階−きざはし−③ 雲深不知処、裏山。心地良い風が吹き抜ける木陰で、探していた人物は穏やかな寝息を立てていた。
「藍湛。藍忘機」
声をかけても起きる気配はない。隣に腰を降ろして魏無羨はそっと藍忘機の顔を盗み見る。恐ろしいほど整った造作も、寝顔は年相応の幼さを感じさせた。
「寝てるとかわいいのにな」
呟きながら、何気なく軽く引き結ばれた唇に目をやる。途端にざわりと心が波立った。これの熱を覚えている。なんの温度も持たないかのように見えるのに、触れ合ったところから溶けてしまうかと思うほどに熱い。魏無羨は無意識のうちに己の唇に手を当てていた。
(気持ち良かった……)
その熱に初めて教えられた感覚が忘れられない。感触をなぞるように指を這わせても、自らの体温では物足りない。あの柔く熱いものにもう一度触れてほしい。もっと激しく満たしてほしい。
こくりと喉が鳴る。穏やかな呼吸を繰り返す彼の唇から目が離せない。まるで吸い寄せられたかのように、気がつけば顔を寄せていた。
そのまま唇を合わせようとして、しかしぎりぎりのところで魏無羨は動きを止める。
(……だめだ、こんなこと)
熱を散らすように唇を噛みしめ距離を取ろうとした瞬間、ぎらりと光るものに射すくめられた。
「……?!」
くるりと視界が反転する。眠っていたはずの藍忘機が、玻璃のような瞳に強い光を湛えてこちらを見下ろしていた。
「何故、途中でやめる?」
不満そうな藍忘機の問いかけに、魏無羨は一瞬で真っ赤になった。慌てて逃げ出そうとするも、いつの間にか相手にのしかかられるような体勢になっており身動きが取れない。
「お、おおお起きてたのかっ?」
「うん」
さらりと答えて、藍忘機は魏無羨の唇を優しく撫でた。
「口づけ、気に入った?」
しようとした行為の意味を意地悪く問いかけられる。
「……っ」
返答に窮する自分を見て笑みを浮かべる藍忘機が癪に触る。沈黙は肯定と同義だと見抜かれているのだ。きつく睨みつけてやると、男は何故か笑みを深めた。
「魏嬰」
名を呼ぶ声が近づく。思わずぎゅっと目を瞑ると、唇に求めていた熱が触れた。期待に、ぞくりと肌が粟立つ。
しかし藍忘機は唇を触れ合わせただけだった。軽く閉じられただけの魏無羨の唇を押し開き口腔内を貪ることなど容易いはずなのに、ふにふにと感触だけを楽しんでいる。
(…………?)
時折下唇を食まれる程度の刺激では物足りない。表面に留まったままの熱に焦れて、魏無羨はそっと窺うように眼を開けた。
「魏嬰」
いつもより艶めいた薄い色の瞳に視線を絡め取られる。
「君からの口づけはまだ無理のようだから、君が口を開けて。君の意思で」
唇を合わせたまま囁かれた言葉に、どくんと心臓が跳ね上がった。押し入ってくる熱に流されるのではなく、欲しいのなら自ら求めよと。
(そんなの……そんなこと……)
してはならないと理性が訴える声は、唇からやわやわと全身に広まる熱に溶けていく。
焦らすように促すように藍忘機の舌先が魏無羨の唇の隙間をなぞる。羽のように優しく。けれど、決して内側に入ってはこない。
足りない。欲しいのはこれではない。もっともっと熱いものを味わいたい。
玻璃の視線に囚われたまま、魏無羨はおずおずと口を開けた。
「……ふっ、……ん……ぁ」
待ち構えていたようにぬるりと入り込んで来た熱に全身が震える。
「……んぅ、…は、ぁ……っ」
くちくち、くちゅり。
欲していた熱がゆっくりと口腔内を舐め回す。押し入られた訳ではなく、自ら招いた。その事実がどうしようもなく恥ずかしい。羞恥に煽られるように身体の中心が熱く疼く。
(……きもちいい……きもち、いい……)
思考が感覚に塗りつぶされていく。
もっと深く味わいたくて、魏無羨は夢中で藍忘機の首に腕を回していた。意図を解した藍忘機が角度を変えて唇を合わせる。
「……ん、んっ」
望みどおりに奥まで満たされ、くぐもった吐息が溢れ落ちる。
(もっと……もっとほしい……)
くちゅくちゅと湿った音を立てて口腔内に熱を塗り拡げる舌が気持ち良くて、魏無羨は思わずそれに吸い付いていた。
その刹那。
ぴくり、と一瞬それの動きが止まったように感じられ、快楽の波に揺蕩っていた魏無羨の意識が浮上する。
(あれ、いま……)
確かに反応があった。
与えられる刺激に翻弄されるばかりの自分が藍忘機から反応を引き出せた。そのことに気を良くして、魏無羨は藍忘機の舌に自分のそれをすり、と押し当ててみる。案の定、驚きの色を浮かべた藍忘機が顔を上げた。
「魏嬰……っ」
魏無羨は甘く溶けきった顔で、してやったりと微笑む。
「ふふ。らんじゃんもきもちよかった?」
先程の意地悪な質問への些細な意趣返しのつもりだった。それなのに。ぎらりと男の表情が欲を孕む。
「まだだ。まだ足りない。もっと君を味わわせて?」
そして噛みつくような獰猛さで口づけられて、魏無羨は軽率に藍忘機をからかったことを後悔したのだった。