擬似肉「せめて教官、が妥当ではないか」
眉根を寄せて振り返った男の目は、存外なにも言わなかった。軍上がりだという、この男の険は鋭い。吸血鬼の肉体のせいかもしれないが、肌もどことなく青白い。年季の入った軍服と階級章が、戦闘経験の豊富さを物語っている。
吸血鬼として目覚めると、すぐに寄生体研究や大崩壊のバケモノについて座学を受けさせられた。矢継ぎ早に、資料で見せられた吸血牙装、冥血伝導機構の加えられた武器を与えられた。先生がボロ切れになった何かを見せた。
「俺が使用していた吸血牙装だ。損傷が激しく修復は出来ないが、見ての通り心臓さえ守れば霧散によって生き残ることが可能だ」
冥血と錬血、立ち回りや吸血行動について実技演習をすると、もう明日にでも隊が組まれると言う。招集を待て、と言うと先生は部屋から出ていくところだった。
「先生」
呼び止めると、教官の間違いだと疑われた。先生は先生なのに、と漏らすと、ジャックはそのまま踵を返して無視を試みたので、ヴァレリオは食い下がる他なかった。
「ねえ先生、先生はこうやって何人もの吸血鬼に基礎を教えてきたの?先生と同じ隊に配属されることはある?先生と同行者として組む可能性もあるの?吸血鬼は休まなくていいって言うけど、先生にも休みくらいあるよね?休みの日はあるの?休みの日は何するの?」
臨時総督府の長い廊下を足早に歩く先生に遅れまいと、座学と同じくらい忙しなく話しかけ続けた。
「…今回はたまたま俺が受け持っただけだ。他の分隊長らも同様に演習を行う。隊への配属は様々な要素を鑑みて決定がなされる。当然、隊長クラスの同行者となる可能性もある。規定上の休みは与えられるが、そもそも吸血鬼となった以上、人間と同様に適用される法律がない」
「無限にタダ働きさせられてるのぉ?!休みもなく?!」
「疲労は再生力で賄える。睡眠も同様、ヤドリギの研究成果から吸血鬼には不要だと判断されている」
「そ、そういう話じゃなくてさあ…先生には、息抜きとか休息とか、ないの?」
先生は端末機械を抱え直すと
「あいつよりはマシだ」
と、窓ガラスの向こうを見た。黒髪の男がこちらに気づいて手を振ると、廊下を迂回して小走りにやってきた。見目麗しい好青年だったが、その両目には底の無い赤色の虹彩が渦巻いていた。先生の壊れた牙装と同じ型を身に纏っている。牙装に残された傷の多さから、先生と変わらぬほど戦場に立っていることが分かった。
「見覚えがある!」
赤い目の青年は先生を指差してそう言った。
「ジャック・ラザフォードだ」
呆れたように答える先生に対して、青年は唇をムズムズと噛むと
「それは覚えがない」
と言ってのけた。
「ヴァレリオ、紹介しよう。プロトタイプの吸血鬼である**だ。初期型の寄生体を投与されているために、霧散による記憶の欠損が激しい。人格も不安定だ。俺たちはこいつの治験によって改良された型の寄生体を使用している」
「え?そうなの?」と言わんばかりの顔で青年は先生を見ていたが、「よろしくな」とヴァレリオに握手を求めた。素直に応じると、**はにこにこと笑っていた。
「ああはなるなよ」
**と分かれて階段を降ると、先生は珍しく暗い声音でハッキリと言った。
「大崩壊の後に民間企業から徴兵されたそうだ。**は通信士として本部と各部隊との連絡を請け負っていた。まだ何の対策も持たなかった頃だ。堕鬼に食い荒らされる隊員の最期を聞き続けて神経をおかしくした。しかし状況が状況だ、辞めさせるにも治療をさせるにもリソースが足りない。そこで提案されたのが寄生体投与の被験体だった。
戦闘経験のない**は数え切れないほど霧散し、再生した。ただ逃げることだけはしなかったそうだ。気づいた頃には自分の名前すらも覚えていられない有様だったが、心が折れるようなことは無かった」
折れるものを既に持ち合わせていなかったからだ。
「吸血鬼は記憶の欠損と引き換えに不死の肉体を得ているが、**のように個の価値証明が出来なくなっては堕鬼と変わらない。他の誰でもない、何かにはなるな。霧散は最低限に留め、必ず記憶を保持し続けろ」
ああはなるなよ、ともう一度言うと先生は扉の向こうに姿を消した。
同情していたのだ、と勘づいた。その新人に並々ならぬ憐憫をかけていたのだ。ただの吸血鬼では、教え子では、新入りの兵ではないのだろうと思ってはいた。険のある表情に、翳りが増えた。苛まれている。疑っている。クイーン討伐戦の"英雄"が、堕ちる味方の介錯を、したことを悔やんでいる。
「英雄などと呼ばれるのは不本意だ。選択肢が無かっただけだ。本当の、本来であれば、クイーンに致命傷を与えた英雄は、あの悪夢のような行軍を終わらせた功労者は、あいつだった。すぐに殺されるであろうことも厭わず、迷わずにクイーンの心臓を狩り取った、あの意思こそ英雄と称えられるべきだった。あいつの逃げない意思こそ、褒められるべきだった。
しかしクイーンを吸血した者の末路は明白だ。間違いなく正しいことをした確信がある。それでも、俺は」
「まるで恋だよ、先生それは」
振り返ったその表情は悲憤を隠そうともしなかった。サーベラスの2人も呆気に取られた様子だった。
「後ろ髪引かれて、頭では分かってるんだけど、どことなく割り切れなくて。他人には言えないし、言い表せる言葉もない。でもなんか辛くて、誰かに聞いてもらいたくて」
「黙れ、バカな冗談に付き合う時間はない」
「ほら先生!柄にもなくカッカしてる!興奮は判断力を鈍らせるよ。これは先生が座学で言ってた言葉だよ。ちゃんと聞いてたし、ちゃんと覚えてるよ」
それをあいつは、覚えていられない。
先生が譫言のように呟いた言葉は、俺の鼓膜に確かに届いた。サーベラスの2人が「ヤドリギがあるから、小休止を挟むべきだ」と差し込んだおかげで、先生を止めることに成功した。
俯く先生の眉間の皺を数えようとして、4本まで数えると睨まれて中断せざるを得なくなった。俺は先生が介錯をしたという、本当のクイーン討伐の英雄が誰だか知らなかった。誰もその名を口にしなかったし、どのような人物かという噂話も流れなかった。顔も名前も知らない、どこかの誰か、辛うじて「新人」だったということだけ分かる。その何も知らない誰かに、心を引きずり回されている先生が目の前にいた。その様子に、俺の心が引きずられていた。死んだ知らない誰かではなく、俺に乱されていたのなら、まだどうにか出来たのに、と思う。死んだ知らない誰かが、この人の前に現れて、問題を解決してくれることはありえない。先生が自ら心臓を抜いて殺してしまったのだから、後始末が悪い。先生が殺さなければ、おそらく先生がその新人に殺されていた。その新人は、先生と同じように、引きずられて、悔やみ悩んで苦しむのだろうか。
俺は知らない誰かのことを考えてグルグルと目が回るようだった。珍しく黙り込んだ俺に気づいた先生が
「今の貴様に態度を咎められたくはない」
と悪態をついた。何かふざけたことを、空気の変わるような軽口を叩いて、先生の気を逸らそうと思っていたのに、考えるよりも先に喉をついて出た。
「俺も逃げないよ、先生。だから、俺にしようよ、先生」