Valentineday♡2月14日
バレンタイン。
唯は誰も居ない教室にひとり、ぼんやりと閉じた窓の外を眺めていた。
茶色の枝が静かに揺れている。夜には雪が降る予報だった。雪の気配を含んだ2月の風は身体の芯から凍えるように冷たくて。
唯は指定の黒の制服の上に黒のコートを重ねた。
はぁ、とため息をひとつ吐いて、鞄の中にある小さな箱を取り出す。
今日は唯も狗巻先輩もお互い任務はなくて。
掌に包み込まれたその小さなプレゼントを、渡す機会はいくらかあったはずなのに。
黄みがかったクリーム色に近い白の箱に、店名がオシャレに印字された紫のリボン。
それはまだ、唯の手の中にあった。
背伸びをして買った、有名なブランドのチョコレート。
野薔薇ちゃんに背中を押されて買ってみたけれど、本当は渡す勇気もなかった。
ーーただ、ほんの少しだけ。
渡せたらいいな。
…なんて。
憧れで買ってみただけのチョコレートだった。
それは、今日渡す事が出来なければ、何の意味も持たない“ただのチョコレート”。
気が付けば、午前の授業も昼練も終わっていた。午後の実技もまたあっと言う間に過ぎて行ったけれど。
いつまでもこうしてぐずぐずしていたから、気が付けば狗巻先輩の姿は教室になくなっていた。
「どこへ行ったんだろ…?」
今日はグラウンドが使えないので夕練はなしになったはずだ。
鞄も教室には見当たらない。
寮に戻ってしまったんだろうか。
それとも何処かへ出たのだろうか。
でも、今更メッセージで呼び出す勇気もなくて。
チョコレートを片手に少しだけ辺りを探せば、狗巻先輩は案外すぐ近くにいた。
古びた木造の校舎、北側に位置して陽の光が薄い見慣れた廊下。ーー狗巻先輩は、見覚えのある補助監督の女性と向き合っている。
楽しげに狗巻先輩に話し掛ける彼女の手には、オシャレな袋があった。
なんだか、見てはいけないものを見た…、
気がして。
唯は静かに背を向けた。
冬の日暮れは早い。
気が付けば、陽は傾いていた。
吐いたため息は白く濁って消えていく。
「……帰ろう」
小さくひとり呟いて、見つめた白の箱はとても綺麗だった。
「…………」
次第に、白が揺れて視界がぼやけていく。
鼻の奥がつんとして、唯は溢れた涙をコートの袖で拭った。
コト、と音を立ててチョコレートの箱を机に置く。
もう一度目元を拭ってその箱を見た。白の箱には、狗巻先輩の瞳に似た色彩の紫のリボン。
それは渡せなかった、
“ただのチョコレート”。
ーーもういっそ、自分で食べてしまおうか。
そう思って紫のリボンに手を掛けてみるけれど、やっぱり解く事も出来なかった。
力無く触れた指先から、紫のリボンがすり抜けていく。
コンコン、と。
開いたままの扉をわざわざノックする音が聞こえた。
「ツナマヨー?」
振り向くよりも先に、聞き慣れた語彙が唯の耳に届く。
「…………っ?!」
心臓がひとつ大きく跳ね上がった。
「…い、い…ぃぃい狗巻先輩?!」
「しゃけ〜」
慌ててそちらを見れば、さっき見掛けた時と変わらない制服のままの狗巻先輩。
挙動不審な唯にもいつもと変わらない笑顔で手を振っていた。
「明太子?」
入っていいかと尋ねるように声を掛けるが、その癖唯の返事を待つ気はないらしく、狗巻先輩は無遠慮に後輩の教室に足を踏み入れた。
唯は白の箱を隠すように机の前に立って、身体ごと狗巻先輩を振り返る。
「どうしたんですか?」
近付く狗巻先輩に目を向ける。
色素の薄い亜麻色のマッシュルームヘアに、吊り目がちな紫の瞳。夕陽がそのシルエットを照らしていた。
「あ。虎杖くんたちは夕練がないから武道場に行くって話してましたよ?野薔薇ちゃんは…お買い物に行くって走って行ったかな」
教室にはもう唯の鞄しか残っていない。
「おかか」
目の前に立ち止まった狗巻先輩は、唯の言葉を否定する。人差し指で唯を指差した。
「…私、ですか?」
傾げた首に、しゃけ、と頷く狗巻先輩。
「こんぶ?」
唯に向けた指先で、狗巻先輩は自分の顔を差して示す。
先輩の語彙はまだハッキリ理解出来ない。
でも、ジェスチャーや表情で何かしら伝わる事も多い。
唯はその指先をじっと見る。
唯から、狗巻先輩……、
あ。
「…探して、ました」
2年生の教室に行く時にパンダ先輩に会った。その時に狗巻先輩の居場所を尋ねた事をすっかり忘れていた。
「ツナ?」
「あ、あー…いえ。大した用事ではなくて…」
言いながら、胸がぎゅっと掴まれたように痛くなる。唯は狗巻先輩の視線に耐えられずに俯いた。
もうこれがラストチャンスかな、と。
ほんの少し期待して。ちょっとだけ勇気を出して、チョコレートを片手に2年生の教室を覗いてみた。先輩はいなかったけれど。
ーーここに来る前、廊下で補助監督の女性と一緒だった狗巻先輩。
唯も顔見知りの綺麗な人だった。
彼女からのチョコを狗巻先輩が受け取ったのかは分からない。
唯がそれを訊ねてどうこう言う権利も勿論なかった。
唯は狗巻先輩のプライベートをほとんど知らない。
どんな人がタイプなのかとか、好きな人がいるのかとか。そもそもだけど、付き合っている人がいるのかもしれない。
ただずっと憧れていただけで。
優しくて。
一緒に居ると楽しくて。
ドキドキして。
でも、ただの先輩と後輩。
そんな関係が壊れてしまうのも怖くて。
今更聞く勇気もなければ…、
背伸びして買った本命チョコを渡す勇気もやっぱりない。
両手をぱたぱたと振って何でもない意を無意識に伝える。
「もう大丈夫です。何でもないです」
言って顔を上げた。唯は努めて笑顔を作る。
「明太子?」
けれど。見上げた狗巻先輩は、訝しむように唯を見ていた。
「本当に、何でもないんです。すみません、わざわざ手間をとらせてしまって」
折角任務も夕練もない平日の午後。
否、夕練は何となく手の空いてるメンバーが集まるだけだから義務ではないのだが。
狗巻先輩は変わらず唯をじっと見ていた。
「こんぶ?」
真っ直ぐに唯を見る紫の瞳。
口元はネックウォーマーで隠れていてその表情は読み難い。でも、何かを考えるように僅かに目を細めた。
…たぶんその顔に、笑顔はない。
居た堪れなくなって、唯はまた視線を逸らした。
「今日の午後実技で。なんか…疲れちゃったので、私はそろそろ寮に戻りますね」
唯は踵を返して、狗巻先輩に背を向けた。
自分の言葉が少し不自然に響いた気もしたけれど、気にする余裕もあまりなかった。
鞄から出して、机に置いたままの白い箱を手にする。狗巻先輩から隠すように静かに持ち上げて、そのまま鞄に手を伸ばす。
「…おかか」
呟くように唯の背後から聞こえたその声。
それと共に伸びた腕が、唯の肩に触れた。
「いくら」
とん、と狗巻先輩の細くて長い指先が、唯の隠そうとした白い箱を指差してつついた。
「高菜?」
誰にあげるの?と。
その瞳は、ただ真っ直ぐに唯を見ていた。
「これ…は…、その…」
ちらと横目で狗巻先輩を見れば、交わる視線。
何の表情もなく僅かに見下ろす狗巻先輩。
唯はすぐに目を逸らして、白の箱を見た。
紫色のリボンが小さく揺れる。
「あの、自分用で…。今から食べようかな、なんて…」
持っていた箱をぎゅっと握る。
慌てて鞄にしまおうとすると、狗巻先輩の掌が唯の手に触れた。唯よりもひと回り程大きな男性の手が、小さなその手を静止する。
「おかか」
唯の指先が震える。
ずっと憧れていた、大好きな先輩。
その人が今すぐ側にいて。
唯に、触れた。
その手はやっぱり温かい。
狗巻先輩に渡さないの?と、野薔薇ちゃんにけしかけられて。渡せたらいいな、なんて用意したチョコレート。
ーーでも。
狗巻先輩の手を払って唯は机に箱を置いた。
「先輩は…その……」
俯いて、机に置いた白い箱を見つめる。
「…さっき、新田さんに貰ってたじゃ、ないですか…」
言いながら、自分の声が震えている事に気が付いた。喉の奥から込み上げるものをぐっと飲み込む。
視界がまた、少し揺れていた。
狗巻先輩は驚いた様子で言葉なく目を見開く。
ーーそんなの、私には関係のない事なのに。
何だか苦しくて。
はぁ、と息を吐いて、袖で目元を拭う。
「…いくら」
隣から、戸惑ったような声が聞こえてはっとする。
「すみ、ません…」
駄々を捏ねる子どもみたいだ。
唯は発言に素直に謝った。
狗巻先輩の顔を見る事が出来ない。
「…すじこ」
ため息混じりの声。
ーー面倒な事を言って嫌われたかもしれない。
また、涙が滲む。
けれど、唯の側でフッと、笑う音が聞こえた気がした。クスクスと静かに笑う。
「………?」
予想外の反応に、滲んだ涙が引いていく。
唯は思わず顔を上げた。
狗巻先輩は持っていた鞄のチャックを開けた。その後に、カサカサとビニール袋の音が鳴って、机にひとつ、ラッピングされたチョコレートクッキーが置かれた。
袋の口元が細い紐で閉じられていて、そこにタグが通してある。
[ 唯ちゃん ]
タグには手書きで唯の名前が書かれていた。
「………?」
唯を一瞥して、笑う狗巻先輩。それからまた、鞄からカサカサと音を響かせて、隣にもうひとつチョコレートクッキーが並べられる。
タグには[狗巻くん]と書かれていた。
「これ…、ん?」
狗巻先輩は鞄からオシャレなビニール袋をひとつ取り出した。口を広げれば、中にはいくつかのラッピングされたチョコレートクッキーの袋。タグには[真希さん]や[虎杖くん]と見慣れた名前がいくつか書かれてあった。
「………??」
狗巻先輩は唯の名前が書かれたクッキーを指で摘み、差し出す。
「ツナマヨ」
どうぞ、と渡されて唯はそれを受け取った。
「これ…。もしかして新田さんから?」
「しゃけ!」
頷いて笑った狗巻先輩。
先輩は唯の手をとって、その掌を人差し指で触れた。人差し指を動かして、一文字ずつ、ゆっくりと何かを描き指先を滑らせていく。
や き も ち や い た ?
一文字ずつが繋がって、意味を理解した途端に唯は言葉を失った。一気に顔に熱が上り、茹蛸のように真っ赤になっていくのが自分でも分かる。
「……ち、違っ!!違います!!」
慌てて訂正するが、違くない…事もない…。
恥ずかしくてまた手元を見る。
落とした視線の先にあったのは、唯が用意したチョコレートだった。
「ツナ?」
呼び掛ける声と共に、狗巻先輩の手が唯の腰元をすり抜けて行く。ふわりと、包み込まれるように伸びた腕。
背中に温かなぬくもりを感じた。
唯の肩口から顔を覗かせて、狗巻先輩の指先が白い箱を指差した。
「高菜?」
くれないの?と、呟いた声が直接唯の耳に届く。亜麻色の髪が柔らかく揺れて、唯の頬に触れた。
心臓がまた、大きく跳ね上がる。
体術や組み手で慣れているはずの狗巻先輩の体温。でも、こんな風に不意に距離が近付くのは初めてだった。
胸がドキドキと煩く鳴っている。
触れたままの背中が熱い。
唯は何も言えず、ただ静かに頷いた。
狗巻先輩も、それに言葉はなく唯の視線を追う。
白く長い指先が、紫のリボンに掛かった。
するりとリボンを外して、白い箱の蓋を開ける。小さな箱の中には、宝石のような綺麗なチョコレートが6つ並んでいた。
唯の、本命のチョコレート。
狗巻先輩は唯の背中に触れたまま、一番端のチョコをひとつ摘んだ。ほんの少し動く度に、狗巻先輩の匂いがふわりと香る。その小さな息遣いが感じられるくらいの距離。
ドキドキと煩い唯の心音が、聞こえてしまうんではないかと不安になる。
ネックウォーマーをズラして、顕になった口元には、蛇目の呪印。開いた舌先には、牙の印が目に入った。
頭がうまく回らない。
ぼんやりとそれを眺めていれば、不意に狗巻先輩の唇が静かに閉じた。
チョコレートを持つ狗巻先輩の手が止まる。
“ 見 す ぎ ”
口の端が持ち上がり、意地悪な笑顔が見えた。
「おかか」
また一瞬にして真っ赤になる唯。顔から火が出そうだとはこの事だ。
目を逸らして俯く。恥ずかしくて顔を上げる事が出来ない。
「ツナ?」
狗巻先輩は覗き込むように唯の顔を伺う。
「ツナマヨー?」
肩口から覗く狗巻先輩のその顔は、楽しげに唯を見ていた。
唯は声すら出す事が出来ないで固まっている。
俯く唯の頬に、狗巻先輩の指先が触れた。
チョコレートを持つ手の反対側。
人差し指が爪を立てて悪戯に頬をくすぐり、滑っていく。
「………っや、…」
肌に触れるくすぐったい感触に、思わず笑みが溢れる。身体を捩って逃げ出そうとすれば、更に狗巻先輩の指は唯を追いかけた。
「……やめ、」
ーーて下さい、と。
小さく抵抗して狗巻先輩の指先から逃れるように顔を上げると。
紫の瞳と視線が交わる。
「………っ!」
唯を見て、僅かに細くなった目元。
狗巻先輩は手にしていたチョコレートを自分の口元に運んだ。歯を立ててチョコレートを挟むと、パキンと小気味良い音が辺りに響く。
不恰好に半分になったチョコレート。
片方はそのまま狗巻先輩の口の中に消えていく。
「高菜」
低く掠れた小さな声。
残りの片割れを、狗巻先輩が唯の口元にそっと押し当てた。冷たくて、硬い感触。
「……んっ」
僅か開いた唯の唇に、無理矢理に押し込まれる、甘い半分のカケラ。唯は抵抗する間もなく、されるがままに口に含んだ。
狗巻先輩の指先が少しだけ唯の舌に触れて、ゆっくりと離れていく。
口の中には、甘く蕩けるチョコレートの香り。
濡れた先輩の指先は、唯の唇をそっと撫でた。
ーー先輩の真っ直ぐな瞳。
唯は目を逸らす事が出来なくて。
固まって動けない唯に、狗巻先輩はまた、優しく笑う。
密着していた身体を離して、残りのチョコレートが入った白の箱を、紫のリボンごと手に取った。
「いくら?」
“もらっていい?”
言って唯を見るけれど。
狗巻先輩は唯が口を開くよりも先に、箱のふたを閉じた。
「ツナマヨ」
End***