階−きざはし−② 蔵書閣で雅正集の書き取りをせよと、昨晩の飲酒の罰として言い渡された。
戒尺で打たれるのもやむ無しと思っていた魏無羨は、ほっと胸を撫で下ろしながら蔵書閣に向かっている。
(でも、酒って存外美味いんだなぁ)
意識を失う前に口に含んだ酒の味はなんとなく覚えていた。ふくよかな香りと、わずかに喉を焼く旨み。確か姑蘇の銘酒、天子笑と言っていたか。
(そういえば彩衣鎮でたくさん売っているのを見たな)
ぺろりと無意識に唇を舐める。
雲深不知処内ではご法度だが、飲酒自体は禁じられていないはずだ。
(予定のない日に町に飲みに行ってもいいか師兄に相談してみよう)
駄目だと言われたら大人しく諦めればいい。けれど、次期宗主である藍曦臣は意外に話の分かる人だった。もしかしたら許可してくれるかもしれない。それに、今回の罰が思ったより軽いのも、彼が何かしら口添えしてくれたからだろう。にこにこと自分を送り出してくれた姿を思い出して、魏無羨は心の中で感謝した。
(師兄のためにも、まずはきちんと罰を受けなければ)
辿り着いた蔵書閣の前で衣服と髪を整え直し、扉を開ける。
中には、先客がいた。
窓辺に佇み、微風に艷やかな黒髪をなぶらせていたその人物がはっとこちらに顔を向ける。視線が合いそうになった瞬間、魏無羨はバタンと乱暴に扉を閉めていた。
予期せぬ事態にしばし固まる魏無羨の眼前で、閉めたはずの扉が内側から開かれる。そこからすいっと伸ばされた白く美しい腕が、見た目にそぐわぬ力強さで魏無羨を蔵書閣の中に引きずり込んだ。
「……っ!」
強く引っ張られた勢いのまま相手の腕の中に飛び込んでしまい、魏無羨は慌てて体勢を立て直す。そのまま距離を取ろうとしたが、背後の扉はすでに閉ざされ、扉と相手の身体に挟まれる格好となった。
「なんのつもりだ、藍忘機!」
声を荒らげて目の前の男を睨みつける。しかし男は涼やかに笑って人差し指を口元に立ててみせた。
「雲深不知処で大声は禁止だろう?」
ぐっと言葉をつまらせる魏無羨に、藍忘機は事も無げに答えを返す。
「昨日の罰として、君と蔵書閣で雅正集の書き取りをするように言われた。君が入って来ないから、招き入れただけだ」
言われた言葉が魏無羨には一瞬理解できなかった。
(君と蔵書閣で雅正集の書き取り?君と?君とって誰と?まさか、俺と?)
「……誰がそんなことを……」
「沢蕪君」
(師兄……!にこにこと嬉しそうだったのはこういう訳か!)
そういえば、藍曦臣は魏無羨が座学で同年代の友人を作ることを望んでいた。その候補として藍忘機が選ばれてしまったのだ。どうやら罰を軽くするフリをして、仲良くなるきっかけにと二人を蔵書閣に押し込めることにしたらしい。
(謀られた……!)
よりにもよって、藍忘機だなんて。こんなことなら戒尺で打たれた方がまだマシだ。
初めて会った時からやたらと自分に絡んでくるこの男が、魏無羨は苦手だった。親しげに話しかけられてもどう返して良いのか分からない。しかも最近は藍忘機が他の誰かと話しているのを見ると、胸がざわりとするのだ。
それに加えて、昨晩から今朝にかけての一件。
覚えてはいないが自分が彼にしてしまったことも、彼が自分にしたことも全て理解の範疇外だった。
(なんで俺はあんなこと……こいつは……)
人差し指が立てられたままの藍忘機の唇の、その熱を思い出しそうになる。今は乱れなく結んだ抹額がじわりと熱を孕んだような気がして、魏無羨は小さくかぶりを振った。
(やめよう)
この件はこれ以上考えてはいけない気がする。
魏無羨は理解不能な案件を溜息と共に吐き出して、意識を切り替えた。
「罰なのだから仕方がない。書き取りを始めようか、藍忘機」
促すように声をかけ、彼は扉と藍忘機の間の狭い隙間から抜け出そうとする。その目の前に、とん、と白い腕が伸ばされて行く手を阻んだ。
「藍忘機?」
不可解な行動を咎めるように字を呼べば、美しい瞳が僅かに曇る。
「藍湛と。名を呼んでくれると昨日約束した」
(また昨日の話か……!)
意識の外に出したばかりの案件を蒸し返されて、魏無羨は再び溜息をついた。
「朝も言っただろう?すまないが、昨日のことはほんとに覚えてないんだ」
「名を、呼んでくれると約束した」
なおも言葉を重ねる藍忘機は、どことなく気落ちしているように見えた。思ってもみなかった反応に、ちくりと胸が痛む。
「……分かった。藍湛。らんじゃん。これでいいか?」
「うん」
名を呼んだだけで、藍忘機の表情はぱっと明るくなる。子供のような反応に思わず魏無羨も笑ってしまった。
「はは。何だ、あんた意外とかわいいな!」
彼に対する苦手意識がほんの少し払拭された気がする。もしかしたら本当に仲良くなれるかもしれない。そう思った矢先のことだった。
「君の方が可愛い」
妙に熱の籠もった囁きと共に、唇に柔らかいものが触れる。
それは覚えのある感触だった。
(なんで、また……!)
慌てて相手を突き放そうとするも、扉に半ば押し付けられた体勢では叶わない。
しばらくは押し当てられていただけだった柔らかい熱は、やがてゆっくりと動き出した。食むように下唇をついばみ、上唇をぺろりと舐める。
「っ、やめ……っんん?!」
制止しようと口を開いた瞬間、入り込んできたものに言葉を奪われた。
(なん、だ、これ……っ)
熱くぬめるものに蹂躙される。どこか余裕のない動きのそれは、魏無羨の口腔内を余すとこなく味わい尽くすつもりのようだ。
「……ん、……っん……っ」
くちゅりと粘着質な水音を立ててそれが蠢く度に、くぐもった声が喉の奥から漏れ、ぞわぞわと言いようのない感覚が背筋を這い上がってくる。
魏無羨は首を捻ってそれから逃れようとするが、いつの間にか藍忘機の大きな手でうなじをしっかりと固定されてしまっていた。
丹念に魏無羨を味わったそれが、最後に口蓋をざらりと撫であげる。
「ん、んんん……っ!」
その刹那、魏無羨は電流を流されたかのようにびくん、と身体を震わせた。くたりと四肢から力が抜ける。そうして、ようやく満足したらしいそれはゆっくりと魏無羨の口腔内から出ていった。
(なに、いまの……)
背中を扉に預けて座り込みそうになるのをかろうじて堪え、荒く息をつく魏無羨を、藍忘機はそっと覗き込む。
「魏嬰?」
無理やり口を開けさせられていたせいで、顎まで伝っていた唾液を、藍忘機の指が優しく拭う。そして、あろうことかそのままぺろりと舐め取った。
唇から覗く赤い舌に、先程まで自分の口腔内を這い回っていたものの正体に思い至る。
(口の中、舐められた……!)
ばっと両手で自分の口を覆い、今度こそ彼はずるずるとへたり込んでしまった。
そのまましばらく思考も動きも停止していた魏無羨だが、ふと下半身に違和感を覚えて微かに青ざめた。
(まずい、また腫れてきてる……)
今朝も藍忘機から逃げるように部屋を出た後で、股間のものが僅かに腫れていることに気づいた。おそらく酔っ払っている時に何かにぶつけたのだろう。以前、稽古中に腕を強打した時も、同じようにぶつけた箇所がひどく腫れ上がったことがある。その時に淤血が溜まっているから冷泉で癒やすようにと言われたことを思い出して、蔵書閣に来る前に半時辰ほど冷泉に浸かり腫れを引かせたばかりだというのに。
よほど強くぶつけていたのか、そこは再び熱を持ち始め、朝よりも大きく腫れているようだ。
(早く、冷泉に行かないと……!)
いくら酔っていたからとはいえ、こんなところをぶつけて腫らしているだなんて、誰かに知られたら恥ずかしくて死んでしまう。特に、目の前の男には絶対に知られたくない。
火急の事態に、今しがたの出来事も頭から吹っ飛んでしまった。一刻も早く冷泉に行かなければ。
「魏嬰?」
座り込んだまま固まっていた魏無羨が急にそわそわしだしたのを見て、藍忘機も膝をついて彼の顔を覗き込む。恥ずかしがっているのかと思ったが、どうやら違うようだ。
「あ、藍湛。悪い、先に書き取り始めててくれ。俺、ちょっと急用を思い出して……」
歯切れ悪く告げる彼は心ここにあらずといった様子で、今の行為を咎めることもない。下腹部を庇うような格好でどうにか立ち上がった彼は、蔵書閣の扉を開けようと身体を反転させ、その途端にかくんと膝から崩れてしまった。
「魏嬰!」
慌てて腰に腕を回し支えた拍子に、彼の下半身の状態に気づく。そこは明らかに熱を持ち、控えめながらも存在を主張していた。
「魏嬰、これは……」
躊躇いがちに声をかけられて、魏無羨はまずいと息を飲む。
(気づかれた……!)
「これは、その、なんだ、ほら!あれだ!えっと、なんていうか……」
意味のないことを喚きちらしながら必死で言い訳を考えてみるが、上手く働かない頭では無理そうだった。藍忘機は敏い男だ。そう簡単に誤魔化されてはくれないだろう。それ以前に、昨晩の出来事ならば目撃されている可能性もある。
「あー、格好の悪い話だけど、昨日の夜ぶつけたみたいでさ。ちょっと腫れてるけど、冷泉に浸かればすぐ治るから……って、ちょっ、触るな……!」
恥を忍んで説明しているというのに、藍忘機は確かめるように魏無羨の股間へと手を伸ばしてきた。ただでさえ腫れて敏感になっているそこを、服の上からとはいえ触られて平気な訳がない。ぎり、と睨みつけると、彼は薄い色の瞳に驚きの色を浮かべて自分を見つめていた。
「君、もしかしてまだ吐精したことがないのか?」
唐突に告げられた言葉は耳馴染みのないものだった。
「とせ、い……?」
「ここで作られている精を体外に排出することだ。一人前の大人になった証でもある」
言外にまだ子供なのかと言われている気がして、魏無羨はいたく矜持を傷つけられた。
「知ってる、もちろん知ってるよ、とせい、だろ?」
「嘘はいけない」
精一杯の虚勢はいとも簡単に破られる。いつの間にか下衣の中に忍び込んでいた藍忘機の手に直接撫でられて、魏無羨は思わず悲鳴を上げていた。
「やめろ!触るな!」
じたばたと暴れて逃れようとするが、背後から回された藍忘機の左腕に、腰と両腕をまとめて抑え込まれてしまった。まるで後ろから抱きしめられているかのような体勢で、急所をやわやわと揉まれる。
「やめろったら!藍忘機!!」
「名を呼んで」
字だろうと名だろうと構っている余裕は無いというのに、彼は許してくれないようだった。魏無羨を握る手にきゅっと僅かに力が込められる。
「藍湛!藍湛!らんじゃん!これでいいだろ?!もう離して!」
望みどおり名を叫ぶ。しかし藍忘機は嬉しそうに頷いただけで、行為をやめようとはしない。それどころか、汚れてしまうからと魏無羨から下衣を剥ぎ取ってしまった。
「……!」
羞恥に耐えられず魏無羨はぎゅっと目を瞑る。
「ああ、精はもう充分作られている」
耳もとで囁かれるのと同時に、彼は藍忘機の手の動きがぬるりと滑らかさを増したことに気づいた。掴まれているそこは溶けてしまいそうなほど熱い。もしかしたら本当に溶けているのかもしれない。何故なら得体の知れない液体がぬるぬると纏わりついているのだ。
恐る恐る目を開けて確認してみると、鈴口からぬめりを帯びた液体がじわりと滲み出していた。
「藍湛!藍湛!なに、なに、これ?!」
恐ろしくなって魏無羨は、助けを求めるように背後の藍忘機を見上げる。
「大丈夫。正常な反応だ」
怖がらなくていいと言われても、ああそうかと納得はできなかった。そもそも他人に急所を握られている状況が正常ではないだろう。
「大丈夫だから。全て私に任せて」
優しく諭すように囁く藍忘機の唇が、まだ湿り気を残したままの魏無羨のそれにそっと近づく。ちらりと見えた赤い舌が、また己の口腔内に忍び込もうとしているのに気づいて、魏無羨は慌てて顔を背けた。
「なんで口の中なんて舐めるんだよ……」
藍忘機に急所を握られている状況も、彼が口の中を舐めようとしてくる意図も、背筋をぞわぞわと這い上がってくる感覚も、何もかも分からない。怖くて恥ずかしくて逃げ出したくて堪らないのに、力の入らない身体は言うことを聞いてくれない。ただただ幼子のように震える魏無羨の頭上で、藍忘機が小さく笑った気配がした。
「君は口づけも知らないのか」
その声音はどことなく嬉しそうだった。
「それなら全部私が教えてあげる」
逸らした唇を追いかけるように頬が擦り寄せられる。有無を言わさず割り入ってきた強引な所作とは裏腹に、口腔内を撫でるその動きは優しかった。
「ん……、ふ……ぁ……っ」
理解できない恐ろしいことばかり続いていたため、なだめるような優しい動きに魏無羨は思わず身を任せてしまった。ふわふわとした感覚に思考が溶けていく。魏無羨の緊張が僅かに解れたのを見計らって、藍忘機は彼のものを握る手をゆっくり動かし始めた。根本から先端へ緩急をつけた刺激を伝えていく。
「っ……んん!」
初めて与えられる刺激に、魏無羨の身体がびくびくと痙攣する。
「魏嬰、気持ち良い?」
耐えるように眉根を寄せる魏無羨は、ふるふると小さくかぶりを振る。
「わから、ない……っ。なんかぞわぞわ変、な感じする……っ」
限界が近いのかもはや取り繕う余裕もなく、魏無羨は素直に答えていた。身体中を這い回るぞくぞくとした感覚が股間の一点へと集まってくるようだ。こんな感覚は初めてだった。
「それが『気持ち良い』だ。魏嬰、言ってみて。『気持ち良い』って」
耳に吹き込まれる言葉の意味も、もうよく分からなかった。ただ、優しい声に促されるままに教えられた単語を口にする。
「きもち、い……?……っ、……ん、ぁあああ!!」
未知だった感覚に名が与えられたことで、それは一気に爆発した。悲鳴のような声をあげて魏無羨は身体を仰け反らせる。そして同時に陽物から初めての精を吐き出していた。
はっはっと浅い呼吸を繰り返して余韻に震える魏無羨を、藍忘機は満足そうに抱きしめる。
「覚えて。今のが『気持ち良い』」
(きもちいい)
刷り込むように繰り返される言葉に、魏無羨は焦点の合わぬ目でその言葉を教えてくれた男を見上げた。
「魏嬰、気持ち良かった?」
目が合うと改めて問いかけられる。
一瞬躊躇った後、魏無羨はこくりと頷いていた。