しばらく羽根があるやつはみたくない今日も今日とて平和な一日だ。
空は不自然なうねりを帯びているし、女が仕事をして住まっている此処には何か間違って触れてしまうと何を起こすかわからぬ現人神がおわすから、平々凡々な、とはとても言いきれまい。
だがそれでも手に職がありきちんとした住まいがあって、日々の糧をそれほど心配せずに済み、更に戦乱からは程遠い……それがコトゥアハムルでなくて何なのだと、戦乱しかなかった國から流れ着いた女は思う。
今になって思えば、ヤマトもまた此処のように一つの巨大な王権により安定していた世界の一つだったのだと分かる。
そこに親しみを覚えることはないけれど、郷愁を越える微かな羨みが増したのは事実だった。
手の中で布をパンと広げて竿に干していく。
この調停者ばかりが住まう宿坊では、洗うより破いたり燃やしたりするのが先になる輩が多いので、洗濯物はそう多くない。下着などは流石に個々人がこそこそと風呂の際に下洗いを済ませているし、今彼女が行っているのは同じ旗下にある仲間のものを、安く引き受けたからにすぎないのだ。
上が厄介な案件を引き受けやすいせいか、遠征が多い。それで滞る日常の世話をしてやる事が多いのはヒトによっては辟易とするものにも思えるが、生来世話好きである娘にしてみればそう苦ではないのは幸いで。
今の彼女は組付きの世話役と調停者の仕事を半々に受け持っている面が大きかった。
武人の子として長子として、戦さ場を駆け巡る覚悟も力量もあったが、彼女の父はただ平凡な妻となることを願っていた。
母のない中途半端な環境からか、将であることと、後方支援を行う手であることの両方が熟せたが、逆にいえば嫡女であり一族の女としては半端な育ちとなってしまったと、彼女とて思うところもある。
それでももはや彼の地へ帰る事ができないのであれば、今はその半端さも役に立つのだから人生は分からない、そう嘯いて、エントゥアは日向に小さく微笑んだ。
ざりざりと歩いてくる音が聞こえ、彼女が振り返る。
此処は宿坊の裏手にあるから、わざわざ勝手口から入ってこない限りは鎧の音が聞こえるはずもない。
まさか賊か。
咄嗟に短剣へと手を添えようとしたところで、白い指先が緩んだ。
「あらおかえりなさい、皆さん。今回は山一つ向こうへの遠征でしたよね、お疲れ様でした……って、本当に大分お疲れですね旗長……何かありましたか?」
「ぎくっ……あ、エントゥアか。洗濯してくれていたのか、助かる」
「ええはい、このくらいは……ところで旗長だけじゃなく、スズリさんとクゥランさんまで、何故そんなボロボロになってるんですか? 今回は蟲退治でしたよね?」
「な、何も聞いてくれるな……と言いたいが、そうもいかんよな……」
怪我の治療はした後のようだが、三人が妙に衣から煤けた臭いを漂わせている。
今回は四人で引き受けて行ったと聞いたが間違いだったか。
裏手に入ってきたのは汚れが酷かったせいか、仕事が失敗して上からの叱責を恐れたからか。
失礼にもそんなことを勘案してエントゥアが首を捻っていると、活力丹はないかとアクタが渋々と問うてきた。
緊急用にいつも握っているものの一つをすっと差し出して、ついでに洗濯桶の横にあった真水の桶から大きな布を取り出してやる。
三人が三人とも、げんなりした顔で煤を被っている気配がしたのだ。これは追求よりも風呂に追い込むより、ある程度綺麗になってもらう方が先と判断した。
幸いに今は初夏の頃合いだ。三人が着物ごと濡れるのも構わず、水を頭から被せ、洗濯したばかりの手拭いを渡す。
多少まとわりついていた臭いが落ちたおかげで、いくらか元気も戻ってきたのだろう。
草の上にどかりと座り込んだクゥランが涙目になりながら、兵糧の残りを口に押し込んでいる。その隣からやはりへとへとになっていたらしいスズリからも端的にありがとうと返してきた。アクタだけは感謝を口にしながらも、何故か頭を抱えていたが。
ぐいぐいと己の手で髪の毛を拭いながら、アクタがどこか遠い目で、雑木林しか広がっていない後ろを窺う。
「……ふう、濡れ手拭い、サンキューな……」
「いえ……それで何故裏手から入ってくるような次第になったのかはお聞かせ願えるのですか?」
「ああ……お叱り受けるだろう奴を考えると、先に詳細を知らせてやった方が良いだろうし、な……」
「はい?」
「色々と条件重なって、かなり酷い目にあってな……」
どこかうんざりしたような声が、黒い仮面の下から齎される。
誰のことかとエントゥアが問う前に、左右から涙ぐんだ声が続けられた。
「蛾、出た……」
「…………今回の退治対象は蜘蛛だったのでは……」
「蜘蛛もいたよ。ただ依頼に書いて無かったけど蛾もいたんだ、それも大量に……うえぇ、口の中入ったの思い出しちゃった……」
「うわあ……」
あまり表情の多くないスズリどころか、普段快活なクゥランまでも泣きそうな顔をくしゃくしゃに顰めて青ざめているのを見れば同情しかない。うっかりその状況を想像したエントゥアまで、思わずぶるりと震えて己が肩を抱いた。
「そ、それで無事にお仕事は終わったのですか?」
「……なんとかな、スズリと、アイツが一気に燃やしてくれたんで、どうにか……最後の最後で死ぬかと思ったが」
「」
アクタの言いように固まり、そういえば四人の筈と思い起こした。
遠征に出ていた後一人は見当違いできちんといたのか、という思いと、そういえばちょうど一昨日から不在の彼も遠征とだけ、言葉足らずに呟いていた事を思い出して……雑木林の間に蹲って、宿坊の柵の中に入ってこない大きな巨躯を見つけた女はあからさまにため息を溢した。
「何をやってるんですか、あなたは」
帰路、普段なら先駆けを好んで獣を追い散らすような男が、今回ばかりは殿を務めるという体で、小さくなってアクタの後ろを着いてきたらしい。
普段から多少焼けた肌ではあるが、今はそんな言葉では言い表せないほどに真っ黒くろすけに……いや、黒い壁か塊みたいになってすごすごとしょげている姿を仰ぎ見て、エントゥアは本日で一番嫌そうな顔をしてしまった。
そこにあった顔は、神代の書物でたまに見る、髪の毛全体が毛先までがちりちりになった格好の、顔まで真っ黒に煤けさせたヴライがむすっと唇を噤んでいた。
だが説明下手であり、どうも戦犯らしき男からとても聞く気にはなれず、旗長に何気なく視線を向けてみると、アクタが小さく呟いた。
「虫の鱗粉でも、粉塵爆発って起きるんだな……」
「……皆様がご無事でほんっとうに良かったです」
先ほどまでの皆の説明と、彼のたった一言で、何が起きたか理解したエントゥアは彼ら以上に遠い目へと変じた。
今回の依頼は大量の虫、とくに蜘蛛が多く発生して手に負えないと助けを求めたものだったのだ。
それが行ってみたら蜘蛛どころか色々雑多な虫が森から追われるように飛び出て村で暴れまくっており、大元を断とうとして彼らは森へと踏み入ったらしい。
結果として、諸悪の根源が森の洞窟に棲みついた野良の術者だったそうで、術の暴走を起こして、そこらに多かった蛾を巨大化させたそうだ。大量に。
つまり洞窟という閉塞した場所で彼らは大量の蛾に襲われ、その悍ましさから口数少ない男は反射的に火神を発生させたのだろう。
事態をあっさり飲み込んだ女性は、それ以上何も言わず、男の頭へ桶ごと水をぶっ掛けてから、一番大きな活力丹を頭からぶっ掛けてやる。
「痒みはありませんか」
「う、む」
「幸い鱗粉は全部焼けちゃったから、そっちの治療は大丈夫だと思うぞ……全員な」
「では皆さんはお風呂で煤を落としてきてください。私はこのヒトを看護室に連れて行きますね」
「……怪我は、ない」
抵抗するように雑木林の折れた枝の中に蹲っている男の耳を掴んで、女がいい笑顔になる。
「ヴライ将軍?」
「ぐっ……何、だ、女」
「まだ鱗粉の爛れが残ってますよね? 毒の鱗粉を風呂や宿坊に持ち込まれても困りますので」
「……ぐぬ」
いつになく厳しい娘の物言いに、郷里では将軍であった男が押し黙る。
結局看護室でもエルルゥ達薬師からお湯を大量にかけられまくった男が風呂で汗を流せたのは、半日ほど後だったという。