秋澄む夕暮れに しつこく居座った夏の空の中に、少しだけ秋を感じる風が吹く。うだるような暑さに辟易としながらも気がつけば少しずつ空が藍に染まる時間が早くなり、季節が着実に移ろい始めているのを感じながら、人ごみの中で楊とジンジャーはその長い髪を揺らしながら歩いている。彼らのいる大きなショッピングモールは平日の夕方と言えど多くの人が歩いており、気の早いテナントの店先は秋の装いで客たちをもてなしていた。
「ね、ジンジャー。これはどうかな」
「いいね。きみによく似合ってると思う」
「ね、アタシもそう思う。……まあサイズは多分合わないんだけどさ。また今度他で似たようなのを探してみようかな」
苦笑しながら服を戻す楊に、ジンジャーは一緒に探してみようと声をかけた。休日前の食料品の買い出しの他に、気の早い秋物を物色しながら、せっかくだからと二人はあてどなくモールを歩く。時折目の止まった品々を他愛のない会話をしながら彼らは目的地へと向かっていた。
モール特有のごった煮に詰め込まれた店を巡って、二人はようやく目的地にたどり着いた。一歩立ち入った瞬間に感じるインクと紙の匂い、開かれた空間でありながらどこか独特の面持ちをしたそこは書店だった。一般書や雑誌だけでなく洋書も幅広く取り扱うこの店は、近隣の書店の中でも特に品ぞろえが良い。
「ありがとう。ちょうど欲しかった本が出る日だったから」
「気にしないで、アタシも久々に立ち寄りたかったしね。どうしよう、一緒に回るのもいいけど、それぞれに回るかい?」
「そうだね、そうしよう。きみも好きに見たいと思うから……。時間を決めて待ち合わせしようか」
ジンジャーの言葉に楊が頷いて答える。今日の主目的の一つがこの書店にあった二人は、時間と場所を決めてそれぞれに立ち去った。目的の本を探しに向かうジンジャーの背中を見送ると、彼女も当て所なく歩き出す。話題の新刊に発売日の週刊誌、今月号の雑誌などが平置きされてひしめく中で、楊は一枚のポップを見つけた。
『知らない誰かに、本を贈ってみませんか?』
画用紙に手書きの文字が踊る、いかにも手作りといった様相のそれにどうしてか目が惹かれる。気づけば楊はポップの傍にあったパンフレットを手に取った。
『知らない誰かに本を贈ってみませんか?
あなたの誕生日はいつですか?今日?明日?もう過ぎてしまいましたか、それとも、もっと先ですか?
誕生日が近いあなたも、通り過ぎてしまったあなたも、これからのあなたも、お誕生日おめでとうございます。
昨日は誰かの誕生日、今日も誰かの誕生日、明日も、その先の明日もずっとずっと誰かの誕生日。
そんな誰かの誕生日を、あなたの選んだ本で祝ってみませんか?』
温かみを感じる装丁の中身にはこう書かれていた。詳しく読んでみれば、書店で好きな本を選んで買うと、その本が匿名でどこかの誰かの誕生日に届けられるサービスらしい。同様に、自分の誕生日にはどこかの誰かが選んだ本が届けられるそうだ。そばを通りがかった店員に聞けば、どうやらまだ始まったばかりらしい。
パンフレットに目を通した後に、楊はそれを手に持ったまま歩き出す。腕を伸ばして手首の時計を覗いてみれば待ち合わせの時間にはまだ少し余裕がある。彼女は速足で店内を歩きだした。
とはいえ彼女は普段あまり本を読まない。一般的に本と言われて彼女が思い浮かべるのは小説だが、ジャンルごとに分けられた棚を見るだけで種類の多さに眩暈を覚える。そもそも一口に小説と言っても目に入るだけでミステリーからSF、ジュブナイルやライトノベルなど多岐にわたるのだ。贈る相手がわかっているのならどのようなものを選ぶべきかも見当がつくが、それすらわからないのだ。意気込んでみたはいいものの、どうしたものか……と途方に暮れていると楊は後ろから声をかけられた。
「シィ、見つけた。探したよ」
「ジンジャー!嘘、もうそんな時間だった?」
彼女が慌てて時計を見れば、確かに待ち合わせの時刻を過ぎている。本棚の前で悩んでいるうちに時間を忘れてしまったようだった。
「珍しく君が連絡もなく待ち合わせの場所にいないから、探しに来たんだ。何を探していたんだい?」
「心配かけてごめんよ。ちょっとね、贈り物になりそうな本を探してたら……」
贈り物?と首を傾げるジンジャーに対し、楊は先ほど貰ったパンフレットを見せる。中をめくって眺めると、ジンジャーはゆっくりと頷いた。
「なるほど、それできみは贈る本を探していたんだね。いいものは見つかったかい?」
「ううん、全然。一口に本って言ってもそもそもどんな本が贈り物にいいかなんて考えたこともなかったし。ね、ジンジャー。ジンジャーが良かったらなんだけど、一緒に考えてくれないかい?アタシは本をあんまり読まないから、一緒に考えてくれたなら心強い」
「わたしでいいのなら、是非。ふふ、それにわたしも面白そうだと思ったんだ。ちょうど、同じことを提案しようと思ってね。以心伝心、というやつかもしれない」
顔を見合わせて笑うジンジャーに、楊もまた頬を緩ませにっこりと笑って見せる。どんな本が好きな人に贈られるのかわからないものなのならば物語にこだわってみることもないのでは、と話す言葉に頷いて、二人はまず店内を一通り回って探してみることにした。
小説の本棚を離れ、顔を上げて探してみれば自分の思うよりも世界は様々な本と、それを抱える人に溢れていることに気づく。発売日の新刊を求めて飛び込んでくる学生に、専門書の棚の前で真剣な顔をするサラリーマン、自分の手で選んだ宝物の一冊を抱えて親の元へ走る小さな子供。それぞれが違う理由で訪れては真剣に本に向き合っている。今まで意識することがなかった風景も、改めて見てみれば違う発見があるものだ。
「そっか。どんな本を探しに来るのかも、本当に一人一人違うんだね」
「うん……、出会いみたいなものだと思うんだ。目的を持って探しに来る人も……というより、ほとんどの人はそうだと思うけれど。でもね、時折ああいう風に思ってもみなかった出会いがあったりして……、それも素敵なことだと思う」
難しい顔をして並ぶ本とにらめっこをしている楊に、彼はくすくすと笑いながら語り掛けた。手に取って眺めていた盆栽入門を本棚に戻し、そうはいっても、と彼女は口を尖らせる。そんな彼女にジンジャーはこう続けた。
「きっと、シィもあまり難しく考えずに選んでみても、良いと思う。これから選ぶ本がもしかしたらその人にとっての出会いの一冊になるかもしれないのだから、ね。それに、本といえば読むだけのものでもないとも思う」
例えば、と彼は彼女の手を引いて案内する。他の棚に比べれば足を止める人も少ないのか、そこには写真集などが少し気が抜けたように並べられていた。
「普段本を読まない人でもこういったものなら気を引くかもしれないし、日頃から読む人もこういったものは手に取らないかもしれない。これだって選択肢の一つだよ」
彼の言葉に、楊は目から鱗が落ちたようにぽかんとしていた。それから一冊、手に取って巻かれたシュリンクの上から表紙を撫でる。直感的に選んだそれだが、彼女にとってはそれがこの中にあるどんな本よりも相応しい答えのように思えた。
「これに、しようかな」
「決まったかい?」
「うん、ジンジャーのおかげ。なんとなくだけど、これがいいなって思えたんだ。これもある意味で出会いなのかも」
「わたしはただ少し案内しただけだよ。でもシィがそう思えた本が見つかったのならそれはよかった」
落とさないようにと胸に本を抱えてレジへと向かう。その姿は先ほど見かけた人々によく似ていて、彼女は自分がその光景の一員になったことにどこか照れ臭く、それと同時に胸が暖かいもので満たされた。誰かを想って本を選ぶことがいかに難しいか、けれど、それが如何に幸せな時間であるのか。それらが本と共に伝わればいいと思いながら本を渡す。選んだ本を店員に渡し、それが丁寧にラッピングされて行くのを見守り、それから二人で帰路に就く。
「誰に届くかもわからないけれど、喜んでくれるかな」
「さあね。でも、きっと。誰かを祝福したいという気持ちはちゃんと伝わるさ」
「ふふ……、そうだといいな。どこかの誰か、届く貴方の顔も名前も知らないけれど、誕生日おめでとう」
彼女の言葉に、彼も同じ言葉を返す。少し冷えた指先に、どちらからともなく手を繋ぎながら楊はジンジャーにはにかんだ。少しばかり冷え込んだ風が二人の間を通り抜ける。彼らの言葉を乗せて、別の街へと届けるように。
【秋澄む夕暮れに】