再び日は昇る 小鳥の鳴き声で目が覚める。鳥たちは朝日が昇る前のほぼ定刻に囀る。そのため鍾離は自身に小鳥の声で起きるよう組み込んでおり、毎日同じ時間に活動を再開する。
魔神にとっては睡眠とは不要であった。目を閉じたとしても、行為自体は瞑想の方が近く休眠という概念を持ち合わせていなかった。
鍾離になってからは凡人なので眠ることにしたが、まだまだ慣れなかった。それでも床に就き体を休めるというのは、考え事に丁度いい時間であった。
鍾離はこれまで岩王帝君として璃月のことをずっと見てきた。それ故にあまり自己を見つめることは少なく、己が何をしたいか等と考える機会はなかった。微睡みながら、明日は何をしたいかと思い描くのが今では日課となっている。
昨日は三杯酔で田殿が、新作の講談を聞いて感想を言って欲しいと言うので相談に乗った。一昨日は軽策荘の竹林を散策するついでに筍を幾つか摘んできた。今日はそれを調理するのがいいだろうか。
寝間着を脱ぎ去り、軽装の袖に腕を通す。ゆったりと広がる裾は散歩のためだけならば丁度いい。明朝の空気が特に心地いい日だと思った。こんな時は歩むのに丁度いい。
窓から半身を出し、外の空気を目一杯に吸い込んで、肺を満たしてみる。
深呼吸をしていると、窓枠に止まっていた小鳥がしきりに餌をせがんで来た。脇に置いておいた米粒を幾らか撒いてやると、それをつついて羽ばたいていく。
小鳥が去り際に残した青い羽根に、一人の姿が不意に浮かんだ。彼は旅人の話では近ごろは休息をとっているとの事だったから、もしかしたら今は寝ているだろうか。夢枕に滑り込まんと意識を潜らせてみるが、それは叶わなかった。どうも覚醒しているらしい。
ならば、と口にする。
「魈」
風元素を含んだ黒い霧のようなものが空間を切り裂き、少年が背後に座す。
「如何用で。」
目を伏したままこちらを伺う少年夜叉に、面を上げるよう伝えると存外落ち着いた様子の表情をしていた。
「おはよう」
まだ太陽は身を乗り出さず、陽光も疎らな内の挨拶は鍾離としてはなんとなく間が抜けている気がした。凡人はこのような時間にそんなことはしないだろうから。魈は先程までとは一転し、表情に動揺を浮かばせた。
もしかすると、何かの命でここに喚ばれたと思っていたのだろうか。最早鍾離は帝君ではない存在と成っている。そんな鍾離が魈を使役することはありえないのだが、先日望舒旅館で互いにその立場として言葉を交わしたばかりである。そう思ってもおかしくはない。
「お、おはよう、ございます。」
しどろもどろに挨拶を返す姿がなんだか愛らしかった。険呑さを帯びた様子を見せることがほとんどだが、稀に魈からは素であったのか幼い態度が垣間見えた。
「散歩に行こう。」
狼狽える檸檬色の瞳にそう告げると、益々困惑の混じった表情を見せた。
「承知しました。」
再度目を伏せるように、俯いた様子での返答だった。どうして自分が呼ばれる必要があったのか、まるで理解できないのだろう。
「なんだ。俺と並んで歩くのは不服だったか?」
「まさか、そのような意図はございません。」
慌てて視線を上げた魈に微笑みかけた。聞きたいことがあったら、何であろうど尋ねればいいのだ。その自由を有しているのだから。
魈は口を開けかけた。どうにか言の葉を発しようと選んでいたが、しかして思いつかないのかやがてまた閉ざしてしまった。
稲科の茂る水辺に陽の光が延びつつあった。柔らかな穂先が朝露でしとどとしており、光を反射している。繁茂する背の高い茎の間を掛け分け進み、後ろを振り返ると魈の姿が遠い。
ほぼ無意識に名前を呼びそうになり、伸ばした手をはしと掴まれた。どうも草で姿が隠れ、遠く感じていただけで、そう距離は開いていなかったらしい。
掴まれた右の手の平から、小さなものが零れ落ちる。小鳥が飛び立つ際に残した、青い一本の羽根だった。本来ならば蒼天にあるそれを、気が付かないまま大事に大事に持ち続けていた。
魈は繋いだ手と、鍾離の呆けた顔を交互に見比べた。伸ばされたものを反射的に掴んでしまった。鍾離が酷く寂しい顔に見えたが、錯覚だったかもしれない。いやどう考えても何かを見間違えたのではないか。思考を巡らせた末に、離そうとしたが手は握り返された。
鍾離の瞳孔に灯った光が、やや揺れる。まるで、潤んでいるようでもあるが魈には他人の詳しい機敏は判別し難い。
「眩しいな。」
目を細めてこちらに言う鍾離に、魈も後ろを振り返った。だいぶ陽が身を顕にしており、確かに日差しが目を焼いた。そろそろ戻りますかと尋ねようとして、視線を戻すと鍾離は日の出を見守っていた。
「魈」
「これは俺の勝手な望みだが…この地を離れて生きていく事があったとしても、それまではこうして一緒に朝日を見てくれないだろうか。」
石珀色の瞳が、今度こそ湿って揺らめいた。睫毛に朝露を乗せたように、重たげな瞬きを数度したまま鍾離は景色から視線を逸らさない。太陽を見ていると思っていたが、どうやら空を眺めているらしかった。
鍾離がそう望むならば、魈としては当然それに従うまでのこと。ふと魈の中で、散歩に誘われた際、鍾離から無言で求められた問いがようやく形を紡いだ。
「何故、我を選ばれたのですか」
はたと鍾離の焦点が魈に止まる。そうしたまま、黙ってしまった。いくら許されたからと、今になって質問などしなければ良かっただろうか。
背中を焼く陽光がいつもの何倍も熱く感じる。やけに右手ばかりがじっとりと汗をかいていて、手を繋いだままであったことに気が付き益々居た堪れない。魈を見つめたまま考え込んでいた鍾離がゆっくりと、築いた言葉を吟味するように瞬きをして目を開ける。
「お前がずっと隣に居てくれたら、いいと思っていた。」
常に明朗溌剌とした鍾離からは当然、無口で堅固な帝君からもとてもではないが想像し得ない、拙い答えだった。そして魈もまたその言葉を上手く言い表す方法を持っていなかった。
全身を熱が奔流するような感覚がして、動悸が落ち着かない。そうだ。元々されていた質問に答えなくてはいけない、そう思い鍾離を見上げる。
「俺はお前のことが好きらしい。」
繋いでいない方の手で、頬をゆっくりと撫でられる。負った傷はもう完治していたが、痕が残っていたのだろうか。魈の持っていない答えを、鍾離は持っていた。数千年生きてきて、孤独の方が余程親しい魈にはまだ有り様のない感情だった。
「鍾離様が望まれるならば、我は如何なる時もお側にあります。」
震えた声だった。唇が上手く動かないまま、それでも自分だって隣に居たいと伝えたかった。
頬に手を添えられたまま、魈の顔に鍾離の髪が影を落とした。視界のすぐ先にある石珀はもう泣いているようには見えない。宝玉にも勝る輝きが、檸檬色の瞳を写している。ややあって、やわらかな温もりが離れていった先で鍾離が笑う。
「魈からは好きと言ってくれないのか?」