好きな子はいじめたい廊下の角を曲がると、そこに見覚えのある後ろ姿を見かけた。小柄な背中に色素の薄いマッシュルームヘアー。目深に被ったネッグウォーマー。
「…あ。狗巻先輩だ」
唯は思わず立ち止まる。
1年と2年の教室はそんなに遠くはないからすれ違う事も多いけれど。ここは教室からも職員室からも少し離れている。唯は授業で使った資料を資料室へ返却に行った帰り道だった。
狗巻先輩は割と距離が近い…、と思う。性格だろうか。普段から悪戯や悪ノリが多くて、体術や組手で身体に触れる機会も間々あるからなんだろうけれど。きっとその延長線上に唯もいるんだと思う。
先輩からしたら何気ないその距離感に、いつも唯だけがドキドキさせられていて。それでいて、いつも涼しい顔の狗巻先輩に何だかちょっと不満だった。
そんな事を同級生唯一の女の子野薔薇ちゃんに話したら、ちょっとびっくりされて、笑われてしまった。何だか腑に落ちない…。
少しだけ考えて、頭を捻る。
ただ後ろから声を掛けても別になんて事はないだろうなぁ、と思う。
…否、本来これが普通なんだけど。
少しだけドキドキと胸を鳴らしながら、歩く狗巻先輩に静かに近付く。唯はその背にそっと手を伸ばした。
別になんて事はない。いつも狗巻先輩がする悪戯と同じような事。
「狗巻先輩っ!」
唯は両手をいっぱいに伸ばして、ぎゅうっと背中から抱き着いてみる。
少しだけ唯よりも背が高い狗巻先輩の身長に合わせて背伸びをして、男性特有の広い幅のある肩口から顔を覗かせた。
ふわりと香る独特の匂いに、僅かに鼓動が速くなる。
「捕まえたー!」
そんな気持ちを隠して、得意気に宣言してみる唯。
「ツナ?」
少しはびっくりしてくれただろうか。ドキドキしてくれているだろうか。
と、覗きこむが、振り返る狗巻先輩はさほど気にした様子もなく目を細めて静かに肩口から唯を見ていた。
「…………ツナァ?」
「………っ?!」
思いの外近くにある狗巻先輩の綺麗な顔に、ドキドキと更に心臓が激しくなったのはやはり唯の方で。
「明太子」
言った狗巻先輩は自身の胸元に回された唯の両手を軽く握って掴む。反対の手で唯の髪を掻き撫でた。
「…ちょっ…っ!狗巻先輩!やめてくださいっ」
逃げようとしたけれど、ぎゅっと掴まれたままの唯の両手は、何やらコツがあるのか握ったまま離される事はない。掻き撫でられて乱れた髪がくすぐったく唯の顔に当たる。
「………。ごめんなさい…」
「すじこー」
呆れて笑った狗巻先輩は、唯の言葉に手を離す。
ホッとした唯は解放された手を下ろすが、瞬間、離されたばかりの片手をぎゅっと掴まれて、思い切り引っ張られていた。
「…………あっ」
倒れ込むように前のめりにバランスを崩すと、唯の軽い身体は壁際に追い込まれる。背中がひやりとした壁にぶつかり、先輩が腕を伸ばした。唯の顔の横に両の腕を回して壁に手を付けば、完全に囲われて右にも左にも動けなくなる。
「ツナマヨ」
捕まえた、と悪戯に囲う狗巻先輩の目は笑っているけれど。腰を屈めて目線を合わせ、数センチの距離から唯を静かに見つめる。
「高菜」
その綺麗な紫色の瞳に至近距離から見つめられれば、ドキドキと心臓が煩く鳴って顔に熱が上る。
目を逸らしたいけれど、動くことも出来ない。吐息がかかるくらいのその距離に。
唯は眉をひそめて目線を泳がせる。
「………む、無理です…」
赤くなった自分の顔を両手で隠して覆った。
恥ずかしくて狗巻先輩を見る事が出来ない。手の平の中でぎゅっと瞳を閉じて微かに俯けば、唯の額はコツンと狗巻先輩の額ににぶつかった。
「おかか」
狗巻先輩は唯の両手首を掴む。力を入れるけれど、勿論そんなものは彼にとっては抵抗にもならずに、難なく顔から両手を引き剥がされた。
すぐ目の前にある狗巻先輩の顔を見る事が出来なくて、先輩の視線を俯いて逸らす。
握られたその手が微かに震えた。
こんなふうに触れられれば、女の子としてはやっぱりドキドキするし、目の前の狗巻先輩はやっぱり涼しい顔をして唯を見ている。
「…先輩は、その…、ただの悪戯のつもりかもしれないですけど…」
言いながらも顔は更に俯き、目線はどんどん先輩から離れて行った。
「こんな…事されて、意識しない訳っ…ないじゃないですかっ」
唯は唇をぎゅっと噛む。
自分が言った言葉の意味に顔を真っ赤にして、目頭が熱くなる。次第に視界が歪んでいくのが分かった。
「私ばっかり…先輩にドキドキして…、真っ赤になって。狗巻先輩は、私の事…きっと、何とも思ってないのに…っ」
涙が溢れる。俯いてそれを隠すけれど。
ーーこんなの、告白してるのと同じだ…。
狗巻先輩は、掴んでいた唯の両手をゆっくりと離した。解放された唯の手は、行き場を失いするりと落ちる。制服の袖で涙を拭ってから顔を上げると、狗巻先輩は目を見開いて動揺を隠せない顔をしていた。
ーー言わなきゃ良かった。
拭った目元から、また涙が滲む。
狗巻先輩と目が合って。視線が絡むと、唯とは対照的に、先輩は目を細めて優しく笑った。さっきまでとは違う優しい笑顔だ。
「おかか」
と、言われて唯は戸惑う。首を傾げて、おかかの意味を探していると、不意に狗巻先輩の手が伸びた。びくりと身体を身構えれば、伸ばされた腕は、人差し指を折り曲げて唯の目元をそっと拭った。溢れた涙を白く細長い狗巻先輩の指が掬う。
「明太子、こんぶ」
優しい笑顔で涙を拭いながら、謝る先輩のその手は、滑るように唯の頬に触れる。くすぐったくて、ドキドキして。
でも、本当は少しだけ嬉しい。
「高菜」
狗巻先輩はネッグウォーマーのチャックに手を掛けた。ゆっくりと開いて、露わになる口元を目の前に、唯は動けなくなる。
普段はあまり見ることのない呪印の刻まれた口元が、ゆっくりと動いた。
“ す き ”
はくはくと動く唇を注視して、目を見開く。
一旦口を噤んだ狗巻先輩は、口角を上げて微笑んだ。
“ 唯 が す き ”
理解した言葉に動く事も、声さえも出ない唯の頬に、狗巻先輩は顔を寄せた。唯は反射的にぎゅっと目を瞑ると、耳元で僅かに、笑ったような音が聞こえて。
軽く頬に口付ける。
たくさん悪戯はされたけれど。
こんな風に唇が触れるのは初めてで。
「…………っ」
真っ赤になる唯から、狗巻先輩はゆっくりと静かに離れて行った。紫色の瞳は唯を捉えてから微かに笑んで、ネッグウォーマーのチャックを閉める。
「いくら」
固まる唯の頭にぽんぽんっと触れた先輩は、悪戯に笑う。
「ツナマヨ」
捕まえた、と再び告げる。
「…ぇ、い……狗巻、先輩…?」
先輩は唯から身体を離して一歩下がる。
ツナと呟いて何も聞かずにただ、またねと手を振った。
1年生の教室へ向かうのとは反対に角を曲がり、すぐに姿は見えなくなる。向こうにあるのは職員室か。
唯は狗巻先輩が消えた方を見ながら、感触が残る頬に手を添えた。
顔が熱い。どくどくと心臓が煩く脈打って鳴り止まない。
好きって、言われた?
気のせい…、じゃないよね?
〜♪
ポケットにあったスマホのバイブが揺れた。
確認すると、メッセージが一件入っている。送り主に表示された名前は、狗巻棘。
[ 授業が終わったら迎えに行くから
教室で待っててね ]
[ 返事はその時に聞かせて? ]
End***
〜♪
[男の人にいきなり抱きつくのはダメだよ‼︎ ]