そうしてきみと恋をする 3◇◆◇
真っ暗な宙の中を、唯ひたすらに。
たたん、たたん、たたんたたんと、列車は変わらぬ音を立てて、走り続けていく。
一体この列車はいつまで走るのか。何処まで行くというのだろうか。
誰もいない無人の列車の中で、たった独りの乗客を乗せて。
時折現れては、ふらりと消えてしまう別世界の住人達と。
束の間の時間を過ごすけれど、まるで夢だったかの様にするりと消えてしまう。
旅人がすれ違う様に、立ち止まる事の許されない僅かな会合。
それを何度となく繰り返しながら、この列車は自分を何処へと連れて行こうというのか。
いい加減、先の見えない真っ暗な宙に、心が折れてきそうだ。
たたん、たたん、たたんたたんと。揺れるランプの光をぼぉっと眺めていると、不意に窓の外に何かの建物が見えてきた。
それに思わず興味を引かれ、視線を窓の外へと投げた。
真っ暗な宙の中にあっても、尚暗く。大きく、何棟も聳える巨大な建物が、遥か遠くに見える。
最初に出逢ったカムパネルラの役を背負ったドラルクが居たならば、あれが何の建物であるか教えてくれたかもしれない。
あのドラルクは、黒曜石の星座盤を持っていたのだから。
……これからの展開は、一体どんなだったろうか、と。
子供の頃に読んだあの夜の物語を思い出す様に、僅かに眉根を寄せる。
そうしている間にも、遥か遠く離れていた黒い建物は、段々と近付いてきていた。
巨大な塔の一角に、目も覚める様な青宝玉と、黄玉の、大きな二つの透き通った球が、輪の様になって静かに回っていた。
暗く黒く聳え立つ巨大な建物の中にあって、それだけが唯一の色彩を放っていた。
「……あの青宝玉みたいな、球。君の瞳の色にそっくりだよねぇ」
たたん、たたん、たたんたたんと。
列車の揺れる音だけが響く空間で、不意に聴き慣れた声が、背後から響いた。
それには流石に驚いて、思わず声のした方へと振り返った。
「……もう、此処らは白鳥区のお終いだよ。あれは名高いアルビレオの観測所さ。川の水の速さを計っているんだって。……あんまりに真剣に眺めてるものだから。思わずおどかしてみたくなっちゃった」
ごめんね、と。
悪びれる事なく、にっこりと笑って。
ドラルクが何事もなかったかの様に、座席の側に立っていた。
一瞬だけ、自分の世界と同じ、同居人のドラルクが現れたのかと思った。醸し出す雰囲気が、今まで出逢ったどのドラルクよりも、自分の知るドラルクに良く似ていた。
けれど、直ぐに違うと気が付いた。
自分の知るドラルクよりも、少しだけ老けたその姿に、さらりと腰まで伸びた黒い髪。
新たに現れたこのドラルクもまた、自分にとっては知らないドラルクなのだと。
現在喧嘩中なのだから、アイツが来る訳無いと。
一瞬だけ期待してしまった自分は、随分孤独にやられていたのだろう。
そんなロナルドの心境が伝わったのか、目の前のドラルクは何が面白いのかクスクスと小さく笑って。
「……すまないね。待ち人ではなくて。そんなに独りで心細かったのかな5歳児君」
「うるせぇ。そんなんじゃねぇよ!」
図星を指されたのが悔しくて、思わずいつもの調子で拳を突き出してしまった。
それに当たったドラルクは、すなぁと簡単に崩れ落ちた。
そういえば、今まで出逢った別世界のドラルク達は、一度も殺さなかったな。
思わず同居人に似ていて、殺っちゃったけど……大丈夫だったかな?と。
不意に不安が押し寄せて、自分の行いを思わず反省する。
と、直様なすなすと文句を言いながら、老け顔のドラルクはその形を取り戻していく。
世界は違えども、ちゃんとドラルクだ。
無事に復活するその様に、ほっと安心しながら、ロナルドは小さく溜息を吐いた。
「全く、いきなり殺すんじゃないよ。若ゴリラ君は。久々に死んじゃったじゃないか」
砂から慣れた様子で元の形へと戻るドラルクは、何処か懐かしむかのような雰囲気を滲ませながらも、開口一番文句を言う。
その言葉に、ロナルドは思わずきょとりと瞬きを返した。
「……久々に?風が吹くだけで死ぬザコ砂が、久々とかあり得んのかよ?」
ーーそれに、若ゴリラ、とは。
今まで呼ばれた事も無いその呼び名に、思わず面食らう。ドラルクの外見だけ見れば、自分の知るドラルクと、然程年数は変わらない様にも見えてしまう。
確かに髪は伸びて、ちょっと老けたかな、程度の認識ではあるが、そんなに今の自分と目の前のドラルクが知る自分は、かけ離れているものなのだろうか。
分からなくて、思わずぱちぱちと瞬きを繰り返しドラルクを見ていると、目の前のドラルクは段々とその顔をゆるりと歪ませて、耐えられないという様に顔を押さえた。
「あー、もう駄目だ。ロナルド君可愛い!!30年前の若ゴリラって、こんなに可愛かったんだっけー。あー、もう、顔がニヤけてしまうじゃないか!!」
……は?30、年前……?
何やらいきなりにやけ顔でふにゃりと笑うドラルクの言葉に、ただただ、ロナルドは面食らう。そして、飛び出したいきなりのその単語に、思わず思考が停止した。
「さ、さささ、30年ッ!?え、ちょ、えええぇぇぇっ!!!」
このパターン。先程出会った吸対のドラルクと散々やったな、と。
動揺する自分とは別の自分が、頭の片隅でそんな事を冷静に考える。
この列車はロナルドと縁のある存在を呼び寄せる。
それが何故か全部別の世界のドラルクばかりだが、此処まで時間のズレがあるドラルクが来るとは思わなかった。
そんなロナルドの反応すらも面白いというのか。
目の前のドラルクは、懐かしむ様に瞳を細め、にまにまと笑っている。
「いやぁ、やっぱり若ゴリラの反応は新鮮で良いねぇ。……まぁ、30年後の君も、随分落ち着きが出て、それはそれで魅力的なんだけどね。でも、やっぱ、若いって良いなぁ」
懐かしいなぁ、と、ドラルクは笑う。
口を開けば、可愛い可愛いと連呼するドラルクの様子に、もうどうして良いやら分からない。
言われ慣れないその単語の数々に、思わず顔が熱くなる。
それが凄く癪で、乱雑に頬を擦れば、心配そうにその手を取られた。
「そんなに乱暴にしたら、君の可愛い顔が擦れちゃうだろう。もっと自分を大事にしろっていつも言ってるのに……全く、そういう所は今も昔も、本当に変わらないんだからなぁ」
でも、それが君なんだよねぇ、と。
ドラルクは懐かしむ様に、ただ優しく微笑む。
まるでその瞳は、小さい子供にでも向ける様な、慈しみに溢れた瞳で。どうにも落ち着かない。
容赦無く甘やかしてくるその姿に、本当に居た堪れなくなってくる。
「か、かかか、可愛いとか何度も言うなクソ雑魚砂おじさんが!!俺は立派な大人じゃボケ!!!」
ガキ扱いすんなよ、と。
思わず居た堪れなくなって、ロナルドはぶんっと手を振り払った。
その反動で、すなぁとドラルクはまたしても砂になった。
一度ならず二度までも、殺してしまったが、これはドラルクが悪い。うん。
自分の行いを棚に上げて、無理やり自分を納得させながら。
ゆっくりと再生するドラルクの姿を見下ろして、ロナルドは小さく息を吐いた。
「……いやぁ、すまないね。ついつい若ゴリラにテンションが上がってしまったよ。紳士違反も甚だしい。良い加減、本来の役割を果たさなければね」
じゃないと、君も元の世界には帰れないし、と。
「……あん?本来の役目、だぁ?」
デスリセットで頭が冷えたというのか。うぞうぞと再生を終えて、ニヤけた様子をようやく引っ込めたドラルクは、すっとロナルドへ白い手袋に覆われたその手を差し出した。
それを訝しげに見ていると、ドラルクはにっこりと笑った。
「切符を拝見させてくれるかな?ロナルド君」
はっきりと告げるドラルクの言葉に、ぱちり、と瞬きを返した。
たたん、たたん、たたんたたん、と。列車の音だけが響く。
「……成程。乗務員も機関士も、道理でいねぇ訳だ。お前が車掌役かよ」
「その様だね。私もまさか、此処に呼ばれるとは思わなかったよ。30年前、君が攫われた、この“列車“に、ねぇ」
ドラルクの瞳が、少しだけ冷たくなった。
たたん、たたん、たたんたたん、と。沈黙が落ちる。
目の前で静かに佇むドラルクの瞳には、ゆらりと光が揺れている。
その奥底で揺れる炎の様な激情は、誰に対しての怒りなのか。
無様に攫われた退治人へか、それとも、無力だった自分へか。はたまた、この事態を作り出した元凶へなのか。
享楽主義者としては似つかわしくない、執着に塗れた激情だった。
それに無意識に息を飲み込みながら、目の前のドラルクを、それでも真っ直ぐにロナルドは見据えた。
「……お前は……俺がいた世界の、ドラ公かよ……」
無意識に声が震えそうになるロナルドの言葉に、ドラルクは何も答えず、ただ笑ってみせた。その瞳に、執着の激情を隠したまま。
それに、思わず気圧されそうになった。
「さて、それはどうだろうね。君にとっては今。私にとっては過去の事。君がこれから進むであろう未来の先に私がいるかは、君次第という事だ。何処かで分岐して、私ではない私と共にいるかもしれない。未来は些細な事で変わってしまうからね。だから、正確に私が“君”のドラルクかは、断言は出来ないかな」
そう言って、目の前のドラルクはくすり、と笑った。
そのまどろっこしい言い回しに、思わずロナルドは辟易として。面倒臭いとがりりと頭を掻いた。
「……まぁ、何はともあれ、お前にとっては過去の事だろうけど……現在進行形で喧嘩中の筈なんだが、そこはどうなんだよ」
「あぁ、そんな事気にしてたのね、君。ほんっと、変に器が小さいよねぇ。それはそれ、これはこれ、だよ。……で、いい加減切符の話に戻ろうか。君、探す気ある?」
いつまで経っても切符を探そうとしないロナルドの様子に、ドラルクは僅かに肩を竦め、呆れた様に瞳を細めた。
それにはらりと赤い上着を持ち上げて、ロナルドもまた、肩を竦めた。
「……何だよ。焦って探す所でも見たかったのかよ。どうせ、あの夜の流れ上、どっかに持たされてんだろ?わざわざ探す必要、あるかよ?」
「そりゃあ、話の都合上そうだろうけどね。少しは話をなぞる努力をして貰わなきゃ。君も私も、役目を果たさなきゃ開放はされないんだ。じゃないと、君との“喧嘩”だって、終わらないんだからね」
ドラルクの言葉に、思わずぐっと言葉を詰まらせた。そんなロナルドの様子を、ドラルクが呆れたような瞳で見つめていた。
「……結局、この役目って何なんだよ。この列車は……何の為に、何処に、俺を連れてこうとしてんの?……俺は、どうすれば解放されんだよ」
たたん、たたん、たたんたたんと。
ぼそりと零されたロナルドの言葉に、沈黙が落ちる。
普段は全くの向こう見ずで、どんな吸血鬼に対しても、真っ向から向かっていく赤い退治人にしては珍しく、弱気な言葉だった。
何処か不安そうに揺れるその瞳は、まるで迷子の子供の様な色に揺れていた。
「……おやおや。普段の豪胆さは何処へ行ったというのだね、ゴリルド君。君からそんな弱気な言葉が出てくるとは正直驚いたよ。やっぱり、一人ぼっちで寂しくなっちゃいましたか?5歳児君?」
そんなロナルドの様子に、ドラルクは煽る様な言葉をかける。
わざと煽って発破を掛けようとしているというのは分かってはいたが、それでもロナルドは、僅かに顔を顰めて言葉をつぐんだ。
ぐっと、不安そうに揺れる瞳でドラルクを睨み、言葉の代わりに拳を振るう。
無言のまま奮われたその拳に当たり、ドラルクの身体はざらりと零れ落ちた。
「ーーーーッ!!お前に言われなくったって、分かってんだよ、らしくねぇって!!……けど……ずっとこんな列車の中で、何処行くかもわかんねぇまんまで……原因の吸血鬼だっていねぇ!!……不安にならねぇ方が可笑しいだろうが!!」
思わず、溢れる感情のまま、歯止めの効かなくなった言葉が零れ落ちる。今まで溜め込んできたものを吐き出す様に、怒鳴るその声は、ビリビリと列車の窓を揺らした。
ぎゅっと握り締めた拳が、やり場のない感情でふるりと震えている。
八つ当たりの様に容赦なく自分を殺したロナルドに。ドラルクは怒るでもなく、そっとその震える手に自らの手を添えると、音もなく砂から元の姿へと戻った。
そうして、優しく宥める様に、その手を取った。
それに、びくりと僅かに怯えた様に、ロナルドが戸惑った瞳を揺らしてドラルクを見た。
「……すまない。また、紳士違反、だったね。ロナルド君。こんな所に一人放り出されて……不安にならない訳が無いよね、ごめんね」
「ーーーーッ……」
ドラルクからの静かな謝罪。労わるように、するりと拳を撫でられて、ロナルドは八つ当たりした罪悪感から僅かに顔を顰め、逃げる様に俯いた。
「……ロナルド君。一つだけ、私の秘密を打ち明けようか」
視線を合わせず、揺れる床へと落とす退治人に、ドラルクは静かに笑いかける。
どんなに視線から逃げようとも、繋いだ手を振り払えないロナルドは、僅かに瞳を揺らした。
「……お前の……秘密?」
「そう、私の秘密。本当は君の未来を左右させてしまうかもしれないから、言うべきではない事かもしれないけれど……それでも、聞きたい?」
どうする?……と。
優しい声で、しかし、残酷な選択を選ばせるかの様に、ドラルクは穏やかに問いかけた。
その問いかけに、たたん、たたん、たたんたたんと。
列車の音だけが、ドラルクの問いに答えた。
その沈黙に、やんわりとした肯定の意を感じて、ドラルクは瞳を細めて笑った。
嫌なら嫌だ、と彼はちゃんとすぐに言うのだから。
「なら、打ち明けよう。私の秘密を、ね」
そう言って、ドラルクは一度だけこほんと、小さな咳払いを零し、言葉を継いだ。
「……私はちゃんと、知っているんだ。君は案外怖がりで、怖い話をされるとトイレも閉められなくなるし。実は一人ぼっちが苦手で人一倍の寂しがり屋だって」
静かに語り出すドラルクの言葉に、ロナルドは何を言い出すのかと、僅かに戸惑った瞳を揺らして、思わず顔を上げた。
「……そ、そんなガキみたいな事、しねぇよ……」
戸惑った顔で否定してくるロナルドの様子に、ドラルクは瞳を細めてふふふ、と優しく笑った。
その含みのある笑いは、自分とこの先も長く連れ添っているのだから、隠そうったってお見通しだよ、という自信に満ちた笑みだった。
「……それでも、シンヨコに住む人達の為に、怖いのも痛いのも、全部我慢して頑張っている事。私はちゃんと知っているんだ。……だから、辛いことは辛いって。苦しいことは苦しいんだって、ちゃんと言って良いんだよ?というか、私にだけはちゃんと言って欲しいんだ……って」
そこで一度言葉を切って。ドラルクの瞳が優しくロナルドを捉えた。
そうして、そっと距離を詰めた。
「あの当時の私は、君にそういう事をちゃんと言葉で言わなかったけれど。ずっと本当は、そう、思っていたんだよ……?」
ふわり、と。揺れるランプの光を遮って、黒い影がそっと降り注ぐ。
微かなリップ音を響かせ、髪へと落とされるその柔らかな感触と。
ぱさり、と。帽子が床に落ちた音だけが、静かに響いた。
「この列車が何処へ行くのか……その答えを、伝える事は出来ない。私は君の旅路の果てを知っているし、此処が“何か”なのも知っている。けれど、それは言えない。君が、君自身が辿り着かなければ意味がないからね」
何事もなかった様に、降り注いだ影はそっと遠ざかる。
座ったままの座席がガタンゴトンと、心地の良い揺れに揺れている。
その揺れに合わせて、床に落ちた帽子もまた、静かに揺れていた。
「……お前にとっては、やっぱり過去の事だし……俺との“喧嘩”の結末を知ってんだろ。だからそんな余裕顔でいられんだろ……フェアじゃ……ない……」
黙ったまま、床に落ちた帽子を見下ろしながら。ロナルドが拗ねた子供のような声で言う。
が、その顔は熟れたトマトの様に真っ赤で、それは自分でもはっきりと分かる程に顔が熱かった。
それが恥ずかしくて、思わずぐいっと乱雑に顔を腕で拭う。
そんなロナルドの様子に、ほらまた、と。ドラルクが苦笑を零しながら、その手を優しく諌めた。
「そりゃあ、そうだよ。君とは30年の埋められない差があるんだから。君の知らない事も沢山知ってる。けれど、私は何も言わないよ。私の言葉で、君の未来は簡単に変わってしまうのだから。君との“喧嘩”の結末だって、私達の“喧嘩”の結末とは異なるかもしれない。だから、知っていても、教えてはあげられないかな」
悔しかったら早く列車を降りて、“私”に会うんだね、と。
ドラルクはカラカラと笑った。
それが何だか無性に悔しくて、ロナルドはちっと小さく舌打ちすると、ガサゴソと上着のポケットを弄った。
入れた覚えの無い紙切れは、直ぐに見つかった。
指先に触れる紙切れの感触に、僅かに眉根を寄せながら、ソレを取り出して。
「……ほら、探してやったぞ。とっとと、30年後の“俺”のとこに帰りやがれクソ砂が!!」
折り畳まれた中身を確認する事もなく、ずいっとドラルクに差し出した。
差し出されたドラルクは、おや、と。僅かに目を丸くした後、くすり、と口元を緩ませて笑った。
「はいはい。では、切符を拝見しよう」
差し出されたままの紙切れに、ドラルクの細い指が触れる。
かさり、と。小さな音を立てて指から離れる紙の感触に、少しだけ寂しさが揺れる。
丁寧な指使いで折り畳まれた紙切れを開き、視線を落とす。
それだけの仕草だというのに、嫌になる程、ドラルクのその所作は丁寧だった。
「……これは、三次元空間の方からお持ちになったのですか?」
切符から視線を上げて、問い掛けてくるドラルクの言葉。
一瞬何の事だか本当に分からなくて、ん?と小首を傾げ。
……ああ、そう言えばあの夜の物語の台詞だったか、と思い出した。
「……あー。何だか、わかりません」
本当に何だか分からない、という顔をしているロナルドの様子に、ドラルクは口元を押さえて、ふふふと笑った。
「……よろしうございます。南十字へ着きますのは、次の第三次頃になります」
かさり、と音を立てて、ドラルクが丁寧に紙切れを折り畳み、ついっとロナルドに差し出した。
にやにや笑うドラルクの様子が気に食わなくて、僅かに舌打ちしながら、ロナルドは切符を受け取ろうと手を伸ばした。
「旅人よ、無垢であれ。この列車を旅したジョバンニの様に、無垢のまま、進んでみなよ。折角無い機会だ。宙の旅を楽しみなよ、ロナルド君」
「うるせぇ。さっさと帰れ、老け顔クソ砂おじさん」
かさり、と音を立てて、差し出された切符を少し乱暴に受け取った。
本当は寂しい癖に、と。悪態をついて、自分を追い返そうとするロナルドの精一杯の強がりを、ドラルクは小さく笑って受け止めた。
「それでは、良い旅を」
そう言って、ドラルクは床に落ちていたロナルドの帽子を拾い上げ、そっとロナルドに差し出した。
それにロナルドは何も答えないまま、無言で差し出された帽子を受け取った。
微かに触れる指先が。
けれど何も言わず、その手はするりと離れていった。
そうして、ドラルクはゆったりとした動作で軽く会釈し、コツコツと靴音を響かせて、ロナルドの座席を離れた。
「……なぁ、ドラ公」
こつり、こつりと。歩く足音が遠ざかっていく。
たたん、たたん、たたんたたんと。
心に舞い降りる寂しさに、思わず座席を立って、次の車両への扉に手をかけているドラルクを振り返った。
それにドラルクは、扉に手をかけたまま、ロナルドを振り返った。
「……その……ドラ公は、何で30年も……俺と、一緒にいたんだよ……飽きて、どっかに行ったりとか、しなかったのかよ……?」
たたん、たたん、たたんたたんと。
躊躇いを包み込みながら、列車が揺れる。
聞きたいけれど、けれども、その答えを、聞きたくはない。
そんな躊躇いを含んだ沈黙は、やがてドラルクの笑いに掻き消された。
「私が君に飽きる?無い無い。君の周りには面白い事がこんなにも溢れているというのに?……旅人よ、無垢であれ。その先の答えは、君自身で見つけなよ。ジョバンニ君」
そう言って、からからと笑ったドラルクは、一度だけ悪戯げにぱちんと片目だけ瞳を閉じて。
ふふふと、口元に人差し指を当てて、ふわりと笑った。
そうして、ひらりと尾を引く様に、長く伸びた黒髪を揺らしながら。
その手を掛けたままだった扉のノブを回した。
がらり、と音を立てて扉が開くと共に。
そこにあったドラルクの姿は、音もなくふわりと消えていった。
たたん、たたん、たたんたたんと。
揺れる列車の音と、開け放たれたままの扉が、そこに残るだけ。
それにロナルドは呆然としたまま、その扉の前まで歩いて行った。
たたん、たたん、たたんたたんと。
揺れるその先の車両にも、もうドラルクの姿は何処にも無かった。
「……開けたら、閉めてけよ。老け顔クソ砂おじさんが……」
それに小さく舌打ちを零しながら、揺れる列車に合わせて、ふらふら揺れる扉を、ぴしゃりと閉めた。
どんなに時が過ぎようとも、どんなに隔たれようとも。
きっとこの関係は、変わることは無いのだと。
そう、まざまざと見せつけられた様な気がして。
ロナルドは思わず、ふは、と小さく笑った。
「……30年……後……か。まだまだ、ずっと先、だな。俺には……」
30年、共にあったその先が一体どうなっているのか。
今の自分には全く想像なんてつかない。
けれども、それでも。
共にある未来があるのだと、それだけは確かな事だった。
自分達がこれから選ぶ未来が、それと同じかどうかは分からない。
けれども、それでも。
たたん、たたん、たたんたたんと。
列車は真っ暗な宙を走る。
聳え立っていた暗い巨塔は既に、宙の彼方。
くるり、くるりと。互いを引き合いながら、周る二つの天球は、随分彼方へと遠ざかっていた。
それを見送りながら、ロナルドはそっと瞳を閉じた。
◇◆◇
30年後とジョバンニの切符と
◇◆◇
幕間4
「おー。悪いな、ロナルド。仕事終わった後なのに」
ドラルクの静止を振り切って、夜の街へと飛び出して。
街灯に照らされた大通り沿いで、手を振るショットとサテツと合流した。
「……あれ?ロナルド、腕怪我したのか?大丈夫か?」
すんっと香る消毒液の匂いに、目敏く気が付いたサテツが、ちらりとロナルドの左手に巻かれた包帯を見る。
それにショットもまた直ぐに気が付いて、心配する様な目で此方を見てくる。
「悪いな、怪我してたのに呼び出して」
怪我を負った原因の退治はギルドからのものではなく、ロナルド個人に来たものだった。
怪我を負った事を知らなかったショット達には、何の否も無い事だ。
思わず何でも無いという様に、さっと腕を隠し。ロナルドはふるりと首を振って。
「いや、大丈夫だ。大した事ない。それより、どうしたんだよ。手に負えない奴がいるって」
先程の電話で伝えてきた内容を問いただす様に、ショットを見た。
そんなロナルドの様子に少しだけ物言いたげな瞳をしたが。
長い付き合い故に、こういう時のロナルドは頑なだ。深くは詮索せず、ショットはちらりとサテツが捕まえている吸血鬼へと視線を投げた。
「我が名は吸血鬼、銀河を走る鉄道大好き!!貴方の中を走る銀河鉄道を見る事が至高!!」
ロナルドの視線を受けて、わざわざ胸を張って名乗りを上げる吸血鬼。
そのいまいち能力のよく分からない名乗りに、思わず困惑した顔で、こてん、と小首を傾げた。
「んん?銀河を走る鉄道大好き?どんなぽんちなんだよ、こいつ。それにもう捕まえてるじゃん?」
既にサテツによって拘束されている吸血鬼の様子に、状況が読めず、困惑した顔のまま隣のショットを見下ろす。
それにショットが僅かに肩を竦めてみせた。
「こいつの能力、かなり厄介みたいでな。こいつの能力食らった人達が向こうにいるんだけど、みんな本にされちまったんだ。吸対と退治人、今総出で回収にあたってるんだけど、往来の多い時間だったせいで数があまりに多くてな」
ショットが苦々しそうに眉根を寄せて、ちらりと吸血鬼へと視線を向ける。
その現状の報告に、思わず、えっ、と声を上げて。ロナルドは無意識に自分の怪我した腕を見下ろした。
街ではこんな大変な事が起きていたのに。別の依頼で怪我して、その事でドラルクと喧嘩して、それでも暢気に飯なんか食べていたなんて。そんな自分に、思わず苛立ちを覚えた。
「本にされたって……その人達は無事なのかよ?」
「まだわかんねぇ。取り敢えずこいつ捕まえてVRCに送り付けねぇと」
今は護送車を待っている所だ、と。ショットは言う。
「分かった。じゃあ、まずはこいつを……」
「ーーーーロナルド君!!」
どうにかしてから……と。言おうとしたその言葉は、怒声を含んだ声で遮られた。
普段の余裕ぶった態度をかなぐり捨てて、息を切らせるドラルクが苦々しい顔で追いかけてきた。
その腕の中にいるジョンもまた、心配そうな顔でヌーヌーと声を上げて、ロナルドに手を伸ばしている。
そんなドラルクの様子に、思わずぎりぃっとロナルドは奥歯を噛み締めた。
「この、馬鹿造が!!その腕はまだ応急処置しかしてないんだぞ!!動かしたりしたらまた出血するんだ!!そんな状態では、逆にショッさん達に迷惑を掛けるとは思わんのか!!」
息を切らせ、顔色の悪いその顔を更に悪くして、ドラルクが叫ぶ。
普段出さない様なその大声に、流石に驚いたショットとサテツは思わず顔を見合わせた。
「うるせぇよ!!勝手に口出すな!!俺の怪我なんかより、街の方がずっと大変な事になってんだよ!!俺は強いから大丈夫だっつってんだろ!!邪魔すんならさっさと帰れ!!」
「誰が帰るか!!何が俺の怪我なんか、だ!!君の大丈夫は信用しないって言っただろう!!三歩歩けば忘れる鳥頭か君は!!ゴリラからいつの間にニワトリになったんだ。ゴリルドからコッコルドに改名するかね?」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ!!こっちは大変な事になってるんだって言ってるだろ!!テメェにかまけてる暇はねぇんだ!!さっさと帰れ!!」
ぎゃあぎゃあと、いきなり目の前で口喧嘩を始めた退治人と吸血鬼の姿に、思わずポカンとするショットとサテツ。
普段からも良く喧嘩しているが、今回の喧嘩は普段のそれはとは少し雰囲気が違う。ドラルクの切羽詰まった顔と、本気で怒っているロナルドのその姿は、普段の戯れ合いとは違う。
ドラルクの腕の中のジョンが、そんな二人の姿に両目を押さえて悲しそうに泣いていた。
「お、おい……二人とも、その辺に……」
「ーー我が名は銀河を走る鉄道大好き!!貴方の銀河鉄道、見せて下さい!!」
おずっと、口論を続ける二人に仲裁に入ろうと、ショットが声を掛けようとしたその瞬間。
事態に呆然としていたサテツの拘束が無意識のうちに緩んだその隙をついて、件の吸血鬼がカッと能力を発動した。
「ーーッ!!しまっ……」
不意をつかれたサテツは避ける事も敵わず、間近でその能力を食らい。何が起こったのか、理解するよりも早く、その巨体は虚空へと消えて。
ぱさり、と。
一冊の本が軽い音を立てて、地面に落ちた。
「……え……さ、サテ……ツ……?」
突然の仲間の消失に、理解が追いつかない。
口論をしていたばっかりに、目の前で仲間が見知らぬ姿に変えられてしまった。
自分のせいだ、と。ぐちゃぐちゃに混ざる感情の中、強い自責の念に思わずぐらりと目の前が回った様な気がした。
「ーーテメェ!!待ちやがれ!!」
サテツだったその本を素早く拾い上げ、ショットが逃げ出した吸血鬼を追いかける。ひらりと靡くショットのマントが、夜闇に揺れる。
その声に弾かれた様に、ロナルドもまた反射的に地面を蹴った。
降り積もる自責の念も、ドラルクへの怒りも、何もかも吸い込んだ息と一緒に呑み込んで。
取り敢えず今は、目の前の吸血鬼を捕まえなくてはいけない。
サテツに謝るのだってその後だ。
ごちゃごちゃと思考で揺れる頭を、ぶんっと振るって。地面を蹴り付ける足に力を込めた。
背中越しに、ドラルクが金切り声を上げて。引き止めるその声は聞こえなかったフリをした。
「ーー捕まえたぞ!!もう逃さねぇからな、テメェ!!」
「あーもう、退治人共しつこいぞ!!本能のまま行動して何が悪いというんだ!!」
我らは享楽主義だ。それを咎められる謂れはない、と。
ショットの縄に雁字搦めにされ、地面に押さえつけられる吸血鬼は、苛立たしげに叫ぶ。
逃亡劇の末、いつの間にか河川敷まで来てしまっていた。
橋の上でショットに取り押さえられた吸血鬼は、悔しげにぎりりと地面を引っ掻いた。
「ーーショット!!捕まえたか!!」
「ああ、もう逃さねぇ!!さっさとサテツを元に戻しやがれ!!」
後から駆けてきたロナルドの声に、ショットは油断する事なく、吸血鬼を縛り上げた。
ぎりりと締まる縄に、吸血鬼が苦悶の声を上げる。
それを手伝いながら、ロナルドは目の前の吸血鬼を睨んだ。
ーーだが。
「え、何?何の騒ぎ……?」
場違いな女性の声が、戸惑った色を含んで突然響いた。
犬の散歩の途中なのか。小さな子犬を連れた女性が、橋の中央で立ち止まっていた。
目の前で起こる事態に、子犬と共に萎縮してしまっているのか。ぎゅっと子犬を守る様に抱き締めて、戸惑った瞳を揺らしていた。
「ーーッ!!危な……」
「貴方の銀河鉄道、私に見せて下さい!!」
瞬間、無意識に地面を蹴り付けて。
どん、と。女性の身体を押し退けた。
「ロナルド!?」
ぐらん、と視界が回る。
……あれ?俺、どうしたんだっけ?
ショットの切羽詰まった声を聞きながら、そんな他人事みたいな事を考えている間に。橋の入り口から、青い顔をした吸血鬼が、必死な形相で走ってくるのが見えた。
……何で、そんな必死な顔してんの?
雑魚の癖に、そんなに必死に走ったら、死ぬだろお前。
あぁ、またジョンが泣いてる。お前が死んだら、ジョンが泣くんだから、無茶すんのも大概にしろよな。
そんな、どうでもいい事が頭を過りながら、またぐらんと、視界が回った。
ぐるぐると、世界が回る。何処かへと落ちているのか、耳元で風の音が聞こえた。
真っ暗な空に、星がきらきらと瞬いている。
けれど、耳元で、とぷんっと水の音が響いた頃には、見上げていた星は水面へと消えて。
真っ黒な世界に塗り潰された。
「ーーーーーーロナルド君ッ!!」
コポコポと耳元で響く水音の向こうで。
よく聞き知った男の、聞いた事のない悲痛な声を。
遠くに聞いた様な気がした。
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