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    enzykkukk

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    #犬友
    dogFriends
    #犬王
    dogKing

    いつまでも待っているいつまでも待っている
    犬友現パロ


    「なぁ父ちゃん、なんか言うたか?」
    「あ?なんも言っちょらんよ」
    「なんか聞こえたんじゃけど、子どもの声が」
    「したか?」
    「友魚!はよ飯食い!小学校遅れちまうよ!」
    「分かってら」
    友魚は止まっていた箸を改めて動かした。今日も朝飯は魚だ。いつも魚、いつもいつも魚。海が近いから魚ばっかり。とーちゃんが近海の漁師だから。
    「いってきまーす!」
    白飯を口に押し込んで、咀嚼しながらランドセルを片手に引っ提げて玄関を出た。

    友魚は海の近くに住む小学生だ。10歳の小僧だ。やんちゃな小僧だが近所から愛されて可愛がられている。学校から帰ってきたら友達と浜に行って遊んで、いつもびしょ濡れになって帰ってくる。
    「とーもなーーー!!」
    「おー!今行く!」
    友魚は近所の同級生と足を揃えて小学校へ向かった。
    「今日放課後なんする?」
    「猫のばーちゃんち行こうぜ。こないだ猫生まれたんだって。」
    「赤ちゃん見たいな!ばーちゃん今日もアイスくれっかな」
    友魚はサンダルをぺたぺたさせながら足を学校へと向けた。
    「なんか言った?」
    「ん?猫のばーちゃんちのアイス、小豆とか抹茶とか渋いのばっかだよなって」
    「いや、そんなんじゃなくて」
    「どげんした?なんか顔色わるいで」
    「なんでもなか」
    友魚は急に体の倦怠感を感じた。少し、気持ち悪い。真夏の日差しが鬱陶しい。首がつきりと痛む。
    「なァ、ほんとにだいじょぶか?」
    「うん」
    そうこう話しているうちに、小学校に着いた。
    先生はまだ来ていない。他の同級生にも軽く挨拶をして、ランドセルを机に置いて、席に座った。
    座ったら立てなくなった。体がだるい。顔を机の上のランドセルに突っ伏す。
    「気持ち悪い……」
    「先生呼んでくる?」
    「うーん」
    友魚は意識が定まらないまま生返事をした。
    席に突っ伏していたら、一緒にいたやつの気配がしなくなった。
    「友有」
    「え?」
    「友魚くん大丈夫?」
    「だいじょぶ…」
    周りにいた生徒たちは友魚の異変に気づいて寄ってきた。なんだか今は煩わしく感じる。
    やけに周りがうるさい。外で鳴く蝉の声も、やたら心配してくる周りの奴らも、なんか、うるさい。
    「友有」
    やたら耳に馴染む、聞いたことのあるような、ないような、声がした。というか、トモアリって誰だ。
    ランドセルに突っ伏した顔を上げると、なんだか目が霞んで見えた。
    「友魚くん、大丈夫ですか?確かに具合が悪そうですね」
    「先生?」
    「立てます?一緒に保健室行きましょう。」
    「せんせー俺なんか目気持ち悪い」
    「目?」
    「なんか目ぇよく見えん」
    「今日はもう帰りましょう。親御さんと一緒に病院に行って診てもらいなさい。」

    友魚はぼんやりと白む視界を手で擦りながら、仕事を抜けて迎えに来た母親に肩を寄せて家に帰った。
    「母ちゃん、俺は友魚だよな?」
    「ん?何言っとんのよ」
    「トモアリって誰だ?」
    「トモアリ?」
    「…なんでもない」
    蝉はやたらうるさいし、頭がぐわんぐわんするし、目は霞むし、変な声が聞こえるし、どうにも気分は最悪だった。


    *


    家に着いて、風の通る薄暗い座敷に座布団を枕にして横になった。母は保険証を探している。
    友魚があまりにも病気や大きな怪我をしないものだから、どこかに置いたままにしてしまっていたのだろう。
    友魚は一人で寝転がり、なんとなく、霞む視界に見える、コントラストの強い自分の腕の日焼け後をなぞった。
    目を閉じると、周りの音が余計に聞こえる。
    母がゴソゴソと探す音、風にざわめく木々の青い葉が擦れる音、蝉が命を燃やす音、少し離れたところの海で波が押しては引く音……。
    「友有」
    まただ、声がした。目を閉じると聞こえる。
    「なんだよこれ」
    「俺だ、犬王だ。」
    「母ちゃん、気持ち悪いよ」
    「友有、大丈夫か?どうしよう……」
    「俺は友魚だ。トモアリじゃない。」
    「友魚、そうだ、友魚になっていたんだ」
    その声が自分の名前を「友魚」と呼ぶと、相変わらず周りの音がうるさいが、不思議と、少し気分が良くなった。
    「友魚、大丈夫か?」
    「誰だ、さっきから」
    「犬王だ。600年前から、お前の無二の友だ。」
    ゆっくりと目を開けると、白く霞む視界のなか、赤色の着物がやけにくっきりと見えた。
    「ひっ、お前なんだよ」
    「おお?はははは!友魚が俺を怖がった!」
    「うわぁぁぁ」
    「ほれほれ!直面も見せてやろうか!」
    「母ちゃん!」
    友魚は走って母の元へと向かった。目は白むが見えない訳では無い。慣れた家なら尚更、見えにくくとも走るのは容易だ。
    「友魚、寝てなくていいのかい?」
    「なんかおる!なんかおる!」
    「なんだい?」
    「赤くて腕長くて、ひょうたんのやつ!」
    「は?なんもおらんよ?」
    「そこにおるってええええ!!!」
    「あははははは!!友魚が!!俺を!!怖がった!!!」
    「友魚、落ち着き。ほらほら、かあちゃんここにおるよ。」
    「ひょうたん来んなぁあああああ!!」
    「精神科?小児科でええんか?」
    友魚は盛大に泣き散らかした。2mくらいの距離をとって、ひょうたんは笑い転げながらこっちを見てくる。
    「友魚、大丈夫大丈夫、なんもおらんよ。車乗ろう。病院行こうな。保険証見つかったから。」
    母は泣く友魚の背を押して靴を履かせた。小学5年生ともなるとあれをやれこれをやれと言うと基本的に反抗から始まるのだが、友魚はそれどころではなかったので必死に母にしがみついていた。
    車に乗ると、ひょうたんのやつが見えなくなった。代わりに、霞んでいた目が元に戻った。はっきりと見える。耳も普通に聞こえるし、だるくもない。
    「母ちゃん、俺治ったかも。」
    「治った?どこも変なとこない?」
    「うん、目も見えるし、気持ち悪くない。ひょうたんもおらん。」
    「でも病院は行かんと。またなんかあったら、治んなくなっちまうかもしれんよ。」
    「病院やだぁ」
    友魚はさっきの大泣きが嘘のようにケロッとしていた。ひょうたんがなんなのかも、もう気にならないらしい。子どもの思考回路は強い。深く考えずに、欲望の赴くまま、唯我独尊に行動する節がある。それがこの小僧のいい所であり、悪い所でもある。

    母は友魚に小児心療内科を受診させた。
    全く異常は見つからなかった。
    突発性のストレスによる心因性視力障害では無いかと診断されたが、明確には分からないらしい。ひょうたんの面を被った子どもについては、友魚のイマジナリーフレンドでは無いかと仮説が立てられたが、イマジナリーフレンドとはほとんどが本人にとって肯定的な話し相手とされているため、恐ろしい姿や恐怖を増長させるような笑いなど、やはりこちらも詳しくは分からなかった。

    友魚の家庭に不和はほとんどないし、学校でもどちらかと言うとリーダー的な存在だ。一見ストレスによる不調の要因が分からないが、もしかしたら日頃から本人も気づかないストレスを抱えているかもしれないと医者に言われたので、母は友魚にしばらく学校を休ませることにした。
    あと1週間で夏休みが来る。夏休みが終わるまで学校に行かなくてもいいかもしれない。
    なんだかよく分からないが友魚は喜んだ。夏休みが1週間伸びたと。
    病院帰りに母はコンビニでアイスを買ってくれた。普段はあまり買ってくれないのに、今日はすごく優しいみたいだ。母は友魚のことをしっかりと受け止めてあげようと心に決めた。
    友魚は幸せそうに助手席でアイスを舐めた。

    *


    「おかえり友魚!」
    帰ったらあいつがいた。玄関の前に座り込んで待っていたようだ。
    「うわ、お前なしておる!」
    「友魚?」
    「母ちゃんこいつ!ひょうたんの化け物!」
    友魚はひょうたんをあたりのアイスの棒を握りしめて、反対の手でひょうたんを指さして言った。
    「化け物か…」
    そう言ったひょうたんの声はちょっと暗かった。
    「あ、や、わるい」
    咄嗟に謝ってしまった。素直でいい子だ。
    「俺は世にも恐ろしい化け物なんだ!俺の直面はもっと恐ろしいぞ!見たいか?!」
    「いらん!見せるな!」
    なんだかんだ、子供の慣れは早いもので、友魚はひょうたんに対する恐怖心はもうほとんどないようだった。
    母はそんな友魚を口を開けて見ているしか出来なかった。


    *

    それからというものの、友魚はひょうたんに付きまとわれた。
    二階にある6畳の和室が友魚の部屋だった。
    いつもは海で遊んでいるから、その部屋が賑やかになることはほとんどないのだが、最近は違った。
    「友魚!」
    「だからお前なんなんじゃ!人間か?!」
    「俺は犬王だ!多分幽霊だ!」
    「犬王か」
    「そ、そうだ!そうだ!犬王だ!」
    犬王と名乗ったそいつの名を呼んでやると、そいつはやたら嬉しそうに興奮した。
    「な、なんだよ、そんなに嬉しいか」
    「ああ!お前を600年も探したんだ!お前にまた巡り会えて、名を呼んで貰えて……この600年は無駄じゃなかった!」
    「ふ、ふーん。俺お前のこと知らんが、お前は俺の事知っちょるんか?」
    「ああ、600年前、お前と一緒に舞台を作り上げた!お前が琵琶を弾いて、俺がそれに合わせて舞うんだ!」
    「琵琶?琵琶ってどんなの?人違いじゃろ。お前が探しちょるのはトモアリってやつなんよな?」
    「友魚は友有だ!友一でもある!」
    「なんじゃそら、よーわからん」
    友魚は犬王の底なしの明るさが、少し気に入った。こいつといると気分がいい。

    さて、本格的に夏休みに突入した。
    友魚はここ1週間学校に行かず、犬王と遊んでいた。
    犬王は友魚にしか見えないが、友魚の父は不思議そうにしながら、遠目で見守っていた。
    幼子にとってイマジナリーフレンドとは珍しいものでは無い。多くは成長とともに消えていくのだ。息子のために母は多少心理学を学び、受け入れようとしたのだ。

    「友魚!今日は何をする?」
    「ここ1週間かくれんぼばっかりしとったからなぁ」
    犬王はものに触れられなかった。霊体だからだろう。そうするとできる遊びも限られてくる。友魚はもっぱら外で遊ぶのが好きだったが、他の人には見えないし、物に触れられない犬王相手じゃキャッチボールもサッカーも出来やしない。公園に行っても犬王は浮けるからジャングルジムもブランコも滑り台もつまらない。
    消去法でかくれんぼなどやっていたが、これがまた面白い。実体がないから狭いところにもするすると入り込めるし、高い戸棚の中や壁と壁の間にいたりもする。まあそこまで広くもない家の中で1週間もかくれんぼをしていれば、さすがの犬王といえどパターン化されてしまう。つまりは2人とも飽きていた。

    それに、夏休みに入ると他の小学生も昼間遊び始める。犬王は友魚以外には見えないのだから、室内の遊びが増えるだろう。
    「友魚は歌わないのか?」
    「歌ぁ?学校で習うやつくらいしかしらんよ」
    「歌ってくれないか?」
    「ええ、まあいいけど…俺歌そんな上手じゃないからな」

    ……見つめあおう 語りあおう
    君とともに 生きていこうよ……

    友魚は少し照れながら、音楽の授業で習った歌を歌いきった。人前で歌うことがないから恥ずかしいが、歌うことは嫌いじゃない。
    恥ずかしがりながらも歌ったのに、犬王はやたら静かで怖くなった。今顔が真っ赤かもしれない。なんで反応くれないんだよ。
    「犬王?」
    「ありがとう……」
    「泣いてんのかぁ?」
    面のせいで分からないけれど、犬王の声が震えていた。
    「ずっと、お前の歌を聴きたかった。お前と離れ離れになった時から、ずっと。」
    「ええ……こんな歌でいいのか?」
    「うん、どんな歌でもいい。またお前と歌いたい。お前の琵琶が聴きたい。」
    「俺琵琶弾いたことないってぇ」
    友魚は小っ恥ずかしくてどうにかなりそうだった。

    *


    母は息子の頭がおかしくなって治らないことに頭を抱えていた。受け入れようと思っていたが、1人でギャーギャー騒いで、突然歌いだして……友魚が何を見えているのか恐ろしくなった。
    母は、友魚がよく口にする「犬王」について調べた。

    [犬王(?~1413)観阿弥、世阿弥と同時代に活躍した猿楽能の名手。足利義満に寵愛され、「道」の字を貰い、阿弥号「犬阿弥」を「道阿弥」と改名した。1408年に後小松天皇の前で展覧能を勤めた。…………]

    母は「犬王」が友魚のイマジナリーフレンドではないことを確信し始めていた。8歳の息子が「犬王」「申楽」「琵琶法師」なんて言葉を知るはずがない。どこかで知ったとしても、妄想を具現化するほど興味を持つわけが無い。
    今友魚が2階で一緒に遊んでいるのは、「犬王」だ。600年前の、幽霊だ。
    母は恐ろしくなった。
    何故息子は600年も前の霊に取り憑かれているのか。
    友魚をお祓いに連れていこう。友魚が霊に殺されてしまうかもしれない。前に目が見えなくなったのも、霊のせいかもしれない。

    思えば、友魚は生まれた時から奇妙なところがあった。首を一周する一筋の痣があった。両腕にもだ。2歳になる頃には成長とともに薄れていったので、先日まで思い出すことも無かったのだが、そうだ、あれは「犬王」のせいかもしれない。もしかしたら、生まれた時から「犬王」が取り憑いていたのかもしれない。やっと友魚が見えるようになったから、きっとあの世に連れていこうとしているのだ。

    母は2階の友魚の部屋へ足を向けた。相変わらず友魚の話し声が聞こえる。友魚は「犬王」と話している。霊と、友達のように。
    ギシ、ギシ、と木製の階段をゆっくり登る。田舎らしい古い家だから、軋む音が響く。
    友魚の部屋の襖の前に立つ。
    「犬王は、俺に琵琶を弾いて欲しいんか?」
    やはり「犬王」は、息子の目を奪って、琵琶法師にするつもりなのだ。
    「そうか、でも琵琶ってどげんすればできっかな。母ちゃんに頼んでみっか。」
    絶対に、琵琶を弾かせない。
    息子を守る。「犬王」なんかに連れていかせない。

    「友魚、入っていい?」
    声が震えていた。
    「母ちゃん、いいよ。」
    部屋はやはり友魚一人だった。母も「犬王」とやらが見えていれば、まだ受け入れられたのだろうか。いや、無理かもしれない。息子が言うに、「犬王」とやらは、片方がとても長い腕で、もう片方が頭から手が生えているそうだ。ひょうたんの面で顔を隠していて、目の位置は横にふたつ並んでいるのではなく、縦に着いているとか。
    そんな化け物と息子が、友達のように遊んでいる。
    母は友魚の向かい側にいるであろう、見えない「犬王」を睨んだ。
    友魚を向いて、優しい顔を作る。
    「友魚、ちょっとお出かけせん?ほら、小学校にお道具箱とか、体操着とか、置きっぱなしじゃろ?」
    「えー、母ちゃん行ってきて」
    「帰りにアイス買っちゃるけ」
    「犬王も一緒?」
    「う、うん、一緒。」
    「犬王行く?」
    友魚にストレスを与えないように、寛容に、寛容にと意識していた。
    犬王は母の目線には慣れたもんだった。600年前に犬王に怯えていた京のヤツらと同じだった。


    *


    母は友魚を助手席に乗せて、海岸沿いに車を走らせた。犬王は、多分後部座席にいる、のだろう……。
    「あれ?母ちゃん、学校行かんの?」
    「うん、ちょっと先に、神社行こ。」
    「ええー!なして神社?帰りたい!」
    「い、言うこと聞いて!」
    母はここ1週間、友魚にストレスを与えないように、なるべく叱らず、否定せず、大声をあげずにしてきた。
    前までは毎日のように叱られていたが、久しぶりに母が声を荒らげたので、友魚は少し怯えてしまった。
    「わ、わかっちょるが」
    「おっきい声出してごめんね友魚。犬王はそこにおるん?」
    「うん、後ろにおるよ。」
    「犬王は、なして友魚についちょるん?」
    「友魚は俺の友だからだ!600年も探してたんだ!」
    「犬王は600年前の俺と友達だったんよ。ずっと探しちょったんだって。」
    母はやはり、「犬王」の霊だと確信した。どこがイマジナリーフレンドだ。あのヤブ医者め。
    「600年も探すくらいなら、諦めてよ……」
    母は隣の友魚にも聞こえないくらい小さな声で、口の中で呟いた。
    友魚は時折後部座席を振り向いて、犬王と止まずに話していた。母はそれを聞いていた。

    正直、友魚が犬王を見るまでは、幽霊も生まれ変わりも信じていなかった。生まれた時に首と腕にあった痣は、バースマークと言うやつだろう。前世の死因や罪を今世に伝え、戒めとするもの。前世の友魚が一体どんな罪を犯したのか、はたまたどんなふうに死んだのか、考えたくもなかった。犬王についての記録も少なく、足利義満や観阿弥、世阿弥と深い関わりがあったことくらいしか分からなかった。友魚がそのうちの誰かだと言うのだろうか。

    「なぁ犬王、昔の俺ってどんな?」
    「お前はな、どうしようもない頑固者だったよ。でも、お前は愛されていた。たくさんの人から。」
    「なんて言ってるの?」
    「昔の俺は頑固者で、愛されてたんだって。」
    「俺も、お前のことが大好きだ」
    「知っちょるわ」
    「あははは!俺を見た時は怖がったのに!」
    「うっせえ!」
    2人は本当に仲が良くなったみたいだ。母は友魚が犬王と仲良くなるにつれて、友魚が友魚では無くなってしまうような気がした。
    友魚は10歳で、クラスでも人気者で、元気で、やんちゃで、いたずらっ子で、海が大好きで、可愛い可愛い、あたしの子どもだ。
    母は今世の友魚しか知らない。前世の、自分の子じゃない友魚など、知りたくなかった。
    友魚が1人で喋っているのを、耳栓で塞ぎたくなった。何も知りたくない。

    友魚の声を脳みそがシャットアウトして、無心に車を走らせているうちに、神社に着いた。お祓いの予約はしてある。

    「友魚、お祓いするよ。」
    「お祓い?」
    「犬王を成仏させてあげよう。」
    「成仏したらどうなるん?」
    「……天国に、犬王が本当はいなければいけない場所に、返してあげんじゃ。」
    「え、犬王返ったら、会えない?」
    「会えないけど、犬王はそっちの方がいいはずじゃけん。」
    「やだ!!犬王は俺の友達じゃ!!」
    「ねぇ、友魚、お願い。言うこと聞いて。お母ちゃんな、元の友魚に戻って欲しいの。」
    「やだ!!」
    「友魚は俺の事大好きだなぁ。心配すんなって。」
    「そがんこと言われても」
    友魚が駄々を捏ねている間に、神主と思われる人が近づいてきた。お祓いの衣装と思われる狩衣を着ている。
    「ご予約されていた五百さんですか?」
    「あ、はい」
    「君が友魚くんだね?」
    「〜〜〜!」
    友魚は逃げ出した。

    犬王と会えなくなるなんて、許せない。
    たった1週間共にしただけだったが、友魚にとって犬王は唯一無二の友となっていた。
    たとえ他の誰にも見えなくても、犬王は、俺の友達は確かにここに有る。

    「友魚!」
    母の声が遠くに聞こえる。追いかけてきているようだが、もう随分離したみたいだ。

    鳥居を抜けて、階段を登って、他の参拝客を押しのけて、小さなお堂や墓がある木陰の薄暗いところまで走った。
    「はぁ、はぁ」
    「友魚、心配すんなって言っただろ。今はこんななりだが、生きてた頃はめちゃくちゃに徳を積んだんだ。悪霊じゃないから、お祓いなんかで消えたりしないぜ。」
    「じゃけど、母ちゃんは犬王んこと消したがっちょる!」
    「大丈夫大丈夫」
    犬王は友魚を安心させるように寄り添った。
    木陰がやたら寒いくらい涼しくて、蝉がうるさくて、冷や汗が顎を伝う。
    犬王はここにいるけど、犬王が寄り添ってくれてるけど、犬王の体温は感じないし、触っている感じもしない。
    犬王はここにいるのに、声も聞けるし姿も見えるのに、存在しない人なんだ。
    友魚は目に涙を浮かべて、不安に胸が潰されそうだった。鼻を啜って親指の付け根で目を抑える。

    途端、びゅうと勢いよく、夏の生ぬるい風が吹いた。
    「うわっ」
    ガタガタっと木材がぶつかり合う音がして、そばにあったお堂の扉が勢いよく開いた。
    友魚はそのお堂に目を向けると、琵琶を持った坊主の木像があった。
    「耳なし芳一」の像だ。

    そう、ここは幼くして死した安徳天皇を祀る赤間神宮。赤間神宮の一角に、耳なし芳一堂があった。

    耳なし芳一は鬼をも涙を流す琵琶の名手。壇ノ浦の段においては右に出るものはいないとされている。
    友魚はその耳なし芳一の出で立ちに釘付けになり、目が離せなくなった。

    「これ、琵琶じゃ」
    「そうだな。前の友魚も、琵琶が上手かった。」
    犬王のしんみりした声が少し悲しかった。自分じゃない、別の友魚を思いを馳せているからだ。俺も琵琶を弾けたら、犬王は前の俺じゃない俺を見てくれる。そんな気がした。

    「平家一門の墓だ……」
    犬王はぽつりと呟いた。
    芳一堂のすぐ左の壁の向こうには、不揃いな形の石が並べられていた。
    「平家の魂……」
    友魚は無意識に言葉を発していた。平家の魂なんて知らないはずなのに。
    「なぁ、犬王…」

    「友魚!!」
    友魚が犬王に話しかけようとした時、母に見つかってしまった。
    逃げようにも平家一門の墓は塀で囲まれていて逃げ場がない。
    「母ちゃん、俺は絶対お祓いなんてしないからな!」
    「なして……」
    「犬王が言っちょった。犬王はすごい人じゃったからお祓いしても意味無いって。犬王は悪い霊じゃなか!」
    「犬王?」
    母と一緒に神主もこっちに来たらしい。
    神主は犬王の名を聞いてハッとした顔をしていた。

    「犬王を知っちょるんか?」
    「犬王、犬王…どこかで聞いたような…」
    「息子はたぶんそいつに取り憑かれているんです。何とか、お祓いしてくれませんか!」
    「五百さん、落ち着いて。霊だからとなんでもかんでもお祓いすることはないのですよ。」

    神主の言葉に、友魚は驚きを隠せなかった。母は犬王を消そうとしているが、神主は違うらしい。神主は話せばわかってくれるかもしれない。
    「おっちゃん!お祓いせんでいい!犬王は悪いやつやないけん!」
    「そうですね。霊と言っても、様々です。悪さをする霊もいれば、護ってくれる霊もいます。」
    「そ、そうじゃ!犬王は良い奴じゃ!」
    神主には多分犬王は見えていない。でも、犬王の方を向いている。気配とか、そういうものを感じるのだろうか。

    「そう、その犬王という人物、確か記録がありますよ」
    「え?」
    「犬王、ここに来たことあったんか?」
    「あ?あぁーー……あったかな…?」
    「忘れたんか」
    「600年も経ってるんだから、忘れてることくらいあるさ」

    神主は境内の宝物殿へと案内した。きっちり入館料の100円は母が払った。

    宝物殿には、安徳天皇の絵図、平家一門の肖像、長門本平家物語などが展示されていた。

    「昔、ここが赤間神宮になる前の阿弥陀寺だった頃に、その犬王という人物が、友人の琵琶を鎮魂の願いを込めて奉納に来ました。以来、ずっと琵琶をしまってあったのですが、明治の頃、パトリック・ラフカディオ・ハーン、またの名を小泉八雲と言う人物が、松島からの旅の途中でここを訪れたのです。彼は犬王が納めた琵琶から着想を得て、覚一本平家物語を纏めた明石覚一を元に、先程ご覧頂いた木像の耳なし芳一の話を執筆したのです。」

    「かくいち、さま……?」

    友魚は明石覚一の名を聞いて、するりと口をついてでた。胸の内で渦巻く黒い感情が湧き上がる。
    それがなんなのかは分からないが、明石覚一がいなければ…とふと思ってしまった。

    「にわかには信じ難いですが、犬王の友人の生まれ変わりが友魚くんということなのですね。私、こんな職業ですが、生まれてこの方スピリチュアルなものを体験したことないので興奮してます。」
    神主は友魚と犬王について信じてくれた。信じてはくれているのだが、多分友魚の為とかではなく、ただ単に楽しんでいるだけなのだと伝わってきた。ニッコニコである。

    「友魚は友魚です。前世なんか…関係ありません…」
    対して母の顔は暗かった。犬王が現れてから、母の笑顔を1度も見ていない気がする。
    友魚は少し母のやつれ具合に悲しくなったが、犬王がいなくなるのと比べれば、考える比重は明らかだった。

    「そうか、ここは阿弥陀寺だったのか!ならば友有の琵琶もここにあるのか?」
    「おっちゃん、俺の、俺の?えっと、前の俺の琵琶ってまだある?」
    「残念ながら、第二次世界大戦の時にここは全焼してしまって。多分、その時に琵琶も……」
    「そっか……」
    友魚は残念に思ったものの、戦争前までは前世の自分の琵琶があったことが感慨深かった。前世の自分の存在は確かなものだと感じたからだ。

    「母ちゃん、俺琵琶弾きたい。」
    「だ、ダメに決まっているでしょう。そんなもの、絶対……」
    友魚は心を決めた。いくら否定されようと、琵琶を弾きたいと思った。琵琶を弾ければ、犬王はきっともっと喜んでくれる。さっき家で、あんな下手な歌で喜んでくれたのだ。琵琶が弾ければ、きっとずっと一緒にいてくれる。犬王のために、琵琶を弾こう。

    「琵琶ありますよ」
    「ほんとか!」
    「ええ、先週の7月15日に耳なし芳一まつりがありまして、うちの覡が使った琵琶がしまってありますよ」
    「友魚の琵琶がまた聴けるのか…」

    「やめてください、うちの子に琵琶を触らせないで!」
    母は怯えているように声を荒げた。母は不安だった。友魚が琵琶を弾いたら、前世の友魚になってしまうのでは無いかと。もしそうなったら、友魚は一体どこに行ってしまうのかと。腹を痛めて産んだ我が子を無くしてしまう気がした。

    「琵琶どこにあんの?」
    「いけんよ友魚、帰るよ」
    母の気持ちも知らず、友魚は琵琶を弾きたがる。母は友魚の腕を掴んで連れていこうとした。
    「母ちゃんのアホ!なしてなんも分かってくれんの?!」
    「母ちゃんは友魚を護りたいんよ」

    「犬王は絶対悪いことせん!母ちゃんが護ってくれんでもいい!母ちゃん、俺が犬王見えた日に言ったじゃろ!受け入れるって!」

    「……そう、そう、じゃったなぁ……受け入れる、受け入れんと……」

    友魚の腕を掴む母の手が緩んだ。母は眉を八の字にして、ひとつ、深呼吸をした。

    「犬王、そこにおる?」
    「おるよ」
    「なんだ?」

    「約束して。絶対に友魚に危害を加えないことを。あんたのせいで友魚になんかあったら、地獄の果てまでも追いかけて、呪ってやっかんな。」

    「母ちゃん怖……」
    「俺が友魚を傷つけるわけないだろ!!」

    友魚は母の言葉の強さに少し引いたが、どうやら不本意ながらも認めてくれたようだ。この犬王との不思議な関係を。
    そして少し嬉しくなった。友魚を傷つけることを犬王は絶対にしないってはっきり言ってくれたから。

    「ちゃんと伝わったんかな……」
    母は少し脱力して、ため息をついた。今までずっと気を張っていたから、疲れているみたいだ。
    「犬王が俺を傷つけるわきゃないって言っちょったよ」
    「ねぇ友魚、友魚が信じとる犬王のこと、母ちゃんも信じるかんな。絶対に裏切らんでね。」
    母は友魚の肩に手を置いて、友魚と真っ直ぐ向かい合って言った。
    肩を引き寄せて、頭を包むように抱きしめた。
    「まだこんなに子どもなのに、前世の因果に振り回されるなんて……」
    「そんな子どもじゃなか!母ちゃんは心配しすぎじゃ!」

    「まぁ、丸く納まったようで何よりです。」
    蚊帳の外にいた神主が少し微笑んだ。

    「友魚くん、琵琶触ってみますか?」
    「あぁ!」
    「待っていてください、今持ってきますね」
    「やった!」
    「やったな!」

    神主が宝物殿を出ようとした時、浅葱色の装束を着た、細身で坊主頭の、50代くらいの禰宜が神主に声をかけた。
    「いけませんよ。」
    「長谷さん」
    「そんなこどもに琵琶を触らせて、どこか壊されたりしたらどうするんですか?」
    「少しぐらいいいじゃないか」
    「いけません。一体いくらすると思ってるんですか。」
    「私がこの子を琵琶に触れされたいんだ」
    「だめです。」
    「長谷さん」
    「なりません。」
    「どうしても?」
    「だめです。」
    「けち」
    「あなたは神職なのに目先の興味に忠実すぎます。弁えてください。」
    「相も変わらず舌がよく回るね。私宮司だよ?」
    「使えない上司のケツを叩くのが私の仕事です。」
    神主と禰宜の掛け合いはとてもテンポが良い。普段からこう言うやり取りが絶えないのだろう。それにしてもこの禰宜、とても頑固そうである。

    「はぁ、すみませんね友魚くん。こうなっては長谷くんを説得するのは難しそうです。」
    宮司は悔しそうな顔をした。彼の本心は何か面白いことを見たいというものだった。欲望に忠実である。そんな思いを友魚たちは知ることはないのだが。

    「ほら、もう5時ですよ。営業時間外です。」
    「俺このおっちゃん嫌い」
    「友魚!」
    友魚がハッキリ言ったのを聞いた犬王は大爆笑である。完全に長谷にも聞こえていたはずだ。友魚の前に長谷が立った。怒らせたかとおもって友魚は少し身構える。

    「君が本気で琵琶をやりたいなら、大人になった時に、耳なし芳一まつりの舞台に上がれるくらいを目指しなさい。私も後継を探しておるのだ。」
    「おっちゃん!」
    「長谷じゃ。」
    「はせさん」
    長谷は結果、琵琶を貸してはくれなかったが、友魚の背を押してくれた。

    結局学校に置きっぱなしにした荷物は次の日に取りに行った。


    *


    さて、母は犬王を受け入れようと努めた。それは友魚の前世を知ることと同義である。
    母はこれからずっと目に見えないもう1人の子どもと一緒に暮らすのかと思うと頭が痛くなった。友魚にしか見えなくても、友魚の友達ならそのように扱おうと思った。
    「友魚、犬王に友魚の前世について教えて欲しいの。」
    「いいよ。俺ももっと詳しく聞きたい。」
    「600年前のお前かぁ、うーん、どっから話せばいいかなぁ?」

    「お前は、幼い頃にめしいになったんだ。」
    「めしい?」
    「目が見えなくなったってこと。」
    「こないだ目が見えんくなったのって」
    「前世との縁ってやつかな。俺が見えるようになったから、お前の体が俺といた頃のように戻ろうとしたのかもしれない。」

    「そんでお前は、京に来て琵琶法師になった。目が見えんやつらは琵琶を弾いて日銭を稼いでたんだ。」
    「そんで琵琶を弾いたんか」
    「お前の琵琶は凄かった。それまでにない、新しい琵琶だった。」
    「そうかぁ」
    友魚は前世の自分の話を、まるで自分が褒められているかのように感じた。
    前までは犬王が前世の自分の話をすると、比較されているみたいで複雑だったが、友魚は前世の自分のようになりたいと思った。そのおかげで、犬王が話す前世の自分をすんなり受け入れられるようになったみたいだ。

    犬王はそれから友一、友有と名を変えて生きた友魚について語った。とても楽しそうだった。
    今俺は友有の物語を復活させたのだと、犬王は言った。よく分からなかったが、犬王が嬉しそうだと、友魚も嬉しくなった。

    犬王の半生も知った。
    異形の体で生まれ、平家の魂を成仏させるごとに体が人の形を取り戻して行ったと。友有がいなければ異形のままだったかもしれないと。

    そして、友有の物語も終盤に。
    友有の死を聞いた。

    「友有は最後まで、俺の物語を消させまいと、抵抗し続けた。でも捕まって、そう、あの橋の下で、腕を切られ、首も切られた。」

    友魚は、自分でも解釈しきれなくて、黙り込んでしまった。首と腕がヒリヒリと、軽く火傷をしたように傷んだ。
    母に通訳する余裕はなかった。
    数分前までは、将軍様の前での偉業を興奮して聞いて、友魚は友有のような琵琶の名手になりたいと強く憧れたのに、それから友有の最後までがあっという間だった。
    母は友魚の表情から、友有が死んだ時のことを聞いているのだと察していた。
    そして、友魚が産まれた時にあった首と腕の痣を思い出した。
    斬首、だったのだろう。
    母は随分前から察していた。

    「俺が友有の死を知ったのは随分とあとだった。上様が求めるままに舞い、そうすれば友有を護れると思っていた。」
    犬王がずっと友有を探していた理由がわかった気がする。
    「あの頑固者め、たった一言が言えれば、死なずにすんだかもしれないのに……」
    犬王の声に感情はなかった。きっとこの600年で何度も何度も思ったことだったのだろう。
    「俺はここにいる」
    友魚は犬王のやたら長い右手を包もうとした。やはり犬王は霊体なのでかすりもしなかった。虚しくてたまらなかった。

    「記憶がなくても、友魚にまた会えて良かった」
    「俺も、犬王に会えて良かった」
    友魚は犬王の語る節々に、既知感を確かに覚えた。足利義満の名を挙げられた時は、訳もなく胸の内にどす黒い感情が湧き上がった。

    「友有の亡骸は無造作に川辺に埋められたから、俺の手に遺ったものは琵琶しか無かった。血がこびりついていて、どれだけ拭っても消えなかった。」
    犬王は面の下を目の穴からポリポリとかいた。感情の行き場がなくて、つい体を触ってしまう。

    「俺もその琵琶を鳴らそうとしてみたんだ。でも、弦を弾いても、鳥のさえずり程の音も出ない。」
    こんな話をしている時に思うのはお門違いかもしれないが、友魚は犬王の面の下を見たくなった。どんな表情で言葉を紡いでいるのだろう。

    「友有はずっと、足利に魂を縛られているんだと思った。琵琶を弾ける腕も、歌を吐き出す喉も奪われたから。」

    犬王がどれだけ友有を想っていたのか、伝わる。いや、初めから分かってはいた。600年も探し続けていたのだから。

    「俺は上様に暇を貰って、鳴らなくなった琵琶を持って、友有が少しでも安らかに眠れるように、友有の故郷のこの壇ノ浦に来たんだ。こないだ行った神社あったろ?そこが阿弥陀寺だった頃に、友有の琵琶を奉納したんだ。」

    しかし、改めて、犬王が友有を想う気持ちを感じて、友魚は涙が出そうになった。

    犬王にここまで想われて、友有は犬王をどう想っていたのだろう。ここまで犬王に思われているのに、何故、意地を通して先に死んでしまったのだろう。

    「俺はお前を遺して死んだりしないからな」

    友魚は、犬王の不揃いの目を見て、はっきりと伝えた。
    犬王はひょうたんから除く目を細めて、何も言わずに微笑んだ、と思う。

    母は途中から二人の世界に入る隙はなかった。


    *


    訃報というものは突然である。友魚の母方の祖父が死んだ。隣の家の火災に巻き込まれたらしい。木造建築だったから、逃げる暇もなく燃え広がってしまったのだろう。

    曽祖父には友魚が産まれたばかりの時に1度あったことがあるらしいが、当然記憶にはない。

    友魚は両親と共に母方の実家へと赴いた。電車と新幹線を乗り継いで4時間、京都である。

    葬式の最中、母は泣くこともせず、無の表情で膝の上の手を固く握りしめていた。あまりに酷いご遺体だから、死に顔も見れないらしい。父は母の方に手を添えていた。
    友魚は顔も覚えていない人が亡くなったところで、あまり悲しいという感情は湧かなかったが、母があまりに深刻そうなので、心配はしていた。
    やたらと葬儀は長く感じた。足が痺れた。


    「なぁ犬王、じいちゃんの霊はおるん?」
    葬儀が終わって人も疎らになってきた時、薄暗い寺の入口の階段で靴を履きながら友魚は聞いた。
    「ああ、すぐそこにいる。まだ成仏出来てないみたいだな」
    「どこ?」
    「ほら、あそこ。」
    友魚は犬王の長い指の先を注視する。
    祖母が虚ろな顔で立っているだけだった。
    「なんも見えんよ」
    「目で見ようとしてるだけじゃダメなんだ」
    「?」
    「お前は耳がいいから、耳で見てみろ」
    「耳で見る????」
    「ほら、俺を見た時も、まずは声を聞いただろ?」

    友魚はよく分からないままとりあえず目を瞑ってみた。音に集中する。
    寺の外で青々と茂る竹の葉擦れの音、近くを通る車の走る音、真っ白な曇り空に高く飛ぶ鷹の声……。

    その中に、微かなし嗄れ声が聞こえた。声と言っては聞きにくく、音と捉えるには意味ありげなものだった。

    「すまんなぁ」
    見えた。
    あの横顔は、多分さっき遺影で見た人と同じだ。
    「拾ったか?」
    「うん」
    祖父は泣いている祖母の後ろに浮いている。
    じいちゃんの左横顔だけが見えていたが、ばあちゃんの前に移動した時、反対側の顔が見えた。
    「ひっ!」
    右半分の顔は火傷で爛れて骨まで見えていた。顔だけじゃない、右半身がドロドロだ。
    ぶくぶくと泥のような、怨念のようなものも見える。
    「酷い死に方したもんだな。友魚、大丈夫か?」
    「む、無理…」
    祖父は友魚の小さな悲鳴に気づいたのか、目が合ってしまった。
    「に、逃げ」
    「大丈夫だって、じいちゃんの話聞いてやろうぜ」
    「いぬおおぉぉ……」
    友魚は涙目になって後退りした。後ろの壁にぶつかった。
    右半身が爛れた祖父がゆっくり近づいてくる。
    本物だもの、そりゃあ下手なホラー映画より恐ろしい。
    息が深く吸えない。体が強ばって、心臓はこれまで感じたことの無い速さだ。目が合わないように顔を首が痛くなるくらい下に向けて、動けなかった。

    「見えているのか」
    嗄れた声が頭上で聞こえた。
    これは応えていいのだろうか。
    「よぉじいちゃん」
    犬王は登校中にすれ違った顔見知り位の乗りで挨拶した。
    「なんだ、気味の悪い面をしおって」
    「お互い様だろ」
    「ああ、それもそうか。」
    犬王と祖父は「はは」と笑いあった。幽霊ジョークきつい。友魚は未だに顔をあげられない。こんなにすぐ側であの顔を見るのは無理だ。絶対無理。
    「じいちゃん、なんか未練があるんだろ」
    「そうだ。ばあさんに伝えにゃ。いつか言おうと、ずっと隠しておってな。」
    「友魚、聞いてやれ。」
    「えっ」
    犬王に話を振られて咄嗟に顔を上げてしまった。祖父の顔も視界に入る。
    「ああああああああぁぁぁ」
    壁際にいたから、どこかに逃げることも出来なかった。顔がやばい。無理。じいちゃんと言えどグロいもんはグロい。涙で視界がぐにゃんぐにゃんだ。
    「すまんすまん、顔こっち向けとくから。」
    じいちゃんは笑って左半分の顔を見せるように向きを変えた。

    祖父に驚いて声を出したから、周りにいた人に気づかれてしまった。
    「おじいさんが亡くなって悲しいのね。」
    友魚を見たしらないおばさんは、恐怖で泣いているのでは無く、悲しみで泣いているのだと受け取ったらしい。「そっとしておいてあげましょう」と言って、誰も来てはくれなかった。そんなのどうでもいいから助けてくれ。

    「落ち着けって友魚。目をつぶってればいいだろ。」
    「ヴゥん……」
    友魚は顔をしわくちゃにして目を瞑った。

    「お前友魚か。大きくなったのぉ」
    目をがっちりと瞑っているからどんな表情をしているか分からないが、祖父はしみじみとした声色だった。
    友魚は祖父を覚えていないが、祖父の方は友魚がまだ赤ん坊の頃に見ているから、感慨深いのだろう。
    「じいちゃん、ばあちゃんに何を伝えたかったんだ?」
    犬王が本題に戻してくれた。ありがとう犬王、さっさと終わらせてさっさと壇ノ浦に帰ろう。

    「ああ、昔にな、友魚が生まれるよりも何年も前に、ばあさんと喧嘩したんや。喧嘩なんてしょっちゅうやったが、そん時ばかりはどうしても許せんかった。なんで喧嘩しとったのかも、今は思い出せんがな。」
    祖父は落ち着いたトーンで淡々と話し始めた。聞いていて落ち着く声だ。友魚は目を瞑っていれば、何も怖くは思わなかった。じいちゃんの声が優しいから、落ち着きを取り戻せた。
    「俺ァ怒って、ばあさんが大事にしとった琵琶を隠したんや。階段下の押し入れの奥深くにな。」
    「琵琶?」
    「ばあさんの父さんから、つまり友魚のひいじいさんから貰ったものらしい。大して上手くもないのに、大事にしとった。」
    偶然も偶然、友魚の祖母は琵琶をやっていたらしい。
    「俺ァ、家に火が回ってきたとき、琵琶を守らにゃと思って、琵琶を取りに戻ったんや。案の定俺ァ死んじまった。琵琶は守れたがな。」
    「なんで…」
    友魚は分からなかった。そんなに、命に変えてまでして守りたいものがあるのか。友有もそうだ。命より大事なものがある理由が分からなかった。友魚のまだ短い人生では分からなくて当然かもしれない。

    「ばあさんに伝えてくれ。琵琶を隠して悪かったって。」
    「うん、わかった。」
    「いい子になったな友魚。おおきに。」

    そうして祖父の声がしなくなった。
    「じいちゃん成仏したんか?」
    「いや、見えなくなっただけでまだいるさ。」
    「目開けて大丈夫?」
    「大丈夫」
    ゆっくり目を開けると、じいちゃんは確かにいなかった。
    「ばあちゃんになんて言う?」
    「普通に伝えればいいんじゃないか?」
    「じいちゃんに聞いたって言って、信じてもらえるかな」
    「琵琶のこと話せばきっと信じてくれるさ。行こうぜ。」
    犬王は一足先に祖母のもとへ向かった。ばあちゃんは手で顔を覆っている。泣いているのかもしれない。声は一言も上げていないが、丸まったその背中からは深い深い悲しみを感じる。

    「ばあちゃん」
    友魚は祖母の背中に向かって声をかけた。祖母は顔から手を外し、振り向いた。
    「あら友魚、どうしはった?」
    祖母は泣いてはいなかった。ただ、とてもやつれた顔をしている。火事から葬儀までのこの3日で、もう十分に泣いたのだろう。
    泣ききっても、涙が涸れても、悲しみからは逃れられないらしい。

    「さっきな、じいちゃんが俺にいいよった。琵琶隠してごめんって。」
    「え?」

    祖母は友魚の瞳を凝視した。ただただ、驚いていることはわかる。

    「あの人が言ったんか?」
    「うん、琵琶を守ろうとして死によった。」
    「そう……」
    存外反応は薄かった。
    「本当に…どこまでもアホな人やな…」
    ばあちゃんは肩を震わせて、俯いた。
    「琵琶なんかより、もっと大事なもん守れや」
    唇をぎゅっとして、歯を食いしばって、怒っている。悲しみと怒りが入り交じっている。
    友魚が幽霊が見えるとかは特に突っ込んでこなかった。
    「これで良かったんじゃろか」
    「まだ成仏してないな」
    伝えるだけ伝えたが、祖父にはまだ未練があるらしい。

    「友魚」
    「ん?」
    「そろそろホテルに戻ろ」
    母が友魚に声をかける。あの後泣いたのだろう。目が赤くなっている。子に涙を見せないという母のプライドだったのだが、友魚にはまだ気が付けない。
    父もそばにいた。父がいなければ母は今頃どうなっていたかわからない。

    気がつけばもう空が真っ赤に染まっていた。

    ホテルに行くためにタクシーに乗った。父は助手席、母と友魚は後部座席である。そして母と友魚の間に犬王がちょこんと座っていた。
    「明日は遺品整理じゃけぇ、あたしはしばらくこっちに残るけど、あんたは先に帰るじゃろ?」
    「本当は手伝いたいがおらがおらんと船出せんようになるけのぉ」
    「友魚はどうする?父ちゃんと一緒に帰る?」
    「俺残る」
    「なんも面白いことないよ?」
    「琵琶」
    「琵琶?」
    「うん、今日じいちゃんがいいよった。ばあちゃんの琵琶、じいちゃん返したがっとった。」
    「あんた、犬王だけじゃなくてじいちゃんの霊も見えんの?」
    「うん。じいちゃん、ばあちゃんに琵琶返せんと成仏しきれんって」
    「そう…」

    タクシーが橋を渡ろうとした時、急に友魚の首がつきりと痛んだ。
    「……?」
    「友魚?」
    犬王は友魚の異変に気がついた。
    ここは友魚が、いや、友有が処刑された六条河原のすぐそばだ。
    タクシーが止まる。
    「普段こんなにこの道が渋滞することなんてないんですがねぇ」
    ずっとこの橋のそばにいてはダメだ。
    「う、ぁ……」
    痛みはどんどん酷くなる。首だけじゃない、腕もズキズキと熱くなる。
    「友魚?」
    隣に座っていた母が心配そうに声をかけた。

    速く、速くここから離れたい!
    「お聞きなさい」
    低い声が聞こえる。聞いちゃダメな声だ。
    「友有?」
    犬王がハッとして窓の外を見つめる。
    「お聞きなさい」
    「痛い…」
    「友魚大丈夫?!」
    「どうした?なんかあったか?」

    速く!速く進め!ここから離れろ!

    真っ暗じゃ!

    友魚は意識を失った。


    *

    「所詮!壇ノ浦の友魚!!」

    友魚は夢を見た。600年前のその時を。


    *


    「友魚!」

    犬王の声で目が覚めた。
    まだタクシーの中だ。随分と長い間眠っていた気がするが、ほんの数分だったらしい。

    「友魚、大丈夫?真っ直ぐ病院行く?」
    「もうなんともないけぇ、病院行かんくてもいい。」
    「一応検査くらいした方が……」
    「いい」

    友魚は父と母がやたら心配するのがむず痒かった。本当にどこも不調はない。さっきは死ぬかと思うくらい、首と腕が痛かったが、今は全く痛くない。

    「さっきんとこ、前世の俺が死んだ場所じゃ」
    「そんな…」

    そして友魚は再度眠りについた。



    *


    翌朝、焼け焦げた祖父母の家に来た。
    父は昨晩のうちに壇ノ浦へ帰った。

    家は半焼していていた。数日前まで人が暮らしていた痕跡は跡形もなかった。清掃などはほとんど業者が済ませているようだった。
    祖母は今はホテルで寝泊まりしているが、この土地を手放すつもりは無いらしい。リフォームするつもりだとか。

    家財は庭に全て出されていて、そこから仕分け作業を行うようだ。
    正直、友魚にできることは何も無い。
    友魚は祖母に琵琶を返すことが出来ればそれで良かった。

    「母ちゃん、琵琶あった?」
    「ああ、業者さんがそっちに荷物まとめてたから、その中にあるんじゃないかい?」
    「見てくる」
    「焦げちょるもんとかあるけぇ、壊さんようにね」
    母は金庫の中にあった貴重品を確認していた。

    「友魚、琵琶あったぞ!」
    犬王が先に見つけていたらしい。
    友魚は琵琶を手に取った。
    想像していたよりもずっと重いし、大きい。
    美しい魚と波の柄が描かれている。
    琵琶はやたらと友魚の手に馴染んだ。
    「弾いてみるのか?」
    「ちょっとだけ」
    弦は緩んでるし、撥は無いから音はあまり響かないが、懐かしくてたまらなくなる音がした。
    「いいじゃん」
    「へへ」


    「ばあちゃん、これ」
    「友魚、それ私の琵琶や…」
    「じいちゃんが守った琵琶じゃ」
    祖母はカサついた手で、そっと琵琶に触れた。
    さっき友魚がしたように琵琶を構えて、指で弾いた。
    ベィン、と柔らかく音が鳴る。
    祖母は泣いた。
    「全く、あのじいさんは大バカもんやな。琵琶を隠すなんて子どもみたいな真似しおって、ほんで勝手に引け目感じてこんなもんのために死によって、ほんまに大バカもんや。」

    祖父の姿はもう見ようとしても見えないし、声も聞こえなかった。
    成仏したのだろう。


    *


    友魚それから数日、昼間に火災保険の手続きや、リフォームの手続きなどを済ませた後に、ホテルで過ごした。
    祖母が琵琶を披露してくれた。祖母は悲しそうに微笑みながら撥を動かす。友魚は祖母を見ていた。ビジネスホテルの硬いスプリングのベッドに2人並んで腰掛けて。

    「ばあちゃん、俺も琵琶やってみたい」
    「ええよ。ほれ、こうして持ってみ。」
    祖母は優しかった。琵琶を教えてくれた。
    母は、「友魚のおかげで、ばあちゃん少し安らぐみたい」と言っていた。確かに、子どもの笑顔は心の傷に優しいものだった。

    ベン、ベン、と撥で琵琶の弦を何度かはじく。
    耳によく馴染む音だ。祖母が弾いた音色とは少し違う。友魚の音だ。

    「友魚、上手やねぇ。綺麗な音出とるよ。ばあちゃんより上手いで。」
    「上手い?」
    「うん、上手や。」
    「もっといくぞ」

    友魚は先程祖母が弾いたのを聞いて、同じように弾いてみた。
    弾ける。初めて弾いたのに、どこをどうすればどんな音が出るか、わかる。

    「ま、凄い!友魚才能あんで!」
    「へへへ!」
    「友魚の音は、変わらないな。」
    「犬王!」

    友魚は犬王に聴いて欲しくて、犬王から連想した音を即興で弾き出した。
    祖母を放って、ベッドから立ち上がる。

    「……!」

    犬王は、この旋律を聞いた事がある。生前、友魚と初めて出会った時に、大きな橋の上で、遠くで燃え盛る家を背に、満点の星空の中で。

    犬王はじっとしていられなかった。
    地面に着いていない足をパタパタと動かし、宙に長い腕を滑らせ、体を捻り、跳び、小さなホテルの一室で舞った。
    友魚もじっとしていられなかった。
    目を点にする祖母を尻目に、好きなように弾いた。手が勝手に次の旋律を紡ぐのだ。

    「犬王!」
    「友魚!」

    ビジネスホテルの一室、客は祖母一人、セッションする2人のうち、1人は幽霊、1人は初めて琵琶を弾く子ども。
    奇妙で、華やかで、美しい空間だった。
    犬王も友魚も、身体中の血が沸き上がる。
    顔を赤らませて、アハアハ笑いながら、その瞬間を全力で楽しんだ。
    それはさながらライブ会場で、友魚が最後の一音を弾き終わったとき、祖母は涙ながらに立ち上がり、拍手を贈った。

    「友魚、友魚、ほんまにおおきに。じいちゃんも今の聴いてたやろか?じいちゃんが最後に琵琶守ったんは、友魚にあげるためやったんかもしれんな。友魚、ばあちゃんの琵琶あげるから、また聴かせてくれる?」
    「え、琵琶くれんの?」
    「うん、ろくに弾けんばあちゃんが持ってるより、弾ける友魚が持ってた方が断然ええ。」
    「でも……」
    「遠慮せんで!ね!」
    「貰っておけよ、友魚。」
    「う、うん。そんなら、ありがと。大事にする!」

    友魚は、神の意志か仏の縁か、思わぬところで琵琶を手に入れた。

    「友魚、そこに誰かいるんやな?」
    祖母は、犬王がいる方をじっと見つめた。
    犬王と祖母の目は合わないが、確かに、ここにいることを確認されている。
    「え?わかるん?」
    「わからんけど、幽霊はいるって知ってるで。ばあちゃんも小さい頃、幽霊見たことあるんや。」
    「本当に?」
    「うん、でも1回きりやった。」
    祖母はベッドに深く座り直して、お茶のペットボトルの蓋を開けた。興奮を冷まそうとしているのかもしれない。1口飲んで、そのまま膝の上で両手で持った。
    「聞いてくれはる?」
    「うん」
    祖母は開いたままのペットボトルを机に置いた。
    「まだ五歳くらいの時やったかなぁ、お盆の頃、鴨河原で近所の子らと遊んどった時やった。急にものすごい夕立が降り出して、帰ろうとしたんやけど、視界が悪くて迷子になってしもた。よく知ってる場所やったのに、急に知れへん場所に一人取り残されたように感じて、不安やった。そんときにな、赤い光が見えたんや。雨に打たれて、寒くて仕方なくて、なにかにすがりつきたくて、その光の所へ向かったんや。だんだんハッキリ見えてきて、したら、着物姿の厳つい大男と細くて綺麗な女と、琵琶を持った老人が、腕と頭だけの長い髪の男を囲んどった。みんな足がなくて、ありゃこの世のもんやあらへんと思って、直ぐに逃げ出そうとしたんや。」

    友魚は黙って祖母の話を聞いた。首と両腕の、前に痛んだ箇所が疼く。
    友魚は幽霊たちの姿をありありと想像出来た。父と母、神社で禰宜を勤める長谷とそっくりの姿だ。長谷をあと二、三十年老けさせたらそんな感じだろうなと思った。

    「長髪の男は、琵琶を弾いていて、囲んでる人達に気づかんようやった。囲んでるやつらは悲しそうやった。その人たちの顔を見たら逃げる気も無くなって、気づいたら雨が上がっとった。」
    「長髪の、琵琶を弾く男……それは友有…か…?」
    「あ、そっか、鴨河原って前世の俺が処刑された場所…」
    「前世?」
    「ううん、なんでもない」
    別に前世のことを隠すつもりは無いが、正直全部話すには大変長くめんどくさいので、友魚は話さなかった。
    祖母は不思議がりつつも特に追求してこなかったので、そのまま話を続けた。
    「ほんでな、雨が降ってたのに服も道も濡れてなかったんや。一緒に遊んでた子達も、なんともない様子ですぐそこにおった。私ァあの時のこと、ずーっと忘れとらんよ。誰かに話しても信じてもらえんけど、ありゃ夢や幻やない。あん時お盆やったから、きっと天からこの世に帰省しとったんやな。あの悲しそうな幽霊達は、救われたんやろか……」

    祖母が話終えた時、扉が開く音がした。
    母がユニットバスの風呂から出てきた。
    「友魚、お風呂開いたで。明日の準備終わった?」
    「明日?」
    「明日帰るって言ったやろ」
    「え?明日帰んの?!」
    「当たり前じゃ!そう何泊も何泊も出来んわ!」
    「待ってまだ帰らん!」
    「なして」
    「な、なんでも!」
    友魚は焦った。壇ノ浦に帰ってはせっかく前世の記憶が戻るかもしれない手がかりを失うから。
    「友魚、まだこっちにおってもええよ。」
    「母さん!」
    「あの人が死んで、1人は寂しいねん。」
    「……そう」
    「友魚の琵琶も聴きたいし」
    「琵琶?」
    友魚は手に持った琵琶と撥をキュッと握った。母の顔色が気になる。
    「友魚ったら、琵琶がと〜っても上手なんよ〜!初めてとは思えん!ね、友魚、お母さんにも聴かしたって!」
    祖母にそう言われて、母の顔を見た。口を結び眉を寄せ、複雑そうな顔をしている。
    母は琵琶を弾くことを咎めはしないが、前世のことを知る母は琵琶を弾くことをよく思わない。
    「弾いてもええ?」
    「……」
    母は黙って頷いた。

    少し緊張している。撥を持つ手が少し強ばるが、うん、弾けることには弾ける。
    友魚は音を鳴らした。

    友魚の琵琶を聴いても、母の表情は変わらなかった。とても素晴らしい演奏だったことには変わりないが、それは友魚が天賦の才能を持っているわけでも、努力して得た実力でもなく、前世のせいだと母は知っている。友魚が持つ、母が知らない「友有」の一面を見ることが複雑でたまらなかった。
    母は友魚の腕の中の琵琶ごと、友魚を抱きしめた。この子の前世を受け入れるのだ。受け入れるのだ。と、心に言い聞かせた。
    友魚は「もうそんなことする年齢じゃない」と、背に回された母の腕を振りほどきたかったが、母が友魚の前世を受け入れようとしているのに、母の気持ちを自分が否定する訳にはいかなかった。
    恥ずかしいことすんなよ、早よ終われ……と思いながら、微妙な時間が過ぎるのを待った。
    犬王は、友魚と母のこの関係がなんなのか、知りたかった。親子というものは知っている。ただ、自分が知る親子とは違かった。犬王は両親の愛を受けなかったし、犬王と共に過ごした犬たちの親子愛とも何か違う。犬王は生涯結婚せず、子どももいなかった。600年以上存在しているのに、間近で親子を見るのはこれが初めてかもしれない。
    犬王は羨ましいと思った。しかし、友魚に触れられる母に羨ましいと思ったのか、母に抱きしめられる友魚に羨ましいと思っているのか、分からなかった。

    友魚は母と話し合い、8月の半分を京都で過ごすこととなった。
    傷の癒えきっていない祖母を孤独にさせないためという役目もあった。

    母は金銭問題に顔を顰めたが、祖母は「あの人の遺産あるから!」と言って、全力で友魚が京都に残るために説得してくれた。祖母はあえて明るく振舞っているだろうか、それともただただ強かなだけなのだろうか。
    母はこれ以上仕事に穴を開けないためと、壇ノ浦へ帰った。駅まで母を見送る時、去り際に「夏休みの宿題を郵送するから、ちゃんとコツコツやりなさいよ」と言われた。余計なお世話だ。

    さて、ずっとホテル暮らしをした訳では無い。祖母は公営住宅へ引っ越したのだ。とはいえ、家のリフォームが終わるまでの仮住まいで、とても素晴らしい家とは言えないが、暮らすには十分だった。

    祖母は友魚の前では明るく振舞ってくれた。京都の街の色々な所へ連れていってくれた。一緒にあぶり餅も食べた。友魚は楽しかった。
    しかし、毎晩友魚が布団に入った後、祖母は一人で泣いた。
    愛した人を喪い、住む家も半壊したのだ。辛くないわけが無い。
    昼間、友魚の前で明るく振舞ってくれるのは、友魚に悲しむ自分の姿を見せたくないからなのか、それともそうすることで気を紛らわせているのか、どちらにせよ、祖母のためにも友魚は壇ノ浦に帰らなくて正解だったのだろう。母も分かってくれた。

    ある日の蝉がうるさい日だった。お寺の周りを散歩している時、祖母は言った。
    「お葬式の時、友魚が死んだじいちゃんの遺した言葉を伝えてくれたやろ?あれがなかったら、きっともっと落ち込んでたんやろなって思うの。それにね、友魚の琵琶を聴いてる時が1番心が安らぐんよ。友魚の琵琶を聴くと、じいちゃんと話してるような気になるんや。」
    祖母は真夏の日差しを日傘で除けて、日陰の中にいる顔は少し悲しそうに微笑んでいた。
    「友魚の琵琶は、不思議な力があるんやね」
    祖母は友魚の頭を撫でて、皺の手で優しく撫でた。
    犬王は母が壇ノ浦に帰った前の日と同じ目で、友魚と祖母を見ていた。

    その日から、祖母が1人で夜中に泣く声を聞いたら、祖母の背に聞かせるように、数秒だけ、指で琵琶を鳴らしてみた。ひとつ扉の先の、台所のシンクの前に立つ祖母に届いたのだろうか。

    次の日の朝、郵便受けに広告の裏に書かれた手紙が入っていた。要約すると「うるさい」だと。知ったことか。
    その日は祖母が通院する日だったので、友魚は留守番していた。
    「外に出たい時はちゃんと鍵をかけるんやで。田舎やあらへんのやから。」と言って、祖母は合鍵を長い紐に通して友魚に渡した。首から下げろということらしい。
    「名札みたいだな」
    犬王はなんの悪気もなく言ったらしいが、急に外したくなった。
    「ばあちゃんこれ首から下げんといけんの?ストラップとかないん?」
    「これが1番無くさんやろ。」
    服の中に入れておけばいいと丸め込まれたので結局ストラップにはならなかった。

    「犬王、前に俺がタクシーの中で寝た時の場所わかる?」
    「あぁ、確か三条大橋のところだ。600年前とかなり変わっていたがな。」
    祖母が家を出てしばらくした後、友魚は首に鍵を引っさげた。
    「行くのか?」
    「うん。」
    「辛いことになるかも」
    「いい。俺が行かにゃ、あそこにいた怨みの俺はどうにもならん。」
    「分かるのか」
    「うん。少し思い出した。あれは確かに俺だ。首を切られる直前を夢に見た。」
    「首を……。なぁ友魚、一つ分からんのだ。友有は成仏したんだろう?生まれ変わって、友魚として今ここにある。なのに、何故あの場所で友有の声がしたんだ?友有は、まだ死にきれてないのか……?600年も……?」
    犬王は琵琶を片手に靴を履く友魚の周りをゆっくりと飛び回る。犬王はどこか落ち着きがない。
    「それを確かめに行くんじゃ。俺の前世の記憶も戻るかもしれん。」
    「あらかた600年前のことを話したが、無理に思い出そうとしなくても……」
    「犬王は俺に思い出して欲しくないんか?」
    「…………」
    「なしてじゃ」
    「……お前が思い出したら、俺と一緒にいてくれなくなる」
    「そんなわけあるか。」
    「お前はきっと俺を恨んでる。」
    「まさか。犬王は俺を守るために足利に従ったんじゃろ?」
    「友有はそれを知らないし、結局は無意味だった。あんなことになるなら、友有が死ぬ前に、友有座も犬王の巻も捨てて、2人で逃げればよかった!」
    「それこそ、犬王を恨むじゃろ」
    「……分かってる。だけど、あれが正しい選択だったなんて思いたくないんだ。」
    「大丈夫。話せばええ。友達じゃけ。」
    「……怖い」
    「意外と弱虫かね」
    「お前に比べたら誰だってそうかもな」
    「行くぞ」

    友魚はドアを開けた。

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