Ivory これまで心細くなったのは一体どんな時だっただろうと晶は思い浮かべる。例えば大学を出て就職してすぐの頃。学生時代は学校に行けば誰かしらいて、友達と過ごすのが当たり前で。帰宅すれば親がいて食事や寝床などの住環境を心地よく整えてくれた。就職して一人暮らしを始めたとたん、急にそのどちらも取り上げられてしまって、代わりに知り合いのいない職場、やり方が分からない仕事、知らない土地、他人のようにまだよそよそしい部屋と家具たちに囲まれた。どうやってそれを乗り越えたか、乗り越えたと感じたのかと思い返してみても、結局は時間が解決したとしか言いようがない。必死で前に進んでいるうちに、いつの間にか景色が変わっていたような感覚だったのだ。
――それから。
「けほ、けほんっ……んんっ、ごほっ……」
こんな風に体調を崩してしまった時、そして、その辛さを誰にも伝えることができない時も。
あいにくフィガロは南の魔法使いたちと一緒に泊りがけの任務に出てしまっていて、不在にしている。夕方頃から急に体調の異変を感じた晶はベッドに潜り込み、なすすべもなく体を擦りながら寒さに震えていた。
「うぅ……熱、あるかな……寒っ……」
一瞬うとうととしても、すぐに脳内がざわざわと騒音でいっぱいになり、喉奥からくる苦しさで止まらない咳が邪魔をする。一人暮らしの家と違い、熱冷ましもスポーツドリンクもカイロも何もないことに絶望しながら、これが変な呪いなどではなくただの風邪であってほしいとひたすら願った。
『おい、いんのか?』
コンコンと威勢の良いノック音が室内に響く。みんなは夕食を終えた頃だろうかと思いながら、晶は掠れた声で弱々しくはい、と返事をした。
「入るぜ」
首だけ動かして声の主を確認する。のしのしと遠慮なく入ってきた彼は両手をポケットに突っ込みながらベッドの横に佇むと、立ったまま晶を見下ろした。
「おい、どうした。具合悪いのか」
「……ちょっと、だけ」
「こっち向け」
「い、いいです」
すとっとその場にしゃがんだブラッドリーが視線を合わせようとするが、晶はそれを頑なに拒む。余計な心配はかけたくなかったし、大切な魔法使いに悪いものをうつしてしまうわけにはいかないとぎりぎりの理性が働いたからだ。
壁際まで逃げて背を向けた晶がふとんに包まりぶるぶると震えていると彼はベッドに片膝で乗り上げ、その手を額に伸ばす。
「寒いか」
「……」
黙っていれば諦めてそのうち出ていくだろうという思惑をよそに、ブラッドリーはいったんベッドから離れると、羽織っていたモッズコートとスーツの上、靴をその辺に脱ぎ捨て、ふとんの端をめくった。
「ちょっ……! だめです!」
<アドノポテンスム>
壁際を向いたままぐったりとしている晶の体を後ろから抱えて、魔法で氷のように冷たくした手のひらで喉元や瞼に触れ、額を包んでやる。
「こほっ、……や……っ」
「うるせえ赤ん坊だ」
「……そやって、赤ちゃん扱いするの、や、です……」
「はは。ガキはすぐ熱出すじゃねえか」
「……ガキ、じゃないです」
続けざまに咳き込み、少しでもブラッドリーの腕の中から逃げようと身動ぎすれば、フンと鼻で笑った彼が逃げられないよう晶をきつく抱え直した。
「おら、暴れんな」
「……きらい」
「いい子だからとっとと寝ちまえ」
「……っ」
「俺様がついててやる」
「……や、だ」
次の瞬間、脳裏に映ったのはしんと静まり返った北の国の白い森。そして、雪が降っているかのようにひんやりと頭が冷えていくのに、体の方はつま先までぽかぽかと太陽を浴びているかのように温かく心地がいい。
「安心しな」
耳に響く声が低くて甘やかで、抗えない。口元にあてがわれたちいさなシュガーを含むと、晶はやがて意識を手放した。
***
翌朝。
目を覚まして寝返りを打っても、もうどこにも彼の姿はなく、まるで初めから一人ぼっちだったような室内の雰囲気に晶は少し寂しさを覚えた。代わりに熱はすっかりと下がり、少しだけ喉や鼻に違和感は残っているものの、普通に動けるくらいにまで体力は回復していた。
ベッドから起き出してカーテンを開け放ち、まだ日の出前の静まり返った外の様子を眺める。
「赤ん坊、か……」
最近のブラッドリーは晶を赤ん坊扱いするのがお気に入りなのか、事あるごとに「赤ん坊」と呼んではその反応を面白がっている。賢者と魔法使い、盗賊団のボスと子分。「赤ん坊」に対置するものはやはり「父親」だろうか――。
どこからか漂ってきた温かないい匂いにぐう、とお腹が反応したのを機に、食事を摂っていなかったことを思い出す。ひとまず元気を取り戻したことに感謝しながら支度を済ませると、晶は軽い足取りで食堂へと向かった。
「おはようございます、ネロ」
「おはようさん。昨夜、メシ食わなかったろ。 大丈夫か?」
「ちょっと体調が優れなかったので、遠慮したんです」
「今朝はどうだ? 何か食えそうか」
「はい。お腹が空いたので、早いかなと思ったのですが来てしまいました」
「あんたの分、残しておいたから。すぐ温めてやるよ」
「ありがとうございます!」
キッチンの中にあるスツールに腰掛けて、ネロがいそいそと朝ごはんの用意をしている後ろ姿を眺める。これ食ってな、と剥いたフルーツを小皿に盛って出してくれたのをつまみながら、晶は再び赤ん坊扱いされることについて思いを馳せる。
「ネロ、訊いてもいいですか」
「ん?」
「盗賊団にいた頃のことなんですけど」
「ああ、まあ。あんま覚えてねえけど、何?」
「例えばなんですけど。すごく体調が悪くなったり、怪我をしたりした団員がいたら、ブラッドリーはどうしてましたか?」
「ブラッド? そうだな、まあ面倒は見てやってたよ」
「そ、そうですよね」
「看病っつっても、魔法で治すとかはできねえから限界はあったけどな」
「そ、添い寝とかですか」
「添い寝ぇ? はっ、するわけねえじゃん」
片眉を上げて軽くあしらうと、ほかほかのシチューポットパイを晶の前に置いてやりながら、ネロは飲み物の準備に取り掛かる。
「し、ないですか。添い寝……」
「もともと野郎しかいねえしな。甘えた根性のヤツをブラッドは容赦しなかったから、多少キツくても黙ってる奴の方が多かったかな」
「……」
「ほら、冷めねえうちにどうぞ」
「あっ、はい。美味しそう! いただきます!」
「はいよ」
たっぷりのミルクを使ったシチューに入ったほろほろのチキンとほくほくの野菜。それにサクサクのパイを崩して一緒に口に入れながら晶は思案する。ネロがこうして温かな手料理を振る舞ってくれるように、ブラッドリーも彼自身が抱いている父兄の愛情みたいなものを伝えようとしているのか。それだとしたら、「嫌い」だとか「子供扱いをやめろ」と突っぱねるのは、返すべき反応として間違っているのだろうか。
「うぅん……」
「ん? 味、変か?」
「い、いえ! ネロのご飯、いつも美味しいなって」
「そりゃどうも。いっぱい食って早く元気になんな」
「ありがとうございます」
そして数日後。夜も更けて魔法舎の皆がおやすみを言い合う頃、晶は晩酌セットと枕を抱えて5階の部屋を訪れた。
「ブラッドリー、入ってもいいですか」
「おう、なんだ」
寝間着に着替えた彼がドアを開けて室内に晶を促す。すでに自身も晩酌をしていた様子でテーブルの上には水滴の付いたグラスや酒のボトルが置かれていた。
「この間のお礼をしにきたんです」
「礼?」
「具合が悪かったとき、あの、ベッドで……」
「ああ。律儀な奴だな、お前」
「よかったら、次のお酒作らせてください」
「いいぜ。何杯でも作れよ。残さず飲んでやっから」
晶がグラスの中に大きな氷を落とし、シャイロックから譲り受けたウイスキーをトクトクと慎重に注ぐ。その様子をブラッドリーは嬉しそうに眺めた。
「お前は。飲まねえのか」
「……赤ん坊は飲めませんから」
「ははっ! 気にしてんのか」
「むぅ」
「乾杯」
グラスを軽く掲げるとすい、と琥珀色の液体を喉に流し込んでいく。グラスの中で回った氷がカランと音を立てて、夜が一層深まった気がした。
「美味いな。お前が作ってくれた酒は」
いつも何かを求めるように大きく見開かれている明るいルビーレッドの瞳が、今夜はとろりとまろやかな光を宿している。アルコールがそうさせているのか、それとも傍に自分がいるからなのか。測りかねる晶をよそにブラッドリーは上機嫌でグラスを傾ける。
「――どうして、」
「あ?」
「どうして、赤ん坊なんですか」
新しく氷と酒を足してマドラーでかき混ぜてやりながら、さりげなく尋ねる。その新しい酒を一口だけ啜り、テーブルに置いた後、両手を膝の上で組んだブラッドリーは晶の瞳をまっすぐ見つめながらぽつぽつと語り出す。
「俺の歳からすりゃ、お前なんて生まれたばっかの赤ん坊だろうが」
「年齢の問題……」
「可能性に満ちてる。どんな失敗も成功も全てここから始まる」
「――」
「お前はそうやって成長してくんだ。ここで。賢者として」
「……成長、できてますかね」
「俺が見てんだ。間違いねえよ」
「……」
「見ろ。酒に疎かったお前が、こうして俺様に一杯作って飲ませてんだ」
「ふふっ。そうですね」
「ああ」
会話の分だけ氷が溶けて薄まったウイスキーをブラッドリーは丁寧に味わう。アルコールを入れていない晶までなんだか体がほんのり温まるような不思議な感覚を覚える。まるで彼の体温を共有しているようだ。いつかのベッドの中のように。
「だから、あんま背伸びすんな」
「?」
「”賢者”なんてお仕着せの役に合わせて立派に見せようと虚勢を張る必要はねえ」
「虚勢……」
「少なくとも、この魔法舎でお前が年相応の振る舞いしたって誰も文句言わねえよ」
真意が掴めず、戸惑う晶がブラッドリーの表情を伺う。何のために賢者やってんだと、いつかの自分に厳しい視線を向けながら問いかけた彼の言葉とは思えなかったからだ。
「辛ぇ時には助けを求めていいんだ」
「あ……」
「こんなに始終傍にいて、頼られねえなんて淋しいじゃねえか」
賢者として魔法使いたちを導き、守らなくてはとがむしゃらに走ってきた自分をちゃんと見ていてくれたことに晶は気づき、心から深く安堵した。
「それとな。赤ん坊っつうのは、可愛がられてなんぼなんだよ」
「……」
「そのままで価値があんだよ」
グラスを持ったまま指をピンと突き出して晶を指差すと、彼は満足気に微笑み、残りのウイスキーをくいっと飲み干した。
「――すごく、すごく嬉しいです。うまく言葉に出来ないんですけど」
「ふん。やっと理解したか」
「ブラッドリー!」
「あん?」
「持ってきました!」
傍らに置いておいた枕を晶が彼の鼻先にずいと突きつける。
「赤ん坊です」
「おう」
「今夜も、だから一緒に寝てくれますか?」
枕で半分顔を隠しながらブラッドリーを覗き込む仕草をする。わざわざ枕持参で来たことに合点がいった彼が笑うと、晶もつられてくすくすと笑みを溢した。
<アドノポテンスム>
魔法のおかげで黒い革張りのソファがあっという間にソファーベッドに変わり、そこにごろりと寝転んだブラッドリーが晶を呼びつける。
「おら、ベイビー。こっち来い」
「はい!」
もぞもぞと枕を抱きかかえた晶がすぐ隣に背を向けて横たわったのを見届け、照明を落とす。後ろから体を抱え込み、しばらく逡巡したブラッドリーがその枕を剥ぎ取って床に放り、代わりに自らの腕を枕として差し出せば、素直に腕の中に収まっていた晶がくるりと寝返りを打ち、彼の胸に鼻を擦り付けて甘えた。とんとん、と優しく背をタップすれば、「んん」と吐息をもらして晶は幾度か瞬きをしたのち、彼の香りに包まれながらゆっくりと目を閉じた。
「俺様がついててやる」
「……ずっと、いっしょに、いてくれますか」
「――夢ン中だって離さねえよ」
赤ん坊をあやすようにそっと晶の額にキスを落とすと、おやすみと小さく囁き、ブラッドリーも夢の中へと落ちていった。
End