Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 75

    斑猫ゆき

    ☆quiet follow

    精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。夢から醒めたふたりの後日談。誰かの夢は誰かの現実。これで本当に最後の最後です。今まで読んで頂いて本当に有り難うございました。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    夢限王国の復権 終礼がかかるなり、教室には賑やかしい空気がそこかしこから湧き出し満ちていった。窓から見える校庭の桜はもう大分花びらを落としている。瑞々しい色の葉が生えかけた隙間に、まだ落ちきっていない萼が淡い紅色を添えて、季節のさかいめを彩っていた。去年には、見られなかった色。それが遠目に見えた途端、俺は目が離せなくなる。まるで抜け落ちた経験を吸い上げているかのように。
    「炭治郎、お昼行こ」
     席に座ったまま窓の外をぼうっと眺めていると、隣から声がかかった。夢の中から聞こえてくるような、柔らかい響き。
     声の方を見やれば、民尾が机に両手を突いてこちらを見下ろしている。勿忘草色の瞳が細められて、艶やかな光を渡らせているのが眩しい。
    「ああ……民尾」
     途端に、活気に満ちた昼休みの空気が周りに戻ってくる。声に、足音に、制服の衣擦れ、ざわざわと。
     促されるままに立ち上がって、俺もその中に混じるけれど、どこか現実感が薄かった。隣に居る彼が、そこに居るということを受け止め切れていない。あれだけの眠りと目覚めを繰り返し、長きにわたって求め続けてきた夢の中の人。まぼろしの筈だった、ともだち。
     本来、民尾は俺や善逸達よりひとつ年上だ。けれど、二年前に突然原因不明の昏睡状態に陥り、あの山の上にある診療所で治療を受けていたのだという。そこへ去年の冬、家族を亡くしたショックで譫妄を患った俺がやってきた。真偽は分からないが、そうしてふたりが近づいたことで、互いの夢が重なった……のだと、思う。
     ……そこからの道行きは、あまりにも荒唐無稽で不条理な、長い長い夢路だった。何度も夢の中での死と眠りとを繰り返す、悪夢とも吉夢ともつかない無限の巡り。全ては、物心ついてから夢に現れ続けていた彼に手を伸ばすため。
     詳細は省くが、俺はその夢の中からひとつの箱庭を持ち出した。それをえにしにして、遂にこの現実に生きる民尾に辿り着いたのだ。かくして半年間のリハビリを経て、無事ふたりともこの春から復学するに至った。同じ学園の、高等部一年生として。
     そう、偶然にも俺たちは同じ学校に通っていた。本来だったら学年が違ううえ、俺は中等部からの持ち上がりで、民尾は高等部からの外部入学。だから、それまで顔を合わせたことはなかったけれど。それを知ったときには、不思議なこともあるものだと済ませてしまったけれども、後から考えればなんとなく空恐ろしい気もしてくる。こんなに都合の良い現実というものが、あるのだろうかと。
    「お兄ちゃん、民尾さん」
     民尾に手を引かれるまま戸口まで来ると、お弁当の包みを抱えた禰豆子が待ち構えていた。仕立てたばかりの真新しいブレザーが、艶やかに流れる髪の隙間で皺一つなく見え隠れしている。
     去年までのセーラー服は、もう家の物置で大切に吊されているはずだった。新しいものも似合っているけれど、やっぱり三年間見続けたあの黒いセーラーがないと、変な感じがしてしまう。
     季節の巡りへ咄嗟についていけないのは、別に今に始まったことじゃない。かつて下のきょうだい達が進学したときも、やっぱりしばらく浮き足だった気分が続いたのも確かだ。習慣が途切れた事への、当たり前の違和感。それでも、いま感じている胸騒ぎが春の昼下がりに似合わない薄暗さを纏っているのは、きっと俺がまだ振り切れていないからなのだろう。半年の間に果てしない季節と時間を折りたたんだ、夢の名残を。
    「ああ……禰豆子、どうした?」
     平静を装って、俺は聞き返す。
     俺と、禰豆子と、民尾は三人揃って同じクラス。俺たち兄妹の方はおそらく家族を亡くしたことを勘案して学校の方で便宜を図ってくれたのだろうが、民尾も一緒になるとは思っていなかった。
     そういう偶然を偶然と笑い飛ばすことも出来ず、俺は始業式の日、クラス分けの苦い面持ちで見ていたものだった。テストの記号問題で、五回連続で『ア』を選んでしまった時にも似た気分で。
    「今日はすみちゃんたちと新入生歓迎会の打ち合わせがあるから、そっちに行くね。善逸さんと伊之助さんにも伝えておいて」
    「うん、わかった」
     善逸や伊之助とは、学年は違ってしまったけれど、今でもお昼を食べるときは一緒だ。今年からは民尾もその輪に加わって、誠ににぎやかしい時間を過ごしている。ただ、今日は禰豆子がいないから、少しばかり様相は違うけれど。
     禰豆子が言っているのは、中学部の彼女たちと組んでいるバンドのことだろう。確か、歓迎会で演奏するって言ってたっけ。俺たちも新入生ではあるものの中等部からこの学校に居るから、なんだかんだ歓迎するよりはされる側に回ることが多いから。
    そんなことをぼんやり考えていると、禰豆子がくすりと笑った。
    「どうした、禰豆子?」
    「ううん……なんだかまだ馴れないなって。お兄ちゃんと一緒のクラスって」
     正直、どきっとした。
     自分の内側にある戸惑いが、妹にまで伝染ってしまったのではという不安。特に禰豆子にはたくさん心配をかけたから、もしかしたらそういうことだってあるかもしれない。自分の内側が少しだけ妹に流れ込んでしまったかのような、正体不明の居心地の悪さが、一気に背中に覆い被さってくる。
     だけど禰豆子は、そんな俺の杞憂をよそに相変わらず朗らかだった。
    「お兄ちゃんと民尾さんの夢の話もそうだけど、なんだかちょっとわくわくしちゃうの。本当は、こんなことあるはずないのに、って。いけないのかもしれないけど……」
     困ったような顔で笑う禰豆子は、あまりにも自然だった。
    夢だとか現実だとか、そんな世界を区切る言葉なんて意味をなくしてしまう、あたたかな微笑み。なんだか自分が情けなくなってくるくらいに力強くて、頼もしくて。自分と世界との間に引かれたカーテンが開いていく。そんな錯覚を覚えるほどに。
    「そんな悠長なこと言ってると、貰っちゃうよ? お前の兄貴」
     不意に、隣から腕を引かれる。下向きの力に、きゅうと身体が傾く。
     見れば、民尾が意地悪く笑って俺の腕に抱きついてきていた。別に嫌ではないけれど、困惑はしてしまう。ぎゅう、と薄い身体を押しつけてくる民尾を見下ろして、俺は目を白黒させる。
     復学してからというもの、民尾はことあるごとに距離を詰めてくる。あの夢で医師として接していたときとは考えられないくらい。その違いに戸惑うことはあれど、それも民尾の一面なのだろう。今まで、俺には隠されていただけで。
     きっとあの民尾……民尾先生は、職業柄患者とは距離を取っていたのだろう。結局俺が夢を覚ますために崩させてしまったとはいえ、それ以前の彼は律するところは律して、一線は引いていた。それを取り戻すかの如く民尾は俺にひっついてくるのだった。
    今の俺たちの間には、なんの境界もない。人間と鬼、子供と大人、患者と医者。それに……夢と、現実。壁だと思っていたものたちは、いまは遠い眠りの彼方に消えてしまって、既に遠い。だとしても、それを手放しで喜べるほどには目が冴えきっている訳でもなくて。
    「た、民尾……」
     邪険に振り払うわけにもいかず、俺があちらこちらに視線を彷徨わせていると、禰豆子がふと一歩をこちらに踏み出した。薄紅色の頬を、つぼみを咲かせる梅の花みたいに膨らませて。
     そうして、民尾の額に人差し指を突きつける。下のきょうだいたちに見せていたような、ほんの少しだけ厳しい、けれどそれを更に上回る優しさを滲ませた顔で。

    「それは私じゃなくって、お兄ちゃんと民尾さんの問題でしょう? 私に見せつけてる暇があったら、お兄ちゃんの方を見てあげて」

     民尾は目を丸くして、俺の方を見た。俺も、同じような顔をして民尾と顔を見合わせる。
    そうして、観念したように苦く笑って。
    「……いい女だね、お前の妹」
    「そうだろう?」
     民尾に向けて、俺は胸を張って笑った。
     禰豆子は俺のなにより自慢の妹なのだから、と。

         *

    「ちょっと待って。今日はお昼買ってく」
     購買の手前にある自販機コーナーを通りかかったときに、民尾が裾を引いた。
     俺が振り返ったときには既に軽食の販売機の前を陣取って、ためすがめつガラスケースの中を覗き込んでいる。箱の中に入ったおにぎりやパンには個別の番号が振られていて、その番号をテンキーで押すことで買うタイプのそれは学校以外で見かけたことがなく、それだけでなんだか感慨を久しくしてしまう。民尾の刈り上げた襟足から覗く首筋が、昼の光に当たって自販機の窓といっしょに溶けてきらきらしていた。
    「んーと、どれがいいかなぁ。ソーセージパンはこの前食べたし」
    「それならこのチーズ蒸しパンがいいぜ!」
    「わ、い、伊之助!?」
     突然割って入ってきた伊之助に、俺は思わず驚いて道を譲る。それに満足げに笑って、伊之助はケースの下の段を顎で指し示す。威勢の良い声が、周りにある廊下の喧噪やお昼の放送なんかを一瞬で掻き消してしまう。
    「これなぁ! めっちゃ甘いとこにチーズの味がしょっぱいのがいい案配なんだぜ。俺なら一週間連続でも食えるね!」
    「ふぅん、じゃあそれにしてみようかな」
     民尾は間延びした仕草でお金を入れて、チーズパンの番号を入力する。十八番。ゴトリと音がして、取り出し口に落ちたパンを拾う。その間にも、伊之助の弁舌は続く。
    「権八郎、お前ごはん派だったよな。だったらこっちの爆弾おにぎりだ! 食いでがあるし、何より中に入ってる味噌がうめえんだ!」
     伊之助は、こうやって民尾や俺によく校内での何気ない発見を教えてくれる。購買のおすすめメニューだとか、良く日の当たって昼寝のしやすいサボりスポットだとか。それらは役立つときもあればただ微笑ましさだけを運んでくるだけの時もあるけれど、いずれにしろ伊之助なりの気遣いなのだろう。胸を張って腕を組む伊之助に、俺は笑って頷く。
    「うん、ありがとう。でも俺は今日お弁当があるから、次のときに食べてみるよ」
    「絶対だぞ! この俺様が子分にだけ教えてやるんだからな!」
     にぎやかしい時間の中、三人で食堂ホールに向かう。善逸は先に来て席を取ってくれていたようで、奥まった四人掛けのテーブルからひらひらと手を振っていた。俺たちも手早く席について、各々パンだとか弁当の包みだとかを広げる。
    「お、来たか……禰豆子ちゃんは?」
    「ああ、新入生歓迎会のミーティングがあるから今日は来れないって」
     それを聞くなり、善逸は奇声を上げてテーブルに蹲った。目の前に置かれていた弁当箱の蓋に金色の髪の毛がかかって、ものすごいくらいに反射した陽の光がばらまかれる。
    「うあぁ……禰豆子ちゃんに会えないなんてぇ……禰豆子ちゃんも新入生なんだから、おとなしく歓迎されてればいいじゃん……ほんとに良い子だなぁ……」
    「えー、じゃあ善逸先輩も祝ってくださいよぉ。俺たちのこと」
     チーズパンの封を切りながら、俺の隣で民尾が口を尖らせる。袋の端を握りしめてもう片端に空気を寄せると、ぱぁんと気持ちのいい音がしてビニールが破裂した。善逸の肩が跳ねるのにも気にせず、空気の出て行った破れ目を剥いていく。それを涙目で睨み付けて、善逸はテーブルから身を乗り出した。
    「……お前さぁ、こういう時だけ敬語使うの止めろよ。なんか、気持ち悪い」
    「は? 俺の方が本来年上なんだから、敬語使うときがあるだけ寧ろ最大限の譲歩だと思うけど」
    「民尾!」
     隣から俺が肩を叩くと、民尾はおとなしく引き下がった。自分の方をまだ睨み付けている善逸を、小気味よさげな笑顔で見据えては居るけれど。
     民尾は普段人付き合いをそつなくこなし、つい二週間ほど前からの学校生活にも瞬く間に溶け込んでしまっていた。けれども、たまに意地の悪いことを言って周囲を困らせる。特に善逸にはその向きが顕著だった。民尾曰く「からかい甲斐がある」ということだけれど、その度に俺が間に入って窘めるのが常だった。民尾の手を取って、正しい方向へ導く。それが、俺の決めた道だから。
     正しい方向へ導こう、というのが具体的にどういう決意であるのかはわからない。それは俺たちの関係が重ねられてきた夢の歴史の中で、当初のかたちからはきっと違った形になってしまったからなんだろう。でも、例えその誓いがなくたって友人達が衝突するのを黙って見ているわけにはいかない。
     善逸は諦めたようにゆるく首を振ると、盛大に息を吐き出す。
    それが新しい話題を胸の中から引き出すための準備だったのだろう。すぐに表情を切り替えて、俺たちに向き直る。
    「……ほんとさぁ、贈り物くらい気分良くさせてくれよ。新入生さん」
    「へぇ?」
     挑むようにポケットから引き抜いた二枚の紙を差し出した。
    「ん。お前と炭治郎に」
    「俺にも?」
     唐突に回ってきた役割に、俺は間の抜けた声を上げる。
     そして、目の前に突き出されたそれをしげしげと眺める。がさがさした色のそれは何かのチケットのようで、文字だけが記された簡素なものだった。『無料券』と表された下にあるのは商店街の名画座の名前。聞いたことはあるけれど行ったことはない、なんだか図鑑の中の動物みたいな場所だった。礼を言いつつおそるおそる手にとると、古い本に似た乾いた感触が、指先に伝わってくる。
    「前に商店街の福引きで当たったんだよ。だけど、あの映画館古いやつしかやってなくてさ。タイミング失ってるうちに来週で期限切れるから……このまま腐らすくらいなら、使って貰った方が良いし」
    「ふぅん、失ったタイミングってホントに上映作品だけ?」
     にやにたとテーブルに肘をついて、民尾が上目遣いに笑う。それを受けて、再び善逸の眉が寄った。わなわなと震える唇が、まだ手のつけられていない弁当の上で宙を噛み砕く。
    「何が言いたいんだよ!? 言っとくけど俺はなぁちゃんと下調べしてるし! 禰豆子ちゃんの趣味にあったやつが演ってるかとかぁ!?」
     善逸の叫びを捕まえて、民尾はしてやったりとばかりに不敵な笑みを浮かべる。指先には受け取ったばかりのチケットが、ひらひらと躍って。しまった、とばかりに自分の口を両手で押さえ付ける善逸。けれど、時は既に遅く。
    「えー、俺はまだ何も言ってないけどぉ? ふーん、そうかぁ」
     民尾が勿忘草色の瞳を細める。これでもかと含みを持たせて、指をさして笑って。その先で、善逸の顔が真っ赤になっていく。さっきから赤かったけれど、更に純度を増して、赤く赤く。民尾の青い瞳に、それ以外の色が吸い上げられていくように。
     流石に、これ以上はいけない。俺は表情を引き締めて、民尾に向き直る。
    「民尾、あんまり善逸をいじめるな。それに、人からものを貰ってその態度はないだろう? ほら」
     隣から手を伸ばして、彼の背中を軽く叩く。セーター越しに伝わる感覚は、少しだけ震えていた。民尾は決まり悪げに肩をすくめたけれども、すぐに小さくごめんと呟いた。
     それから、ありがとう、とも。
     さっきまでは雄弁だった視線が頼りなげに伏せられるから、俺はもう少しだけ力を込めて彼の背を支えてやった。民尾だって、本当は悪いやつじゃない。ただ、素直じゃないだけで。そう、信じているから。
    「おい、俺にはねえのかよ紋逸」
     気づけば、ご飯粒を口の周りにつけたままの伊之助が善逸の裾を引っ張っている。さっきから静かだと思ったら、一足先に昼飯を完食していたらしい。空っぽの弁当箱がいっそ清々しいほどに昼の空気に晒されている。そういえば、俺はまだ一口も食べていなかったっけ。壁の時計を見上げれば、あと三十分くらいで昼休みが終わる。そろそろ手をつけておかないと少しばかり余裕がない。弁当箱を包んだ風呂敷の結び目を解く。目の前では、今度は伊之助と善逸が侃々諤々の論争を繰り広げている。
    「お前映画館入ると寝るだろ! この前のこと忘れたのか!?」
    「はぁ!? 暗ければ寝るのはあたりめーだろうがぁ! 健康なんだからよぉ!」
     民尾はいつの間にかチーズパンを食べ終わっていたらしく、二人のやかましいやり取り両手で頬杖をつきながら薄笑みで見守っている。止めるという選択肢はないらしく、伊之助の振り上げた拳が後ろを行く生徒の脇腹を掠めても面白そうに眺めやるばかりだった。

     やむなく、俺は食事を後回しにしてふたりの仲裁に入った。騒がしいホールの中にあっても、更にやかましい俺たちのテーブルが、残り少ない昼休みの中心になっていく。善逸と伊之助と、合計四本の腕にもみくちゃにされながらぼんやりと考えていたのは、民尾と映画を見に行く約束を、どのタイミングでこぎ着けようかという小さな企みだった。

         *

     その次の日曜、俺は商店街の入り口に立っていた。頭上には薄氷を溶かしたようなちぎれ雲が浮かんで、アーケードの庇に引っかかることもなく青い空を流れていく。春の風はまだ少しだけ冷たいけれど、意識をしっかりと保つには丁度良い涼やかさだった。
    「お待たせ、炭治郎」
     雲を目で追いかけていると、すぐに民尾がやってきた。駆けてくる髪がふわり、と尾を引いて風にしなる。続いて目に入る黄色のセーターに麻の葉模様のズボン。見慣れているはずの制服なのに、何故だか外で見ると新鮮な気分になる。着ているのが民尾だからだろうか? おそらく、繰り返してきた夢の中ではおよそ叶うべくもない格好だから。
    「いや、俺も今来たところだから。じゃあ、行こうか」
     腕時計を見ると待ち合わせの十時にはまだ五分早かった。開館が十時だから、きっと丁度良いだろうと俺たちはアーケードの下へと入っていく。和らいだ日射しが、ところどころ穴の空いた幌を透かして足下のタイルに不均衡な水玉模様をつくっていた。そのひとつを踏みつけて、民尾の足取りは軽い。きっと楽しみにしてくれていたんだろうな、と思うと、なんだかこっちまで嬉しくなる。
     映画館は商店街の丁度真ん中辺りにあった。その途上ですれ違う店たちは、まだ真昼の活気を取り戻したとまではいえないけれど、それなりに明るさを纏って口を広げていた。
     本屋の店頭に出された回転本棚が、鮮やかな表紙をあらゆる角度に誇示している。帽子屋のショーウィンドーの向こうで重ねられた鍔付きの帽子が、まだ眠たげに傾いていたりもする。魚屋からは饐えた海の匂いが、気付けの目覚ましのように漂ってきていた。それを避けるように、民尾がセーターの胸元を伸ばして鼻を隠し、足取りを速める。それを追いかけているうちに、すぐ目的の建物に辿り着く。
     戦前からある映画館を市が買い取って改築したというそれは、一見すれば廃墟にも見間違える風格があった。入り口の前にはためくのぼりが、かろうじてそこが営業中であると訴えかけているくらいのもので。少し気後れする俺をよそに、民尾は興味深げにネオン管で作られた館の名前を見上げていた。転ばないようにその手を引いて、俺は意を決して入り口の階段を昇っていく。一段上がるごとに埃っぽい匂いが強くなって、そのかわり日が陰っていく。
     階段の壁には、上映中の映画のポスターが並んでいた。どれを見るかはまだ決めていない。予定を立てたときに調べるべきだったのかも知れないが、映画館のホームページは更新が途絶えて久しく、いま何を上映しているかもよくわからなかったからだ。学校帰りに館の前までいって調べる手もあったけれど、結局当日を待つことになった。予定されている未定というのは、それはそれで楽しいものなのかもしれない。
     昇り、降り、ためつすがめつして並んだポスターの内容を検分する。ホラー、任侠もの、ラブストーリー。色々なジャンルがあるけれど、どれもタイトルは聞いたことがない。壁に窓はなく、原色で彩られた探偵の振り向く絵が、なんだか本物に見えてくるくらいに薄暗かった。小さく声を上げて、民尾が立ち止まる。つまづかないよう直ちに足を止めると、民尾がはしゃいだ声で一枚のポスターを指さしていた。
    「あ、これ面白そうじゃない? 『バチアタリ暴力人間』だって」
    「えっ……え?」
     意識の埒外からの提案に、俺は思わずうわずった声を上げる。
     民尾の趣味は、時々よく分からない。そういえば民尾の家に遊びに行ったときも、俺には刺激が強すぎる恐怖映画なんかを、彼は平然と笑って見ていたりもしたっけ。嫌ではないけれど、こう……俺たちが見ていいものなんだろうか。ガラの悪そうなポスターやタイトルからして、あまり子供向きの映画じゃないと思うんだけれど。
     少しばかり腰を引かせながらも、俺は上映時間を確認する。ええと、民尾が見たいといっていたのは、これか。上から順に指で数えながら確認していくと、『二十一:〇五』の時刻が目に入る。それ以外は空欄で、どうやら一日に一度しか上映しないらしい。どことない安堵と共に、俺は民尾を振り返る。
    「民尾、これ……二十一時の回しかないじゃないか。ここ、高校生は十九時までしか居られないぞ」
     ポスターの並びの最後、入り口から三段くらい低い位置にある上映スケジュールの張り紙を指摘すると、民尾は眉間に皺を寄せて唸った。
    「ああ……じゃあしょうがないか。残念だなぁ。配信とかあるかな」
     ぶつくさ言いながら宙を見る民尾の手を引きながら、俺はスケジュールを改めて見返す。並ぶタイトルから今まで通り過ぎてきたポスターたちの顔を思い浮かべ、上映時間とにらめっこして。今は十時一分。とすると、一番丁度良いのは。
    「これにしないか? ちょうどあと二十分だって」
     俺は民尾の方を振り返る。
     これは確か、ポスターでは恋愛映画だというような触れ込みがされていた筈だ。名前だけは知っている往年の有名アイドル歌手が、どこか憂いを込めた顔をしていたのを思い出しながら、俺は首を傾ける。
    民尾はなんだか曖昧な顔をしていたけれど、やがて納得したのか小さく頷いた。
    「ふぅん。まあいいけど……じゃ、それで」
     階段を昇りきった先の戸を押すと、古びた匂いは一段と強くなった。ほこりっぽいけれど、掃除が行き届いていないのとはまた違う。それは年月を経てきたこの映画館自体が発する、いわば時間の匂いなのかも知れなかった。その表面を上書きする煙草の臭いが、現在進行形で奥から流れてきている。体育館の入り口を連想させる緑のゴム引きマットが敷かれた上に、俺たちは連れだって足を降ろした。
     入ってすぐの左手がチケットカウンターになっていて、アクリルで仕切られたそこへ券を差し出して映画の名前を告げると、ほとんど無言でミシン目の千切られたチケットが戻ってくる。スクリーンを示す案内板に促されて、俺たちは狭い通路を進む。ロビーで煙草を吸っていたおじいさんが、片目でちらりとこちらを見る。やたらと橙色だけが強い天井の明かりが、ソファの表面をてらてらと焦がす。その後ろの壁には煙草の脂が染みついて、色のついた明かりでも誤魔化しきれない斑を浮かべている。銀色の塔みたいな水飲み機が低い音を振りまいていた。
     緩い傾斜の付いた通路を下って場内に入ると、空気から脂の匂いが拭われる。映画館の心臓部とでもいうべきスクリーンからは、あの時間の匂いが更に色濃く感じられていた。
     席は自由らしく、とりあえず中程の椅子に連れ立って座る。俺たち以外の客はちらほらといたけれど、みんなてんでバラバラの位置に座っているから、むしろ二人で固まって居ることが強調される。
     どんな映画なんだろう。楽しみだな。そんな他愛のない雑談を交わしているうちに、すぐに場内から光が消える。一瞬の暗闇はすぐに前方に映し出された映像に掻き消されて、客席の両脇へと追い遣られてしまった。配給会社の名前が環境映像と共に数秒流れたあとに、すぐに本編が始まる。
     物語の冒頭では、ひとつの逸話が示される。ある、南国の女神の話。彼女は神と人との境界を踏み越えて人間の若者に恋したせいで、罰を受けて死んでしまったのだという。
     その伝説を知ったヒロインは、思うのだ。きっと女神は幸せだったのだと。恋人を見送る悲しみを知らず、寧ろ自分が惜しまれながら逝ったのだから。その悲劇をなぞるように、物語は収束していく。真夏の太陽と、白い波。それだけが、刻み込まれたままに鮮やかで。
     いたたまれず、俺は民尾の方を見た。彼はといえばすっかり入り込んでしまっているようで、スクリーンを見つめたままこちらに気づいた様子はない。画面から照り返されたしろい光が、民尾の横顔を浮かび上がらせている。こちらからではその向こう側にある、もう片方の表情を伺うことは叶わなかった。少しばかり上向きで、けれども通った鼻筋。それが余りにも単純で、近すぎる境界線となって。
     たまらず、俺は肘掛けの上にあった民尾の手を握りしめた。
     それでやっと、民尾は俺の方を見てくれる。眠たげな青い瞳が、ふたつそろって見開かれ、こちらへ向く。それだけで、俺はなんだかどうしようもなく安心した気持ちになった。いきなり手を握られれば、こちらを向く。こちらを向くならば、民尾は隣にいる。そんな当たり前を証明するために、当たり前をぶつけていく。徒労を重ねてでも、いまは民尾を確かめたかった。
     くらがりの中で、俺たちが見ていない間も変わらず映画は進んでいく。なんだか、夢を見ているみたいだと思った。映画も夢も、暗闇の中でしか存在できない。それが目を開けているか閉じているかの違いはあっても、明かりの帳が降りれば消えてしまう絵にしかすぎないのだから。
     映画が終わるまでずっと、俺は民尾を離さなかった。

         *

    「面白かったねぇ。古くさくてちょっとありきたりだけど」
     朗らかな民尾の声に相槌を打ちながらも、俺はどこか上の空だった。映画館を出て、暗闇が過ぎ去ってしまったあとも、なんだか夢が追いかけてきているようで。アーケードの屋根を通して落ちる光も、なんだか先程より頼りない気がした。
    「ねえ、まだこのあと時間あるでしょう? 駅に行こうよ。この時間だと、SLが来てるかも。お昼も食べたいし」
     民尾の鉄道好きは、夢から醒めても変わらなかったらしい。それを知れたときの喜びは大きかったけれど、今は水を吸ったようにぶよぶよした感傷が邪魔して、上手く思い出せなかった。楽しげに話しかけてくれる民尾に、俺はただ胡乱な返事を返すことしか出来ないのがただただ申し訳ないばかりで。
     俺の真空に吸われて、民尾の声もだんだん消えてしまう。俺たちは無言で駅への道を歩き続けた。歩調だけを合わせて。
     けれど人間空気がないところで生きていけないように、何も考えないということだってそうそうできない。言葉のないふたりの距離に耐えかねて、俺の頭の中でさっきの映画館での出来事が再び浮かびあがる。更にそれを片端にして、今までの記憶が九十九折りになって引っ張り出されてくる。
     列車の夢。駅舎の夢。子供部屋の夢。
     そして、病室の夢。
     箱庭の中に閉じ込めていた夢。もう、ひらかれた夢たちのひとつひとつを掴み取るように、俺は口を開いた。
    「民尾、あの……」
    「何?」
     漸く掴んだきざはしを言葉にして、民尾の手を引いた。訝しげにこちらを見やって、民尾は立ち止まる。その瞳の中に見える横一文字の瞳孔をひたと見据えて、俺はその続きを口にする。
    「今度は絶対に、民尾を置き去りになんかしない。側に居るから……ずっと」
     平生は眠そうに瞼を浮かした目が、思い切り見開かれる。
     恥ずかしいことを言っている自覚はある。けれど、やっぱり言葉にしなければ伝わらない。頬に熱が集まっていくのが、手放しでも分かる。初春の風が、慰めに似てそれを冷やしていった。
     民尾は目を逸らそうとしていたけれど、俺がそれを追いかけてにらめっこのような姿勢になる。何度視線の向きを変えても無駄だと悟ったらしく、しばらくして困ったように笑った。吐き出した小さな息が、商店街の天井へと立ちのぼっていく。
    「炭治郎、影響されすぎ……」
    「そ、そういう……わけでもあるけど、それでも、なんだか……」
     しどろもどろになる言葉は口にする度絡まって、上手い具合に繋がってくれない。あたふたしているうちに、民尾の言葉の方が先を行く。
    「なに、言葉にしなきゃ不安な訳?」
     軽い口調。おそらく、民尾としては何気ない言葉だったのかも知れない。
     けれど、その短い音が、俺の胸には刺さって抜けなかった。
     無造作に掴んだはずのパズルのピースのふたつが、偶然正しく繋がるものだったような完成された居心地の悪さ。とでもいうのだろうか。俺の頭の中で散り散りだった言葉が、瞬く間に繋がっていく。完成したパズルに描かれていたのは、これまた歪な絵でしかない。
    「……怖いんだ。また、これも夢なんじゃないかって」
     観念して、俺は吐き出す。くずおれる背が受け止める幌越しの日射しが、何故かいやに強く感じた。
    「やっと民尾を見つけられたと思ったのに、また醒めてしまったらって……そう思うと、どうしようもなくって、でも、それを確かめる方法もなくて……」
     あの夏、民尾の手を取ったその瞬間に、振り払ったはずの疑念だったのに。
     けれど、いくら頭の隅に追いやったところで、どうしたって不安は消えない。今居るこの世界が夢で、今この瞬間目を覚まさないなんて、誰にも保証は出来ないのだから。民尾にも、他ならぬ俺自身にも。
     民尾はそれを聞いて、しばらく何かを考え込んでいるふうだったけれど、やがて事も無げに首を傾けた。その顔からは、いつものぼんやりとした微笑みは消えていて。
    「いいんじゃない、それでも?」
    「なっ……」
     俺は呆気にとられて、彼を見つめていた。
     民尾の目の、何処までも深い青。
     表情が消えたせいで、その色が普段より鮮やかさを増している。

    「夢と現実の区別がつかなくても、今ここにいるっていう感覚は現実のものなんだから」

     きっと、夢というのは青色をしているんだろう。そうでなければ、あれだけ夢を見てきた彼の瞳がこんな色に染まるはずがない。そんなことを何故か思う。
     するりと俺の頬を、質量をもった冷たさが這う。民尾の指だ。添えられたときにはつめたかった皮膚の感触が、馴染むうちにじんわりと温かさを教えていく。民尾は、確かにそこにあった。そして、それに触れられている俺も。

    「もしいまこの現実が夢で……一瞬あとにも醒めて消えてしまうとしたら、今まで醒めてきたたくさんの夢も、現実と同じだったんだよ。そう思えば、夢で会った人も、夢で見た景色も、なくなってなんかない。ぜんぶほんとに在ることになるんだから」

     不意に、強い風が商店街の道を駆け抜けてきた。風を受けて膨らんだ民尾の髪が、その間をすり抜けていく空気に分解されて、一本一本舞い上がる。走り抜ける電車みたく吹き付けてきた風が、彼の姿を昼の光の中にきらきらと散らしていった。その瞬間、今までに行き過ぎてきた様々な姿をした民尾が、いまの彼へと重なって見えてくる。けれどすぐに、収まった空気が彼の姿を一つに定める。俺と同じ制服を着た、年端もいかない少年の姿に。
     きっと、夢に関しては彼の方が先輩なんだろう。たくさんの夢を渡り歩いてきた彼が、こうして、俺の前に居る。なんのさかいめもなく、ただふたりだけがそこにあって。
     確かに、それは都合が良すぎる夢なのかもしれない。わかり合う事なんて到底出来ないほどの無限の夢に阻まれた俺たちが、こんな風に立っているなんて。
    だけど、そうしてふたりがあって、ふたりがそれを現実だと思っているのなら。
     民尾が、俺と同じようにここを現実だと手を繋いでくれるのならば。
    「そう……なのかな」
    「そうだよ。その方が、楽しいでしょう? それにさぁ」
     民尾が俺の手をやわらかく握った。頬に添えられていた熱が、今度は指先から伝わってくる。そうやって、民尾の熱が俺の身体を少しずつ現実に馴染ませて居るような気がした。たまに吹いてくる風が、もうその輪郭を揺らがせることだってない。現実だと思うのならば、そこが現実なのだから。
     ふと、民尾の表情に笑顔が戻った。
     そうして、途切れた言葉を唇で捕まえて、突きつける。

    「……俺の現実になるって言ってくれたのは、炭治郎でしょう?」
     
     くすくすと悪戯っぽく笑う民尾を、俺はただ呆然と見ているばかりだった。あの夢の中で、彼を繋ぎ止めるために口にした言葉。それが、今の彼の中にも確かに残っている。受け止めた事実が、胸の中で花開いて、じんわりと染み渡っていく。思わず目尻にまで浮かんできた熱を、洟をすすって必死に堪える。
     俺が民尾の現実になるのなら、俺にとっての現実は民尾だ。
     決して混じり合わない筈のふたりが手を取り合ってしまった以上、そうして歩いて行くべきなのだろう。夢と現実の区別がつかなくなったもの同士、お互いを道しるべにして。
    「……うん、そうだ。そうだったよな」
     民尾の細い指を、しっかりと握り返す。俺の温度を民尾に伝えるために。
     それを受け止めるなり、民尾はぐいと俺のからだを引いた。傾いた身体に、あたたかな日射しが直に降りかかる。仰ぎ見ればアーケードの屋根に空いた穴から、ぽかりと青い空がまるで巨大な瞳のように覗き込んでいた。
    「ほら、行こう炭治郎! 辛気くさい顔してないでさ」
     唇を綻ばせて、民尾は駆け出した。さらにバランスを崩しそうになるのを慌てて押し止め、俺はよろけながらそれについていく。
     元はといえば、俺の方が民尾を引き込んだはずなのに。
     けれど、こういうのだって悪くはない。
    「わっ……た、民尾! ちょっと待ってくれよ!」
    「待たない! 早く着いた方が、電車たくさん見られるでしょ?」
      もつれた足取りを整えている間にも、民尾はぐいぐいと俺の手を引っ張る。仕方ないと苦笑しながら、俺は彼に合わせて、大きく一歩を踏み出した。
     確かな現実へ。
     そして、無限の夢へ。

         *


     ふたりの少年は進む。



     夢とうつつの境界線の上、それでもお互いの在る場所を確固たる現実と定めて。




     視界の端を行き過ぎる、耳飾りと市松模様の羽織にも気づかずに。




    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ❤❤❤👏👏😭😭🙏🙏🙏🙌🙌👆👍💒
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    斑猫ゆき

    MAIKING精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。『ジョハリの箱庭』本編の裏で起こっていたことをタンジロとむざさま+上弦が解説してくれる話。長いので複数回に分けての投稿です
    Lycoris radiataの生活環・Ⅰ「こんな山奥に、よく来たなぁ。疲れたろう?」
     先導する男が笑う。
     童磨と名乗った医師の、白橡の髪を視線でなぞりながら、炭治郎は白い廊下を進んでいた。リノリウムの床に、歩幅のまるで違うふたつの足音が輪唱する。
     今いるこの四階に、自分の病室があるのだという。
     先程上がってきたエレベーターの中で説明された筈の情報ではあるが、どうにも実感が湧かなかった。それどころか、今日からこの診療所に転院してきた自分を、童磨が施設の入り口で出迎えてくれたときの情報も、もう既に酷く遠い。記憶は確かなのに、まるで、ほんの少しだけ過去の自分と現在の自分が、透明な壁で隔てられてしまっているかのように。
     視界は明るく、そして白い。右手にある窓の外には先程車を走らせてきた樹海が犇めいている筈なのだが、壁側に寄っているせいか、炭治郎の位置からは雲の張り詰めた空だけが見える。白と黒と、その濃淡だけで構成される景色。ときたま視界を掠める色は、雲間から零れる日射しの白から分けられたものでしかなかった。
    8685