちらを見ている、晴明を見据えた。
「何の事だね」
「とぼけるのも、大概になされよ」
道満は歯を軋らせる。ンンンと唸り声が漏れ出た。
賽を入れた筒を、盤の上に逆しまに伏せた。こん、と硬い音がした。
言い難い事この上ないが不承不承、重い口を開く。
「今すぐ出しなされ。拙僧の、式神を」
◇
数日前、道満は、ふとした用向きでこの邸を訪れた。その際、幼い童子の姿をした式神を供に連れていた。
ところがその帰り、半町ばかり行ったところで、童子が忽然と消失しているのに気がついた。付近を探ってみたが、まったく気配がない。
おそらく邸を出る時に、してやられたのだ。誰の仕業かなど火を見るよりも明らかである。
式神を隠すなどという離れ業が出来る者など晴明をおいて他にないが、慌てて引き返すのも癪なので、そのまま帰路についた。
他人の式神を御するのは、自らの式神を使役するよりも難儀な事だ。そのうち返して来るだろうと、その時は考えた。
しかし一向に、式神の戻る様子はなかった。
幾度も呼び寄せてはみたが、反応すら無い。
祓の手伝いとして必要な童子であったので、あまり長引いては勤めに差し障る。とうとう根負けして、結局また邸に出向く事になってしまった。
邸を訪れると、母屋に通された。
晴明は突然に双六をしようと言い出し、盤を引っ張り出して来た。呆気にとられる間もなく付き合わされ、今の状況に至っている。
ああ、あれかと晴明は思い出した風で言った。
「手土産かと思ったが、違ったのかい」
「戯れが過ぎますぞ。童を手土産にする者が、どこにおる」
冗談だよ、と事もなげな返事があった。
道満は伏せた筒を上げ、出た目の数だけ手際よく駒を動かした。文句を垂れながらも、その辺りは律儀に興じている。
「それにしても、すぐに血相かえて戻って来るのかと思いきや、随分とつれないじゃないか」
「貴方こそ、なにゆえ仕様もない真似をなさる。式神を隠すなど、貴方には造作もなき事ではありましょうが」
「なに、たまには此方から試したい時もあるものさ」
道満は思わず眼を丸くした。今までにない事だった。
そもそも挑まれれば勝負に応じるが、自ずから何かを仕掛けて来る人ではない。
「そう案ずるな。来たら返すつもりでいたのだから、すぐに出すよ」
晴明は印を結び、小声で誦した。
すると几帳の陰から小さな童子が駆け出してきて、道満の傍らに控えた。
十にもならぬような、いとけない姿をした式神だった。
ふっくりとした頬に爪で傷のつかぬよう軽く触れて、異常がないか確かめる。特に変わりもなかったので、気が抜けた。
むしろ前より、色艶が良くなっているようにも見えた。
「なんだか、おまえをえらく縮めたような形をしているね」
「……左様ですか」
道満は童子を見やった。言われてみれば、どこか自分に似ている気がしなくもない。
あまりにも昔の事でもはや記憶も定かでないが、自身が幼少の頃これに近い姿形をしていたのだろうか。そんな事を思った。
橙色に照らされた盤には、白と黒とがひしめき合っていた。
駒石を打つ音が、静まり返った夜半に丁々と響く。
道満は盤面に目を凝らしつつ、巻いた黒髪の房を指に絡めては、きりきりと捩っていた。
特に意味はない。考えている間、半ば無意識の手すさびだったが、飾りの鈴が生き物のように跳ねて夜深のしじまに鳴り渡った。
流石にただの遊びで、術を用いて出し抜こうなどとは考えない。晴明も同じように思っているのだろう。二つの賽の運びに委ねているので、なかなかに進まない。
童子の姿をした式神は南の廂にちょこなんと座って、その様子を見ていた。
幼いが、童らしからぬ表情のない顔をしていた。
「術比べで奇特を競うのも良いが、こうして遊びに興じるのも、悪くないものだ」
緩やかな手つきで駒を進めながら、晴明は言った。
鈴の音が、ぴたりと止んだ。
「よもや、この為にわざわざ」
「おまえは用が済むと、さっさと帰ってしまうからなあ」
それならそう言えばよいものを、式神を隠して引き留めようとするとは回りくどいにも程がある。 道満は、自らの髪を弄っていた指を止めて絶句した。
「こうして過ごす、何でもない時が少しくらい、あっても良いさ」
何が視えているのか知らないが、晴明らしくもない、稀有な事を言うと思った。
双六を打ち続けて、しばらくした頃。
「こうしていては、幼子が手持ち無沙汰だな。唐菓子でも出すか」
式神の童子に視線を移して晴明が言ったので、道満は驚いて顔を上げた。
「よくよくご存じとは思いますが、あれは人の子ではありませぬゆえ、気遣いは無用にて」
「人の子であろうがなかろうが、私のしたいようにするよ」
断る暇もなく、唐菓子を載せた高坏がやって来た。
運ぶ者もなく自ら板敷をついと滑るように来て、童子の目の前で動きを止めた。
只人がこれを見たら、腰を抜かすであろう。そうでなくとも、人もいないのに蔀や門扉が開閉すると畏れられている邸だった。
米や小麦の粉を練って揚げた菓子を、相も変わらず表情のない顔で童子はもくもくと食べた。
「索餅もよく食べる。昨日は干し棗を、皿一杯平らげていたが」
晴明は興味深そうに眺めては頷いていた。道満の両の眼は、真円を描きそうなほどに見開かれた。
「なんとまあ、そのような事を」
この童子は人や獣のように、食事を必要としない。
まるで意味の無い行為であると承知の上で、晴明は童子を客として扱い、菓子をやっていたのだ。
推し測るに、やっていたのは菓子ばかりではない。やけに血色の良いのを見れば、どれほど手を掛けていたか解る。
常に正しく一切の無駄をしない人がそのようにしていた事に、驚愕せずにはおれなかった。
童子は菓子を頬張りながら、小さな口の端からぽろぽろと粉をこぼしていた。
もとより食事をするのを考慮して作ってはいないので、咀嚼するのにひどく不慣れだった。
もそもそした気配に気が散って、双六は中断せざるを得なくなった。
道満は傍に寄って、袂から出した麻の布で童子の口を拭いた。手伝いをさせる為に拵えたのにこれでは本末転倒だが、いた仕方ない。
「おまえはきっと、千年の後にもそうやって、どこぞの子らの世話を焼いているのだろうね」
晴明は独り言のように呟いた。どこか愉しげに聞こえる。
「ご冗談を」
突拍子もなさすぎて、そう返すしかなかった。
童子の小さな指に付いた油を拭き終えて、道満は居住まいを正した。
晴明は燈心をかき立てていた。
翳りはじめていた燈台の灯りが、再び息を吹き返したように強く点った。
灯は明々と、晴明の輪郭を浮かび上がらせた。息を呑むほど冴え冴えとした眼差しが、真っ直ぐに道満を射る。
人知れず胸の奥底に燻り続ける、黒い火種のような執念までも見通されるような思いがした。
そうして飄然とした調子で、晴明は言った。
「案外その頃にも、私たちは性懲りもなく、こうしているのやも知れないよ」
「後の世にも続く縁とは。それは何とも」
厭ですねぇと言って、道満は笑った。
口から出たのは偽りではないが、本音でもなかった。
果てしなく遠い景色を脳裡に描こうとしたが、どのようにしても描けなかった。
恐らく晴明には、それが見えている。けれどその先を問う事を、道満はしなかった。
転がる賽の行く末さえ、今は分かりはしないのだ。
「――そろそろ、続きを致しましょうぞ。晴明殿」
道満は振り筒を手にして、盤面に目をやった。
僅かずつ進めた駒が、ようやく集い始めている。うまく運べば勝てそうにも見えた。
「ああ、そうしよう」
晴明の穏やかな声が、ふわりと夜気に沁み入る。
小さな筒の中を跳ねる賽の音が、軽やかに鳴っていた。
◇
それより後、千年あまりの歳月が過ぎていた。
平安の京ではない処に、蘆屋道満は居た。
古今東西、あらゆる英雄英傑の影法師が集う場所。そうした処に紆余曲折、奇しき縁によって、道満も喚ばれていた。
広々とした洋風の娯楽施設に、朗々とした声が響き渡る。
数人の童女に囲まれる中、道満は広間の床に鎮座して当世の絵草紙を読んで聞かせているのだった。
「――かくして、正直なるお爺さんとお婆さんは、末永く幸せに暮らしたのでございました。めでたし、めでたし 」
ゆっくりと本を閉じると、聴き入っていた子らが拍手をした。
口々に歓声を上げたり感想を言うので、急に賑やかになった。
今の時代の文体は朗読し辛いので、適当に節をつけて読む。時おり、書かれてはいない台詞などを即興で入れたりすると、大層喜ばれた。
物語の化身した子、解体を得手とする子、降誕祭の装いをした子。天にも聳える巨躯の子もいた。
道満は此処に喚ばれて以来、度々この童女たちの遊びの相手をしている。時には、おままごとの中に入れられる事もあった。
部屋の壁に掛けられた時計を見上げる。
「それでは皆様。じきに八つ時になりますから、手を洗うて食堂へ行かれると良いでしょう」
道満は、にこやかに微笑んで言った。
みな律儀に礼を言って、子らは食堂へ駆けて行った。
道満はようやく一息ついて、積み上げた本の上に、今しがた読み終えたばかりのものを載せた。後ほど、地下の図書館へ返しに行かねばならない。
かの図書館は、晴明に術法を伝授された才女が司書をしている。斯様な地で行き逢おうとは、思いも寄らぬことであった。
広間は珍しく空いていた。今日は、他にはあまり人が居ない。
双六の盤が部屋の隅に置いてあるのに、道満はふと気が付いた。
あれだけ流行していた盤双六も、当世ではすっかり絶えてしまったという。
平安の頃の遊び方を知るのはあの時代を生きた者だけだが、見知った顔もそれなりに居るので、此処では途絶えていないのだろう。
打つ相手もない盤の前に、道満は腰を下ろした。
気の遠くなる昔、晴明と双六を打った夜のことが道満の胸の内に思い出された。
全ての記録を持って現界してはいるが、どうという事もない記憶ほど、後になってじわじわと沁み出してくる。
あのとき晴明の言った通り、まさに今、子らの世話を焼く日々を送っていた。
それよりも懸念されるのは、次いで告げられた言の葉である。
いつかまた顔を合わせる事になるのか。
時代は変わり、道満も変わった。此処に在るのは、かつて平安の京に生きた蘆屋道満とは異なる影法師にすぎない。
晴明は、今も何一つ変わっていないのだろうか。
燈台の灯りに照らされ、真っ直ぐに向けられた晴明の眼差しを思い出す。
何も賭けてはいないのに、東の空がほのぼのと白むまで、お互いに双六を打ち続けた。
あの勝敗の行方は、結局――。
「これでは儂が、待ち侘びておるようではないか」
道満はそう独りごちて、二つの賽を入れた筒を軽く振った。
千年を経ても変わらぬ音が、小さな筒の中で涼やかに鳴っていた。