特別なきみ 昼飯も終わって夕飯までのちょうどおやつ時。何か焼いてやろうか、なんて思案しながら呑気にパントリーを物色していたところに、幼いけど凛とした声が響き渡った。
「ネロ」
「なんだ、リケ。おやつねだりに来たのか」
「大事なお話があります」
「今?」
「ええ」
キッチンの中にある作業台に備え付けのスツールにちょこんと行儀よく腰掛けて、リケはこっちを真っ直ぐ見る。その真剣すぎる眼差しを適当にあしらうことも叶わず、なんかねえかなと急いでその辺に視線を彷徨わす。
「あ、リンゴあるぞ。ちょっと待ってな、角ウサギにしてやる」
「おやつをねだりに来たのではありませんが、剥いてくれるならいただきます」
向かいに腰掛けて果物ナイフでするするっと剥いたリンゴを皿に盛って出してやると、それを両手で持ったリケが小さい口でしゃり、と齧る。
「どうしたんだ。えらく真面目な顔してさ」
「ネロは、僕やミチルのこと、好きですよね?」
「ああ。好きだし、大事に思ってるよ」
「じゃあ、賢者様のことは?」
「!」
「好きですか? 大事ですか?」
「……まあ、好きだし大事かな」
顔を思い浮かべながらいざ口に出すと内心、大分照れた。頭の中に呼び出した晶は満面の笑みを浮かべながら俺の名を呼び、俺の作ったメシを美味そうに頬張る。
「でも、それは僕とミチルとは違う『好き』ではありませんか?」
「えっ?」
リンゴのかすを口の横に付けたまま、俯いていたリケは顔をばっと上げて一気にまくしたてる。
「先日、おやつをもらいにここへ来たら、賢者様とネロがいました」
「……」
「声を掛けようか迷っていたら、料理中のネロの頬に賢者様が唇を付けたんです」
「(……あっ、見られてたんか……‼)」
「あれはどういう意味なのですか? 僕は初めて見ましたし、教会の人から教えてもらったことがありません」
「ええと、……」
「もうひとついいですか? また、別の日の話なのですが、ミチルと一緒に何か簡単なおやつを作りたくて、その相談にここへ来たら、賢者様とネロがいました」
「(……嫌な予感しかしねえ)」
「顔を近づけて親しくお話しをされていたので、終わるのを待っていたら、ちょうど、こうです」
皿の上のうさぎリンゴを2つ持ち上げるなり、リケはそれらを向かい合わせにしてくっつけて見せる。
「ネロが自分の唇を賢者様の唇にくっつけていました」
「(……ああ、もう俺ッ……)」
「いけないと思いながらも、どういう意味なのか知りたくて覗いていたのですが、ふたりともすごく嬉しそうにしていたので、とても良い行いなのだと思いました。そうなのですか?」
「あー、ええと……リンゴもっと食う?」
「まだあるならいただきます。でも質問にも答えてください」
追加のリンゴを剥きながら質問の答えを考える。あの日もその日も、なんか気が緩んじまって、場所がキッチンていうのを忘れてそんなことをした気がする。頬とはいえ、晶からキスをしてくれるなんて滅多にねえし、俺からしたのは、なんかこうあけすけな言い方をすりゃ、昼間っからムラムラしてたんだと思う。
「で、どうなのですか?」
「質問、なんだっけ? 悪い、忘れちまった」
「唇を付ける行為の意味です」
「んー、まあ、簡単に言っちまえば、『大好き』って意味かな」
「大好き……? ネロは賢者様のことが、賢者様はネロのことが大好き……?」
「んー……」
「僕もミチルやネロのことが大好きです。賢者様のことも。では、僕もして良いのですか?」
「いや、それは駄目だ」
「どうして?」
皿の上からリンゴを一つとって眺める。大好き、可愛い、愛おしい、きみが欲しい……だから唇を付ける。そのとっておきの気持ちを相手に伝えるために。
「なあ、リケ。ミチルと俺と賢者さんの中で誰が一番特別?」
「……『特別』とは、どういう意味ですか?」
「そうだな。ちっと難しいかもしんねえけどさ。一等大事、ってこと」
「うーん。みんな『特別』ではいけませんか? 選べません」
「ははっ。まあ、そうだよな。まだお前さんには早いよ、『特別』を持つにはさ」
「むう」
(特別……になっちまったな。知らねえうちに。こんなにもさ。)
手の中のりんごを口ン中に放り込む。シャリシャリと砕けて瑞々しい果汁が溢れた。ちょうどあの日も、晶の唇がつやつやした果実に見えて、味見がてら口を付けずにはいられなかった、が正しいかも。
「聞いてもいいですか? 賢者様の唇は、どんな味がするのですか?」
「えっと…」
(――お前さん風に言うなら、『堕落』の味かな。なんつって……)
「ネロ?」
「まあ、味はともかくさ。いいモンだよ。本当に」
「良いものなのですね!」
「長い魔法使いの人生の中で、『特別』に出会ったらさ。勇気出して、一等大事だって伝えるんだ」
「なるほど」
「そうすりゃ、こんな壊れかけの世界でも『特別』のために、頑張れたりするんだ」
「僕も早く『特別』が欲しいです!」
「それを楽しみに大きくなりな」
「はい!」
ご馳走様でしたと勢いよく席を立つリケに釘を刺す。
「なあ、リンゴ、美味かったろ?」
「え? はい。もちろんです」
「じゃあ、俺の『特別』が賢者さんってことは秘密にできるな?」
「秘密にしたいのですか? 分かりました。親しい友人同士の嗜みですから!」
「よし」
パタパタと元気よくキッチンから飛び出していった小さな背中を見送って、頬杖をつく。そういや、今日の予定は何だっけ――。
「ネロ」
「?」
声のした方を向くと、俺の『特別』がキッチンの入り口に立って、そうっとこっちを覗いている。
「なんだよ、そんなとこ立って」
「……リケとのお話をこっそり聞いていました」
「聞かれちまったか」
リケが座っていた席に今度は彼女が腰掛ける。香水なんか付けてねえだろうに、ふわりといい匂いがして、場の空気が一瞬で甘やかなものに変わる。
「なんか食う?」
「いえ。ちょっと、顔が見たくなったので、立ち寄っただけです」
「そっか」
「お話、とても良かったです。上手だなって思いました」
「そりゃ光栄だな」
「『特別』、なんですね。わたし」
「ん?」
「や、なんでもないです!」
「晶、」
「も、もう行きますね」
「待ってよ」
あわあわと立ち上がって頬を桃色に染めた彼女が恥ずかしそうに出ていこうとするので、とっさに手を掴んで引き止める。ああ、駄目だ。目の前にしちまうと、もうここがどことかそういうのどうでも良くなっちまって、誰が見てても構やしねえって抑えが効かなくなる。
「ね、ネロ」
「あんたが俺の特別だって印。欲しくねえか?」
「で、でも……」
「ほら、」
指先でするりと頬に触れると、思ったとおりに熱を帯びていて、何かに期待するように潤んだ瞳が熱っぽく見上げる。さらさらと触れ心地の良い髪に手をくぐらせて、そのまま自分の方へと引き寄せる――。
「……」
晶越しに俺らをじいっと観察するリケの好奇心に満ちた視線とかち合って、思わず動きが止まる。
「――ふっ」
「ネロ……?」
――俺は代わりに、お前さんから『禁欲』を教わった方がいいかもしんねえな。
【おわり】