たまさかの道のこと
内裏の南庭に、車軸を流すような雨が降り注いでいた。
天には澱んだ黒雲が渦を巻いて、雲間から竜の腹のようなものがうねって見えた。雷鳴が轟くたびに、鱗が鈍く光っている。
桜と橘が左右に植えられた広大な庭、正殿の前に敷き詰められた白砂の上に、大量の水が溢れていた。
いよいよ勢いを増していく雨の、その真中に蘆屋道満は佇んでいた。あの遠目にもやたらと大きな人影は見間違いようがない。
深い溜まり水に足が浸かるのも気に留めず猫背がちに項垂れて、元から青白い頬はすっかり血の気が失せていた。
辺りには誰ひとり居ない。
彼を迎えに来た藤丸立香は、その光景に愕然とした。門前に転がっていた傘を拾い、駆け寄って差し掛けたが、身長に差がありすぎて上手くいかない。半ば強引に押し込めようとすると、やんわりと制された。
「拙僧はすでに、斯様な有様にて。貴女が濡れては一大事にございますから、疾くこの場を離れましょうぞ」
傘の持手を立香に握らせると、飛沫を大きく散らしながら、道満は踵を返した。滝壺に入っていたかのように、濡れた髪や衣が身に纏わりついている為に、心なしかいつもより嵩が減って見えた。
道満の歩幅は、たいへんに広い。置いて行かれないように、立香は慌てて後を追った。ふと、爪先に何かが当たったので視線を落とすと、水溜まりの中に鈴がひとつ浮き沈みしていた。
彼の髪に括り付けられていたものが落ちたのだろうか。急いで拾い上げたそれを、立香は上着のポケットに仕舞い込んだ。
◇
承明門を出ると、空は雲のひとつも無く晴れ渡っていた。
「些か、この身形で戻るのは憚られます故、拙僧は少しばかり寄り道を致しまする。散策がてら、ご一緒に如何です」
袖を絞りながら、道満は言った。勢いよく滴り落ちた雨水が、乾いた門前を潤した。
果たして誘いに乗って良いものか迷う。しかし興味も湧いていた。立香が頷くと、道満は腰を屈めて視線を合わせ、不可思議な所作をして、何やら唱えた。
「これで良うございます。では、参りましょうか」
何を唱えたのか立香にその意味は解らなかったが、きっと悪い事ではないと自分に言い聞かせた。
立香が手にしていた傘は役目を終えると一枚の符に戻り、軽く焔を巻き上げて消え失せた。
通りに出れば、古めかしい邸が立ち並ぶ。生ぬるい風が吹くたびに砂埃が舞った。
きっちりと方形に仕切られた街路は、格子のように細かく入り組んでいた。
築地塀が両脇を囲う、幅の広い往来。水干姿の牛飼童が八葉車に添い、萎烏帽子の男や小袖の女などが行き交う。
犬の吠え声が、びょうびょうと遠く聞こえる。
数人の幼い子供らが、くるくると駆け抜けていった。
道満が生きた時代の、京を模した風景だろうか。
施設内で作り出した仮想の空間だったが、雨ばかり降っていた誰も居ない庭に比べて、妙な現実味があった。
そのような路を、濡れそぼる法師に連れられて歩いた。
進むにつれ、人影もまばらになってゆく。
何処をどのように歩いているのか、まったく解らない。
似たような邸と築地塀が続く。新しい路に出ても、先ほども通った路に見えて訝しんでしまう。
あの道端にそよぐ柳は、さっきどこかを通り過ぎた時に見た柳と同じような気がしてならない。
立香はかなりの時間を歩いているように感じていたが、隣を歩く道満が未だ雫を落としている様子から、そう時は経っていないようだった。
晴天に不似合いな雨滴の跡を残しながら、一切の迷いのない足取りで悠然と歩を進めていた。
立香を置いて行かないように、多少なりとも速度を落としてくれているようだった。
段々と眩暈がして、立香の視界がぼんやりとして来た。路上は、陽炎の立つように揺らめいていた。
濡れた衣の袖が重そうに翻る。道満は辻を曲がった。今度は、小屋のひしめく辺りに出た。
日が射しているにも関わらず、誰の顔も墨に塗りつぶされたように翳って、表情が判らなかった。そのくせ、足元には影が映っていなかった。
崩れた垣の向こう、家の半蔀から、ごわついた黒い毛に覆われた腕がひょろりと何本も伸びて、こちらへ手招きをしていた。
生ぬるい風に煽られて、路傍の柳がざわざわと葉を擦らせた。砂埃が瘴気のように立ち昇る。
椀や杯や皿や、瓶などの食器が、乾いた音を立てながら転がって行った。そのどれもに、小さな手足が生えていた。
狂猛そうな飢えた鴉の群れが、得体の知れぬ肉塊を啄んでいる。肉の表面にこびり付く黒々とした体液は地にも伝い落ちて、粘ついた光を照り返していた。
莚を広げて座り込んでいる直垂姿の老人は、丁重に何かを並べていた。両手一杯に抱えたそれは、髑髏に見えた。
あまりの怪しさに、そぞろに見回していると、いきなり片手を掴まれた。身の竦むほど冷たい、道満の手だった。
立香が吃驚して見上げると、彼は平然と正面を見据えたまま口だけ動かして言った。
「あのようなもの共に、まなこを向けてはなりませぬぞ」
返答の代わりに、まるで体温の感じられない大きな手を緩く握った。少しだけ指先を見る。長い爪だと思った。
尋常でないものが蠢くのも意に介さず、むしろ颯爽とした素振りで、道満はまた辻を曲がった。
どこからか聞こえる、か細い笛の音色に、甲高い鴉の鳴き声が混ざっていた。
築土に穿たれた穴のひとつひとつから、無数の目玉の射るような視線を感じる。
見るなと言われれば、却って余計に目が吸い寄せられてしまう。
市女笠を被った女とすれ違ったが、胸元ほどもある長い舌が垂れ衣の合間から覗いていて、立香をぎょっとさせた。
猫じみた面差しの牛飼童が添う車は、両の車輪に火炎を纏って、焦げ付いた轍を残していた。
路の上には点々と、先ほど鴉が啄んでいたのと同じ、どす黒い肉塊が落ちている。肉塊はどこかに向かって、ゆるやかに蠕動していた。
「ここらで一度、休みますかな。叶うなら背負うて差し上げたいが、我が身しとどに濡れておりますれば」
遥か頭上から、道満の気遣わしげな声がした。立香は大丈夫、と答えた。
黒光りしながらのた打つ謎の肉塊の傍らで休憩などして、にじり寄って来られでもしたら、厭だ。堪ったものではない。
空気が重くなり、立香は息をするのが苦しくなっていた。背筋に、うそ寒いものが這い上っていた。
いったい何の為に、このような空間が存在するのだろう。敵として想定された危険さはなく、通常の景観として置かれたにしては不穏すぎる。意図するところが解らないのに、異様な生々しさがある。
好奇心から付いて来たのが、やはり面妖な事になってしまった。それもいつもの事だと腹をくくるしかない。
後から、何かおぞましいものが、吐息をけぶらせながら追って来ているような心地がしたが、そのうちに感じなくなった。
辻を曲がるたびに、規則正しく平坦な大路小路はいつしか、つづら折りのようになって果てなく続いているような錯覚を覚えた。
予め細工をしてあるのに違いないが、常に届く筈の通信も、ふっつりと途絶えている。
夢を見ているのではないけれども、本当に夢ではないのか疑わしくなって来た。
初めから夢なのか、そうでないのか。
自分は今、何処に足を着けて立っているのか。
現と夢との境までも、曖昧になり始めている。
或いは、路の途中から別のところへと繋がってしまったのではないか。
隣を歩く道満の、どこかの記憶と繋がっているのかも知れないし、そうでも無いのかも知れない。
とぼとぼと歩きながら何となく、立香はそんな事を思っていた。
いつもは要らぬ事まで饒舌をふるうのに、肝心な時に限って道満は一言も発しない。
心細くなり、また少しだけ、繋いだ指先を見た。もし知らない誰かの手に変わっていたら、という漠とした不安に駆られていたが、変わらず長い爪だったので安心した。
◇
やがて、一軒の古びた家の前に辿り着いた。ようやく道満は足を止めた。
「お疲れ様でございました。着きましてございますよ」
くたびれた垣が内と外とを隔てた、詫びれた風情の家だった。
まだ日が高い。一帯がひときわ霞みがかったようにぼやけていた。少し先に、途方もなく広大な、朽ちた邸の跡が見えた。
「ここは、」と立香が尋ねた。
「京の外れ、内裏よりは随分と離れておりますが、そこはそれ。何やら意図せぬ事象にて生じたらしき、横道に通じまして。斯かる異類異形の路は、一炊の間に見る長き夢の如く、その実は時の移ろうこと無きもの」
晴れ渡る空の下を日がな一日歩いていたように思うが、道満の髪や衣の裾からは依然として、はらはらと雫が落ちていた。
どうにも不可解極まりない話だ。立香は開いた口が塞がらなかった。
あの怪しげな路は何らかの不具合で偶然に出来たもので、長く感じられた道のりも、実際には僅かな時間の事だったということらしい。
「いやはや、御身を脅かそうなどという腹づもりは毛頭ございませんでしたが。道中、さぞ恐ろしゅうございましたろう」
道満の言葉は嘘か真かを判じ難いけれども、ときおり本音が解りやすく見え隠れする。そういう腹づもりも、少しはあったのだろう。
怪異の類は慣れていたので、立香は首を横に振った。目の前にいる法師のほうが怪異よりよほど怖かったが、それは黙っていた。
「流石は肝の据わっておられる。他愛もなきまやかしなれど、我が術を以て妖物に気付かれぬように致しましたので、ご安心を」
先ほど唱えていたのは、この為か。念の入った事だ。ひとまず、立香はありがとうと言った。道満は、にっこりと微笑んだ。
周囲には人の気配がまるで無い。一体誰の家なのか、立香は気になり出した。
もしかしたら貴方の家なの、と前を行く大きな背に訊いてみる。
「さて、どうでしょうねぇ」
門扉を開け、頭をぶつけぬよう注意を払いながら、道満はするりと奥へ消えた。
通された室内には、文机と燈台の他には何も置かれていなかった。
意外にも奥行きがある、板敷の部屋だった。本当は他にも調度が置かれていたのかも知れないが、人目に晒すには都合のよくないものは隠蔽したのかも知れない。そんな考えを巡らせてしまうほど、白々しく殺風景だった。
日中なのに、陽光が差し込まず薄暗い。底冷えのする空気に満ちていた。
しばらくして、頭から角を生やした従者が、替えの僧衣と布を持ってやって来た。道満の拵えた式神だった。
立香と向かい合って正座していた道満は、それを受け取るなり、おもむろに濡れた衣を脱ぎ始めた。
着脱の難しそうな装いを、驚くべき速さで払い落として行く。突然の事に、立香の顔にみるみる血潮が昇り、仰け反った。
「ンンこれは失敬。見慣れぬ体でもありますまいに、丹を塗ったようなお顔をなさって」
道満は愉快そうに、手で口元を覆う仕草をした。虎のように大柄な身体をしたこの怪僧は、それとは裏腹に、女性にも見られないような艶のある笑いをした。
立香は泡をくって目を泳がせる。冷汗をかいていた。開け放たれた板戸の向こうに庭が見えたので、眺めて遣り過ごす事にした。
垣根が執拗に取り囲み、外の世界から隔絶された庭。
あまり家主の関心がないのか、萎れかけた雑草が群れて根を張り、力なく枝を垂れた枯れ木がぽつねんと生えて、どれも色を欠いていた。
ただ、片隅に植えられた名も知らぬ草の緑色だけが、やけに鮮やかに映えていた。何かに使う為に育てているのだろうか。
よく見れば何かを埋めたような跡も、そこかしこにあった。
なんと穏やかでない庭だろう。
未だ、浅い眠りの中で悪い夢を漂っているような頭で眺めていると、
「お待たせを致しました」
背後から声が掛かって振り向くと、道満は着替えを終えて正座していた。着付けも速い。
髪にはまだ水気が残り、布で拭っていたので、立香は乾かすのを手伝った。
「今は昔、内裏の庭にて、とある者と術比べをした事がございました。その折、彼の者は竜を呼び、雲を起こして雨を降らせたのです。あの程度のものではなく、それはもう、舟を漕ぎ出すかという騒ぎで」
道満が話すのを、長い後ろ髪に櫛を通しながら、立香は聴いていた。
白と黒とに分かれた、見事な髪だった。
「徒然に思い出し、時折ああしては、降り止ませようと試みますが、如何にしても儘ならぬ」
彼の髪に括られた鈴のどれかが、ちりりと澄んだ音で鳴っていた。
背を向けているので顔は判らないが、両肩が微かに震えているのを見るに、おそらくは声を殺して笑っている。
立香の手からするすると長い髪が滑り落ちて、蛇のように床を這った。道満がゆるりと向き直った。
「彼の者の降らせた雨を、拙僧は今もって、止ませる事が出来ませぬ」
立香は見上げた。
その顔は、いつものように綺麗な笑みを作っていた。
これまでも今も、立香の想像のつかないほどの色々な事を、裡に塗り込めて来た笑顔のように見えた。
ふと、彼の耳の辺りで括られていた鈴の片方が無くなっているのに気が付いた。
南庭で拾った鈴を上着のポケットから出して、結び付けようとしたが、自分の着けている髪飾りとは勝手が違うので随分ともたついた。
立香が結び終えるのを、道満は静かに待った。その必死を、彼は嗤わなかった。
この人は、本当はもう、あの雨を止ませる事も出来たのではないかと、立香は思った。
あの内裏の庭をそのままにして、術比べをした相手を今も待っているのではないか。
それはとても、とても長い間、待ち続けているのだろう。
「折角、かくの如き戯れにお付き合い頂いたのですから、ひとつ御覧にいれましょうか」
片方だけ不格好に括られた鈴を髪に下げて、道満は庭に降り立った。
小石を拾ってまた何やら唱え、宙に放った。
すると小石はたちまち、数十羽の燕の群れに変わって舞い上がった。
歓声を上げて喜ぶ立香を見て、美しい三日月なりの口を大きく開けて、道満は笑った。鋭利な犬歯が露わになるのも構わず笑った。
「これこの通り。是なる燕、打ち落とす者も、今は無く」
天を仰いで、どこか懐かしむように彼は言った。よく通る声だった。
一点の雲もない空の下、狙う者のない燕の群れは悠々と、荒涼とした庭を飛び巡っていた。
◇
日の暮れかかる頃、古びた家を出た。
「今日は楽しゅうございました。まことに、ええ、まことに」
道満は、たいそう機嫌が良い様子だった。少し名残惜しそうに門扉を閉めていた。
それを待ちながら、立香は、はたと気が付いた。
帰りもまた、あの怪しげな路を通るのだろうか。
あの延々と同じ塀が続く、得体の知れないものが行き交う、眩暈のする、果てしない、時の歪んだ路の上を。
次第に夜気を帯びはじめた風に吹かれるまま、路傍の柳がざわざわと葉を擦る。
道満は振り返り、立香の前に進み出た。並外れて上背がある為に、立香の視界が翳った。
肩に掛かる髪が流れて、鈴の音が響く。おそろしく澄んだ音色だった。
彼は腰を屈めて立香に視線を合わせ、不可思議な所作をして、何やら唱えた。
美しい三日月なりの口から、真ッ赤な舌が、ちろりと覗いて、
「では、参りましょうか」
と、言った。
他愛ないまやかしと宣いながら、どうしてこうも念を入れる。
あれは、不具合で偶然に出来たのではなく、そんな理屈など超えたところから通した路なのだろう。
あの路は、
今度は、何処へ続いているのだろうか。
夕食までには、帰れるだろうか。