ぼくの手に余るもの 花火大会の余韻残る、高揚感漂う浜辺で――
人影もまばらになった頃、メイン会場より少し外れた防風林の樹の下、密やかに絡み合うよう深く口づけを交わす男女の姿があった。
黒い浴衣の肩へ添えられた白い手。
濃藍に白く浮かび上がる首筋。着衣の裾から白い脚が覗くと、掴み、持ち上げるよう撫で上げる手の平。
――衝撃で変な声が出てしまった
**
最近、気になって仕方がない小波先輩が、よりにもよってナスのおかずを僕のカップ麺へ入れた。夏休み前の昼休みのことだ。ナスも先輩も大いに否定してしまった。少し子供じみてたと羞恥も感じたけれど、そこは譲れなかった。先輩は呆れながらも、僕の隣で昼食をとっている。二人でいると、サーフィンの話をよくしている気がする。というより僕のことばかり尋ねる。そういう人だった。
スマホの着信が鳴り"お母さんだ"と呟き、先輩は通話を始めた。麺をすすりながら聞くともなしに聞く。
「……うん…分かった。大丈夫。八月七日だよね。行ける事になったよ。叔母さんに伝えて」
――バイバイと言って、先輩は通話を切った
「……来月の七日って、何かあるの?」
「ああ、うん。叔母さんのお店の手伝いに行くの」
「……その日って、花火大会じゃ…?」
「そうそう」
「そうそうって…行かないの?…夜ノ介先輩と」
「誘ったんだけど、その日は劇団の後援会の方と関係者席で見ることになってるって。前から決まってたから、予定を動かせそうにないみたい。残念…」
「ふうん」
いつもより気落ちして見えたのはそのせいか。横目で、先輩の横顔を見つめる。しばらく経ってから言った。
「先輩と一緒に花火大会へ行きたい男子、いくらでもいると思う」
「いくらも居ないと思うけど」
「例えばぼ……」
僕だってと続けそうになり、慌てて言い直す。
「リョータ先輩とか」
「玲太くんと…」
「いや、やっぱりそれは良くない」
「え、どっち」
「どっちもない。君と話してると調子狂う」
「何か怒ってる?ナスのことかな。一紀くん、私と一緒に花火大会行く?」
「き、君が一緒に行きたいのは夜ノ介先輩だろ?それに、店の手伝いに行くよね。そもそも、何でもっと食い下がらなかった訳?じゃあ、他の人を誘うからとか、言ってみれば良かったのに」
小波先輩が悲しそうな顔をした。判ってる。そういう人じゃないから僕だって、彼女に惹かれているんだってこと。
「君さ、もっと自覚した方がいい」
「何を?」
「自分で考えて」
彼女の隣、一番近くにいたいと考える人は、大勢いるってこと。浴衣姿の小波先輩と、花火大会へ行ける特権を与えられながら、それを断るなんて。理解できない。僕なら絶対にしない。
僕なら……
桜色の前髪が伏せた瞼にかかって、表情が隠れる。それ以上先輩を見られずに、そっぽを向いた。
「一紀くん、ほんとにナスいらないの?」
「ナスはナシ」
八月に入り数日経った頃。夜ノ介先輩が僕のバイト先、花屋アンネリーへお客として来店した。
「イノリ君、こんにちは」
「いらっしゃいませ」
「お祝い用の花束をお願いします」
「ブーケとアレンジメント、どっちにしますか?」
「お任せするよ」
「花の指定はありますか?」
「それもお任せで」
真夏だというのに、しかも夏休みに夜ノ介先輩はきちんとネクタイを締めている。今だって仕事の途中なのだろう。住む世界の違いを感じるし、尊敬するところでもある。
ふと、小波先輩の悲しそうな顔と、幸せそうな顔を思い出し、僕はあるブーケを作った。
出来上がったブーケをカウンターへ置き、店内の花を眺めている夜ノ介先輩に声を掛ける。
「持ち帰りますか?」
「いえ、配送でお願いします」
書き込みを終えた配送伝票を受け取りながら、先輩の表情に変化はないか、じっと観察する。
「ありがとう、綺麗ですね」
花束を見ても、何の反応もなかった。小さく溜め息をつき。このまま何も言わずにおこうか葛藤したけれど、自分の為だとそうした。でも小波先輩の為に言おうと思った。
「このブーケに見覚えないですか?」
「え?どうでしょう…よく、贈答用で利用しているので、すみません、判らないな」
「僕、今から休憩に入るので、十分だけ話しませんか?」
「それは構わないけど…」
休憩室へ移動して、自分のスマホから写真を表示し夜ノ介先輩へ見せた。
「これは……美奈子さん?」
数分前作ったブーケとほぼ同じものを手にして、笑う小波先輩の写真だ。
「先月の始めにアンネリーでイベントがあったんです。アレンジメント教室をやって、その時に小波先輩が作ったブーケですよ。夜ノ介先輩に贈るって言ってました」
「え?僕に?」
「はい、劇団の夏の公演、開催祝いで」
「知らなかった。僕が直接受け取った訳ではないようです」
「その様子じゃ、そうでしょうね。多くの贈答品の中へ埋もれてしまったかも」
「そんな...帰ってリストを確認してみます」
画像を見つめ、少しショックを受けている先輩を見て、やはり余計な事を言ったかもと、気が咎めた。
――でも、僕なら見逃さない
「夜ノ介先輩、今日僕は…」
先輩が顔を上げ、僕を見る。
「小波先輩へ電話して、花火大会に誘おうと思ってます」
「イノリ君…」
「…それが嫌なら、僕より先に電話したほうがいい。先輩にも色々事情があるだろうけど、僕には関係ない。ただ、もっと近くに行きたいと思っているだけ」
顔を見られず、下を向いたままで言う。静かにスマホを差し出された、受け取ろうと手を伸ばすと、サッとそのままスマホごと引かれた。
二人の視線がぶつかる。
夜ノ介先輩は穏やかな表情をしていた。
「油断は禁物だと、肝に銘じておきます。僕は、彼女の隣を誰にも譲る気はありませんよ」
「だったら…」
「ええ、何とかします。花束のこと教えてくれてありがとう」
スマホを差し出された。なんなら微笑みさえしているかも知れない。溜め息をついて、受け取る。
「早くしないと、バイト終わったらすぐにも誘いの電話、しますから」
「判りました」
部屋から出ていく背中を見送る。勿論、小波先輩に電話をかけたりはしない。発破をかけただけだ。叔母さんの手伝いがあると言っていたけれど、二人で何とかすればいい。夜ノ介先輩には敵う気がしないし。結局のところ、どちらの先輩も僕にとっては大切なんだと思う。
**
美奈子の叔母が営む店は、珈琲専門店だった。
メインで働く店員が、通院で休暇の為手伝いが必要だという。そういった場合、母が手伝いへ行くこともあるけれど、私も時々行っている。珈琲豆や粉の販売、配達。喫茶スペースもあるし、テイクアウトもあるので、週末になると割と忙しい。常連のお客さんが多いと思う。落ち着いた雰囲気のお店で、香ばしい珈琲の香りにいつも癒される。
アルバイトからの帰宅途中、夜ノ介くんから電話があった。
『柊です』
彼は、スマホの電話でも名乗る。面白いのでそこは指摘しないでいる。それに珍しい時間帯の電話なので少し驚いた。
『今、大丈夫ですか?』
「うん大丈夫」
『あの、断わっておきながら、申し訳ないのですが、あなたを花火大会へ誘いたくて電話をしました』
「え!そうなの?」
思いがけない内容で更に驚く。
『関係者席のほうへ、一緒に来て頂けませんか。団員もいるので、紛れてしまえばいいだけです。最初からそうしておけば良かった』
「え?いいの?…うん、それで大丈夫なら……ああ、でもどうしよう」
『別の誰かと行きますか?』
強めの低い声が耳元で響き、少しゾクッとした。
「う、ううん、その日、叔母さんのお店の手伝いへ行く事になっちゃったの」
『ああ、そうなんですか……』
がっかりしたようで、ホッとした声だ。
「うーん」
こうなってしまうと、私は行きたくなった。
よし、じゃあ――
夜ノ介は、うちへ帰宅後すぐパソコンを開き、夏の公演で受け取った贈答品リストのファイルを確認する。事務方に、後でまとめて確認できるよう写真に撮って、残しておいて貰っていた。忙しく確認作業がまだできていなかったが…。日付けごとにまとめてあり見易かった。多くの差し入れや見舞品に感謝しながら、目的の画像を探す。
それは、テスト明け平日の週のファイルにあった。
スタンド花とまとめられていた為、控え目な花束は確かに判り辛かった。生花は、数日以内に団員が分けて持ち帰るので、当然花束は残っていないだろう。画像をスマホへ送る。
ミニバラ、トルコギキョウ、ユリ、彼女らしく愛らしい花束だった。
――ああ、これは
よく見ると、気づいた事があり深く溜め息を漏らす。
物心つく前から大人達に交ざって育った為、初めて同世代の女の子を好きになり、未だ戸惑うことが多い。後々こうしておけば良かったと、後悔ばかりだ。自分の都合で、振り回してしまった。
――自分勝手な男だと、彼女も呆れているだろうか?
花火大会の当日は、店の手伝いが夜七時まで、花火の開始は七時半からなので、店から直接会場まで来るという。浴衣に着替えている時間が無いことを残念がっていた。確かに、彼女の浴衣姿が見られないのはこちらも残念だが、一緒に居られる事のほうが重要だった。漠然と先の不安を感じる。
何かしら彼女を傷つけるような事をするのでは?と――
叔母さんの店で一番人気のコーヒー豆は、オリジナルブレンド。『はばたき』という商品名だ。予定通りの時間に閉店し、手土産に『はばたき』を持って行くことにした。浴衣は着られないけれど、せめて白のワンピースへと着替える。サマードレスにも見えてお気に入りの一着だった。叔母さんがしきりに、花火大会へ行くのに手伝いを頼んでごめんねと謝っている。私は叔母さんのお店が大好きだった。"また手伝いに来るね"と手を振って、臨海地区へ急いだ。
会場へは花火が上がるギリギリの時間に到着した。関係者席のほうへ、直接訪ねて下さいという事だったので足を向ける。昨年は夜ノ介くんと二人で来たけれど、小さな頃は家族と、中学生の時は友達と来ていた。関係者席があると知ってはいたけれど、そこは特別な大人達の場所で、自分には関係がないと思っていた。
「こちらのスペースは、関係者席になっています」
突然、女性に前を遮られ目を丸くする。
「え!あのっ」
「お嬢さんは…関係者のかた?」
「はい!え?……いや」
どうなんだろう?と思った。確かに違う。
「違います」
「もしかして、出前の方ですか?」
あぁ、珈琲店の紙袋を持っていたからだ。
「違います……」
「ごめんなさい、ここから先は関係者以外入れないの。場所を間違えてない?」
(そうだよね…)
ただ素直に、何も考えずに、迎えに来て貰おうとスマホを取り出した。
その時、
ドーンと、一発目が打ち上がり夜空を彩り始める。大きく空気まで震わせるような音に、一瞬ビクッと肩を竦めた。わあと歓声があちこちで上がり、拍手の音も聞こえる。スマホを操作する手が止まって、夜空を見上げてから、関係者席へと視線を移す。
――大人の世界
お酒が振る舞われ、華やかな浴衣姿の男女。夜ノ介くんはああいう世界で育ったのだ。私の日常や当たり前とは違う。これから知る場所…
別世界だった。
普段、いくら背伸びをした洋服で着飾ったとしても、私の中身はまだ高校生で、子供とまではいかなくても大人とも言えない。ただ、紛れてしまえばいいだけだったのに。私が想いを寄せている人は今、学校とは別の表情を見せている筈だ。それはきっと、とても素敵で胸は高鳴るのだろう。ただ、遠く感じるかも知れないよね…
スマホを持つ手は意識もせず下りてゆく。一歩が踏み出せなくなった。
――違う。そうじゃない。私は単に気後れしているのだ。隣で笑っていられる自信がないだけだ
一歩、もう一歩と後ろへ下がり、そっと、引き返し始める。とぼとぼ歩いていたのが、連続して上がる花火の音に合わせ、少しずつ早足になってゆく。
――接し方を変えたりしないで下さい
足が止まった。
(うう、どうしよう)
幸せそうに笑い合う男女や、はしゃぐ子供とその手をひく両親が、美奈子とは反対を向いて歩いてゆく。ぎゅっと拳を握る。
(夜ノ介くん、ごめんなさい。そうじゃないからね)
ほぼ俯いたままで、沢山の花火客の足元だけを見ながら小走りで駅まで引き返し、メッセージを送った。
"関係者席に入れず、そのまま帰ります。"と。
折角誘ってもらったのに。夜ノ介くんには後で改めて謝らないといけない。
でも、今日は駄目だった。
花火が上がり始め、少なくはなったが、まだ混雑している駅構内を歩いていると、スマホに着信があった。溜め息をついて、もう帰ってしまった事しようと思った。
「はい」
『美奈子さん、今どこですか?』
"柊です"って言わなかったなと、ぼんやり思った。
「もう、帰っ…」
『駅ですね』
「え、なんで?」
『駅のアナウンスが聞こえます』
「う…うん」
『迎えに行くので、そこで待ってて。帰らないで下さい』
「……わかった」
夜ノ介くんの声の勢いが強く、判ったとは言ったけれどまだ迷っていた。珈琲店の紙袋もどこかで手から放れてしまったみたいだ。空の手を見つめる。そのことに気づきもしなかったなんて悲しくなる。遂に視界がぼやけ、滲んできたようだ。
駅構内へ入るとすぐに彼女を見つけた。完全に目が合ったというのに、反対を向いて歩いて行こうとする。
「美奈子さん、待って!」
呼び掛けると彼女は止まった。追い付き、前へ回り込んで手を取ろうとして、動きは固まる。
「泣いてるんですか。どうして?」
「………目にゴミが入って」
小さく息を呑んだ。
「……両方の目に?」
「うん、そう」
「……」
ほろりとまた、涙の雫が頬へこぼれる。
「まだ取れませんか?」
「全然」
何としても誤魔化すつもりのようだ。また、みるみるうちに瞳には涙がせり上がり。正直どうしていいのか判らなかった。狼狽えているのを隠さないと、とそればかり考えている。
彼女はこうして、僕の知らないところで僕のした事に傷ついて、今までも泣いた事があるのだろうか。
――小さな花束を前にして笑う彼女が脳裏へ浮かぶ
たまらなくなり、抱きしめたくなった。舞台の上で、稽古で、女性を抱き寄せることは何度もやった。演技ならできた。でも相手は美奈子さんだ。役者ではないし僕の恋する相手だ。しかも人目のある駅構内でなんて驚かせてしまう....
頭では制止しているのに、ゆっくり手を伸ばしてゆく。
親指で頬の涙をすくい、そっと腕を取り彼女を引き寄せて抱きしめようとすると、ぐっと両肩を押し返された。
「だめ。夜ノ介くんの浴衣が汚れる。も、もうなおるから」
さぞや面食らった表情をしているに違いない。小さく溜め息をつく。人目ではなく浴衣のことを気にするなんて全く予想外だった。やはり、彼女は判り易くて判らない。
「さっき、帰ろうとしてましたか?」
「え?」
「え?じゃないです」
「だって…」
「すみません、僕が…」
彼女は最後まで言わせなかった。
「違うの。私が悪いの。ごめんなさい」
どう考えても僕が悪いのに、責めない上に自分が悪いのだという。
「先ほど、劇団のスタッフに叱られました。あなたを関係者席に呼んだこと。僕が間違っていました」
「私は嬉しかったよ」
「ありがとう、急用で帰った事にしてもらったので、もうあの場所へは戻りません」
そっと、優しく手を取った。
「とにかく行きましょう」
ぐすっと鼻を鳴らす彼女の手を引いて歩いていると、小さい子の手を引いているみたいだった。
露店の通りまで引き返して来た。花火がスタートしている為か、人は少なくなっている。彼女は、まだ涙で一杯の瞳で、お店をキョロキョロと目移りするかのように見回している。
「お腹はすいてませんか?」
「凄くすいてる」
「何がいいですか?美奈子さんのお好きなもので」
「夜ノ介くんは?焼きそば食べた?」
「まだです」
「じゃ、それで…」
「座長さん、彼女泣かせちゃったの?」
露店のおばさんに声を掛けられた。
「はい、面目ないです」
美奈子さんが慌てて言う。
「違うんです、目にゴミが入って...」
まだ言っている。
「あらまあ、可愛い彼女にこれあげる」
袋一杯の、ベビーカステラを差し出された。
「ありがとう」
彼女は、丸いお菓子の詰まった袋に手を伸ばし、ようやく笑顔になった。
「すみません、ありがとうございます」
「早く行かないと、始まってるよー」
おばさんは笑って手を振る。花火の見える浜辺まで戻ると、劇団の事務方が手を挙げ走って来た。
「焼きそば、二人分確保しときましたよ。小波さん、こんばんは」
「こんばんは」
礼を言いながら焼きそばのパックが入った袋を受け取る。彼女も顔見知りの劇団スタッフだった。僕の隣で、慌てて前髪を直し始める。赤くなった瞳を隠そうとしているようだ。その様子を一瞥して、彼は呆れ顔で言う。言わずにはいられなかったのだろう。
「座長はどうしようもない人だ、ねえ小波さん。あっちの外れですが、若い団員が場所を取っているので、二人で行ってきて下さい」
ちくりと、嫌味を含めてから浜辺の先を指差す。
「判りました、色々すみません」
彼女と一緒に頭を下げながら、事務方の指差す方へ向かった。
焼きそばを食べ、今は甘いベビーカステラを頬張っている彼女は、何事もなかったかのように、いつも通り僕の隣で笑っている。口を開けば、お互いが謝ってばかりになってしまう為。もう、ここまでの話は終わりにした。来年は、すでに予定を入れておきましょうか、と言うと、まだ今年の花火も終わっていないのに?と、呆れている。いつも言う、今埋めてしまえば予定は入りません、だ。
二人で笑い合って、大輪の火花で彩られた夜空を見上げる。
あとひとつ、彼女に謝らないといけない――
今年最後の、打ち上げ花火が空から消え、遠く女性のアナウンスが途切れ途切れで響く。拍手がまだパラパラと起こる中。立ち上がろうと手を突くと、そっと腕を取られた。
「美奈子さん、あと少し話しませんか?」
と夜ノ介くんが言う。
「うん、いいよ。何?」
スマホの画像を見せられた。
「あ、これ」
私が夏休みより前に贈ったブーケだった。
「すみません。気付けなくて。イノリ君に、あなたが作ったものだと教えて貰いました」
(一紀くんが...?)
「それは、全然いいよ。そういうものだと思ってるし....」
「そういうものとは?」
「公演期間中は、お花なんて沢山頂くだろうし、埋もれてしまうものだよね。こうして写真に残してあるだけで私は嬉しいけど?」
「…ありがとう」
「次、また贈る時は言うね」
「いえ、もう見逃しませんので大丈夫」
「そうなんだ。ふふ、判った」
「それと、花束にカードが添えてありますよね?」
「うん、描いた。ポストカードサイズの絵を描いたよ」
「う…そうでしたか」
彼がどっと疲れたような顔をする。やっぱり言った方が良かったのかな。押し付けがましく思われたくなかったし。確かに、週に何度も顔を合わせているのに、黙っているのもおかしかったよね。
「ごめんね?」
「何であなたが謝るんです。謝るのはこちらです」
「あの…絵は撮影してあるから、画像で良ければ送るよ?」
「心配には及びません。手紙とカードは保管してあるので、必ず見つけます」
「そっか。判った」
「僕が後回しにせず、早く確認しておけば良かったんです」
「夜ノ介くん、忙しいから仕方ないよ…」
「いいえ、いずれやる事だったので…さあ、帰りましょうか」
彼が先に立ち上がり、私の手を取って立たせてくれる。
「今日は来てくれてありがとう」
「うん、楽しかったね?」
手をぎゅっと握り返して、笑顔で言った。
少し目を見張り、泣き笑いのような表情をして、彼は頷く。
「はい」
あ、ちょっと強く握りしめ過ぎたかな、と思った。
泣いた事は美奈子にとって既に、些細な事である。
メイン会場よりもだいぶ外れの浜辺で見ていたので、周囲はほとんど誰も居なかった。まだ、露店や駅周辺は混雑しているのだろうか?と、考えるともなしに歩いていると、ふと、隣の彼は立ち止まっていて、並んでいない事に気づいた。
慌てて振り返ると、何かをじっと見入っている。
近くまで引き返し、彼の肩越しに私も覗いた。
――視線の先を辿ると
防風林の樹の下で……
「ひゃっ!」
私の声に驚き、慌てた彼は私に目隠しをした。
「あ、あなたは見ては駄目です」
衝撃で変な声が出てしまった。
私の視界を遮る位置へ立つと、二人して、これ以上赤くなりようがない程、頬も耳も染めて見つめ合う。
「あ…んなところで」
「いえ、何も言わないで下さい。行きましょう」
彼が私の手を掴むよう握って、引っ張って行く。好奇心に負けて、チラと振り返ってしまった。また、更に悲鳴を上げそうになるのを必死に飲み込んだ。
二人共に頭の中は、先ほど見た光景が一杯で、微妙な雰囲気の帰り道となった。
家の前まで送ってもらい、別れ際も私は何と言っていいのか判らず。
「わ、私に、見ては駄目だと言ったけど、その、夜ノ介くんもだよ?」
などと思ったそのままを口走っていた。彼はサァッと赤くなり、
「ですよね。あなたにあれを、見せてはいけないという一心で、つい…」
「凝視してました」
「面目ありません」
「花火で、盛り上がっちゃったのかな…」
彼は、片手で顔を覆ってしまった。
「……全く、あなたって人は」
「う……もう、この話も終わります」
「ふふっ…あなたと居ると、思いがけない事ばかり起きます」
「えっ、私のせい?」
「割とあるあるだと思います」
そう言うと、私の横髪を優しく指で掬って、直ぐに離した。
「じゃあ、また次も期待していますよ。おやすみなさい」
期待ってどういう意味?
「もう…」
大きく息をついて。彼の背中を見送った。
**
実は、今年も新しい浴衣を買っていた。夜ノ介くんの隣へ並んでもおかしくないよう、昨年着たものより、落ち着いた雰囲気のデザインを選んだのだ。
濃い紅紫に咲く、白の百合。
それを着る機会をくれたのも、やはり彼だった。花火大会の数日後に電話があり、その時初めて家へ招待された。劇団の夏の公演が無事に終わり、打ち上げを兼ねた納涼会を内輪で行うという。
――納涼会なので、勿論ドレスコードは浴衣ですよ。着て来て下さい
はばたきウォッチャー編集部のお使いで、何度かお邪魔した事はあるものの、個人として家へ招待されるのは初めてで、とにかく緊張していた。近所の公園まで迎えに来てもらい、彼の家へ到着すると、すでに庭の方は賑やかだった。流しそうめん台が庭へ置いてあり、かき氷機や、バーベキューコンロも置いてある。氷の浮くたらいには、スイカが冷やしてあった。団員の方だけでなく、そのご家族も来ていたし、全員ではなかったが、やはり浴衣姿の人が多かった。皆、普段から着慣れている様子で、浴衣は見慣れていると、彼が言うのも納得をする。最初、紹介されて以降は気を使ってか、二人きりで過ごせるように配慮してくれていた。
「きっと、後で質問攻めにされますよ」
と、彼は苦笑する。
スイカを分けてもらい縁側へ並んで座る。遠く鳴るヒグラシの声を、聞くともなしに聞きながらスイカを齧った。
「去年の浴衣も可愛らしかったですが、今年はまた違って...その、綺麗です」
そうして少し頬を染めるので、こちらまで恥ずかしくなった。
「それを言うなら、夜ノ介くんこそ素敵です。隣に居て変に見られないよう、毎回必死だし」
「気後れしますか?それは僕の方ですが」
「私のは、馬子にも衣装ってやつ」
「ははっ、自分で言うなんて。おかしな人だ」
その時、団員のお子さんと思わしき男の子が駆け寄ってきた。
「はい、これをお兄ちゃん達に渡して来いって」
手持ち花火のセットを渡された。
「え、いいの?皆のはある?」
「うん」
「ありがとう」
男の子はすぐに駆け戻って、行ってしまった。
「もう少ししてから、やりましょうか」
まだ多少明るい時間帯だった。
「手持ち花火なんて、久しぶりかも」
「それと、見つけましたよ。あなたのカード」
夜ノ介くんから、ポストカードを差し出された。
「ふふ、見つけてくれたんだ」
カードにそっと触れ、描いた時のことを想い返す。
「何となく判ってはいますが、描いた本人から聞かせて下さい。どうして春なんです?」
ポストカードの絵は、若葉の頃。
春の森林公園だった。
「夜ノ介くんと、初めて出かけた場所です」
「ですね」
夕陽で頬が染まる――
線香花火の燃え方には、段階によって名前が付けられており、花が咲いて、散ってゆくさまに例えられているという。そんな風情のある瞬きに見入っていながら。美奈子のする話はというと。小さな頃、線香花火の最後の火の玉が、足の甲へ落ちて大泣きした、というものだった。
そうして、夜ノ介を大いに笑わせた。
はぜる小さな火花は震えて落ちる。
***