匂ひおこせよ 冴え冴えとした冷たい瞳に、わずかにぬくもりが灯った。ほころぶ花弁のように壮麗で美しく、その実どこか物悲しい。そんな笑顔だと思った。それを見たのはもう何か月も前になる。
他人に心を奪われることが本当にあるなんて。少女のように頬を染めて、彼の姿を見つめる。
ああ、美しい。その目がこちらを向いてくれればいいのに。そう願って幾月、彼がこちらに気が付くことはない。わかっている。彼の中にいる思い人の存在も、自分なんかが彼の意識に留まることなど決してないことも。わかっていてなお、そのすべてが愛しいと思ってしまう。
女は、全身で男に恋をしていた。
小さな花弁が風にさらわれ、そよそよと音を立てるように女の髪にまとわりつく。
「ああ、良い香り」
それを白い指先でつまみあげ、そっと掌に載せてみる。小さな四つの花弁がちょん、と鎮座している様はとても可憐だった。香りばかりと思っていたけれど、お前は姿も素敵だったのね。そんなことを思って目を閉じる。
そよそよ、そよそよと、甘い香りが女を包み込む。それは、一年ぶりに再会した昔馴染みが前と変わらぬ笑顔でぽんと肩を叩いて挨拶をしていくような、よく知っている懐かしい心地だった。
花弁を眺めているうちに、自然と自分がほほ笑んでいることに気が付く。ふ、と肩の力が抜けたようで、目を細めてからもう一度彼を眺めた。
いつでも楽しそうで活動的で明るくて、でも時々恐ろしいくらい厳しい目をして見せる。彼の中にはどのような色が渦巻いているのだろう。そう思えば夜も眠れないほどで、これが恋焦がれるという感情なのだと、とうに成人を果たした大人が初めて身をやつすほどの恋をした。
「私、決めたわ」
掌の花弁をそっと握り、それからまた優しく開いて笑いかける。
彼に思いを告げよう。
それが聞き入れられないことは分かっている。彼が思い人と深く通じ合っていることは痛いほど理解している。ずっと見てきたのだから。
それでもかまわない。ただこの気持ちを知ってほしかった。これほどに愛しい思いを彼に抱いた事実を、これほどに彼を思う女がいるのだという事実を。
「お前も見守っていてね」
鼻先を近づけてみれば、枝から落ちたばかりの花弁はその生命を主張するように、ここにいるのだとはっきり分かる強い芳香を放っていた。そのまま深く息を吸い込む。甘くて少しだけ渋い、植物独特の強さを感じる香りが肺の中いっぱいに満ちていった。はあ、と吐き出した息はそより、そよりと秋風に攫われて、一面の甘い香の中に消えていった。
◇◇
こいつはまずい。
運ばれた棺を前にして、鍾離は顔には出さずに胸中で呟く。
そう感じたのは鍾離ばかりではない。見れば堂主の胡桃も同じことを思ったようで、虚空を見つめて「ふうん」と唸っている。素知らぬ振りでその肩を叩き態度に出ているぞと窘めてやれば、本当に無意識だったようで、少女は慌てたように前へ向き直る。
そうしてつつがなくすべてを終わらせ遺族を見送ってしまった後で、二人は黙って顔を見合わせた。どうしたものかと思案する間もなく、胡桃が口を開いた。
「ううん、どうする? 鍾離さん」
その日に見送られたのは、まだ若い女性だった。事故だったと聞く。どのような事故だったのかは聞いていない。どこかへ出かけるつもりだったのか、発見されたときは綺麗に身支度を整えて、めかしこんだ装いをしていたらしい。見知らぬ相手ではあるものの、鍾離の心がわずかばかり痛んだ。女の残した未練を思いやる心が、その思いに共鳴したせいかもしれない。
棺が運ばれたとき、二人は横たわる女の亡骸に絡みつく執念の糸を見た。糸、とは言っても細長いものではない。ぼんやりとして掴むことができない、雲や霞のような曖昧な糸が、何重にも絡まって女の身体の上に留まっていた。
事故に遭ったときの服装、まだ若い年齢。現世に未練を残す理由はいくらでも考えられる。だから胡桃は「どうする」と聞いた。この堂主に限って、放っておく選択肢はない。自分が行くか鍾離が行くか、あるいは何か別の策を講じるか。そういう意味の「どうする」である。
「俺が行こう。彼女のことは生前に見かけたことがある」
それだけ答えて、鍾離は扉の向こうへ消えてしまう。先ほど執り行った葬儀の事務処理をするためだろう。いつも以上に寡黙な鍾離の様子に、胡桃はもう一度ふうん、と唸った。鍾離と女が顔見知りのようには見えなかった。見かけたことがある、というのは文字通りにただ見たことがあるという意味なのだろう。
「どんな未練にしがみついているのかなあ」
鍾離に任せておけば何も心配は要らないことを知りながら、胡桃は暢気にそう呟いた。
◇◇
彼女を見かけたのは数か月前、北国銀行を訪ねた日のことだった。ただ行員と話しているだけではあったが、およそ北国銀行とは縁のなさそうないで立ちでいたせいで、妙に印象に残っている。何かを渋られているようで、女の顔はずっと曇っていた。融資を断られたのか、それとも返済が滞っているのか。自らも手元に融資契約の書類を携えて、鍾離は見るともなしにその様子を眺めていた。
エカテリーナが書類を確認する間、背後で繰り広げられる会話は否応なしに耳へと飛び込んでくる。女は渋られてもなお食い下がっているようで、「ですが」「しかし」と弱々しい抵抗の声が聞こえた。
「私はただ公子様にお礼を言いたいのです。先日助けていただき、」
「お待たせしました」
なるほど、彼女は公子殿に会わせてくれと懇願していたのか。
そう理解したのと、エカテリーナが確認を終えた書類を手に戻ってきたのは、ほぼ同時だった。
◇◇
彼女の未練が何であるのか、想像に難くない。
酒に唇を湿らせ笑顔を見せるタルタリヤに目を細めながら、鍾離は女の未練について考える。それはおそらく、今鍾離が感じているものとほとんど変わらない。人が人を愛おしいと思う。かつては対岸の火事であったその感情を、鍾離はもう知っている。身をもって痛感したし、今なお感じている。すべては目の前のこの男のためだ。
心の底から、タルタリヤを愛おしいと思う。
夜風に冷えた街の空気が、二人の肌を冷たく撫でる。ここ数日で気温はすっかり秋めいていた。そこかしこから漂う秋の香が、季節の移ろいを教えてくれる。
夜がもっとも長くなるこの季節。月も高く昇るころに愛する者と酒を酌み交わすのは、秋の夜長に相応しい風流だろう。そう思えばその愛おしさはいっそう増すようで、鍾離はほんのつかの間、一寸先のことすら忘れてタルタリヤに見惚れていた。
どうしたの、と声をかけられて、それでもなおじっとタルタリヤを見つめる。
「あんまり見ないでくれる? 期待しちゃうから」
月明りが橙の髪に反射する。顔にかかる影が表情を隠し、かえって妖艶にさえ見える。言外に含まれた夜の誘いに、思わず手を伸ばしそうになる。今すぐにでも求めてしまいそうになる自分に驚き、それからそっと目を伏せた。
「すまない。実はこの後、用があるんだ」
「え、そうなの? なんだ、残念」
少しも残念な様子など見せないその表情は、相変わらず婀娜めいていた。手を伸ばせば届く距離に簡単に手折れる華があるならば、手に入れたいと思うのは人間の常のように思えた。それからそれほどまでに他人に寄り添った感情が自分に芽生えていることを知り、また驚く。
「恋人との逢瀬の後に仕事を入れるなんて、ずいぶん無粋だと思わない?」
「……そうだな」
離れがたい気持ちを引きずりながら、鍾離は無妄の丘へと向かった。この気持ちも未練であり、執着であり、自身もまた容易にこの地に繋ぎ止められてしまうのかもしれない。そんなことを考えて、辺りを見渡す。
昼間でも薄暗い森の中は、幽冥の気配に満ちていた。
気配だけのものから、姿かたちまではっきりと見えるもの、あるいは土地に囚われこの地と一体化してしまったもの。邪なものが混ざっていないのは、胡桃のおかげなのだろう。
「探したぞ」
女は土地に囚われようとしていた。肉体を離れて間もない魂は、生前の姿を保ったまま土に根を張ろうとしている。女の未練は土地に縛られて良いものではない。もっとも容易に祟りとなるような感情を、土地に根差してはいけない。何よりも、彼女のためにそれを阻止したいと思った。
「まだ言葉は分かるだろう」
◇◇
それから、鍾離はいつも通りに日々を過ごした。いつも通り朝には散歩を楽しみ、往生堂で書類を片付け、璃月に訪れた秋を楽しみ、夜にはタルタリヤと酒を酌み交わす。何も変わらない日々だった。ただ一つだけ、その傍らに女がいる。常人には見えない女の魂が、常に鍾離の隣に立っている。
翌日、往生堂に顔を出した時には胡桃を始め数人の見える者がぎょっとした顔をしたが、鍾離はそれを気にも留めずに「どうかしたか」と笑うだけだった。あるいはタルタリヤも――勘の鋭い男のことだ、気配には気づいているのかもしれない。だが、それ以上何かを尋ねようとする者はいなかった。
「あれ、その匂い……。ここへ来る前にどこか散歩でもしてきた?」
裾が翻るたび、鍾離からふわりふわりと甘い香りが漂う。この時期の野外でよく出遭う見知った香りに、タルタリヤがそう尋ねる。
「いつもと変わらないはずだが」
変わったことは何もない。香を変えたこともなければ、どこかで妙な匂いを貰った覚えもない。
何のことだと首を傾げる鍾離に、タルタリヤはそれ以上何も尋ねなかった。
互いに互いの事情に深く踏み込まないのが、二人の距離感である。それは信頼の証でもあった。相手の立場を理解したうえでの信頼。それがあるからこそ、何も聞かずにいることができる。今回も、タルタリヤがそれ以上踏み込んでこないことを鍾離は知っていたし、事実、タルタリヤは何も訊かないことを選んだ。
あれから数日、相変わらず鍾離は普段となに変わらぬ日常を送っていた。胡桃が何か言いたげな顔をしていたが、涼しい顔で素知らぬ振りを貫き通す。
タルタリヤとは二回ほど夕食を共にした。ただ食事をするだけの逢瀬を、彼はきっと不満に思っていることだろう。そうわかってはいるものの、今の状態で同衾するわけにはいかない。いい加減に何か行動を起こすべきかと勘案していたところに、変化は訪れた。
昼間のことである。たまたま街中を不機嫌に歩くタルタリヤを見かけた。北国銀行への道中か、あるいは野外で暴れてきた帰りかもしれない。公子殿、と声をかけようとして、背後の気配がぞわりと重くなるのを感じる。おもむろに振り向けば、女は黒く変色していた。先ほどまでは確かに半透明な白い身体をしていたはずのそれは、おぞましいほどの黒を見せつけてすぐにまた半透明へと戻っていく。
よくない兆しだ。
これ以上ここに留まり続ければ、彼女は自身の心を失ってしまう。そうなれば、鍾離にできることは彼女を消し去ることのみだった。鍾離のそばにいる限り、彼女が悪霊あるいは怨霊と呼ばれる類のものになることはない。しかしその未練が色を変えて自身の心すらも真っ黒に蝕んでしまえば、それが戻ることはもう決してない。変化を遂げた心は現世に留まり続け、成仏することも消滅することも叶わなくなる。それを解決する方法は、彼女の魂を消し去ることだけだった。だからそうなる前に、女を天に返してやらねばならない。鍾離の心にほんの僅かばかりの焦りが生まれた。
焦るばかりの日々が、さらに数日が過ぎていく。
今度はタルタリヤの方が、鍾離の誘いを断るようになった。何かあったのかと気を配ってみるが、タルタリヤ自身に変調は見られなかった。今日も駄目なら、今はそういう時期なのだろう。ファデュイにも事情はある。あまり汲みたくはないが、それでも彼らは外交官としてこの国に滞在している。多少は理解を示してやらねばなるまい。
この時間、タルタリヤはたいてい北国銀行の裏手の岩場にいる。夕涼みだと言っていたが、元来戦闘を好む男のことだ。大方、室内に閉じこもっていることが苦痛で仕方ないのであろう。
今夜こそ会えるだろうかと期待を寄せる鍾離の傍らで、女が不安げに佇んでいる。
事が起きてから、七日が経とうとしていた。
◇◇
鍾離が何を隠しているのか、タルタリヤには分からなかった。わからないが、おそらくそれは自分にかかわる何事かなのだろうと予想はついていた。
岩に腰をおろし、時折寝転んだり立ち上がったりしながら外の空気を満喫する。
鍾離の誘いを断って今日で三日。おそらく今日も、彼は来るだろう。そして夕食を共にしようと誘う。誘いに乗って料理と酒を楽しんだ後、今度はこちらの誘いを断ってそそくさと帰っていく。ことの流れが容易に想像できる。だから今日も断ってやる。そのつもりだった。
そうしてそんな目論見通り、寝転ぶタルタリヤの上に、夕暮れに長く伸びた鍾離の影が落ちる。目を開けることもなく「来たんだ」と言えば、「ああ」と短い返事が返ってくる。
「今日は、」
これ見よがしに顔を背けてやれば、鍾離はそこで言葉を止めた。「そうか」と呟き、それでもじっとそこに立っている。
退くことも押すこともないその態度に、タルタリヤの苛立ちは募るばかりだった。座れば、と促しても鍾離は黙って立ち尽くしたまま動こうとしない。
事情があると分かってはいるものの、しかしどうにもならない感情がタルタリヤの胸に去来する。
「あのさあ」
ザア、と風に攫われて木犀の香りが辺りを包み込む。風に乗ってひとひら、ふたひらの木犀花が二人のそばを過っていく。強い芳香に口を閉ざし、タルタリヤは「なんでもない」と鍾離に背を向けて職務に戻ろうと歩き出す。その腕を、鍾離がつかみ引き留めた。
「……なに」
「すまない、公子殿。敏いお前のことだ、いろいろと気づいてはいるのだろう。だが、俺の口から説明をすることはできない」
殊勝なことを言いながら一歩も歩み寄る気のない態度に、タルタリヤの顔が上気する。もともとタルタリヤは短気ではない。むしろ気は長い方だ。忍耐力にも自信があるし我慢も得意だと思う。それでもどうしようもなく、鍾離の前だけでは感情を抑えることができなかった。
感情を剥き出しに鍾離に掴みかかるタルタリヤの鼻先で、ひんやりとした秋風がむせかえるほど花の香をまき散らした。
甘い香り。少しだけ冷えた空気。高い空。風だけがそれらの合間をすり抜けて、そのすべてを一つのもののように繋いでいる。
――そうだわ、私が説明すればいいのよ。
タルタリヤが何かを言いかけるより早く、鍾離の背後で気配が動いた。
「待て……っ、」
鍾離の慌てる声がする。
身体が冷えていく。風に晒された肌ではなく、腹の内側らから指先に向けてじわりじわりと冷やされていく心地だった。
――その体、私にチョウダイ。そうすれば何も隠すことはなくなるわ。
目の前で、鍾離が何か言っている。自分ではない何かを相手に、説得でも試みているのだろうか。
――この人を私にチョウダイ……!
花の香が、タルタリヤを包み込む。全身が総毛立つ。何か良からぬことが起きている。それだけは確かだというのに、その全容がまだ見えない。気持ちの悪い光景だった。
何かが自分を取り込もうとしているらしい。しかしその気配はとても弱く、この武人を飲み込めるほどの力などとうていあるようには思えない。それでも鍾離は慌てている。「それはだめだ」「公子殿はいけない」と、制止の声を上げる顔がかすかに歪んでいる。
「何が起きてるのかよくわからないけど」
ため息とともにそう前置きをして、タルタリヤが口を開く。
「さっきから感じる妙な気配。もしかして俺を食らおうとしているのかな?」
望むところだ。何が相手だろうと構いはしない。両の手に青く元素が渦巻いたところで、それを止めたのは鍾離その人だった。
◇◇
女の抱く執念の一端を、鍾離は我がことのように理解していた。
それは鍾離がタルタリヤに抱くのと変わらない、恋情である。女と鍾離とで異なるのはただ一点、相手からの認識のみだった。もしタルタリヤが鍾離を認識していなければ。その思いを告げることも答えを聞くことも叶わなかったなら。あるいは凡人でい続けることはできなかったのかもしれない、と鍾離は思う。
だからこそ女を助けたいと思った。まったく個人的な感情で、この哀れな霊に救いを与えてやりたかった。
それが今、タルタリヤに取り憑こうと牙を剥いている。
女の顔は般若のそれだった。落ち窪んだ眼窩にぎょろりとした目を剥いて、目尻と口角は吊り上がり、額からは今にも皮膚を突き破って角が現れそうだった。つい先ほどまで美しく風になびいていた黒髪は、蛇のように乱れて女の顔に張り付いている。およそ生前の姿など忘れたかのように、タルタリヤに向かって凶器のような爪先を伸ばしていた。
それを鍾離の仙術が引き留める。女の執念の端を囚え続けている。少しでも緩めてしまえば、女は容易にタルタリヤを傷つけるだろう。そして愛しい相手を傷つけたことに自分自身が傷つき、永遠に現世をさまようことになるだろう。それだけは阻止したかった。女のために、ひいては鍾離自身のために、女を救ってやりたかった。
「ねえ。幽霊だか怪物だか知らないけど、そんな曖昧な存在が俺をどうこうできるなんて本気で思っているわけじゃないよね」
タルタリヤの声が明るく響く。
女はもはや言葉すら届いていないようで、「うう、うう」と低く唸りながらタルタリヤに腕を伸ばし続けている。
先ほどは鍾離に止められた元素の力が、再びタルタリヤの両手に凝集する。その目には、戦闘に立ち向かう興奮が宿っていた。
いつも通りのタルタリヤの姿に、思わず鍾離から苦笑が漏れた。姿の見えぬ怨念にすら喜び勇んで立ち向かうとは、さすがは戦闘を何よりも好む武人といったところか。しかし、彼に女を攻撃させるわけにはいかない。
「公子殿。お前は先日、匂いがどうと言っていたな」
「え、何? 急に」
虚空に立ち向かおうと前傾姿勢をとったまま、タルタリヤは眉根を寄せて鍾離を仰ぐ。
やめておけ、と首を振ってやれば、やはり察しの良いこの男は素直に戦意をすっかりおさめてしまう。大時化がほんの一瞬で凪へと変わるのは、訓練の成果か彼の天性か。
鍾離はもう一度、匂いとは何のことだと尋ねる。今この間にも、タルタリヤの鼻孔を甘やかな香りがくすぐり続けている。
「本当に何も感じないの?」
やおら頷く鍾離をじっと見つめて、仕方ないねとため息をつく。
七日前から、鍾離に会うたびに甘い花の香が漂うようになったという。
それは野山から風に乗って香るのではなく、確かに鍾離から漂ってくる。鍾離の衣服がたなびくほどに、香りはタルタリヤを包み込んでいった。野外でも頻繁に出遭う香りだが、鍾離といるときだけはすぐ間近から強い芳香が鼻をつく。
そんな説明をする間にも、タルタリヤはひくひくと鼻孔を動かして香りを探っている。
「なるほど。そういうことか」
鍾離が女を見つめる。姿は見えなくとも、タルタリヤも気配を感じているのだろう。髪を振り乱して唸る女の形相がタルタリヤに見えていないのは、不幸中の幸いなのかもしれない。
「気づいてやれずすまなかった。これがお前なりの、思いの伝え方だったのだな」
訝るタルタリヤに、鍾離がふっと笑ってみせる。少しだけ困っているような、眉尻を下げた優しい笑い方だった。
「木犀の花を見たことがあるか」
「モクセイ? ああ、金木犀とかそういうやつか。いいや。俺は先生と違って花に興味がないからね。匂いだけはよく知っているけど、そういえばどんな花なのかも知らないな」
「つまり、そういうことだ」
鍾離は自分の口から語ることはできないと言っていた。言葉で語ることはできないが、木犀の香を頼りに理解してみせろと、ういうことである。
女は歯茎までを剥き出しにして、タルタリヤに腕を伸ばし続けている。情念は、恨みに変わりつつある。鍾離の表情は相変わらず苦いまま、しかしその顔にわずかな笑みが浮かんでいる。
空気を淀ませるほどの気配を睨みつけながら、タルタリヤは考えた。
「……あ、」
顔を上げたタルタリヤの先に、ぼんやりと女の影が浮かんでいる。そういうこと、と呟いて、先ほどまでは確かに虚空であったはずのそこへ向かって笑みを浮かべる。それから口端を引き締めて、
「悪いけど、応えることはできない。知っての通り、俺は鍾離先生が好きなんだ」
常と何変わらない、強い目をしていた。
するりとタルタリヤの腕が鍾離に絡む。挑発するようなその仕草に、鍾離の身体がわずかに強張った。緊張が、布越しにタルタリヤへと伝染する。ピリ、と一瞬震えた空気は、一転して穏やかな風となる。
「モ……ク……」
女が何事かをつむごうとしている。二人は黙って、女の口が言葉を吐き出すのを待っていた。
木犀花 こひも色にも出でねども 絶えずにほひて君をしみたらむ
美しい声だった。髪を振り乱して牙を剥く恨みの般若は、そこにはもういない。花の香がいっそう強く二人を包む。
ああ、これが。この匂いが。
目を閉じてみれば、花の香よりも強い念いが鍾離の中に流れ込む。愛おしい、愛おしいと泣く女の声が、秋の空高くに消えていく。
「……成仏したの?」
すっかり消え失せた重苦しい気配に、タルタリヤが尋ねる。離れていこうとする身体を鍾離が引き留め、二人の手のひらが合わさる。
「ああ。公子殿に、救われたようだな」
ふうん、と興味なさそうに空を仰ぐタルタリヤの顔は、どこか感慨深い面持ちを残していた。
うろこ雲の向こうに女の姿がうっすらと映っているような気になって、タルタリヤは慌てて目を伏せる。それから指を絡めてぎゅっと鍾離の手を握りこんだ。
◇◇
空が高い。薄く引き延ばされて千切れた雲が、傾きかけた太陽に照らされて茜色に染まっていく。遠くでさらさらと葉のそよぐ音がする。笹か、芒か、いずれにしても涼し気な音だった。何も変わらない穏やかな景色が、そこにはあった。
二人は何をするわけでもなく、ただ佇んでいた。黄味の増した太陽が、遠く港の向こうへ落ちようとしている。月と見まごうようなそれに目を細め、「それにしても」とタルタリヤが声を上げた。
「それにしても、あのヒントはさすがにわかりづらいと思うよ」
「うん?」
そうだろうか、と鍾離が首を傾げる。タルタリヤは愉快そうな笑い声をあげて、そうだよと答える。
鍾離はただ、木犀の花を見たことがあるか、と尋ねただけである。それがどれほどのヒントになったというのだろうか。
香りばかりで姿を知らない。誰に知られることがなくとも、ただそこに在り続ける。タルタリヤにしか届かない香り。木犀の中でも殊更に強い芳香を放つ金木犀の姿なく香る様に、目に見えぬ者がタルタリヤに強く焦がれているのだと、あの一言で鍾離はそれだけのことをタルタリヤに伝えた。
「あれ、どういう意味だったんだろうね」
女の詩を思い出す。
木犀花 こひも色にも出でねども 絶えずにほひて君をしみたらむ
含みを持たせた言葉遊びは、タルタリヤの不得手だった。そういうことは鍾離に聞いた方がよほどはっきり理解できる。
「先生にはわかるんだろ?」
今度はヒントではなく答えを教えてくれとせがむ。
鍾離はふむ、と唸るようにかすかに頷いて、しばし逡巡した。
あの詩の大意はおおむねこのような感じである。
『金木犀の花のように、恋する気持ちが表に出ることはないけれど、その強い芳香のように絶えることなくあなたを思い続けているのです』
おそらく女は、自分が自分としてここに留まれるのが七日ばかりであることを知っていたのだろう。それ以上この地に留まり続ければ、悪霊となるか地縛霊となるか、いずれにしても成仏はできなくなる。鍾離にとっても、今日が最後の賭けだった。今日、タルタリヤが誘いを断っていたならば、女が行動を起こさなかったならば、その未練ごと女の魂を現世から断ち切るしかなかった。できればおのずと成仏してほしい。しかし人の心ほど思い通りにならないことはない。
タルタリヤが敏い男で良かったと、心の底からそう思う。それと同時に、彼は自分のものなのだと確かに信じ切っている自分の傲慢さにも驚かされた。
女の執着を何とかしてやりたいと、本心からそう思っていた。だがそれは思いを告げて終わらせる、諦めさせるという意味であって、決して報われない恋であることを鍾離は疑っていなかった。傲慢不遜な感情は実に人間味にあふれていて、知らぬ間にそれが自身の心に芽生えていたことに驚きと戸惑いが隠せない。
まったく、自身の中に愛おしさが芽生えたことを自覚して以来、目の前の青年には驚かされることばかりである。
ふと視線を落とせば、女郎花の黄が物言わず風にそよがれている。視線を上げれば、彼方に連なる赤は萩の花だろうか。そういえば、通りの銀杏もいつの間にか色づいていた。
人の心も季節のようで、ゆっくりと移ろい、気づいた時には鮮やかな色を見せている。
「俺にも、彼女の真意は分かりかねるさ」
目を伏せて、と息を漏らすようにふふ、と笑う。
サア、サア、と秋の音が鳴る。
「嘘ばっかり」
花の命がひとつ落ち、季節がひとつ巡っていった。