長い溜息のヌコ「はあああ…………」
「……えっと何だい、ベナウィ?」
つい数日前。
馬車によりひっそりと皇都へと帰還したのは、この國の始祖皇であり、オンカミヤムカイの影響色濃い地域では誰よりも尊い存在であった。
三々五々にかつての仲間たちや家族が只人となった男の帰りを喜び、涙した。
ただその帰還の儀式が……ひっそりと城内の裏手であったのは幸いした。
「あーにーじゃああああ!!!!」
「うわああっ兄者様だ!!」
「兄者様っっっ!!エルルゥ様も!」
「主さま!?ほんもの、ですのっっ!?」
「ま、まさか我らカルラウアトゥレイの恩人である彼の方か!」
「聖上っ 聖上でありますか!!」
「おとーさん!」
「ガルルルぅぅぅ!!」
「お、おじさまあああ!!!」
「おおおっ総大将じゃねえですかい!!姐さんもお元気そうで!」
「ちょ、ちょっと皆さん落ち着いてっ 今のハクオロさんはっっ」
「お待ちになって皆様っ あ……」
「いぎゃああああああああ!!!??」
「「「「「」」」」」
馬車から降りるハクオロを2人して支えていた、巫女装束のままのエルルゥとオルヤンクルであるウルトリィが現状説明などする暇さえ与えられず……執務中で気がついていなかったベナウィとクオン(いつもの抜け出し旅からの帰還すぐのお仕置きで侍大将により椅子に縛られていた)を除いたかつての仲間全員プラスアルファに飛びかかられ――いや、この場合襲い掛かられたという方が適切だろう――ハクオロは瀕死の重傷一歩手前の大怪我を負わされた。フレンドリーファイヤというやつである。
現在、新しい痛み止めを隣室で調薬するため席を外しているエルルゥと、最高位の治癒術を施しているオルヤンクル、そして冷静さだけはピカイチであるベナウィと実娘以外は完全にこの部屋へ立ち入ることは許されておらず、他の仲間は誰一人始祖皇療養室とされた離宮から周囲数里、ウルトリィの結界により近寄ることもできなくなっていた。
何せ今のハクオロは虚弱である。
これ以上なく、どう見てもひ弱なのである。
かつて彼らとそこそこ肩を並べるだけの頑強さがあったのはあくまでウィツァルネミテアであったからだ。
これ以上、それこそクロウ辺りが冗談でそっと肩を突つくだけでも骨折して逝きかねないのだ。
そんな訳で現在。
ぼろぼろと泣きながら初めてお会いする実父にととさま、と呼びかけて膝の上の手をぎゅっと握りしめて見せたクオンでさえ、必死に我慢して、父に撫でられるまま抱きしめ返そうとはせず、ひたすらその花のような笑みを溢してみせる以外は行わない。
怪我さえしていなければ、初対面の父娘との邂逅は無事に行われたろうに――感傷的になるなど滅多にないベナウィという男は珍しくそんなことを考え、頭を抱えていたのであった。
当の侍大将とて、かつて忠誠を表し誰よりも尊敬させられた男との再会が嬉しくないわけがない。それこそあの中庭の騒ぎにさっさと気がついてさえいれば、ベナウィとてあの仲間入りをして今この部屋に近づけさせて貰えなかった可能性が高い。
そこはまだ運が良かったと思うばかりだ。
だが。
(再会の挨拶は、もっと厳かであるべきでは!? 彼の方を大怪我させた彼らに私は説教を食らわせ、エルルゥ様とウルトリィ殿は治療に奔走する羽目になりっ こんな再会の儀式は望んでいませんでしたよ!!)
はあああ、と長い長い溜息を落として、男が額を床に擦り付ける。
ゴンっと音を立てたのに、床に転がる白い顔の男がぶるりと震えた。
「……長のお勤め、ご苦労様でした、聖上……いえ、ハクオロ様」
「はは、今の皇はクオンで、私はただの無職のおじさんだよ、ベナウィ。様もいらないんだが」
「そんなわけに行きませんよっっ 始祖皇ともあろうお方が無職など! 引退とおっしゃって頂きたい! ……っ」
どこか驚いたようなぽかんとした笑みを溢してみせたハクオロが……まんまるく鷹目のそれをした後、くつりと笑ってみせた。
それはかつては一度も見せたことのない柔和なもので、どこか慈愛を浮かべるものであった。
「そうだねえ、皇から大神まで、それなりに長く働いたんだから隠居ということで、今後はヤマユラに住むのもありかな? それともこの世界で息をするようになってから見たことがない地域も多いから……エルルゥと共にお忍びで旅をするのもありかも、ねえ」
「……身体をまずは治していただきたく」
「はっはっは。それは当然の話だろ、ふふっ」
「聖……上皇、様?」
どこか面白そうに笑いながら、目の前の怪我人は肩を振るわせる。
一瞬、いだっと悲鳴を溢して蹲ったがそれでも笑いは止められないらしく、口の中でくつくつと笑い続ける。
「いや、おまえ、かなり丸くなったんだなと」
「は?」
「かつてのおまえであれば、相談役として残れとか、皇の補佐になれとか平気で言っただろう? 使えるものであればヌコの手でも、がおまえの信条のようなものだろうに」
「……さすがに私も、皇を降りられて長い方に戻れとまでは申し上げませんが? それに」
「それに?」
ぶすりと、どこか子どもじみた、遠い遠い昔にすでに捨て去った表情と感情をなぜか吐露して、ベナウィは掠れた声であさっての方向を向きながら溢した。
「オボロにクオン、そして他にも。政務を行う手は十二分に此処にありますから、ね」
「……一応オボロもすでに上皇だよな?」
「あれは予備です。女皇も良くお逃げ遊ばされますので? かつての貴方のように」
「う、うぐっっ」
冷たい目がちらりとハクオロを一瞥した。
その視線から逃れるように、か。
とんと頭に置かれた手のひらの暖かさに、ベナウィが不思議そうに目を丸くした。
「私が不在の間、この國を護りあの子を……クオンを家族として愛して、皆を取り纏めるという役目、よくやってくれた。ベナウィ」
「せい、じょ……うわっ
がしがしと髪を乱すほどに頭を掴まれ、首を横に振らされる。
どこかいたずらっ子めいた笑みをしながら声を響かせるハクオロは本当に単なる只人のようで。
戦乱の中、その柔らかさを表すことができなかっただけなのだと、侍大将は思い知らされた。
思わず溢れかけた涙を無意識に堪え、頭の手を甲で軽く払う。
「うぐっ!?」
「わ、私は子どもではありませんが……上皇?」
「……指が、折れた。ウルトリィとエルルゥを呼んで、くれない、か?
「は、あ?! も、申し訳ありません! 直ちに!!」
ぷらんとありえない方向にねじ曲がった右手の中指を押さえ、涙目になるハクオロに、真っ青になって男がらしくもなく飛び跳ねる。
この後、エルルゥの痛み止めとウルトリィの治癒術にてハクオロの怪我は問題なく治ったものの、割腹すると言って聞かない侍大将をウルトリィとクオンが涙目で取り押さえるという騒ぎが発生。
ハクオロの今後が冷静に検討されるのは、いくらか先延ばしされたという。