おやすみ兄貴湿気と熱気が身体中を舐めるように自分を取り巻いている。
現実と夢の間をふわふわと漂っていると、控えめに肩を叩かれた。
「兄貴」
大きな手が私の肩を掴み、小刻みに揺れると、その優しい強さで徐々に覚醒していく。
起きているよ、と伝えるようにくぐもった声を出したが、まだ目を開かないでいると、先程よりも少し大きな声で名前が呼ばれる。
「ラーマ」
ここしばらくの間で一番聞いた声だ。重い瞼を押し上げると、顔を覗き込まれていた。案ずるような暖かなブラウンが、至近距離で瞬いた。
「ああ…アクタル…すまない」
今日も彼の仕事が終わったら食事をとる約束をしている(約束というより、そういう日課になっている)。
もしかして、彼を待たせてしまったのだろうかと謝る。
「まだ約束の時間じゃないよ」
アクタルは早く終わったんだ、と笑った。
そうか。随分眠っていたような気がするが、まだ半刻も寝落ちていなかったらしい。
確かに寝落ちる前と部屋の明るさは変わらない。変わったのは、部屋にアクタルが居ることと、扇風機のスイッチがついていること。アクタルがまた気を利かせてつけてくれたのだろう。
うぅんと体を伸ばすと、肩や背中がぱきぽきと音を立てた。
「起きるの?寝ててもいいのに」
「いや、もう目が覚めた」
寝起きでまだぼんやりする頭で微笑むと、アクタルはどことなくむっと顔を顰めている。それから、積み上げた本と本の間に腰を下ろして、片眉をくいと上げた。
「なあ、兄貴、寝てるか?」
「んー?今寝てたろ?」
「違う。ベッドで」
アクタルは、親指で後ろをぴっとさした。その示す先には、警察官になるにあたって、何があっても睡眠は最優先事項だ、という叔父が贈ってくれた寝具が一式。ベージュやブラウン、クリーム色が基調のシンプルなもの。それらを囲むかのようにあしらわれた白く柔らかなレースカーテンが風に揺れている。
身体が資本の職業だ。睡眠の重要性はわかる。ただ、潜入捜査中の今はあまり活躍の場がなくなっているのは事実だった。
寝ていることには寝ているが、アクタルの「寝る」の認識に、半刻程の仮眠は含まれていないだろう。
(そうなると……)
「寝て……ない、のかな」
笑って誤魔化そうと思ったが、思ったよりも弟が厳しい顔をしていたので、咄嗟に言い訳じみた言葉が出た。
「別に毎日机に突っ伏して寝てるわけじゃないさ」
「当たり前だ」
どんな言葉を重ねても、眉間のシワはぎゅっと厳しいまま。いつものように、見てるこちらが心が穏やかになる笑顔では無い。
「ちゃんとベッドで寝てる」
「兄貴のアレは、寝てるんじゃなくて気絶って言うんだよ」
一体「どれ」のことを言っているのか。
私は顎をさすりながら口を引き結んだ。
健康優良児を絵に書いたようなアクタルは、よく食べてよく眠る。本人は、「警戒心が強い方だ」なんて言っていたが、隣で寝落ちた弟を起こす大変さをよく知っている私としては甚だ疑わしい。
そんな男からすれば、今の私の生活は荒んでいるも同然だろう。
「こんなにいいベッドなのに…」
口を尖らせ、ベッドに乗り上げたアクタルはこちらを見て、自分の隣を軽く叩いて笑った。
「ほら、兄貴も座ってごらん」
そう言った瞳が嫌にキラキラしている。なにか企んでいるんだと分かるのに、誘われるままにアクタルの隣に腰掛けてみる。
「隙ありっ!」
「うわっ」
するとそのまま、まるで締め上げるようにして首に腕が周り、二人してベッドに倒れ込む。そればかりか、私が逃げ出せないように、両足を体に巻きつけてきた。
彼の怪力に勝てる気はしないが、試しに抗ってみる。しかし案の定、ベッドが可哀想な声をあげて軋んだだけだった。
「単純な力勝負じゃ俺には勝てないよ〜」
イタズラが成功した子どものような笑い声が近くで聞こえた。
「わかった、わかった。逃げないからちょっと弛めてくれ」
首に回った腕が苦しいと、告げると、足や腕は力が抜け、ただ巻きついているだけになった。モゾモゾと体を動かして、呼吸が楽な体勢を探す。
結局向かい合って、抱えるように腕枕をされる体勢に落ち着いた。
「ああ…これは」
…まずい。
人の温もりと、規則正しい音。弾力と程よい厚みのある腕枕。さらに幼子にするように背中でリズムを取られると、とろとろと瞼がとけてくる。
「やめろ…本格的に、寝かしつけようと…するな」
「眠くなったか?」
隠す必要も無い。薄く笑いを返して、瞼を閉じたまま、緩く頷く。
「そりゃよかった。枕冥利に尽きるよ」
体を密着させているからだろうか、その言葉は音ではなく振動に近い。
普段は弟のように思えて仕方がないのだが、何故か今は、長男の自分には存在したこともない兄の面影を重ねてしまう。
「俺の腕の中は安心して眠れるって言われたの思い出すよ」
その言葉に、一瞬意識が浮上する。
「へぇ……君に、そんな親しい女性がいたのか」
「あ、え……あっ!違う違う!妹だよ」
アクタルは慌てたようにそう付け加えた。
(……そうか。彼も「兄」だったな)
彼の家であった愛らしい笑顔の妹を思い出す。幼い頃、彼女が夜闇や雷鳴に怯えて眠れない時も、このようにしてあげたのだろうか。
(確かに、この腕の中ならきっと、あの子も、安心して眠れただろうな)
そんなことを考えていると、瞬きがだんだんゆっくりになる。私はゆっくり、波にさらわれるように眠りに落ちた。