【💛💜】まだ、エンゲージには満たない きらめく、シルバー。
左手の薬指で輝くそれに、ルカは思わず薄紫色の目を瞠った。
休暇を取ろうかな、とシュウが話していたのが一カ月前。
「いいんじゃない? どこか行ったりするの?」
なんとなく空いた時間に通話をすることはよくあった。適当にゲームしたり、なんでもない話をしたり、相談したり。
その日だって同じ。
お互いに通話を繋げたまま、それぞれに好きなことをしている。
「友達の結婚式に招待されててさ。それに参加するくらいしかいまのところ予定はないんだけど」
「旅行とかは?」
「うーん、いまからの時期はどこ行っても寒いんだよね」
「シュウ寒いの嫌いだったっけ」
「あんまり得意じゃない」
シュウの声色が本当に嫌そうだ。確か低体温症になったことがあると言っていたし、雨も嫌いだと話していた気がする。
北半球はいまから冬が訪れる。確かにどこへ出かけるにも寒いだろうけれど。
そこまで考えて、ふと、ルカはひらめく。
「じゃあさ! 俺のとこ来る?!」
「え?」
思いつき。ルカの放った提案に、シュウはいくらか驚いたようだった。けれどそんなことはお構いなしに、ルカは言葉を続ける。
「オーストラリアはこれから夏だからさ、寒くないよ。それに俺、シュウに会いたいし!」
シュウに会いたいのは本心だった。何せグループの中で未だにシュウにだけ会えていない。しょっちゅうメッセージだって送り合うし、通話だってしているけれど。実際に会ったことがまだない。
いまなら一人暮らしだし、シュウが泊まりに来たっていいし、一緒に遊んだりできたら絶対にたのしい。シュウは寒い思いをしなくていいし。
我ながらすごく名案だと思えた。
「確かに、楽しそうかも」
「でしょ?!」
「僕もルカに会いたいし」
「うん! ぜんぜん俺の家泊まっていいから! 行きたいところがあったら案内できるよ!」
じゃあさ、いつにする?
ちょっと強引に日程まで決めて、勢いで推し進めてしまったシュウとの約束。
シュウからすぐに飛行機のチケット取れたよ、と連絡がきて。ルカはそこから毎日カレンダーを気にする日々だった。
どこを案内しようかな。シュウは行きたいところあるかな。何か食べてみたいものとかあるのかな。
せっかく来てくれるんだから、目一杯楽しんでほしいな。
そんなことをたくさんたくさん考えて、訪れたその日。
前日からわくわくして眠れなかった。いつか寝過ごして遊園地に行けなかったのを胸に刻んでいるから、アラームはいつもの十倍セットした。コーヒーできちんと頭を働かせて、車で空港までシュウを迎えに行く。
そうして、そわそわとゲートからシュウが現れるのを待って。
「ルカ?」
スーツケースを転がしながらこちらに向かってくるシュウが、ひらひらと手を振ってくれる。
「シュウ~~!!」
念願。
ルカはシュウに駆け寄るなり、勢いよくシュウを抱きしめた。だって、ずっとずっと会いたかった。もっと早くに会えるはずだったのに会えなくなって、シュウにだけ会えないままで、いつか絶対に会いたいと思っていたけれど。
ようやく、ようやくそれが叶った。
「んはは! ルカ、会いたかったよ」
ルカを抱き返したシュウがからからと笑ってくれる。
「俺も! いや、絶対に俺の方が会いたかったけど……!」
「なんで張り合うのさ」
シュウが困ったみたいに眉を下げてそう零した。身体を離すと、シュウが空港を見渡した。
「僕、本当に南半球にいるんだ……」
「Why?」
シュウの零した言葉に、ルカは首を傾げる。シュウは視線を巡らせながら、「だってさ」と言葉を続けた。
「着てる物とかさ。季節が違うんだなって」
「ああ、数時間前までは寒いところにいたのにって?」
「そう」
ルカの言葉に頷いたシュウになんだか嬉しくなって――けれどふと、シュウの手に視線が流れた。
そうして。
「え」
思わず、声が漏れた。
「ルカ?」
「あ、」
「どうかした?」
シュウに問われて、ルカは一瞬声がうまく出なかった。けれどどうにか「なんでもないよ!」と返した。
心臓がどくどくと音を立てる。さっと血の気が引くのだってわかった。
けれど、大丈夫。ただ寝不足なだけ。
そう自分に言い聞かせて、ルカは平静を装った。
「本当?」
「本当だって! シュウは時差は平気?」
「たぶん、大丈夫。飛行機でちょっと寝てきたし」
「ごはんは食べられそう? ちょうど昼時なんだけどさ」
「うん」
頷いたシュウの肩を抱いて、スマートフォンを取り出した。
「俺はこのあたりはほとんど来ないからあんまりわかんないけど、たぶんカフェもレストランもたくさんあるよ。何か食べたいものある?」
「ルカの食べたいのは?」
「俺はね――」
そうして何気ないやりとりを遂行して、ルカはシュウとランチをこなした。
そこから簡単に買い物をして、シュウを家へ招いて、これはシュウが勧めてくれたやつだよ、なんて、前に通販で買ったものを見せたりして。
夕飯を食べて、今日のところはお風呂に入って早めに寝ちゃえば、と勧めて。空いている部屋を貸して、シュウが眠ってしまったのが一時間前。
時計は二十二時。
ルカだって寝不足のはずなのに、やけに目がさえて眠れそうもない。
けれど、“それ”に気づいてしまってからずっと、心の奥がざわざわと落ち着かない。思えば空港で手を振ってくれたときも、見えていたはずだった。ただ嬉しさが先行して気づかなかっただけで。
別に、気になるなら聞けばいい。それくらい、いつもなら容易いはずだった。容易いはずだった、けれど。
結局聞けないまま、一日が終わろうとしている。
――――シュウの左手の薬指に嵌められた指輪。
きらめくシルバー。シンプルなデザインなのに、視界に映るたび妙に眩しい。
その理由を、妙に心が重たい理由を、ルカはずっと考えている。
***
シュウはアクセサリーをつけたりするタイプじゃないと思っていた。
そりゃあ、イヤリングはしているけれど。漠然と、それ以外に何かを身に着けるとは思っていなかった。
まして、その指輪を嵌める位置。左手の薬指。それが持つ意味くらいは、ルカだって知っている。
「…………」
眠れないまま時間だけが過ぎていく。ベッドの上で、ぜんぜん寝付けないまま、時計の音だけが耳につく。
べつに、シュウに恋人がいたっておかしくない。シュウはすごく優しいし親切だし、ユーモアだってある。話していてすごく楽しいし、シュウを好きになっちゃう人間なんてきっとたくさんいる。何なら見る目があるなとさえ思う。別になにもおかしくなんかない。
けれど、けれど。
シュウから一度だって、そんな話を聞いたことがなかった。もちろん、プライベートなことだし、ルカにわざわざ言う必要だってない。だけど恋人がいるようなそぶりなんて、本当に、まるでなかったのに。
ピュアリティスコアの点数だってルカと変わらないどころか、ルカより高くて、いつも誰かの手助けをしたり、配信に遊びに行ったり、いつ眠っているのか知れないようなスケジュールで生活しているのを知っている。最近、恋人ができたばっかりとか? けれど、できたばかりの恋人と指輪を交わしたりするタイプだとも思えない。
「シュウ」
つい、名前を呼んでしまう。今頃ゆっくり眠れているだろうか。ルカがねだって、アメリカからオーストラリアまでわざわざ会いにきてくれた。
すごくすごく、楽しみにしていた。毎日カレンダーを気にするくらい。前日に眠れなくなってしまうくらい。どこへ連れて行こうか、何をしようか、たくさん考えて、調べて、思い描いて。シュウに会えるのを、ずっとずっと楽しみにしていた。
なのに、今日一日、ルカのこころを占めたのは、楽しさよりも得体の知れないもやもやだった。おかげでシュウの前でぼろを出さないか必死だった。いつも通り振る舞えていたかわからない。シュウが変に思っていないといい。
大体、いちばんわからないのは、このもやもやの正体だ。
べつにシュウに恋人がいたっておかしくない。シュウはルカにとって大好きな友達で、だからこそ、もしそうならおめでとうと思いたいし、祝福したいのに。
それなのに、妙に胸の奥がざわざわと落ち着かなくて、祝福どころかきっと――嫌だと思っている。
「――――」
俺って存外に嫌な奴だったのかも。
ルカはなんだか落ち込んできて、深く息を吐いた。
漠然と。自分は、シュウと特別仲がいいと思っていた。何なら、いちばん仲がいいんじゃないかって自負もあった。俺はシュウが好きだし、シュウだって俺が好きで、何を話していても楽しくて、一緒に過ごせると嬉しくて。
シュウはすごく優しいし親切だし、ユーモアだってある。話していてすごく楽しいし、シュウを好きになっちゃう人間なんてきっとたくさんいる。そう、たくさんいる。
おまけにきれいでかわいくて、笑った顔も声も好きだ。ルカのしでかしたことでシュウが喜怒哀楽してくれるのが好きだった。シュウに名前を呼んでもらえるのが好きだった。
そこまで考えて、もやもやの正体が確かな輪郭を持ち始める。名前はわからないまま、こころに根を張っていく。
「うわーー! もう!」
唸って、ベッドの上で枕に顔を埋めた。そうして、またため息をつく。
気になるなら聞けばいい。今日は結局、聞けやしなかったけれど。このままでいたって、どうにもならない。明日それとなくタイミングを見て、シュウに聞いてみよう。
そう決めて、今夜は諦めて眠ろう、と目を閉じた。
途端。
「!」
キイ、と扉が開く音が聞こえた。
ルカは勢いよくベッドの上で身体を起こすと、部屋の外の音の気配に意識を集中させる。シュウが起きたみたいだ。喉が渇いたのかもしれないし、トイレかもしれないし、そもそもうまく寝付けていなかったのかもしれない。わからない。けれど、気づけばルカはベッドを抜け出して、部屋を出ていた。
「シュウ?」
「あ、ルカ」
暗がりで声をかければ、すぐにシュウが返事をくれた。
手探りで廊下の照明をつけると、眠そうに目を擦るシュウがいた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫だよ。シュウこそ、眠れなかった?」
「寝てたよ。ちょっと喉が渇いちゃってさ、お水もらってもいい?」
「もちろん」
「ありがとう」
寝起きだからかもしれないけれど、そう笑ったシュウがなんだかいつもより幼く見えて、ルカの胸の奥がきゅう、となった。だってなんだか、いつもより無防備だ。いつも、だなんて、顔を合わせたのは今日が初めてだけれど、それでも。
一緒にリビングに向かうと、キッチンの冷蔵庫を開ける。冷やしていたミネラルウォーターを一本手渡すと、シュウが「ありがとう」と受け取って、ごくごくと飲み始める。けれどルカの関心ごとは、シュウがペットボトルの蓋を開け閉めするときに覗く、薬指の指輪。シルバーの指輪は深夜のキッチンでもやけに目に痛くて、胸の奥が鉛でもたまったみたいになっていく。
「シュウ、あの、さ」
「うん?」
窺うように声をかければ、シュウはルカを見上げてくる。
アメジストの瞳に捕らえられて、ルカはいよいよ逃げられなくなる。
「その、ずっと気になってたんだけど……、」
言葉を区切って、わずかに逡巡して、ぎゅっと目を瞑った。なるようになれ! と気になっていたことを問いただす。
「その指輪! どうしたの?!」
どうしたのって、一体どんな聞き方?! 口にしてすぐさま、ルカは頭を抱えたくなった。けれど、恋人がいるの? とはどうしても聞けなくて、ルカの精一杯だった。
ルカがうっすら目を開けると、シュウはぽかん、とした様子だった。そりゃあそうだ。いきなり、こんな必死に指輪のことを尋ねられたって意味が分からないはずだから。だけどシュウは自分の左手を見ると、「ああ」と声を漏らした。
「これ?」
「う、うん」
知りたい。知りたくない。聞きたい。聞きたくない。
真逆の感情がない交ぜになって、ルカのこころで渦を巻く。同時に、名前のわからない感情が急速に根を伸ばしていく。
妙に心臓がどくどくと脈打つ。シュウはなんでもない顔をして口にする。
「もらったんだよ」
「もらった」
「うん」
シュウの言葉を反芻すれば、シュウは頷く。
知りたくないくせに、それでも脊椎反射で言葉が出てくる。
「それってその、女の子、から…………?」
「? まあ」
「~~~~っ、」
当たり前のようにそう肯定したシュウに、ルカは心を握りつぶされる。
急速に体温が下がっていくのを感じる。
そうして、気づいた。最悪なタイミングで、もやもやの正体の名前に思い至った。
俺、シュウのことが――――。
「でも、妹を女の子って呼ぶかはわからないけど」
「……………………、え?」
自覚したと同時。
シュウが付け加えた台詞に、ルカは固まる。
そんなルカには気づかない様子で、シュウが薬指から指輪を外す。
「僕、普段そんなに出歩かないからさ。妹に持たされたんだよね、お守りだって」
「お守り」
「妹の指輪なんだけど、貸してあげるから、ちゃんと帰ってきて返してね、って。だから、もらったのとはちょっと違うかも。人差し指には入らないし、小指だとぶかぶかだし、ちょうどいいのが薬指しかなかったんだよね」
「…………それで、左手の薬指?」
「右にしてみたんだけど、利き手だから不便で」
それはもう、当たり前のように、なんでもないことのように、シュウは口にする。右手の薬指に指輪を嵌めてみせると、不満そうに眉を寄せる。ルカは一気に脱力してしまって、床にしゃがみこんだ。盛大に息を吐いて、膝に顔を埋める。
「ルカ? 大丈夫?」
「……うん、大丈夫。これは大丈夫なやつ」
「?」
「なんていうか、シュウはシュウだなって思っただけ」
そう答えて顔を上げると、身を屈めてルカを覗き込んでいたシュウが訝し気に首を傾げた。ああ、シュウだな、と思う。
前途多難。難攻不落。
けれどすこしだけ、楽しみになってきた自分がいる。
「…………、追いかける方が好きだし」
「え?」
「いいや、なんでもないよ」
そう返して、シュウの左手を取る。そうすればシュウは、ルカが立ちやすいように、と引っ張り上げてくれる。素直にその力を借りて立ちあがると、シュウを見つめた。
「シュウ、俺頑張るからね」
「? 何を?」
「ふは、! 内緒」
そう返して、手を離す間際にシュウの薬指を撫ぜた。
今はまだ空白の、左手の薬指。
いつか、いつか。その薬指を飾る役目が、自分に与えられることを夢見る。
「シュウ、左手の薬指、妹さんから借りた指輪以外はしちゃだめだよ」
「? しないと思うけど」
「うん」
ルカの言葉に、シュウはやはり訝しそうにしながら、頷いてくれた。いまはそれだけで充分。
「もう寝ちゃおう。明日はちょっと遠出するしさ」
「そっか、そうだった」
「めちゃくちゃ楽しませるからさ、寝不足なんてだめだよ」
やけにシリアスな声でそう伝えれば、シュウは笑ってくれた。その笑顔がかわいくて、ルカは胸の奥が切なくなる。
「シュウ」
「ん?」
「俺さ、シュウが好きだよ。本当に、来てくれて嬉しいんだ」
持て余すのも苦しい気がして、素直にそう伝える。そうすればシュウはアメジストの目を瞠って、やがて嬉しそうに表情を緩めた。
「僕もきみに会いに来られて嬉しいよ、ルカ」
「! うん!」
思い付きで誘ったけれど、本当によかった。
こんな形でシュウへの想いを自覚するとは思ってなかったけれど、そのくせ気づいてしまえばしっくりきてしまった。きっと気づかなかっただけで、前からシュウを想っていたのかもしれない。
シュウがここに滞在してくれる間、たくさん楽しんでほしい。ルカと過ごして、心から楽しかったと思ってほしい。帰りがたいと思ってほしいし、また来たいと思ってほしい。
エンゲージにはまだ満たない。芽生えたばかりの感情。
大事に大事にしたいな。
シュウへの恋が宿った心を温めるように、ルカは胸を手で押さえた。
2022.11.12