いいこと窓の外からは虫の音が聞こえて。
日中はまだ暑い日が続くのに、陽が沈むのは早くなり、時折吹く柔らかな風に日々秋の訪れを感じる。
夏休みは夏休みらしい休みも特になく、任務に訓練に補習(と言われる授業)に追われる日常だったのだが。
一応に名目上の夏休みは終わりを告げた。
一夏を過ごし、もう見慣れた狗巻先輩の部屋。
ローテーブルに向き合ってお互い課題を広げる。
ちらりと目線を上げて見える2年生の教科書。そこに書かれた数式は1学年下の唯にはあまり馴染みのないものだった。
部屋着の狗巻先輩は、いつの間にかその手を止めて片肘をつき、いつものネックウォーマーも脱ぎ捨てて、ついにはお菓子を摘み始めている。
唯も何気なく手を止める。
シャーペンを転がして、ふと見た窓は陽も沈みかけ、室内は少し暗くなり始めていた。網戸から入る風が僅かに冷気を含んで冷たく頬を撫でていく。
ーーっくしゅんっ
むずむずする鼻を抑える。
冷たくなった指先を重ねて触れた。
「朝夕は寒くなってきましたね」
お菓子を摘む狗巻先輩を見る。
「…明太子?」
首を傾げる狗巻先輩。
先輩は然程寒いとは感じていないようだ。
けれど、指先を重ねて握る唯を見て、狗巻先輩は静かに立ち上がる。備え付けのクローゼットに足を向けた。
開いたクローゼットの引き出しから何かを探り、ぱっと顔を上げる。
「ツナツナ!」
言って得意気に広げたのは、少しだけ見覚えのある長袖の黒いジャージだった。
「ツナマヨっ」
唯の後ろに回り、ジャージを肩に掛ける。
瞬間、ふわりと鼻を掠めるのは、狗巻先輩が纏う独特の香り。
どくん、と大きく鼓動が胸を打つ。
「……………っ」
覗く目元が優しく笑う。
「こんぶ?」
肩越しにそちらを見れば、紫色の瞳が唯を見た。
「あ…ありがとうございます」
「いくら」
断る謂れも特に無く。
そのまま優しい香りのジャージを羽織り受け取る。
狗巻先輩は唯から手を離し、ベッドの縁に腰を下ろした。
「先輩…?課題は終わったんですか?」
聞けば狗巻先輩は目を細め、ベッドに転がるように倒れた。
「おかかー」
「終わってないんですね…」
「すじこ」
休憩、と言って、うーんと伸びをする。
ちらりとテーブルを見遣れば、それでも半分と少しは進んでいるように見えた。いつ提出の課題かは知らないけれど。
唯は借りた狗巻先輩のジャージに袖を通した。
黒地に緑のラインと模様が入ったオシャレなジャージ。
体格差は少ないが、不思議と男性物は唯には少し大きく、袖が出ない。
「ぶかぶかです」
「ツナ、おかかー」
文句言わない、と笑う声がする。唯もそれに笑って返した。
先輩はいつも身体を動かす時はTシャツを来ている事が多い。今も制服から着替えた部屋着は白地のTシャツ。
でも、そう言えばーー。
「春先に少し着てましたよね、これ」
少しだけ見覚えがあるのはたぶん、1年生の唯が入学したばかりの頃の記憶。温かくなった春先からはあまり出番がなかったのだろう。
「しゃけー」
と、向こう側から声が聞こえた。
唯は伸ばして僅かに出た手でジャージのチャックを締めてみる。
また感じる、ふわりと香る狗巻先輩の匂い。
もう幾分か慣れた狗巻先輩の部屋。何度も嗅いだその香り。
唯は膝を抱えて座り込む。
手を伸ばせば届く距離にいる大好きな人。
春先に彼がこのジャージを着ていた頃。
その記憶は曖昧で。
その頃は、こんな風に狗巻先輩を感じる日が来るなんて思ってもいなかったんだと思う。
思わず頬が緩んだ。
「狗巻先輩の匂いがする」
ちょっとだけ恥ずかしくて。
胸がドキドキと鳴った。
緩む頬を隠すように膝に額を付けて丸まる。
「ツナー?」
もう寒くないか尋ねる声に。
「あったかいです!」
そのまま答える。
しゃけー、と返事が聞こえた。
唯は伏せたまま目線だけを上げて窓を見る。反射して映る自分は、見慣れないジャージを着ていた。
静かな部屋。開いた網戸から入る空気はやはり少し冷たい。
ーーでも、温かくて。
「先輩にぎゅうって、されてるみたい…」
口の中で小さく呟く。
「……なんて」
言ってやっぱり、頬が緩んだ。
ギシッと背後でベッドが揺れる音がした。
伸びるその指先が、唯の肩をツンと突つく。
顔を上げて振り向けば、ベッドの縁に座り唯を見る狗巻先輩の綺麗な顔。
「ツナツナ」
呼び掛けて、狗巻先輩は唯の後ろに腰を下ろす。膝を三角に曲げて、唯の背中にぴったりと身体を寄せた。
その腕がスローモーションのようにゆっくりと伸びる。白く長い指先が唯の髪に触れ、肩にかかり、胸の前で結ばれた。
ぎゅっと抱き締められ、身動きも取れなくなる。
狗巻先輩の鼓動が伝わる。
耳元に寄せられたその顔は悪戯に笑っていた。
『 本物がいるよ 』
吐息のように薄く、掠れた声が小さく囁く。
「…………っ」
ドキドキとなる胸の音が煩く響いた。
囁かれた耳元が熱を帯び、顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。
「いくら?」
小さく開いた狗巻先輩の唇は、軽く唯の耳朶を喰んでいく。たったそれだけなのに、ぞくっと背筋が粟立つ感覚があった。
ぎゅっと目を瞑れば、狗巻先輩は唯の髪を撫でて掬う。閉めたばかりのジャージのチャックを半分下ろしてその首筋に顔を埋めた。
「……っ、… せん…輩……?」
ん、と思わず声が漏れると、首元で小さく笑う気配があって。
そのまま構わず、唯の首筋に唇を落とす。
啄むようにひとつ。また、ひとつと口付けて。
それは次第に深くなっていく。
ちゅ、とリップ音に、狗巻先輩が顔を上げると、ほんの僅かに痛む首元には赤い鬱血痕が残っていた。
「…狗巻、先輩…?課題、まだ……」
ーー終わってない。
言い終えるより先に、狗巻先輩の唇が唯の口を塞ぐ。
触れるだけの軽いキス。離れていく口元には蛇の目の呪印。
その人は微かな笑みを浮かべて紫の瞳を細めた。
「しゃけ?」
赤い痕に白い指先が触れて、悪戯にくすぐっていく。
「たーかな、明太子?」
“ 課題より、イイコトしませんか? ”
End**