ある幽霊の語りここに一体の幽霊がいる。
老いてくしゃくしゃとした顔面からは200か300才の仙と言われても疑われぬ貫禄を漂わせていたが。
それが若い頃はいっそう美しかったであろうと感じさせる品があった。気圧されるほどの雰囲気があった。
亡霊は語る。
「将軍の寵愛を受け、ただ美しくあれと願われた後の犬王様は
ひた面であっても面を付けているような、面そのものになってしまわれたかのようでした。
同じ猿楽師として長い時間を共に過ごさせて頂きましたが、あの方の素顔を覗くことはついぞ無かったように思います。
最期まで熱心に取り組まれたのは
死した魂を呼び、身体を差し出し、その言葉を語る舞、......その大成。
その偏執を見届けた私には、犬王様には語らいたい死者がいるのだと分かりました。
その死者と語らうまでは、あの仮面は取れないのだと分かりました。
けれど私は見てみたかった。
私に幽霊を見ることは出来ないけれど、あの方の見ている世界を知りたかった。
だから真似て、倣って、自分のものとしていったのです。
夢幻の能は、ここに極まった。」
「亡霊に愛されたあなたのために」
「現代では七つまでは神の子とも申しますでしょう?
能には幼子のもつ無垢さや神聖さが鍛錬された舞の美に勝るとして、独り立ちも出来ぬ稚児を舞台に上げる演目もございます。
無垢さは神聖なのです。何より勝る美なのです。
幼少の頃は私もそのように褒め称えられたものですが、あの方は違いました。
あの神聖は時分の花では無かった。
いくつになっても、死ぬその瞬間まで、子供のような無垢であられた。神であられた。」
「私のこの感情が恋?そんなはずはございません。私はこの生涯において一度も.....ええ、一度たりとも。犬王という男を人間だと思えたことは無いのですから。」
「あの皮と肉でできたひた面の下に、本物の神があると信じていたから。」
「神を犯せる者は、神だけなのだから」
「今はただ、紫雲に迎えられた犬王殿が、桜のように散った美しい舞の神が、あの道辻から聴こえるという琵琶の主と見(まみ)えることを、祈るばかりでございます。」
不意に亡霊の顔が変わった。
途方もない老齢の面から美しい溌剌とした青年の面に。
ここからは生きていた頃の話だ、と分かる。
輝かしい日々に青年が聞いた言葉、発した言葉だと分かる。
床に伏し、今にも息絶えそうな男の言葉。
「藤若殿—————どうか、残しておいて下さいますか。
夢幻の舞を。私が死んだ後も、霊の声を聞ける者があるように。
私に拾えずとも、いつか誰かが彼奴の声を拾えるように。」
「ええ、ええ。残しますとも。あなたの舞を、能を、しかと。
けれど道阿弥.....いいえ、犬王殿。あの方だけは、あなたが拾わなければない。
あなたの舞は私が守ります。だからあなたは探して下さい。———必ず、ご自分で」
びいぃんと、どこかで琵琶の音がした