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    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

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    斑猫ゆき

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    篭手さにのようなもの
    そのうち続く筈なのでなんでも許せる方向け

    #篭手さに
    handbag

    演劇少女審神者の本丸に顕現した篭手切くんの話① 思えば、私が顕現したその場所、その瞬間こそが正にすていじだったのだろう。
     私という存在があり、そして私を舞台に立つ者として見ていてくれるひとがいたのだから。

         *

    「私は篭手切江、郷義弘の打った脇差です。これからよろしくお願いします」

     数多の星のきらめきの如く、うすくれないの花弁が散り、地に落ちる前に消えていく。審神者の霊力の表れであるそれは、新たな刀剣男士の誕生を知らせる徴。そして、私の顕現を言祝ぐおくりものでもある。私はそれを、生来に植え付けられた知識として知っていた。
     ひととしての姿を得て、地にその足を付ける。急激にあらわれてきた体性感覚に戸惑いながらも、それを気取らせまいと私は笑う。他ならぬ、私の主に向けて。
    「……貴方が、篭手切江」
     主の発した私の名前が、ふたりの間にある空気を震わせる。
     私を顕現させた審神者は、私の外見とそう変わらぬ年頃の少女だった。少し低い位置から見上げる瞳が、私をまっすぐに捉えている。私の名が拡散したあとの空間には静寂が瀰漫し、薄く開いたくちびるの隙間から、ほう、と空気が滑る音が確かに聞こえた。
     空の果てにも似た真空がふたりを包む。
     その引力に導かれて、私は彼女の瞳を覗き込んだ。途端に、息を呑む。その主に届いただろうか。思わずたじろいでしまいそうな程の熱量をもった、光を湛えた瞳。くろぐろとしたそれは深く、けれど確かな意志を持って私をつかまえようとする。
     視界の隅で、白く嫋やかなものが揺れる。
     それが彼女の手であることは、いつつの枝分かれがこちらへと差し出されてやっとわかったくらいだった。それ程に、私は彼女の瞳から目を離せずに居た。
     私へと向けられる、視線と掌。
     それはまるで届かぬ星に手を伸ばすが如く。
     けれどその熱はすぐにかき消え、理性的な平坦さが黒い瞳を覆った。いくつかの瞬きののちに、ひとつ大きく頷くと、主は私に向き直る。
    「私がこの本丸の主です。これからよろしくね」
     差し出された手に応じて、握手を交わす。その小さく柔らかで頼りない感触。およそ先程の燃える瞳の持ち主とは思えないほどに……考えるにおそらく、先程の主は新たな刀を顕現させたという達成感で気分が高揚していたのだろう。けれどいちいちそれに感情を乱しているようでは主の沽券に関わる、と襟を正した……いったところか。そう自分を納得させるような道筋を整理立ててはみたものの、疑問は拭いきれない。
     あれは、まるで。
    「まずは、この本丸に慣れて貰わないとね。ここには江の刀は貴方だけだから……まずは加州清光に案内をさせます。清光はこの本丸の始まりの一振りだから、色々と頼りになると思うわ」
    「はいはーい、んじゃこっちね」
     私が沈思している間にも、時の流れは止まらない。特に、鋼の時間と生物の時間の差たるや。私の時間感覚は未だに鋼に寄っていたらしい。主の言葉と共に側に控えていたらしい黒と赤の装いをした刀剣男士がこちらへ歩み寄り、私の肩を叩いた。いつの間に、と思ったが、気づかせないのはおそらく練度の差だろう。振り向きざまに腕を捕まえられて、扉の方へと連れて行かれる。力こそ籠もってはいないものの、確実にこちらの動きを捉えた所作に、私は従うほか無かった。
    「それじゃあ加州、篭手切をよろしくね」
     その声に振り向いたとき、彼女は顔を伏せており、あの瞳は既に視界へ入ることはなかった。
     けれど、見えないものを敢えて思い出すことで、その煌めきは一層私の中で燃え上がっていくようにも思えた。

         *

     主の居室から続く長い廊下を歩きながら、私は加州からひとの営みについての説明を受けていた。睡眠、食事、その他の生理的反応や代謝について。いちおう人間の暮らしには近い場所に居たつもりだが、実際己の身に起こってみなければ分からないことも多いだろう。だからこそ、それを実際に経験した加州から語られる噛み砕いた説明が有難かった。
    「篭手切が久々の新刃だし、生活の上でわからないことあれば俺が見当たらなくても誰に聞いたって大丈夫だから」
     きっと、私のような新入りに何度もこうして笑みかけてきたのだろう。そんな彼の態度はあくまで朗らかで、私もしばらく彼と共に話しているうち、知らずの内に緊張を解くことが出来ていた。
     ふたつめの角を右に曲がったところで、別の刀剣男士とかち合った。ゆるい金の巻き毛で顔半分を隠した彼は、私の顔を見るなり珍しげな声を上げる。
    「おや、新入りか?」
     彼の疑問を、加州が引き継いで答える。
    「うん、だから案内してるとこ」
    「篭手切江という、よろしく頼むよ」
     私が軽く頭を下げると、金髪の彼は睫毛で縁取られた瞳を丸くした。そうして、興味深げにこちらへと顔を寄せてくる。
    「ほう、ほう、ほうほう……?」
     色素の薄い巻き毛が眼鏡のレンズを擦りそうなほどに近づいてきて、思わず後じさる。それでも向こうの攻勢は止まず、壁際まで私は追い詰められかける。助けを求めて加州へ目配せするが、彼は呆れたようにため息をつき、首を振るばかりだった。おそらく止めても無駄ということらしい。
     やがて金髪の彼は身を引くと、この上なく楽しげに笑った。
    「うはは。面白いことになりそうだな、またこれは!」
    「ちょっとじじい、新入り脅かすのやめなよね」
    「はは、悪いな」
     口を尖らせる加州に、金髪の彼は手を打ってからからと笑う。ひとつひとつの動作にかられて巻き毛がたふと優雅に揺れ、煌めくそれは彼のすべてを美しく縁取っている綺羅星のようだった。思わずそれに目を惹かれていると、彼の唇が笑み割れる。
    「僕は一文字則宗。まあ隠居のじじいといったところだが……この本丸じゃ図書室の司書を受け持っている。だから顔を合わせることも多いだろうな、ひとつよろしく頼む」
    「あ、ああ……」
     一文字則宗と名乗った彼に、改めて私は頭を下げる。顔を合わせることも『ある』ではなく『多い』というところに引っかかったが、まあ世辞か言葉のあやだろうと特に問い直すことはしなかった。
     ほどなく一文字則宗と別れてから、加州から内番の説明を中心にこの本丸を案内された。食堂や大浴場など生活に必要な場所、馬小屋、畑、……都度覚え書きをしたためたものの、とても一度には把握しきれない。ここは加州の言うとおり、分からなければ他の刀剣男士の世話になるのがいちばんの近道なのだろう。そう私は腹をくくる。
     自室に通される前に、本丸の外郭に当たる部屋へと連れて行かれた。内番の説明は終わったと加州から聞いていたし、生活に必要な設備もあらかた教わった……と思う。なのに、まだこれ以上必要なものがあるのだろうか。
     横開きの扉を開くと、無垢の木の匂いが漂ってきた。既に夕刻が近づいて室内は薄暗く、窓から入る逆光が中のもの全てを景に塗りつぶしていた。右手の方へなにか光るものがあるのは見えても、それが何なのかはとんと判別がつかない。加州が先に中に入り、壁に据え付けられた灯の電源を入れたところで、やっと全容が明らかになる。
    「これは……?」
     そこは十畳ほどの板張りの部屋だった。入って右手の壁一面が鏡張りになっていて、あとの二面には二重の手すりが設けられている。鏡の少し手前には立派な音響再生機器が鎮座ましまして、歌い出す時を待っている。そのくろぐろとした後ろ姿を、鏡はただ当たり前のような顔をして映し出してしていた。
     私は継ぐべき言葉を失い、ぽかりと口を開ける。
     これは、どう考えても。
    「見ての通り、レッスン室」
     事も無げに、加州が私の考えていたことを言葉で復唱する。それでも、目の前に厳としてあり言葉でも説明されたところで、私にはその存在はにわかには信じられなかった。私には必要な設備だとしても、正しい歴史を守るという理念の元に設立された本丸に、その役目から遠く離れた、いわば私の……ひいては私たち江の者達のためにあるような設備が誂えられているなんて。
    「使いたいときは出陣や内番との兼ね合いもあるから、三日前までに主に直接申請出して。書式は主に言えば出してもらえるから」
     彼の説明に淀みがなかったところから聞くに、この本丸では当たり前のことなのだろうか。それとも、既に政府の広報か何かで把握されているのだろうか。私が……歌って踊れる付喪神を目指しているということを……
     だからこそ、私は彼に問わざるを得なかった。
    「……何故、こんな本格的なれっすんの設備がこの本丸に? 有難いといえば有難いが……」
     私の問いに、彼の余裕が途端に崩れた。唇を引き攣らせて頭を掻き、ばつが悪そうに視線をずらす。口もとの黒子が、所在なげにふるふると動いている。
    「あー、えっと……江の刀って、あんたみたいにすていじ?っていうのを目指すのがデフォって聞くじゃん? 最近は江の顕現実績増えてきたのを政府の方でも記録してるから、最近できた本丸には標準装備らしいんだよね」
    「そう……、なのか?」
    「そう、らしいよ」
     釈然としていない様子の清光に、私はただ曖昧な笑みを返すばかりだった。彼がこの本丸始まりの一振りだとしても、わからないことはままあるのだろう。だから私も、敢えて追及することはしなかったのだった。

     これが、私が顕現した初日の出来事だ。

    (後日、上に記した諸々は杞憂ではなく真実のものだったことがわかる。ひとえに私が人間の姿を得て間もなく、人間の無意識が発するところの感情の機微というものに疎かったことと……私の、未熟者であることへの傲慢なまでの遠慮から、この一連の話はひどい遠回りをすることになった訳だ)

         *

     顕現してしばらくは人の身の生活に慣れる為に毎日内番とその補助を任されていたのだが、これがまた慌ただしかった。やはり知識としては知っているつもりでも、実際に経験してみなければわからないことも多いというのは予想していた通りだ。肉体を得たが故の現実原則に振り回されながらも、やっとのことで私は与えられた仕事を着実にこなしていった。そして数日後、やっとのことで息抜きらしい息抜きを得ている。
     れっすん室の誘惑は多々あれど、やはりまだ出陣もしたことのない新入りが大手を振って戦いと関係ない行為に励むのは忍びない。とはいえ部屋でひとり横になっているのもつまらないと、私は図書室に足を運んでみることにした。
    「すごいな……これは」
     背の高い書架を見上げて、私は感嘆の声を上げる。
     この本丸にはれっすん室だけでなく、演劇関係の図書資料も充実していた。現代から見た古典芸能――すなわち私たちが打たれた時代にほど近いものから、芸術めいた在野の時代を経て、最新の評論書や戯曲集まで。
     ここの司書を名乗った一文字則宗が顔を合わせることが多いだろう、と言ったのも分かる。これをすべて読破するには相当の時間がかかるだろうし、必然として何度だって図書室に足を運ぶことになる。彼はきょう出陣らしく、残念ながら顔を合わせることは叶わなかったが。
     目移りしつつ、私は本の表題とそれが綴られた矩形とを眺める。そこにはただ雑然と集めているだけではない、ひとつの執念のようなものが見て取れた。上製本の重厚な本もあれば、掌に収まるくらいの冊子もあるし、果ては紐で綴じられただけの紙の束すら収められている。おそらく蒐集者が独自に印刷して冊子の形にしたものだろう。勿論背表紙はついていないので、引き抜いて表紙を検分しなければ内容の予想すらつかない。
     試しにその中のひとつを検めてみると、それは戯曲の台本だった。ぱらぱらと捲って流し見するに、ひと組の男女を中心に据えた会話劇らしい。衒学的な台詞の断片達を、私は見るともなしにつまんでは、砂糖菓子でも舐めるように味わう。
     不意に視界の端に紫色が柔らかく揺れるのが見えて、私はそちらを目を移す。
    「篭手切、久しぶりだね」
     見れば、歌仙兼定が本を抱えて立っていた。細川の家で共に在った彼はひとの身を得ていても馴染みの気配がある。私は冊子を棚に戻し、彼に向き直る。
    「ああ、歌仙。久しいな」
    「本丸で改めてゆっくり話すのは初めてかな。ここの暮らしには慣れたかい?」
    「そうだな、慣れないこともまだまだあるけれど……皆親切で助かっているよ」
     先に顕現していた刀剣男士たちは皆気の良い者達ばかりで、揃って私を歓迎してくれていた。本丸をあげての歓迎会を開いて貰ったのは勿論、酒好きの刀達の宴会に呼ばれることもあったし、部屋の前を通りがかり粟田口たちのじぇんが大会に飛び入り参加したこともあった。はじめのうちは付喪神がこんなひとのような営みをするものかと戸惑うばかりだったが、それも段々と馴染みかき消えつつある。慣れというのはつくづく恐ろしいものだ。
     ただし、れっすんにだけは誘っても付き合ってはもらえないが。
    「それはよかった」
     穏やかに微笑んで、歌仙は満足げに頷いた。
    「一文字の御前が司書ということになっているけどね、僕も一応ここの配置なんだ。僕は厨の方も受け持っているからあまり顔を出せないが、虫干しや書架整理なんかの時は僕が音頭をとることになってる」
     返却資料だろう本を隣の書架に戻しながら、歌仙はことばを続ける。そうして、私の
    「演劇関係の資料かい?」
    「そう、私の目指しているのは……」
    「当世風の歌って踊るやつ、だろう?」
     続けるはずだったことばの先まわりを喰らい、私はずれかけた眼鏡を直す。
     まさかそんな返しがくるとは、思ってもいなかった。加州は江の刀のために最近はれっすん室が本丸に備え付けなのだと言っていたし、これも江の刀が市井に知られてきた証なのだろうか。
     ……でも、だとしたら、複雑な気持ちになる。私よりも先にその手に星を掴んだ、私ではない篭手切江がいるということなのだから。
    「あ、ああ……そうだが」
     うわずった声で、私は返事をする。それを聞いて歌仙は私の顔と書架の本達とを互い違いに見やり、頷きながら微笑んだ。
    「存分にやると良いよ、それが君の心の赴く先ならば」
    「それじゃ、歌仙も……」
     一緒にれっすんしないか、と反射的に口に出しかけたところで、きっぱりと掌がこちらに突き付けられる。
    「僕は遠慮しておくよ。君のすていじにもっと相応しいひとが、他に居るからね、邪魔するのは無粋だろう?」
     思わせぶりに微笑む歌仙。
     馴染みの刀の見たこともない表情に、私は首を傾げるばかりだった。

         *

     歌仙に貸し出しの手続きをしてもらって図書室を出ると、既に日が傾き始めていた。庭の緑に馴染んだ陽の光が、こころなしか橙色に遊離して葉の表面に滲んできている。結構な時間資料に見入っていたのだろう。私は腕の中に抱えた五冊の本に目配せをしながら、自分の影を踏みしめて廊下を進む。二十世紀半ばの演劇論が三冊と、最新の芸術論に伎楽の研究書。他にも気になるものは多々あったが冊数制限に引っかかったから、これを読み終わったらそちらを借りに行くつもりだ。
     どうせ全て目を通すことになるのだから、それが早いか遅いかの違いにしか過ぎない。まだれっすん室を使うという訳にはいかない(と、自分で決めている)のだから、いきなり台本に目を通すよりは理論を頭に入れた方が良いだろうという見積もりもある。
     自室に戻り、茶でも一服しながら早速読書と洒落込むかと電気けとるで湯を沸かしはじめたところで、こつこつと障子の桟を叩くものがあった。大分傾いた逆光の影は細く、障子紙の向こうにあっても誰の姿かは明らかだ。
     私は扉に駆け寄り、横開きのそれを開けた。すると思った通り、主のあの黒い瞳が、私を見上げていた。
    「こんにちは……いま、大丈夫かな」
     はにかんで微笑む彼女に、私は頷きを返す。
    「はい、丁度茶を淹れようとしていたところですし、いかがですか?」
    「ありがとう、頂くわ」
     おそらく、はじめて非番を迎えた私を慮って、様子を見に来てくれたのだろう。その気遣いに深く頭を下げて、彼女を招き入れた。押し入れから座布団を出し、主と机を挟んで向かい合いに座る。
     程なく音を立てて湧き上がった電気けとるから茶を淹れ、ふたつの器へと注ぐ。湯気の立つ茶碗の、熱を避けた場所を両手で包み込み、主はしばらくふうふうと息を吹きかけながらその水面を眺めていた。薄緑の表面に映り込んでもなお、その瞳。やがて充分に冷ましたのか、凹凸のついた焼き物の縁へと口を付ける。反り返り嚥下に動く白い喉がゆっくりと元に戻り、ほう、と息を吐く。その一連の動作はあまりにも出来すぎていて、活動写真のひとつの場面のようにも私には感じられた。
    「篭手切、調子はどう? この本丸には慣れた?」
    「ええ。皆、気の良い者達ばかりですね、ここは」
    「そうでしょう!」
     彼女は表情を綻ばせ、屈託なくこちらに笑みかける。
     そのまま近況報告も兼ねた雑談に花を咲かせていると、不意に主が口を噤んだ。手にした茶碗をそろりと机に戻し、その大分浅くなった水面と私の瞳、ふたつの緑とに視線を行き来させる。それが何往復したころだろう。意を決したように口を結び、主はひとつ頷いて私へしっかと向き直る。そうして、差し出された言葉は。
    「……ねえ、使わないの。レッスン室」
     あまりに直球な疑問に、私は思わずたじろいでしまう。
     やはり、江の者たちに対してわざわざ用意された設備を敢えて使わないというのは、主に対する不義理でもある。主張が正当であるかはひとまず置いておいて、ここは正直に話すべきだろう。私の気後れについて。
    「私はまだ新入りですし……まずは刀剣男士としての己の責務をこなしてからにすべきかと思いまして」
    「でも私、貴方が歌ったり踊ったりするの見たい」
     食い気味に、主は机の向こうから私の方へ身を乗り出した。その動作は反射的な者だったのだろう。一瞬あとには何かに気づいたようにはくと息を呑み、ごめんなさい、と呟きまた向こう側へと縮こまっていった。けれど私には、彼女の存在はかつてないほどの大きさと威容を持ってそこにあるようにすら感じられていた。主が私を見つめる、そのふたつの黒を中心にして。
     また、あの瞳だ。
     あの、奈落から星を見上げるかの如き、底深いきらめき。
     思い出しただけで吸い込まれそうになる、果てしない引力と密度をもった、彼女の星。
     ここまで望まれるのは、寧ろ喜ばしいことではあるのだろう。だが何分私は未だ半人前だ。そんな瞳で見つめられても、求められても、分不相応でしかない。
     けれど、いつか。いつか必ず。
     私は観念して深く息を吐き、主の深い瞳へと相対する。
    「……わかりました。いつか、必ず。主に煌めくすていじをお見せします」
     私としては、固い決意の表明だったつもりだ。
     けれどそれは、彼女の望んでいた答えではなかったらしい。
    「いつか、かぁ……」
     主は私の言葉を口の中で転がすように唇を擦り合わせながら、残念そうに呟く。伏せられた睫毛の間で、潤んだ瞳がはた、と瞬きの間に色を変える。それは……あってはならないことだが……失望なのだろうか。一瞬のくるめき。その正確な意図を掴みきれないままに、私はただ頭の中を駆け巡ることばの群れから、いつかではないいま発するべき内容を掴み取ろうと躍起になっていた。けれど焦るばかりで台詞はまとまらず、考えは空転しひたすら無為に終わっていく。
     次に彼女に差し出すべき言葉を見つけられないまま、私はただ机の向こう、黙って座っているばかりだった。台詞を忘れた舞台俳優のように、寄る辺なく、無言の呵責に苛まれながら。
    「……わかった。いつか、でもいいよ。でも、絶対だよ」
     そのまま舞台の幕が降りてしまうのを待つばかりかと思われたのを掬い上げたのは、主の言葉だった。
     眉を寄せ、けれどどこか柔らかい微笑みを湛えたそれは、あるべき舞台を演じない私に対する、最後通牒のようなものだったに違いない。失墜しその力を失ったまま女神に縋る史劇の英雄のように、私はただその言葉と存在とを伝って、彼女へと再び顔を向ける。そうして、今の自分が表せるだけの感謝と敬意をもって、私は主に頭を下げた。
    「……はい!」
     それでようやく、彼女の溜飲も下がったらしい。満足げに頷き、机に頬杖をついて私を見上げる。
    「あるじさーん、ごはんできたよ! 篭手切さんも!」
     唐突に、ふたりを断ち切る緞帳のように、部屋の外から声がかかった。響きからすると、今日の近侍の乱藤四郎だろう。顔を上げれば既に障子の外は暗く、その前に居るはずの乱の影すらも曖昧なかたちで溶けているばかりだった。
    「あっ、はーい! じゃあ篭手切、先に行くね」
    「はい、主」
     主は最後のひとくちを煽ってから、弾かれたように立ち上がると、待っていた乱を伴って小走りに部屋を後にした。
     足袋で緩衝された柔らかい足音が廊下を遠ざかっていくを見送りながら、私はただ先程主へ向けた微笑みが顔から取れないまま石になるばかりだ。結局いちども口にしないまま冷めた自分の茶碗と、空っぽになった彼女のそれとが、白々しく私の目の前に佇んでいる。食堂に行くのは同じですし私もご一緒します。そう言えばよかったのにと気づいたのは、完全に主の足音が聞こえなくなってからしばらく経ってからだった。
    (けれど、結局彼女も私を伴わずして去ったのだから、言ってもこれは蛇足だったのだろう)

     彼女と同じ道のりを、けれど後を追う訳でもなく歩きつつ、私は身の内に詰まった疑問をひとつひとつ検めてみる。
     主は私に、刀である以上の何かを望んでいる。
     おそらくは、すていじを。

     でも、それは何故?

     この本丸に来てから、釈然としないことが多すぎる。
     私には聞けない。聞く資格はまだない、と思う。まだ刀剣男士としてもすていじに立つ者としても未熟も未熟で、ただ星に手を伸ばすことしか知らない、私には。
     だから、疑問が次から次へと問いを産んでも、私はただ腹の中でそれを飼い慣らすことしかできない。

     けれどもそれが居心地悪いどころか、不思議と快いのだからまた始末に負えなかった。
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