関係者以外、立入禁止 ファウストは、静まりかえった夜の魔法舎の廊下をひとり歩いていた。
今日は嵐の谷に個人的な用があり、先程帰ってきたところだ。賢者は夜遅くなるようなら一晩そちらで過ごしては、と提案してくれたが、授業の進捗と任務の予定を考えると多少無理をしてもとんぼ返りするのがベストだ、と判断したのだった。
廊下の灯りはもう落ちていて、窓から差し込む星と厄災の光だけを頼りに歩みを進める。自身の魔法で周囲を照らしてもよかったけれど、やや面倒な気分だったのと、暗い方が却って落ち着くのとで、ファウストはそのまま自身の部屋へ向かうことにした。
明日は朝から夕方まで、みっちり座学の予定だ。シノはきっと嫌な顔をするだろうしネロも途中から上の空になるだろうが、どうしても次の任務までには詰め込んでおきたい内容だ。既に昨日中に準備は済ませてあったが、そうだ、と思いついたファウストは踵を返してその足を図書室の方向へと向ける。以前に読んだ本、あれは実例が多く載っていたし読みやすくて良かった。いささか飽きやすい生徒たちにはもちろん、勤勉なヒースクリフにとってもきっとためになる。同じ著者の他の著書も参考になるだろうからいくつか借りておきたいーーそんな考え事をしていたのと、今日の疲れのせいだろうか。扉に手をかけるまで、ファウストは気づくことができなかった。
ーー図書室に、フィガロが居る。
はっとして、中に入るかどうか逡巡する。いつもなら構わずさっさと入って用を済ませるだけだが、今は少し事情が違った。
ここのところ、ファウストはフィガロとふたりで酒を飲む機会が増えていた。最初こそ、東と南の合同授業の打ち合わせだとか理由をつけてフィガロがファウストの部屋に押しかけてきたり、それを追い返したりしていたが、今は特に口実もなく、きみと飲みたいから来た、とふらりとやってくる彼を、ファウストは次第に受け入れるようになっていた。
数日前の夜も「一杯どう?」と良さそうな酒のボトルをちらりと見せてきたものだから、「少しだけだぞ」といつものように応じた、そこまでは良かった。その日はやけに酒が進んでしまって、お互い饒舌になって今までになく話が弾んだ。そろそろお開きにしないと、と立ち上がろうとしたフィガロを引き止めたら、この上なくびっくりした顔をされて、そうして……。
翌朝、ベッドで目が覚めた時、フィガロが隣で寝ていた。
ファウストは思わず声をあげそうになったのを堪えて、冷静に状況を把握しようと努めた。飲んでいたのは自分の部屋だったはずだが、ここはフィガロの部屋で、どういう経緯で来たのかも全く覚えていなかった。
(完全に飲み過ぎた……)
ただ、はっきりと記憶がないながらも、フィガロの声がいつもより柔らかかったこと、自然とこぼれた笑顔につい見惚れたことーーその夜のひと時がずいぶん楽しかったことは感覚として覚えていた。自分が酔って何かわがままでも言って付き合わせてしまったんだろう、恥ずかしい……と寝起きの頭でぼんやりと考えながら、ファウストはフィガロの寝顔をまじまじと見つめていた。自分とはまた違う色の白い肌、印象的な瞳を隠す瞼、呪文を紡ぐ形のいいくちびる、青灰色の癖毛。
(たぶん、こんな風にただそばに居たかった、昔から)
心から尊敬した師、一緒に居たかったひと、でも姿を消してしまったひと。いっそ怨みで塗りつぶせたら良かったのに、慕ってしまう心が、どうにも消せない。言動や行動がころころ変わる彼を都合がいいと非難したくせに、こんな風に甘えてしまうのだから自分だってたいがい都合がいいものだ。
(……僕は、今でもあなたのことを、)
ファウストは眠るフィガロの髪に唇を寄せ、祝福の魔法をかけてから、起こさないようにそっとベッドを抜け出した。
次に会った時に、酔った無礼を詫びようとか、ベッドを借りた礼を言おうなどと思っていたものの、結局すれ違いでそういうタイミングがなく、今に至る。魔法舎で共同生活をしている以上いつかは顔を合わせるのだが、自分のフィガロへの心の形に気づきかけている今、二人きりで会うのはなんとなく気まずいような、気恥ずかしいような気がして、躊躇ってしまったのだった。
フィガロがこの距離で他者の気配に気づいていないはずはないが、こちらに近づいてきたり声をかけてくる様子はない。恐らく、わかっていてあえてファウストに選択を委ねているのだ。入ってくるのでも、避けるのでも、きみがいい方を取って、と。ファウストは緊張を逃がすように少し息を吐いてから、扉を押した。図書室に入るなり、やあ、と予想通りの声をかけられる。
「こんばんは、ファウスト。今帰ってきたところ?」
「……ああ」
フィガロが、空中を人差し指ですい、となぞる。そこに開かれていた数冊の本はパラパラと音を立てて閉じ、机上の一箇所に整然と積み上げられた。彼はゆったりと足を組み替えて頬杖をつき、机の横を通り過ぎて書棚に向かう黒衣の背中に問いかける。
「授業の準備かなにか?」
「まあ、そんなところだ」
ファウストは棚の背表紙をざっと確かめ、目当ての本をするすると取り出していく。いつも通り、平常心で、と自身に言い聞かせながら。
「夜も遅いのに、熱心で偉いね。手伝おうか?」
「いや、本を借りにきただけだから、そう時間はかからない。……おまえこそ、こんな時間に何をしていたんだ?」
魔法舎の大半が自室に戻っているか、そうでなければシャイロックのバーで晩酌を楽しんでいるような時間帯だ。ファウストはフィガロの一日の過ごし方を全て把握しているわけではないが、それでも図書室で鉢合わせるにしては遅すぎるような気がしていた。
「賭けをしてたんだ」
「賭け?」
振り返ったファウストに、フィガロは目を細めた。
「きみに会いたいなと思って。ここに居たら会えそうな気がしてさ、待ってたんだ。そしたら本当に来てくれた。これって運命じゃない?」
「ふうん……、そう、」
ファウストは帽子のつばを少し引き下げた。いつもなら、会いたい、とか運命、という言葉が軽薄でしらじらしく聞こえるのに、今日はくすぐったく感じてしまう。
「あれ。ファウスト、疲れてる?」
「どうして」
「いつもならもうちょっと、ほら、跳ね返ってくるじゃない」
「……うるさいな」
「はは、ごめんごめん。それに俺に気づくのも遅かったでしょう」
やはり、見透かされていた。智に富んだ榛色の目は、一体どこまで見えているのだろうか。
フィガロは、そんなきみに、と手の中から、花びらの形を模した透き通る水色の飴のようなものを浮かび上がらせた。
「もし今日会えたら、あげようと思ってたんだ。美味しいし、疲れも取れるよ。魔女のシュガーが入っているからね」
「……なんだ、これは?」
「俺の診療所の近くに住んでる子に、賢者様の世界のバレンタインの話をしたら作ってくれて」
バレンタインといえば、賢者の世界で大切な人に自分の気持ちをチョコレートに託してプレゼントする、といったような行事だ。それに加えて、いつか聞いた、彼が「女好き」という噂や「昔は結構モテた」と言っていた話が思い出されて、急に心がざわつき、ファウストは思わず不機嫌をうっすらと声に滲ませてしまった。
「その子がおまえのために作ったものを僕に? ……不実な男だな」
「ああ違うよ、きみが思ってるようなのじゃない。お菓子の店をやっている魔女でね。異世界の話のおかげで新作のインスピレーションが湧いた!って喜んで、そのお礼に、ってもらったんだ。ちょっと面白いんだよ、これ」
一応その話に納得して、菓子を改めて見てみると、かすかに魔力が感じられた。
「変な作用があるんじゃないだろうな」
「多少の遊び心はあるけどね。まぁ、西の菓子みたいに過激じゃないから安心してよ」
ほら、と勧められるままに、ファウストは菓子を口に含んだ。花びらを噛んだ瞬間に、ひんやりとした温度の甘酸っぱい果実のような風味が口いっぱいに広がって、何かとても愛おしいような、多幸感に満たされたような心地になった。そのまま口に含んでいると、甘さに少し苦味が混じった酒のような風味に変わっていく。どうにもやるせない日に飲むブランデーのようでもあり、労いに注ぐワインのようでもあり、秘密を分け合うルージュベリーのカクテルのようでもあった。なぜだか数日前の晩酌と翌朝のできごとを急に思い出して、こちらの反応を窺うフィガロの視線から逃げたくなってしまう。
「どうだった?」
ややあって、フィガロが訊ねた。
「……美味しい。果物みたいな味から、酒の風味に変化したよ」
「へぇ、そうなんだ。もう少し詳しく聞いてもいい?」
ファウストがなるべく丁寧に、自分が感じた味の感想を最初から最後まで伝える間ずっと、フィガロは意味ありげににやにやと笑みを浮かべていた。
「なんだその顔は。……そんなに味が気になるなら、おまえも食べてみたらいいだろう」
「いや、俺が食べても同じにはならないんだよね」
「は? どういうことだ」
「それ、贈られた人が贈った人に対して持ってる感情が味に表れるようになってるんだよ。簡単に言うと、好きなら好みの味で美味しいし、嫌いなら吐き出すほどに不味い」
ファウストは一瞬、何を言われたのか分からなくなって固まった。先ほどフィガロにした味の感想が、そのまま自分のフィガロへの感情だというのか。
「さっきの話だと、俺ってきみにかなり好意的に思ってもらえてるととっていいよね?」
わかっていてそうやって確認してくるのが腹立たしくて、それがまた図星なのがひたすら恥ずかしくて、つい反射的に否定してしまう。
「ちが……、何かの間違いだ。僕の舌がおかしかったのかも」
「まさか。あの日だって、かわいらしい祝福のキスをくれたのに?」
「おまえ……!」
起きていたのか、と言葉が続けられないまま、ファウストは赤面した。フィガロは一歩距離を詰めて、頬に指先で触れた。いつもすべてを見透かす瞳は熱を湛えていて、目が離せなくなる。
「きみをもっと知りたいんだよ。……教えて、ファウスト」
フィガロは親指の先でファウストの下唇をなぞったあと、ごく自然な流れで、軽く口付けた。ぴくり、と跳ねた身体を抱き寄せて、少しずつ長く、深くキスを繰り返す。さっきまで花びらがあった場所を探して味わうように、フィガロの舌先がファウストの口内をまさぐった。全てを飲み干すみたいに吸い付くと、果実と酒の混じった香りに支配される。
「さっき言ってた通りの味がするね。……美味しいよ」
「いちいち言わなくて、いい……」
わずかに漏れる息遣いや、触れて離れるたびにするリップ音が静かな広い図書室の空間に響いているように感じて、ファウストはたまらずフィガロの肩を押して制した。
「……こんな場所で、良くない」
ようやく絞り出された言葉に、フィガロはくつくつと笑う。
「真面目なきみらしいな。こんな場所だからいいんじゃない」
「教える立場の者として、それはどうなんだ……」
「それはそれ、だよ。誰も入ってこれないようにしてるから安心して」
いつの間にか張られた完璧な結界に観念したように、ファウストはため息をついた。
「……その菓子、まだあるのか」
「あるけど、どうして?」
「お前ばかりずるいんだよ。僕から贈ればお前の味もするんだろう。……僕にも、教えて。」
まさかのファウストからのおねだりに、フィガロは面食らった。
「はは、きみも充分ずるいよ……いいよ、好きなだけ味わって。」
お互い、すぐに余裕なんてなくなってしまうから、今のうちに、余裕のある大人のふりをする。
きっと今宵は、きみを、あなたを知るのに忙しい。