Snow white最近、急に痙攣のように身体が震える。
今の季節は夏で、周りを見れば歩く人間皆半袖を着るくらいの機構であった。何か嫌な予感がしたわけでもないけれど、何をしようとも身体の震えが止まらない。そろそろか、とヴォックスは自分の意思に反して震える己の手を見つめて息を吐いた。
鬼。悪魔。幾年もこのような名称で呼ばれ続けた。勿論、ヴォックスは人ならざる存在で、人間が呼ぶ名称は間違ってはいない。不老不死。人ならざるモノは得てしてそのような特徴を持っていると思われがちだが、実はそんなことは無いのだ。ヒトより長く生きていても、その終わりは存在する。この世に生きるモノには、全て終わりというものが在るのだ。どれだけそれに抗おうとも、誰一人して終わりに抗うことなぞ出来ない。不老というのはあろうとも、不死というこの世の理に反する行動は赦されてはならないのだ。ヴォックスも、この理に逆らうことが出来ない存在の一つである。
マ、ごちゃごちゃこんなことを並べていても今の状態は何も変わらないのだが。
「ミスタに、告げるべきか」
己がもうすぐ死んでしまうことを。ミスタが、ヴォックスのことを置いて逝くのを恐れていることを前告げられたばかりなのだ。ヴォックスも、また愛しい人を見送らねばならないのかと覚悟を決めてミスタと関係を結んでいたというのに、よもやヴォックスが置いていくことになろうとは。
「告げても告げなくとも、あの子は傷付いてしまうのだろうな」
ヴォックス本人もすぐ近くに終わりの足音が聞こえていることを上手く理解出来ず、声を放っていることによって冷静を保とうとしていた。
四百年。千年程生きた同類を知っているヴォックスにとっては長くとも、短いとも取れぬ年月だ。むしろ、戦乱の世に一番初めに舞い降りたとして長い方なのではないか。戦場に足を運んだ時点でヒトに殺されていた確率もそう低くはないだろうに。ヒトに初めて触れた頃のヴォックスが今のヴォックスの様子を聞けば有り得ないことを耳にしたように笑うことだろう。
「俺が?人間と?そんな馬鹿なこと起こる筈がなかろう。人間と俺は共存出来ぬ」
黒歴史と化しているあの頃の記憶を思い出すだけで頭が痛くなってくる。ヒトも、ヒトの世も。常識さえ知らない無知な存在であったのだ。あれから、多くのヒトを出会った。多くのヒトに殺した。ヒトというのは皆違うことを知った。
こんなにも、愛せる存在がいることを知った。この四百年の間でどの時期が一番楽しいか、自分らしくいられるかと問われれば間髪入れずに今この瞬間だ、と答えるだろう。ミスタと共にいる自分が最もヴォックス・アクマでいられるのだ。
思考に耽っている間だけは、己の身体の不調を感じずにいられる。
「ただいま〜!」
思い切り扉を開く音と、どたばたと元気の良い足音がリビングへと向かって勢いよくやってくる。そのままリビングに繋がる扉も開けられ、ソファに一人で座るヴォックスの前に回り込んだミスタが思い切り腹に飛び込んできた。
「……おかえり、ミスタ」
まだ腕の、身体全体の震えは止まっていない。ヴォックスに甘えるようにぎゅうと抱きしめるミスタは、当然その震えに気が付き、訝しげな瞳をヴォックスの方へ向けた。
「寒いの?」
こんなに暑いのに、と言うミスタの服装は勿論涼し気な半袖だ。ヴォックスは羽織を膝にかけており、蝉の鳴く夏に決して似合わぬようなタートルネックを身に纏っていた。
「そうさな……とても寒い」
ミスタが近くにいるのにこんなにも心細い。死んでしまう、と理解してから心臓にぽかりと埋めることの出来ない虚が空いたようだった。もう、少しの間しかミスタと喋ることが出来ないのか、と思うと数百年前に無くなった筈の死への恐怖がふつふつと沸いて出てくる。
「オレがあっためてあげる」
ぴとり、と太陽によって温められたミスタの腕が氷のように冷えたヴォックスの腕に触れる。
「冷たっ!?なんでそんな冷えてるの!?」
ヴォックスの体温に驚いて、一瞬だけヴォックスから離れてしまう。すぐにヴォックスの元に戻るが、その冷たさが信じられないようで、何としてもヴォックスの腕を温めようと何度も擦っていた。
「なぁ、ミスタ」
まるで世間話のように言葉を投げかける。
「俺はもうすぐ死んでしまうみたいだ」
「……エ?」
ぱちくり、と元から大きな瞳がいつもよりも大きく開いた。急に恋人が死んでしまう、と言われればこんな反応になってしまうだろうな、とクスリと笑みを浮かべてしまう。
「何言ってるのヴォックス、エイプリルフールはもうとっくに過ぎたよ」
「嘘じゃないさ」
「嘘、だよ」
「俺を信じてくれないのか?」
こんなことを言うのはズルいだろうが、ミスタは困ったように押し黙る。愛しい恋人が、死んでしまうだなんて。それも、ヒトではないヴォックスが。共に逝くことは出来ないことは覚悟していたけれど、ヴォックスが先に逝くことは欠片も想定していなかった。
「やだ、」
「ウン」
「やだ、オレ、やだよ」
みるみる内にミスタの瞳に涙が浮かんでいく。頭の回らない子ではないから、理解してしまったのだろう。こんなに冷えているヴォックスは、もう既に死んでいるみたいだとも、思ってしまった。駄々っ子のように嫌だと繰り返し告げるミスタが首を振る度に、ぽたりぽたりとヴォックスの服に涙が染み込んでいく。
「オレ、ヴォックスとしたいことまだ沢山あるもん」
「俺もだよ」
「絶対、嘘だよ。今だけはヴォックスのこと信じない」
「それは困ったな……二度目の告白だぞ」
「そんなの告白って言わないよ、バーーカ」
お前を好きだ、と初めに告げた時と同じくらいミスタのことを思っている。それはヴォックスにとって告白と同等のようでもあった。自分が居なくなる最期の瞬間を見てくれ、と。
我儘な子は逃がさないとでも言うようにぎゅうと思い切りヴォックスを抱き締める力を強くする。
「オレも一緒に、」
「ダメだ」
それだけは絶対に。
「……なんで」
「なんでも何も。お前はまだ寿命を迎えてはないだろう。それを無理矢理連れて逝くことは俺には出来ない」
今すぐにも瞳から涙が零れ落ちそうなのを、ヴォックスは頬を噛むことで耐える。
「俺だって、お前と一緒がいいさ」
はぁ、と吐く息が白くなっていた。あと何日持つかは分からない。己の持つ感情の全てをミスタに告げるつもりで、ヴォックスは言うことを聞きそうにない身体に叱咤をかけながらミスタの頬に手を伸ばした。
「愛してる。愛しているよ、ミスタ」
「オレ、オレも……ヴォックスのこと、愛してる」
「あと少しの間だけ、共に過ごしてくれ」
「言われなくてもそうするに決まってんじゃん。オレがヴォックスを置いてどっかに逝くと思うの?」
「ひひ、」
か細い笑みを漏らして、ヴォックスは極上の表情をその美しい顔に浮かべる。
「強い子だな、お前は」
「ヴォックスよりは強いよ」
「おやまァ。強気だこと」
こんな状態になっても減らず口なヴォックスが、今この瞬間にも消えそうに感じて、ミスタは堪らず口付けた。まるで氷にキスをしているように冷たくて、少しでも自分の体温を移そうとミスタは舌を差し入れる。
「んぅ……」
負けじと、ヴォックスもミスタに舌を絡ませた。火傷してしまいそうなミスタの熱が直接伝わってくる。ぱちぱちと目の前が点滅して、あまりの幸福にヴォックスは包まれていた。
「ヴォックスが居なくなったら、オレどうなるんだろうな」
「ミスタはミスタのままだろう。俺が居なくたって何も変わらないさ」
「変わるよ。今のオレを作ったのはヴォックスなんだから」
「……光栄なことだな」
「だからオレのこと忘れないでよね」
「こちらの台詞だな、それは」
クスクスと、二人だけで笑いあっているだけで時は刻刻と過ぎていく。窓の外から聞こえる蝉の鳴き声があまりにも不釣り合いだった。
人形のように冷たく、動かなくなったヴォックスの身体を撫ぜる。アンバーの瞳はもうミスタを映すことはない。骨ばった手も、ミスタの頭を撫ぜない。足りない。何もかも。ヴォックスが、足りない。愛しくて仕方がないヴォックスが、もう、いない。
「……大好きだよ、ヴォックス」
嫌だ、と全てを投げ出しそうになるのをグッと堪えてヴォックスの唇に自分の唇を重ねる。一瞬か、数分か。ヴォックスを前にすると時間の感覚が無くなってしまうようだ。
どれだけ時間が経っても、毒林檎を口にしたヒトのように瞳が開かれることは無かった。