師弟の休日 北の国では珍しい朝だった。
大抵は重く暗い雲に覆われ、雪が常に降っているような天候で、その音が静かであるか猛烈な風と共にあるか、それぐらいの差しかない。しかし今日は夜明けから太陽がずっと顔を見せている。
部屋の窓際からその光景をずっと見つめている彼は、今どんな顔をしているのだろう。興味が湧いたフィガロは、その年若い弟子の背中に問いかける。
「君は初めて見るんじゃない?こんなに晴れているところ」
彼がこちらを振り返り、背中に少し掛かるくらいの、結った癖毛の尾がふわりと揺れる。陽の光に照らされた亜麻色のきらめき。
「ええ。とても綺麗で、つい見入ってしまいました」
そう言って紫の瞳を細めて笑うファウストは、もう世間では青年と言われる年齢ではあるけれど、どこか無邪気な少年っぽさもあって、フィガロの心を和ませた。
彼が魔法使いと人間とが共生する世界を作るために、魔法を教えてほしいと弟子入りしてきたのは流星の降る夜だった。あれから自身の居に住まわせながら魔法の修業をつけ、半年ほどが経つ。フィガロにとって初弟子となる彼は可愛くて仕方がなかった。もちろんその想いは、単なる甘やかしを施すことではなくて、連日の厳しい稽古で表していたけれど。
「そうだ、ファウスト」
思いついて、フィガロが語りかける。今日は元々稽古は休みで、各々自由に過ごす予定だった。
「君がもし良ければ、今日は俺に付き合ってよ」
「もちろんです!」
条件反射みたいに即答する彼の真っ直ぐさがあまりに清々しくて、つい笑みを溢してしまう。
「いいの?何をするか内容を訊かなくて」
「フィガロ様のお役に立てるのは嬉しいですから。何でもしますし、どこへでもお付き合いします!」
***
「……ええと、これから一体何を」
戸惑いながら大きな瞳をうろうろと泳がせる彼は、普段よりずっと背丈の小さい姿で不安げな声を出すから、本当に家に帰れなくなった迷子のようだった。
居城から転移魔法で雪原に到着したフィガロは、弟子に子どもの姿に変身するように言いつけて、自分もまた子どもの姿になったのだった。そして、なるべく子どもらしい声と仕草で、ファウストの顔を覗き込む。
「俺と一緒に遊んでよ、ファウスト」
「フィガロ様と、遊ぶ……?」
「きみ、前に言ってただろう。中央では雪が滅多に降らないから雪遊びをしたことがない、って」
フィガロの元に来て間もない頃、ファウストはそう話していた。そしてその時、雪の世界への憧れと雪遊びへの興味がその表情に浮かんでいるのを、フィガロは目敏く見つけていた。普段の北の国であれば寒さも雪も厳しく外で遊ぶどころではないが、今日の天候と気温であれば可能だと判断したのだ。
「だから、童心に返って遊んでみるのもいいんじゃないかって。それに、きみはいつも仲間や役目のために魔法を使うでしょう。それは素晴らしいことだけど、でも、もっと自由に心のままに、楽しむためにだって魔法は使っていいんだよ。……まぁつまりは、たまには息抜きしようってことさ」
真面目な彼は、でも、と何か言いたげな顔で見つめ返してくる。軍から一時離れて修行しに来ているファウストとしては、「遊ぶ」ということーーしかも子どもの姿でーーというのがなんとなく躊躇われるのだろう。
「うーん、もし何か理由があった方がきみの気が休まるのなら。 ……これは変身魔法を始めとした魔力操作の練習も兼ねているから、修行としても意味のあることだよ。もしくは、きみがいい弟子で優しい子だから、仕方なく師匠の酔狂な遊びに付き合ってあげてる、ということにするのもいい」
「そんな、仕方なくだなんて! フィガロ様は僕のことを気遣って提案して下さっているのですから。突然のことで、びっくりしただけで……」
「そう? じゃあ一緒に遊んでくれる?」
言いながらファウストの小さな手を取ると、やや間があって、おずおずと握り返して彼は少しはにかみながら笑った。
「……はい、喜んで」
嬉しいな、と微笑み返したフィガロは、気軽な調子でもう一つ注文を追加する。
「じゃあ今日一日は、子どもの友達同士ってことで、俺のことはフィガロって呼んでよ」
「それはできかねます!」
その子どもの身体の大きさからは想像できない大声できっぱりと答えたファウストは、しばらく頑なに師匠の呼び捨てをしたがらなかったけれど、フィガロが、いつか何かで友人のフリをしないといけないかもしれない、その練習だよ、と無理矢理説き伏せてやっと了承した。失礼をお赦しください、と律儀に何度も繰り返した後に、深呼吸をして、意を決した顔をする。
「フィガロ………………」
最後に口がもご、と動いて、いつも必ずつけている敬称を飲み込んだのがわかる。そのあからさまに苦しそうで渋い表情に、思わずフィガロは噴き出した。
「……っ、はは、きみ、なんて顔! 友達に向ける顔じゃないね」
「……普段の稽古よりも、ある意味つらいです……」
「あれ、そんなこと言う? もう少し厳しくしなければいけないかな」
違うんです、そういうことじゃなくて、と慌てて表情をくるくると変える彼は、子どもらしい丸い輪郭も相まって愛らしい。ファウストのこういう素直なところが好ましくて、フィガロは少々意地の悪いことをたまに言ってしまう自覚があった。
「さてファウスト、そろそろ遊ぼうか。ただし真剣勝負だよ」
子ども姿のフィガロはウィンクをひとつして、魔法で砂時計を手元に呼び寄せる。
「時間内に俺に雪玉をぶつけてみて! 結界は張らないけれど、全力で逃げるから。子どもの姿を維持できるなら、どんな魔法を使ってもいいよ」
「……はい!」
宙に浮いた砂時計がくるりと回って、試合開始を告げる。箒なしに空中をすいすいと泳ぐように進むフィガロを目がけて、ファウストが魔法で作り上げた複数の雪玉が飛んでいく。最初は方向が定まらなかったり途中で失速したりと当たる気配がなかったけれど、だんだんとその照準が定まってくる。
「いいね。調節が細かくできてるし修正が早い」
言いながらフィガロは、ひらりと雪玉を避けて、今度は地上をウサギのように跳ねながら駆けて行く。ファウストも後を追いながら、今度は雪玉を空に集めて雨のように降らせる作戦に出た。フィガロは呪文を口にして、自分を守る雪の祠を瞬時に錬成し、雪玉の襲来を見事に防ぐ。大きな雪玉を向けられれば、ぶつかる前にそれを粉々に打ち砕く。
そんな攻防が続く中、フィガロは砂時計を見遣った。残り僅かだし、まぁこのまま逃げ切れるな。そう思った瞬間だった。
「フィガロ!!」
凛とした芯のある声が、フィガロを射抜く。ファウストの大声にフィガロはどきりとして、思わずそちらの方を振り返ってしまった。あ、しまった、と思った瞬間には遅く、彼の魔道具である鏡から出た強烈な光に目が眩むと同時に頭にべしゃり、と雪玉がぶつかる感覚があった。フィガロがそのまま地上にゆっくりと着地すると、ファウスト少年が追いかけて駆け寄ってきた。
「初戦は僕の勝ちですね!」
得意げで晴れやかな様子が微笑ましい。きっとつい最近(と言ってもフィガロ基準の最近で、実際は約十数年前)まで、こんな風に無邪気に故郷の野を駆け回るような子どもだったのだろう。子どもの遊びとしての戦略や動きは、現役に近いファウストの方がやや上手であるように思えた。
「……はぁ、まんまときみの作戦にかかっちゃった。急に呼ばれたからびっくりしたよ。さっきあんなに渋ってたのに」
「正直まだ心苦しいですが。せっかくフィガロさまがご提案してくださったのですから、思い切って今日しかできないことを楽しもうと思いまして」
ほら、またフィガロさまって言ってる。と指摘すると、本当だ、とファウストが笑った。
その後も攻守を入れ替えながら、雪合戦は続けられた。子どもの姿ではしゃいでいるせいか、ファウストも最初の頃より慣れたようで、時々「フィガロ」と名前を呼びかける場面も増えた。
「あぁ、連敗してしまった……フィガロ……、もう一戦!」
「いつも思うけど、きみって存外負けず嫌いだよね」
「そうかもしれません。幼馴染にも似たようなことをずっと言われていますから」
「はは、やっぱり昔からそうなんだ! いいよね、そういうところ好きだよ」
もし彼と同じ時代、同郷に生まれたならばこんな風に友達になれたんだろうか。自分から言い出した事だけれど、こうやってファウストに親しげに呼ばれるのはなかなかいい気分になれるな、とフィガロは思っていた。そしてもし、子どもの姿でなくいつものファウストに名前を呼ばれたらーーまぁ絶対ない事だろうけど、それもまた悪くないだろうな、とも。
そんなことに思いを馳せていた時、ある種の気配を感じて、フィガロはその方角に目をやった。ファウストも同じものを感じ取ったようで、顔をそちらに向ける。真っ白な景色のずっと向こう側、ぽつんと、こちらを見ているような小さな影があった。
「あれは……人影? 今の僕らと同じぐらいの子ども、でしょうか」
「こんなところにいるのはおかしいね。ちょっと見に行ってみようか」
ここはただ雪原が広がるばかりで、人の住める場所ではないし、一番近い集落でもかなりの距離があって、普通の子どもがひとり歩いてこられるようなところではない。それに、感じる気配には少し気になることがあった。
箒でそちらに向けて二人で飛んでいくと、だんだんとその人影の顔や服装がはっきりとしてきた。そして近づくにつれて、ファウストの顔色が変わり、動揺が大きくなっていったようだった。
「え……一体、どういうことでしょう……」
その少年の手前上空で留まると、彼はぱっと顔を上げて、真っ直ぐにフィガロとファウストを見た。その体躯には少し重たそうな、毛皮と見事な刺繍の布を用いた衣装を纏っている。青灰の長い髪は結われていて、顔周りの少し短い部分は癖毛がはねていた。そして、じっと見つめる暗めの虹彩の真ん中には、鮮やかな緑が萌えている。
「うーん、これはどうやら……俺だね」
いま魔法で変化しているフィガロは、自身の師匠である双子の服装を参考にしつつ現代の子ども風にアレンジしたような姿で、ブラウスとベスト、ブーツに長ズボンの裾を入れ込んでいる。そうしたのはファウストの子供姿と馴染むように、という理由もあるけれど、無意識に自分の子供時代の服装とは似つかないものにしたかったからかもしれない。遠い昔すぎて何を着ていたかなんてまるで覚えていなかったけれど、目の前に突然現れた彼こそが、まさに自身の子供時代のいでたちそのものだと直感した。それと同時に、脳裏に真っ白な風景が浮かび、いつか深く雪の下に置いてきたはずの感情がふつふつとわいてくるのを感じていた。
ーー非力で愚かな、寂しい、ひとりぼっちのこども。
「フィガロ……、フィガロさま」
ファウストに心配そうな声色で呼びかけられ、フィガロははっとして、意識を現実に引き戻す。
「……ああ、ごめんね。ちょっと考え事をしていたよ」
さて、とフィガロは空気を変えるようにわざと大袈裟に前置きをしてファウストに問うた。
「ファウスト。あれは俺を真似ているようだけれど、何かはわかるよね?」
「はい。……精霊、ですね。あんなに堂々と姿を現すものは初めて見ましたが」
「しかも俺の形をしているなんて、よっぽど好かれてるのかな」
「それはそうでしょう。精霊も魔法使いも人間も、フィガロさまを慕うものは多くいますから」
冗談のつもりで言ったのに、ファウストがさも当然と言わんばかりに真面目に返してくれるものだから、フィガロは思わず口元を緩めた。彼は世辞でもない本心で言っているとわかるからこそ、こんなにも心がくすぐられてしまう。
「ありがとう、ファウスト。……ただ、こんなにも自分とそっくりの姿を見せられるのはあまり愉快じゃなくてね」
正確には、勝手に過去の一部を晒されることが気に食わなかった。別に隠すつもりもないが、自ら打ち明けるのと、予想もしないタイミングで他者に暴かれるのとでは雲泥の差がある。フィガロは空から取り出した魔道具のオーブを掲げた。
「消してしまわれるのですか。悪い気配はありませんが」
「だからこそさ。悪いものに変容してしまわないうちに、いたずらっ子には仕置きが必要なんだよ」
呪文を唱えようと口を開きかけた時、ファウストが眼前に回り込んでフィガロを制した。
「……俺を止めるつもり?」
穏やかな口調の奥の苛立ちを感じ取ったのか、ファウストの表情はぐっと強張った。それでもフィガロを見つめ返す瞳の強さは変わらない。
「申し訳ありません、フィガロさま。しかし、フィガロさまの姿を借りてわざわざ僕たちの前に現れたのです。何か意味があるのではと」
「どうかな。精霊たちもなかなかに気まぐれだからね、意味なんてないかもしれない。或いはきみのような中央の子が珍しくて、からかいにきただけかも」
「それでも、このまま消してしまうのは……」
ファウストは優しい。生きとし生けるもの、どんなものにもこうやって手を差し伸べるのは、もはや彼の生来の癖みたいなものなのだろう。それはある意味フィガロの理想的なものでもあった。
「……わかったよ。消すのはいつでもできるし、いったん止めよう」
「ありがとうございます!」
「それで、きみは彼をどうするの? きみが考える『意味』とやらを教えてくれる?」
「推測でしかないのですが……彼も一緒に遊びたいのではないでしょうか」
「えっ……そんなこと?」
師匠の意思に逆らってまで止めたのだからそれなりの大きな理由があるんだろうと構えていたのに、大真面目な口調でそんなことを言われて一気に気が抜けた。
「僕は猫の姿の精霊と会ったことがあるのですが、彼らに構って遊んでやると喜んで、満足すると居なくなるんです。それと同じかどうかはわかりませんが」
とにかく一度彼の近くまで行ってみませんか、とのファウストの提案で、二人は精霊の彼の前に降り立った。その間もずっと彼はこちらを見ていて、近づいていくと歓迎するようににこりと笑った。
(こんな風に笑える子どもだったかな、俺は)
姿かたち、肌や瞳、髪の色味、纏う空気感、何から何までそっくりすぎて、ただの見目の模倣ではなく、実際の過去の自分を知っている古の精霊が意図してそれを再現しているのだろう、とフィガロには感じられた。ファウストは興味津々に精霊を観察している。
「ファウストにそんなに間近で見られると恥ずかしくなってくるよ。見られているのは俺自身ではないけど」
ファウストは、あっ、と小さく声を上げて、慌てて精霊から一歩距離を置いた。
「失礼でしたよね、申し訳ございません。それにしても、本当にフィガロさまのようですね」
「……そうだね、気持ち悪いぐらいだよ」
(続く)