【サンプル】子守唄は届かない Ⅰ
「混沌なる世に終止符を打たん……!」
静かに響き渡るクレイ・シスの祈りと歌声。漂っていた意識が輪郭を持ちはじめ、身体の隅々まで血が巡る。
——ああ、呼ばれたんだ。
そう思った瞬間、僕を形作る全てがこの世界に根付く。そして、瞼をそっと開いた。
目の前に広がるのは荒れ果てた石造りの部屋、召喚の遺跡だろう。クレイ・シス、ヒロナが消えた後、その場に残ったのは双子の姉の破壊者ルカともう一人の男だった。大きな剣を背負い、長い髪を靡かせている目つきの悪い男だ。この人が僕たちを呼び出したんだろうか。
「ゲホッゲホッ」
あまりの空気の悪さに思わず咳き込む。
「コホッ。随分と空気の悪いところね、それに暗いわ。あなたが私たちを呼んだのかしら?」
先に息を整えたルカが尋ねた。
「俺はイロンデール、世話人だ。子どもじゃないのか?」
「子ども?」
世話人だと名乗った男は、僕たちの姿をまじまじと見て不思議そうな顔をした。確かに子どもというほど小さくはないけど、大人と言い切れるほどの背格好ではないかもしれない。でも、この姿を見られるのは初めてなはず。
「いや……なんでもない。どうしてか小さな子どもの姿で現れる気がしていたんだ」
「ふーん、変なの」
「ルク、それとイロンデールさん。お喋りはここまでにしましょ。早く移動したいわ」
小さく咳をしながらルクが言うと、僕とイロンデールさんもそれに頷いた。
僕たちを呼び出したのはイロンデールさんではなく、他にいるそうだ。その依頼主のところへ移動するというので、道すがらにこの世界について話を聞く。
この世界を覆う煙——ヘイズというらしい、この有害な煙と襲ってくる虫から身を守るために人々は三つの塔を建て、そこで暮らしている。召喚の遺跡のあったジグラート・イオ、遠くに見えるジグラート・エン、そして依頼主がいるというジグラート・ノマ、この三つだ。地表はヘイズや有害物質に覆われて放棄され、人々はヘイズから逃れるように上へ上へと塔を高くしている。
「塔を高くするって言っても限度があるんじゃないの?」
「そうだな。現に資材が足りなくなって放棄された下層から廃材を再利用してるって話だぞ」
「そもそもヘイズって何なのかしら? それがなくなれば、窮屈な塔じゃなくて広い地表で暮らせるんじゃないの?」
僕とルカの矢継ぎ早な質問にイロンデールさんは一つずつ答えていく。しかし、ヘイズについて聞かれると一瞬言葉を詰めた。
——エリュトロンとその弊害によるヘイズの発生。人間たちはその危険性に気づきながらも向き合うことなくヘイズを吐き出し続け、ここまで追い詰められてしまった。イロンデールさんは苦々しくそう口にした。
「なにそれ、自業自得じゃん」
「もうルク、そんな言い方しなくてもいいじゃないの」
「人間ってのは一度手に入れたものをそう手放せない生き物なんだろうな」
どこか達観したような物言いでイロンデールさんが溢す。僕は何とも言葉を返せず、ルカとその背中を見つめながら後ろを付いて歩いた。
危険層は廃墟と化していて、瓦礫を掻き分けるようにして進んでいく。時々、大きな物音を立てて上から物が落ちてくる。これは『落とし物』と言うそうだ。それに混じって虫が襲いかかってきた。僕たちは危うげなくその虫たちを蹴散らかしながら、更に降りていく。この後は一旦地表を経由してノマへ渡るそうだ。
「地表は更に空気が悪いし魔獣が出るぞ。気をつけろ」
イロンデールさんの言葉に、僕とルカは頷いた。
魔獣を追いやりながら、何とか辿り着いたジグラート・ノマ。地表からすぐの危険層はイオと同じく廃墟と化して、濁った空気が流れていた。正直、普通の人間ならとっくに肺をやられてしまっているだろう。
「うえっ。ここの空気もひどいね」
「ほんと、その依頼主さんがいるところはまともな空気なんでしょうね?」
「ああ、依頼主はこのノマの最高管理責任者だからな。ここで一番空気のいいところに住んでるさ」
思わず口元を覆いながら話す僕に対して、イロンデールさんも口元の襟巻きを持ち上げている。
「最高管理責任者?」
「名前はパスカル、と言ったかな。各ジグラートには最高管理責任者が一人ずついて、それぞれのジグラートを治めているってわけさ」
「ふーん、要は一番偉い人ってこと? 自分の手に負えなくなったから僕たちを呼んだってことじゃないか」
「ルク、そんな言い方しなくてもいいじゃないの」
僕の言葉にルカが嗜めるように言葉を重ねる。イロンデールさんは依頼主であるノマの最高管理責任者とは面識があるようで、何とも言い難い表情をしていた。一体どんな人物なんだろうか。
「まずは会って話を聞いてみろ。それからだろう?」
そうまとめられると他に言葉も出ず、僕たちは上層へ向かって足を進めた。
瓦礫に覆われた危険層を抜けると、古びた家が連なる下層へ抜ける。上へ進むと、管理者たちが暮らす上層に入った。そして更に上の天上層、ノマの最高管理責任者のいる最上層へ辿り着く。これまでとは景観が全く変わり、壁や床、柱までも全てが白一色に覆われた空間はいっそのこと不気味ささえ感じた。この高さまでくるとヘイズも届かないようで、テラスの向こうには夜空が広がっている。
「着いたぜ」
イロンデールさんが白い扉の前に立つ。この先に依頼主がいるんだろう。僕はルカと目を合わせる。ルカも同じ気持ちみたいで、僕らはイロンデールさんに向き合い頷いた。
ゆっくりと扉が開かれる。重く冷たい空気を纏ったその扉は、この空間そのものを表しているみたいだった。
開いた扉の先、大きな窓からは月の光が差し込むだけで室内は薄暗い。その光を浴びるようにして真っ白な服を着た男が立っていた。
「依頼通り、破壊者を連れてきたぜ」
イロンデールさんの呼びかけに男はゆっくりと振り返る。どこがどうとは言えないのだけど、その表情に薄ら寒いものを一瞬感じた。
「待っていたよ。僕はパスカル。ここジグラート・ノマの最高管理責任者。君たちが——鴉の英雄?」
「鴉の英雄、そう呼ばれることもあるわね。あなたが依頼した召喚の儀式で呼び出されたのが私たち、それは間違いないわ。私がルカ、そしてこっちが弟の」
「……ルク」
「ルカ殿とルク殿だね。イオからの道のりは大変だっただろう? まずは一休みしよう」
先ほどとは一転して、朗らかにパスカルさんが話し始める。お茶とお菓子を用意させると、僕たちにもソファへ座るように促した。さっき一瞬感じた違和感は消えて、随分とのんびりした人だと思う。突然現れた依頼主だという男に警戒しないわけでもないけど、呼び出されてから歩き通しで正直なところくたびれた。ちらりとルカを見ると彼女も甘いお菓子に視線が釘付けになっている。
「じゃあ、食べながら話を聞かせてもらうよ」
「ああ、遠慮なく召し上がれ」
パスカルさんは笑顔でそう答えた。
「それで。僕たちを呼んだ理由はなに?」
素朴な甘さがちょうどいいふわふわしたスポンジを口に放り込んで飲み込むと、まずは僕から質問を投げる。隣のルカは小さく切り分けながら食べてるから、もう少し時間がかかりそうだな。そんなにちまちまと食べていたら、味なんてわからないんじゃないだろうか。横目でルカを見てると、じろりと見返された。まだ何も言っていないのに、そんな目をしなくてもいいだろう。
「この世界の大まかな状況はここに来るまでにイロンデールさんから聞いたわ」
取り繕うようにルカが口元をナプキンで抑える。パスカルさんの隣に座るイロンデールさんも同意するように「ああ」と小さく頷いた。
「では、現状は把握しているということで話を進めるよ。そうだね、僕が君たちを呼んだ理由は一つ。我がジグラート・ノマを救ってくれるかな?」
「ノマを、救う?」
「それは随分と漠然とした話ね」
「このヘイズに覆われ虫に襲われる状況から、どうやってノマを救うってんだ?」
僕たちの疑問をイロンデールさんが代弁してくれた。パスカルさんはニコニコとしたまま話を聞いている。何か考えがあるのだろうか。
「そう。このままじゃノマだけでなく、全てのジグラートがヘイズと虫によって崩壊してしまうだろうね。そこで、僕たちは『脱出船計画』を立てたんだ」
「脱出船計画?」
「まあ、まずは話を聞いて」
それから、パスカルさんは意気揚々と『脱出船計画』について語り始めた。空を飛ぶ大船を作り、次元の狭間に向かって飛び立ち、その先を新天地とする。夢物語みたいな話だ。
「空を飛ぶ船だなんて、本当にそんなものがあるの?」
「規模が大き過ぎて、ちょっとついていけないわ」
僕とルカがそれぞれ感想を口にすると、待っていた、とばかりにパスカルが立ち上がる。
「今まさに船の建造を行なっているんだ。君たちも実際に目にしてみるといい」
「百聞は一見にしかず、ってことだな。ルク様、ルカ様、どうする?」
残っていたケーキをパクリと一口で食べてしまいながら、イロンデールさんがこちらを見る。僕はルカと目を合わせるまでもなく返事をした。
「もちろん、行ってみるよ」
「ここが脱出船の造船所さ。中々の規模だろう?」
「こいつはすごいな」
「でも、こんな大きな船が空を飛んだりできるの?」
「それにいくら大きな船でも、このノマの人たち全てを乗せることはできないのじゃないかしら」
イロンデールさんもこの造船所に入ったのは初めてだったのか、ひとしきり驚いた後はじっと考え込んでいる。
「そうなんだ。船の建造自体はできそうなんだけど、問題はその動力源だよ。ジグラート・イオのウェルナー博士ならいい案を持っているんじゃないかと思っているんだけど、気難しい人だから中々会えなくてね」
「ウェルナー博士?」
初めて聞く名前に首を傾げる。イロンデールさんの方をちらっと見ると、察したようで説明をしてくれた。
「ジグラート・イオのウェルナー博士、ジグラート・エンのロザリー博士、ここジグラート・ノマのエルオンズ博士。三人はこのジグラートそのものの設計者達だ」
「博士同士、エルオンズ博士って人に繋いでもらったらいいじゃないの」
「エルオンズ博士は、今はここにいないから……。それに、この脱出船計画の責任者はノマの最高管理責任者である僕だからね」
「ふーん、なんだかワケありってことだね」
「それで、この脱出船に乗れなかった人たちはどうなるのかしら?」
「そ、それは……。まずは、僕たち管理者が新天地に赴いて、生活の基盤を整えるしかないだろう。それから然るべきタイミングで迎えに来る」
「何も保証はないってことだな」
「そんな言い方をしなくても! 全員を乗せることができないなら、僕たち管理者が乗るしかないだろう? どちらにせよ、下層の人間だけでは生きていけないんだから」
「なるほどね。あなたの考え方はよくわかったわ」
目を吊り上げたルカがそう言い放つ。この世界を、ノマを救ってくれって、それは結局自分達が助かりたいだけなんじゃないか。ルカの感情に引っ張られるように僕の中にも怒りが沸いてきた。
「そんな! 君たちは願いを叶えるために来たんだろう? 他に手段もないんだ。脱出船計画に協力してくれ!」
三人に睨まれてパスカルさんは逃げ場を失い、おろおろと目を泳がせている。これじゃ、僕たちが弱いものいじめをしているみたいじゃないか。そう思うと、このままここを立ち去るのも違う気がしてきた。確かに、僕たちを呼んだのはパスカルさんで、その願いに応じて僕たちはここ来たんだから。もう少し、やれることがないか考えてみてもいいかもしれない。
そこまで考えて、僕は小さく息をため息をつく。
「わかった。パスカルさんに協力する。でも、僕たちが納得できないと思ったらそこまでだ」
僕よりも目線の高いパスカルさんの瞳をじっと見上げる。その瞳の濁りのなさはいっそのこと最高管理責任者なんていう彼の肩書きとはアンバランスに思えた。
「ちょっと、ルク。こんな人の話聞かなくても……」
「ルカ。でもね、僕たちは彼に呼び出されたんだ。もう少しだけ様子を見てみよう」
後ろから僕の袖を引くルカに、小声で告げる。双子の姉はそれで僕の気持ちを汲み取ってくれたようで、一歩後ろに下がる。
「本当かい? 鴉の英雄が味方となればこちらも心強いよ。よろしく頼むね」
僕たちのやり取りなど知らないパスカルさんは手を差し出してくる。僕はそっと右手で握手を交わした。温かいその手は間違いなく血の通った人間のそれで、僕はやっぱりもう少しだけこの人を信じてみたい——そう思ったんだ。