おるすばん手の中にある新しいとは思えないその鍵を、唯はまじまじと眺めた。鍵穴に刺して回せば、カチャンと小気味良い音が響く。
当たり前だけど、本物だ…。
ドアを開けて一歩進むと、不意にそこに彼を感じた気がして。何だか急に恥ずかしくなる。
休日の昼下がり。
一緒に昼食をとって部屋に行く途中、狗巻先輩は寮の廊下で先生に呼び止められる。振り向く先輩の顔は、少し不機嫌そうだった。
任務に関係する事なのか何なのか、唯はよくわからず、とりあえず一歩引いて話半分で聞いていた。
不意に狗巻先輩が唯を見て、ポケットから出した鍵を手渡す。
「ツナツナ」と、部屋の方を指差した。
唯は先生に一礼して、その場を後にする。
変な緊張感があるのは、いつもそこに居てくれる部屋の主である先輩が居ないからか。胸が妙にざわつくような感覚があった。
悪い事をしている訳ではないけれど。唯はすぐに扉を閉める。
「お邪魔しまーす」
小声で呟く。
ひとりでいるのに気まずいのは…ちょっと変な感じだけど。
唯は辺りを見回す。
必要最低限のさっぱりした狗巻先輩の部屋。大きな窓からは、柔らかな日差しが差し込む休日の午後。
少し迷いながら、唯はベッドの横に座った。
スマホを見るが特にメッセージもない。
狗巻先輩、まだかな。
昼からは出掛けようと話していた所だった。目的はないから、問題もないけれど。
何処へ行こう。
買い物もいいな。
甘い物も食べたいな。
…なんて、考えながら、唯はベッドにもたれ掛かり、天井を見上げた。
今日はあたたかい。
…あたたかい。
唯は背にあったベッドに向き直り、端に身体を伏せた。ふわふわの布団が気持ちいい。
瞳を閉じる。昨日は夜遅くまで任務中に溜まってしまった課題をやっていた。
目を開けて手元のスマホを見ると、やはり通知は何もない。
どの位たったのだろう。
唯は立ち上がりベッドに転がった。
抵抗がないのは、その場所が初めてではないからだろう。
狗巻先輩遅いな。
唯は再び瞳を閉じた。
狗巻先輩の匂いがする。
ぎゅって、抱き締められたような、ふわりと包み込まれる感覚。布団に顔を埋める。
早く帰って来ないかなぁ…。
思ったより話が長くなってしまった。唯にメッセージを入れたが、既読はない。
棘が部屋に戻ると、鍵は空いていた。無用心だ。
扉を開けて中に入ると、妙に静かで。
「ツナ…マ……?」
呼び掛けたけど、途中で辞める。
大きな窓からは温かな日差しが差し込んでいた。
いつもの見慣れた景色の中に、遠慮がちにベッドの真ん中よりやや端に、うつ伏せで眠る後輩がいた。
目深に被ったネッグウォーマーの下で軽く息を吐く。
無防備に眠る彼女の寝顔が愛おしい。
軽くその頬に触れると、微かに反応して頭を動かした。
こんな顔、他の誰にも見せたくない。
一層このまま、ここに閉じ込めてしまいたいとさえ思ってしまう自分がいる。
ぎゅっと、ネッグウォーマーを握った。口元をしっかり覆って、小さな、小さな声で呟く。
この世で一番大切な彼女に、決して聞かれないように。絶対に伝わらないように。
それが呪いにならないように。
「 大好きだよ、唯 」
言って目を伏せる。
やっぱり口に出すのは少し恥ずかしい。
いつか呪言をしっかりとコントロール出来るようになったら、この言葉を君に、伝える事が出来るんだろうか。
まだよく、わからない。
棘はネッグウォーマーを外してローテーブルに置く。ベッドの横に膝を付いて、もう一度唯の頬に触れて。その頬にそっと口付けた。
温かいものが身体に触れた気がした。
目を覚ますと、ぼんやり見える、そこになかったはずの紫がかった瞳に視線が絡んで。
「ツナマヨ」
意識が覚醒するのは一瞬の出来事だった。
「…狗巻先輩…!」
びっくりして起き上がろとする唯の肩に手を置いて、それを静止する。
ベッドの上で、向き合う形で唯を見て笑う狗巻先輩。ネッグウォーマーもマスクもなくて、笑顔の口元がよく見える。
唯は顔を真っ赤にして視線を逸らした。
「いつからいたんですか…」
人の気配も気付かないくらい、狗巻先輩の部屋で爆睡してしまうなんて…。
恥ずかしくて顔を上げる事が出来ない。
どの位眠っていたんだろう。
外は変わりなく日差しが差し込んでいる。
小さな溜息にも似た吐息が聞こえて。
ふと、笑う気配があった。
心臓が鳴る。速い鼓動が煩く響く。
「高菜?」
肩を抱いたまま、狗巻先輩は唯の頬に唇を寄せた。
くすぐったくて、恥ずかしくて、逃げようとする唯の身体を捕まえて、ぎゅっと力一杯抱きしめる狗巻先輩。
「おかか」
背に回った手が、苦しいくらいに唯を抱きしめる。顔を上げると、すぐにその唇を塞がれた。塞がれただけの唇は、簡単に離れて行ったが、熱を帯びた先輩の瞳が唯を捕らえる。
背に回された狗巻先輩の手は唯の手元に、握られたそれはシーツに押し付けられ、唯よりもひと回り大きな身体が覆い被さる。
軋むベッドの音が辺りに響いた。
「…狗巻、先輩……?」
呟いた彼の名前は、またその唇に塞がれた。ぬるりとした、舌先の感触。
「……っん…」
思わず小さく声が漏れた。次第に深く、深く侵入してくる。
絡まった舌先は、糸を引いてゆっくりと離れて行った。唯は肩で息をする。
「高菜、おかか」
少しだけ不満そうに、結ばれた狗巻先輩の口元。表情とは裏腹に、彼の手は優しく唯の頭を撫でる。
「起きるの、待って…ましたか?」
「しゃけー」
ジト目で唯を見つめる。
すみません、と小さく呟くと、狗巻先輩は唯の首元に顔を埋めた。掛かる髪がくすぐったくて。けれど、それ以上に触れられた首筋が熱くなる。ちょっとだけ痛くて、甘い痺れる感覚。
唯は狗巻先輩の首に腕を伸ばして絡みつく。
「 大好きだよ。…っ、棘先輩 」
ほんの一瞬、彼は微かに息を吐く。
唯はそれに気付かない。
End***