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    斑猫ゆき

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    斑猫ゆき

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    精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。失われてしまったたみおさんを見つけるべくタンジロがもう一度手を伸ばす話③。夢路の果ての大団円、ですがもうちょっとだけ続きます。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    星屑の証明・Ⅲ 強い日射しが、街路樹の葉に夏を焼き付けていた。黒焦げになった葉のかたちが歩道に落ち、影を作っている。その下に入って陽を避けながら、炭治郎は図書館への道を急いでいた。時折熱で揺らめいて見える遠くの景色は、近づく度に定まって、行き過ぎる。抜けるような空の上に波形をかたち作っていた信号機が、その下を通過する頃には鉄の重たい質感を取り戻す。首筋を滑り落ちる汗が、じくとシャツに染みては不快感をまとわりつかせていった。
     肩から提げた鞄は重い。その中には、ハンカチや小銭入れといった普段使いの品を除けば、ただひとつしか入ってはいないというのに。鞄の中に眠るそれが、炭治郎を無言の内に引き留めているようにも思えた。腕を引く重みを振り切って、炭治郎は前へと進む。アスファルトから立ちのぼる陽炎が、夢のように大気を震わせる。
     歩道橋を降りると、図書館通りは終点になる。申し訳程度の人工の林から、堅牢なコンクリートの建物が頭を出しているのが見えた。塀に沿って進めば、やがて道はその内側に入り込む。コンコースを回っていくと日射しを遮るものはなくなり、白い光が瞳を灼く。塗りつぶされた視界。慌てて手で庇を作って庇うと、図書館の硝子扉の前でしのぶが手を振っているのが見えた。早歩きを小走りに変えて、炭治郎は彼女の元へと急ぐ。
    「こっちですよ、炭治郎くん」
     夏の温度は、少しの距離でも息を切らさせる。大きく喉を開いて痛む喉に空気を送りながら、炭治郎はしのぶに会釈した。
    「すみません、お待たせして」
    「いえ、私は準備があったので」
     掲げて見せた手には、数冊の本が抱えられていた。図書館の蔵書シールが貼られているものもあれば、しのぶの持ち物らしき書店のカバーが掛けられたものもある。わざわざ、この日のために探し出してくれたのだろう。炭治郎は改めて深々と頭を下げた。
    「しのぶ先輩……あの、本当に有り難うございます。受験とかで忙しいでしょうに、時間とって頂いて」
    「いいんですよ。良い息抜きになりますし」
     ふるりと首を振ったしのぶに促され、図書館の扉を開く。管理された温度と湿度が、涼やかに人工の風となって炭治郎の肌を冷やす。深い緑色のカーペットが、固い石造りの舗道に馴れた足を柔らかく迎えてくれた。本の保護のために外からの光をできるだけ遮断したそこは昼間でも薄暗く、古い紙の匂いがそこかしこにわだかまっている。
     貸し出しカウンターの手前で枝分かれした道を横に入り、喫茶コーナーへと足を向ける。利用者のための休憩スペースとして開かれたそこは全面が硝子張りになっていて、急に増えた光量に一瞬目が眩む。夏休み中とはいえ平日の昼下がりにほとんど人はおらず、唯一埋まった最奥のテーブルで、なにやら学生らしき人物がふたり、宿題を広げているくらいのものだった。自販機コーナーの横には中庭へと続く通路があって、ふたりの入ってきた通路からは奥まって見えない角度になっている。右手の壁側にある自販機コーナーからは低い稼働音が切れ目なく響いてきていた。
     席に着く前にせめてもの御礼に、と自販機で炭治郎が二人分の飲み物を買っていく。しのぶがジャスミンティーで、炭治郎が麦茶。透明な汗をかいたペットボトルの表面に、ふたりの顔が引き延ばされて映っているのが見えた。
     大きなボビンのような幾何学的な形をしたテーブルに着くと、しのぶは早速手にした本を天板に置き、そこから一冊を抜き出してページを繰った。
    「改めて、ですが……炭治郎くんが知りたいというのはふたりの人間が共通した夢を見る、或いは夢の中で出会う現象について、ですよね」
     炭治郎は頷く。
     気づいてしまったのだ。しのぶの怪談を聞いたときに。同じ夢を同時に複数人が見ることがあるのなら、民尾だってもしかしたら夢の中の虚構や別の世界の住人ではなく、炭治郎と同じ現実に存在する人間かも知れない、と。
     我ながら飛躍した論理だとは想うが、いまの炭治郎には縋らずには居られなかった。鞄がまた紐を食い込ませて肩を引く。一抹の後ろめたさを感じながら、炭治郎は横にあった椅子の上へとそっと鞄を置いた。しのぶはそれを待って、話し始める。
    「納涼祭の時にお話ししたのは、あくまで都市伝説……大半が噂の域を出ない作り事です。ですから、今日持ってきたのはできるだけ出自のしっかりしたものを選ってみました」
     例えば、としのぶは手にした本のやや後半を開き、炭治郎の方をちらと見やる。カバーが掛かっている為に本のタイトルなどは分からないが、ベージュの紙が湿気を吸ってよれている所から見ると、大分年期が入った物らしい。
    「ここには、コールリッジという詩人が見た夢の話が載っています。彼は夢の中でモンゴル皇帝フビライ・ハンが建てた宮殿を目にし、その荘厳さに心を打たれてまどろみのうちに一編の詩を詠んだのです。その詩は彼が目覚めたときには殆どが忘れられてしまい、一部しか書き留めることができませんでしたが、後生に至ってもなお高い評価を受けています」
     本に目を落としたまま、しのぶはページをめくった。炭治郎はただ黙って、彼女の話を聞いていた。紫がかった瞳が、文字の上を滑る度に形を変えて光を弾いている。
    「これだけなら、ただ詩人が夢の中でも自分の才能を発揮したというだけですが……その宮殿の夢を見た人が、他にもいたんです」
     怪談のような、勿体ぶったしのぶの語り。けれど不思議と苛立ちは感じなかった。迂遠で、手を伸ばせば身を引き、掴み所が無い。それこそ、まさに夢のような語り口だったから。だから、炭治郎も彼女の話に背中を押されて、自然な流れとして問いかける。
    「それは……?」
    「宮殿を建設するよう命じた皇帝フビライ本人です。彼は大理石を積み上げた豪奢な宮殿を夢に見て、それにインスピレーションを得て同じものを現実に創り出したのだ、と」
     しのぶの長い睫毛の影が、ページの上に落ちた。薄暗さが文字を飲み込んで、はたとひらめく。石の上に刻み込まれた鑿のあとのように、くっきりと。
    「この本の作者であるボルヘスは、この事象を大いなる意志が夢の宮殿をふたりに大理石や言葉で現実に打ちたてることを促したのだと解釈していますが……」
     しのぶがやんわりと言葉を句切ったところで、眉間に寄ってしまったシワに漸く気づく。慌ててそれを手で伸ばしながら、炭治郎は誤魔化し混じりに麦茶を煽った。
     難しい顔になってしまった原因はわかっている。大いなる意志、とは大きく出たものだけれど、なんとなく自分達の間にはそのような他者の介在は噛み合わないような気がしたから。ただ、炭治郎が勝手に願い、勝手に手を伸ばした。それだけが、この無限の夢を成り立たせている。そんな解釈の方が、ずっとしっくりくる。
     炭治郎の気色を読み取ったのだろう、しのぶは別の本へと手を伸ばす。こちらは図書館の蔵書マークが貼られたもので、『東西不思議物語』という題名が、やや黄ばみ掛けた背表紙に鎮座している。
    「炭治郎くんが求めているような話なら、こちらの方がよろしいかもしれませんね。こちらは、『今昔物語集』という日本の古い説話集に収められている話です」
     新たな話に炭治郎は慌てて膝に手を遣り、居住まいを正す。そんなぎくしゃくした様子を、しのぶは微笑ましげに流しながら本の内容へと声を浸していく。
    「昔、常澄の安永という男が仕事で遠く離れた上野の国へ行き、そこで長く暮らしてから京へ戻る途中、ある夢を見ました。それは、故郷で待っている妻がひとりの男と密会している夢……安永は変なこともあるものだと思い、家に帰り着いたあとに妻にその夢のことを話すと、同じ頃に妻も見知らぬ男を家に招き入れる夢を見ていた、ということです。説話の最後には安永が心配から疑心暗鬼を生じさせたことへの戒めで締められていますが……」
     その後も、しのぶの講釈は続く。寝ている間に虫となって口から出ていく魂の話、自分自身と夢の中で出会う話、話……とりとめもなく語られていくそれらは炭治郎の耳朶に染み入っては、ほどけていく。物語という糖衣を纏った夢たちを構成する要素。論理というにも拙いかたちに分解されては居るが、それでも、ひとつの志向を持ったあかり達。
     しのぶの話を噛み締めながら、炭治郎は言葉を咀嚼するがごとくに頷く。その音節のひとかけをも逃さないように。夢から出でる無限の道のりを、知識をもって舗装する。胡乱で不条理な夢を、現実の理で編んだ網で掬い上げるために。
    「とりあえず、私が知っているのはこんなところでしょうか」
     硝子の壁から差す光が三回、陰ってはまた強まるのを繰り返したころ、本を閉じてしのぶはほう、とひとつ息をついた。
    「……いずれにしろ、夢と現実との境というのは至極曖昧で……強い結びつきや意志があれば、その境は簡単に踏み越えられてしまうもの、なのかもしれませんね」
    「強い……意志」
     しのぶの言葉が、胸を刺す。
     ずっと、自分は民尾を探していた。
     己と彼とを結びつけるそれが、どのようなゆかりから生じたものなのかは、杳として知れない。けれど、自分のもつ執着が自身の意志から生じたものであるのならば。
     たまらず、炭治郎は口を開いた。
    「あの、しのぶ先輩。変なことかも知れませんが、聞いて頂けませんか。俺の話」
    「ええ、是非」
     しのぶが頷くなり、炭治郎は込み上げてきた言葉をテーブルの上に吐き出した。
    「入院している間、夢を……見たんです」
     伝える、というには拙すぎる数珠つなぎなだけの言葉。それをなんとか筋の通る形に通し直して、炭治郎は吐き出し続ける。まるで、夢を語るように。
    「その夢の中で、俺はずっとひとりの人を捜し求めていて、やっとその手を取ることが出来たんです。けれど、醒めてしまった。現実に彼を連れて来られたと思ったのに……」
     何故なのかは、相変わらずわからない。
     どうしてこんなにも民尾のことを求めるのか。
     夢の中で、遠い無限の遠端でほんの少しすれ違っただけの彼を。
    「だから、もう一度手を伸ばすんです。彼の手をもう一度取るために。今度こそ、彼を正しい方向へ導くために」
     正しい、方向。
     どうしてそんな言葉が出たのかは、知らない。彼が間違った方向へ進んでしまったのかだって、知る由もないはずなのに。本来彼に縁もゆかりもない、ただの人間だった炭治郎には。夢の論理のようにちぐはぐで、だからこそ純粋な思い。
     炭治郎の声に涙が滲んでも、しのぶはただ黙って彼の論理を受け止め続けた。
    「……わかってます。自分でも変だって。ただの夢にこんなにも執着するなんて」
    「そんなことはありませんよ」
     肩を落とした炭治郎に、しのぶはそっと言葉をかけた。やや伏せた瞼が、夏の光を遮って薄い影を瞳に渡らせる。
    「本当におかしくなってしまったひとは、自分がおかしいなんて考えたりしないものですから」
    「え……っ」
     あまりにも歯に衣着せぬしのぶの言葉に、炭治郎はぽかりと口を開いた。しのぶはといえば、相変わらず薄笑みを浮かべたままで。
    「胡蝶の夢、というお話を知っていますか、炭治郎くん」
     ジャスミンティーのボトルで舌を湿らせて、しのぶはうっそりと笑う。濡れるくちびるから紡がれた言葉。聞いたことがある、確か。
    「あ……はい。蝶になった夢を見た人が、自分が蝶になった夢を見た人間なのか、それとも人間になった夢を見た蝶なのか考える……ってやつ、ですよね」
    「ええ。あれは夢とうつつの不確かさを問うた説話ではありますが……でも、自分を疑っている瞬間こそ、そこに確固たる自分が生まれる。私はそう思うんです」
     己の名を冠したそのことばを、しのぶは読み解いて、編み直す。彼女の髪を飾るつくりものの蝶が、光を砕いて様々な色に仕分けていた。
    「自分の在り方を常に問い、正しいと思う方向へと手を伸ばす。たとえ、それが皆の望むかたちではなかったとしても、自分が自分であり続けられる道ならば」
     茫洋とした光を弾くしのぶの目は、窓の外を見ていた。まるでそこが何かの境目だとでもいうように。彼女の視線の向く先をそっと炭治郎も見やるけれど、何処を指したものなのかは判然としなかった。きっと、彼女には彼女の論理がある。夢のように、己の来歴と意志をもって形作られた、彼女だけの世界が。
    「頑張ってください。一番応援していますよ、炭治郎くん」
     胸の前で軽く両の拳を握り、しのぶは目を細める。そこに確かな光を見て取って、炭治郎は小さく息を漏らす。
    「はい……ありがとうございます!」
     しっかと頷いた炭治郎の脳裏で、組み上がっていく閃きがあった。しのぶの言葉を材料にして、己の今まで渡り歩いてきた道筋を補強していく。
     そうだ、結びつきというのは心だけのものとは限らない。しのぶの話によれば、地理的に近い場所にきたことも二人同じ夢を見るときの条件のひとつにも思えた。
     で、あれば。
    「すみません、俺、行かなきゃならないところができたんです……それじゃ!」
     矢も楯もたまらず、炭治郎は立ち上がっていた。唐突なその行動にも、しのぶはあたたかな眼差しを崩さない。ひらりと振った手の先で、艶めいた爪がゆるく光る。
    「はい、お気をつけて」
     もう一度改めて深いお辞儀をすると。炭治郎は椅子に置かれたままの鞄を手に取る。もう、あの罪悪感めいた重さは感じなかった。そのまま、硝子越しの日射しを背中に受けて、流れ星のように駆けていく。瞬く間に小さくなるその背中を、しのぶは椅子の上から見送っていた。出入り口に続く方へ折れて見えなくなったのを確認してから、おもむろに振り返る。
    「……さて」
     しのぶの視線の先には、ふるふると震える少年がひとり。
     勉強をしている振りをして座っていたテーブルの上で、手にしたシャーペンが握りしめられて軋んでいる。彼の被ったパーカーのフードからは隠しきれない金髪の房が、ところどころ飛び出して。向かい側に座った少年がおい、と低い声で咎めても、意に介した様子もなく。
    「はぁー!?」
     黄色い絶叫が、壁を、床を、震わせる。
     振動の余りあわや硝子がこのまま砕けて粉になってしまうのではないかというほどの音量。しのぶは微笑んだまま、優雅に両手で耳を塞ぐ。
    「くっそ、炭治郎めぇ! 俺が! この前は俺がしのぶ先輩に一番応援されてたのにぃ!」
    「っせえ紋逸! しのぶにバレんだろうが!」
     叫び散らす善逸の頭を、目深に被っていた帽子を脱ぎ捨てた伊之助がぽこぽこと殴る。それでも転がり出す奇声は止むことなく。しのぶは微笑みを崩すことなくそれを見据え続けている。けれど、形の良い眉はほんの少しばかり引き攣れていて。
    「もうバレていますが……それに」
     盛大な溜息をつくと、しのぶは中庭に続く通路の陰を見やり、声を投げかける。
    「ほら、みんな出てきてください?」
     ぱん、と手を打つと、小さな影が三つ、雪崩れるように通路の角から倒れ込んでくる。三つ編みおさげの髪が宙に舞い、ほどなく身体の動きに従って落ちる。それから二つ結び、おかっぱと順に続けて。
    「きゃあ!」
     最初に顔を覗かせたのはなほだった。そのあとからころりと転がり出してくるすみときよが折り重なり、飴色の床木に三色のワンピースが咲く。
    「ご、ごめんなさぁい……しのぶ先輩……」
    「あの、私たち……炭治郎さんが心配で……」
     立ち上がった三人娘が口々に謝罪の言葉を述べる後ろから、カナヲとアオイが神妙な面持ちで姿を現わす。視線を泳がせていたアオイが、意を決したように顔を上げた。
    「申し訳ありません……しのぶ先輩。私が、声をかけたんです」
     震える声。けれど、年長者としての矜持なのだろう。他の四人を庇うように矢面に立ち、口角を強ばらせている。
    「いいの、アオイ」
     それを遮ったのは、カナヲだった。平生は曖昧な微笑みを浮かべているくちびるを引き締め、アオイの肩をしっかと支えるように手を添える。
    「庇ってくれるのは嬉しいけど、私が行くって決めたの……それを、なしにしないで」
     呆気にとられたように見つめていたが、やがて唇を噛み締めて再び俯く。
    「……ごめん」
     カナヲはふるりと首を振って、アオイの裾を掴む。それを見据えながら、しのぶはゆっくりと椅子から立ち上がった。そうして、大きく一つ、かぶりを振る。
    「……まあ、皆さんの気持ちもわかります。やっぱり、心配ですものね。私も……あの夜に見た剣幕は尋常のものじゃないと、思ってしまいましたもの」
     その言葉に、皆の間に透明な沈黙が降りる。胸の中にあったわだかまりが、かたちを得て小さな硝子張りの室内へと満ちていくような錯覚と共に。
     鍵をかけて大切にしまって置いた宝物の箱が、外側を残して何か別の恐ろしいものに変わっているのではないかという猜疑。半年以上続いた入院生活の中で、竈門炭治郎という人間の外形だけを保って変質しているような気がした。程度の違いはあれど、ここへ集った者には共通した不安。それが言葉を得て、空気に重く染み渡っていく。
    「だけど炭治郎くんは、大丈夫ですよ。彼の目指している場所が私たちには知れなくとも、その道行きは、手を伸ばす志は、変わっていないから」
     しのぶの言葉。
     それが通り過ぎてからしばらくは、誰もが無言だった。遠くから響く蝉の鳴き声だけが、冷房に冷やされて空々しく届く。彼女の言葉を信じたくとも、隔てられてきた時間はあまりにも長い。この僅かな時間で、その間隙を埋めてしまえるものなのか。そんな、困惑が素直に受け入れさせてくれなかった。
     けれど。
    「やっぱり、そうなんだよな……」
     口火を切ったのは善逸だった。
     ふらふらと立ち上がった彼に、視線が一斉に向く。テーブルの間に躍り出た彼はまるで役者のように一心に皆の気を惹いてはいるが、けれど言葉だけは用意されていない。ひとかけずつ自分の思いを拾い上げて、繋ぎ合わせるしかなくて。
    「あのさ、俺実はここに来る前、禰豆子ちゃんにも声かけたんだ。ちょっとあの時しのぶさんに声かける炭治郎が、別の人みたいに見えて、心配だからって……だけど」
     言葉を選びながらたどたどしく、けれど核となる思いはただひたむきに。
    「禰豆子ちゃん、言ってたんだ。きっと俺たちには変に見えても、あいつは自分なりの真っ直ぐな道を進んでるから、大丈夫って。炭治郎を……信じるって」
     そこまで絞り出すと、はたと顔を上げて、善逸は目を見開いた。
    「あ! で、でも、カナヲちゃんや俺たちが炭治郎のこと信用してないとかそういう話じゃなくて! えと、そう! 心配だとしても、あいつはちゃんとあいつのままだから……だから……えっと……」
     うまく話をまとめられないのだろう。頭をしきりに掻きながらぐうと唸る善逸。それを通路の前からすみ達が目を白黒させて慮っている。伊之助は何か助け船を出そうと手を宙に振り上げ、すぐに降ろした。
     不意に、カナヲが一歩を踏み出した。善逸の方へ向けて、ふたり舞台に立つ。かつり、と鳴った床が、彼女の足跡を意外なほどにふんわりと受け止めて。
    「いいよ、わかってる」
     善逸の隣に立ったカナヲは、胸の前できゅっと掌を握りしめる。空っぽの筈のその内側に、確かに光り輝く何かが納められてでもいるかのように。そのしぐさを、皆はただ黙って見つめていた。
    「人の原動力は、心。うん……そうだよね」
    「え?」
     きょとんとした顔の善逸に、カナヲはくすりと笑って応える。
    「なんでもないの。ただ、嬉しかっただけ」
     カナヲの言葉が薄らいでいく頃には、室内に満たされていた凝った空気は、既に溶けて消えていた。誰が言うとでもなく、皆の視線が一点に向いていく。炭治郎が駆けていった先へと。
     硝子越しの夏の光がうずくまる部屋の中で、八人は通路の果てを、いつまでも見つめていた。

         *

     図書館前の電話ボックスに入り、炭治郎は小銭入れを取り出した。小さな硝子張りの箱は空調もなく、熱せられた空気は最早温室を通り越してサウナに近い。急激に噴き出す汗。日射しに焼かれた鉄のドアノブが指先に熱を残して、鞄を漁る手を鈍らせるのがもどかしい。取り出した百円玉がきらりと太陽の光を反射させ、目を射した。伏し目がちになりながら投入口に硬貨を押し込むと、炭治郎は数字のボタンに指を踊らせる。
     退院してからこのかた、スマートフォンは持たされていない。過剰な情報に触れるのは好ましくないという珠世の診断によるものだが、特に不自由は感じていなかった。今、この瞬間までは。先日まで入院していた診療所の電話番号をプッシュしながら、炭治郎は歯噛みする。
     どうして、今まで気づかなかったのだろう。
     それまで夢に民尾に似た鬼や人と相まみえることはあっても、ああまでヒトとしての民尾に肉薄した夢を見たのは、入院してからのことだった。しのぶの言うとおり、結びつきのある者同士が近づいたときに夢が感応することがあるのだとしたら、探るべきは第一にあの病院の中だというのに。
     足下を踏みしめると、溜まった砂がじゃり、と音を立てた。距離も、時間も、手を伸ばす先を隔てるすべてがもどかしい。受話器を耳に当てて聞こえる無音が、数千倍にも増幅されて感じられる。
     漸く数回コール音が鳴ったあとに、事務的な男の声が聞こえた。
    『はい、こちら産屋敷総合診療所。看護師の後藤が承ります』
    「あ……後藤さん! 俺です。竈門炭治郎です」
     炭治郎が名乗ると、電話口の後藤は一気にくだけた口調に変わった。
    『おー、久しぶりだな。どうした? リハビリの日程確認とか?』
    「あ、あの、ちょっと聞きたいことがありまして」
    『なんだ?』
     問い返されて、改めて炭治郎は答えに窮してしまう。自分の思いの丈をどう、伝えたものか。混線した思考が、こんがらがったまま口から飛び出る。
    「えっと……! そちらに魘夢民尾っていう患者さんはいますか? もしかしたらそういう名前じゃないかもしれないけど、肩くらいの髪に、青い目の男の人……ああ、でも年齢も違うかも知れなくて……うう……」
     何も、分からない。
     彼は夢の中でほんの小さな子供だったこともあれば、自分よりも年長であったこともあったし、そもそも人間ですらないことだって珍しくなかった。千切れるすがたかたちが万華鏡のように枝分かれして、民尾の姿をひとつに定めさせない。ただ、炭治郎の呻きだけが尾を引いて。
     ただ、その戸惑いだけはストレートに伝わったらしく、後藤の声が訝しげに曇った。
    『おい、ちょっと落ち着け? 言ってることがめちゃくちゃだし、それに一応守秘義務ってのがあって、みだりに他の患者のことを話せないんだよ。もしそういう患者がいたとしても、だ』
    「あ……そう、ですよね……」
     声がうわずっているのが、自分でもわかった。
     やはり、そう事が上手く運ぶはずもない。ここは、現実なのだから。
     無数の人と人とが結びついて、一定の機構を組み上げる世界。夢とはまた違う理不尽があれど、それはただ現実の論理から逸脱したという一点にすぎない。ひいては炭治郎の今の態度は、明らかにその理からは外れている。我を押し通し、夢と現実を混ぜ合わせた子供の戯れ言。或いは、心を病んだ患者の妄言。そう取られても仕方がないというくらいは、今の炭治郎にだって分かる。
    「ん、まあ……悪いが……え、珠世先生? はい……ええ……」
     ちょっと待ってな、という声を残して、後藤の気配が受話器の向こうから聞こえた。ほどなく保留音が取って代わる。公衆電話の度数が足りるか心配だったが、小窓に表示された数字が切り替わる前に後藤の声は戻ってきた。
    「あー、炭治郎。いま珠世先生からの伝言があってな。いますぐデイケア棟に来て欲しいそうだ。いつもリハビリする、麓のあすこだ」
    「え、ええ……?」
     向こうから言われずとも訪ねるつもりだったから、丁度良くはある。けれど、事はそう炭治郎の思い通りには進んでいないのだろう。後藤のぎこちない応答からも、その先に続く言葉は容易に予想できた。
    「ちょっと、疲れてるんじゃないか? 正直に言っちまうけどな、今の感じだとまた症状が戻りかけてるかも知れないって珠世先生が心配してるんだ。診てやるから、今すぐ来い」
     その言葉に、炭治郎は受話器を握りしめる。
     自分の訴えはやはり、譫妄に駆られた患者が発した戯言でしかないと判断されたのだろう。伝わらないとは知っていながらも首を小さく振って、炭治郎は声を落とす。
    「そう、ですよね……」
    「電車賃足りるか?」
    「あ……はい」
    「そうか、悪いな。帰りは車出してやるから」
     早くな、という念押しをして、電話は切れた。度数ギリギリで終わった通話の余韻に、炭治郎は塞がれた空を仰ぐ。
     日射しはひどく強いのに、太陽自体はボックスの天井と周囲の木々に遮られて、何処に居るのかすらわからない。一瞬遠くなる意識。ふらり寄りかかった硝子の熱さに、小さく叫びながら炭治郎は身を引いた。けれど、その急激に感じた温度のお陰でほんの少しだけ意識が明晰になる。頭を何度も振ってから、炭治郎は己の頬を叩いた。
     こうしては居られない。もし正気を疑われたのだとしても、自分の心は誤魔化したくない。珠世や後藤達に、正面切って伝えなければ。思いの丈を、己の成すべき事を。
     弾かれたように、炭治郎は電話ボックスを飛び出した。はじめは早歩きで、けれど一歩、二歩と進む度に速度を増して、コンコースに出た頃には全力疾走で駅の方角を目指していた。ここからだと、駅は歩いてもそう遠くない。けれど、どうしてか急がなければならない気がした。早く、という後藤の言葉が、回線の中で擦り切れた音質のまま耳の中で残響している。揺らめく蜃気楼を何度も追い越して、炭治郎は走る。
     駅の階段を駆け抜け、滑り込んできた電車に飛び乗って、漸く肺の中に落ち着いて空気を送り込むことが出来ていた。切れた息のままがら空きの座席へと座ると、列車が動き出す。
     慣性に揺れた身体が戻る頃には、少しばかり落ち着いて周囲を見渡す余裕ができてくる。午後四時を回った車内は帰宅ラッシュからほんの少しだけ外れた隙間らしく、車両には炭治郎の他には数人の客がいるくらいだった。窓から射す日射しは弱まることはないものの、表面にほんの少しだけ夕の茜が滲み始めている。
     過ぎていく景色をぼんやりと眺めながら、炭治郎は膝の上に置いた鞄を探る。そうして、つかみ出す。ほんの数刻前まで鞄を重たくしていた原因を。
    「……民尾先生」
     手の中にある箱庭に、炭治郎は呼びかける。心の底でいつでも手を伸ばしていたその名を。
     このちいさなすみかに、もう民尾はいない。
     それを自覚してからのち、炭治郎は努めて箱庭を意識しないようにしていた。
     無機物との暮らしは、すべて人の指向するさきにある。ただあるがままに存在する物質に、それと相対する人間の勝手な感情が入り込んで、血肉をつくる。満たされた虚ろに自分を投影して、愛でるだけで。
     だから、炭治郎はもう箱庭を見ない。ここに民尾がいないのであれば、返ってくるのは自分の勝手な感傷に過ぎないから。箱庭はほんとうの民尾に会うための目印であって、民尾自身ではない。それを覚悟の上で、炭治郎はきょう箱庭を鞄に忍ばせてきていた。
     開いたケースの隙間から、そっと指先で壁を撫でる。直射日光に触れていないプラスチックが、清廉なまでに艶やかな感触を返してくる。それだけで、それだけだ。
     俯いているうち、うと、と頭が船を漕いだ。今まで止まずに走り続けていた疲労が、眠気となって一気に押し寄せてくる。炭治郎はやわらかい倦怠に包み込まれるままに瞼を閉じた。あと十数分もしないうちに着くとはいえ、行き先は終点だ。アナウンスがあれば起きられるだろうし、万一があっても駅員が放っておかないだろう。
     それになんだか、民尾が呼んでいるような気がした。眠りの先で。夢とうつつの境界で。
     ゆるりくらりと、炭治郎は眠りに落ちる。卵を抱く親鳥のように、箱庭を掌で優しく包み込みながら。
     そうして、夢を見た。
     民尾と同じ顔をした鬼と、互いの命を賭けて対峙する夢を見た。
     民尾と同じ顔をした人と、列車の中で騒がしい捕り物を繰り広げる夢を見た。
     あらゆる関係性をなぞって、炭治郎は民尾と夢を見た。
     時間としては十分にも満たない筈の間に、無限の夢を。
     口汚く罵られもした。伸ばした手を振り払われもした。民尾と同じ顔の鬼が、人が、炭治郎の慈悲を思い上がりだと何度も弾劾する。勿忘草色の瞳が、冷ややかに炭治郎を突き放す。
     それでも、炭治郎は夢を見た。現実と夢の境を乗り越えて、何度でも民尾へと会いに行く。
     竈門炭治郎は人間として、魘夢民尾という人間を救いたかった。
     ひとの不幸を笑い、苦しむ顔をみて愉悦に浸る。息絶えるそのときまでも、ひとかけの後悔すら残さない。そんな彼は、きっと本物の鬼となって救われたのだろう。人の身のままに心を鬼にやつさなければ生きられなかった、鬼としての彼は。
     だけど自分は、人間のまま鬼となった彼を、人間として救いたかった。人を夢の中に引きずり込み、自身も夢に溺れていた彼を、うつつへと引き揚げてあげたかった。
     全ては炭治郎のエゴでしかない。
     けれど、それが何だ?
     限りのある世界で、誰もが誰かに自分の理想を押しつけ合っている。それが、現実というものの原則。軋轢が悲しいすれ違いや憎悪を生もうが、ひとはそれでも誰かと寄り添って生きていく。届かぬ星に手を伸ばすが如く、決して完全には重ならないとは知りつつも、お互いを理解し合おうと近づいていく。自分の中だけで完結した身勝手で不条理な夢想じみた論理を紐解いて、他者へと思いを伝えるために組み上げながら。
     だから、あと少しだけ。
     そんな焦燥を、終点のアナウンスが区切った。
     ぼんやりと、炭治郎は目を開く。窓から落ちる陽は、すっかり赤みを増した夕の光に変わっている。他の乗客は既に他の駅で降りたのか、同じ車両には見当たらなかった。喉にごわごわと絡みつく乾き。それをペットボトルの底に僅かに残った麦茶で洗い流して、炭治郎は列車のドアが開くのに合わせて立ち上がった。纏い付く夢の名残を箱庭に残して、鞄の中にしまって。
     下車した駅から徒歩数分の位置に、産屋敷総合診療所のデイケア用分院はある。大通りをひとつめの交差点で右に曲がり、天糸瓜の蔦を絡みつかせた涼やかな緑のカーテンが立てかけられた壁に沿って歩いて行けば、桃色ががったタイルの建物が見えてくる。天井のついたバスの停留所を横目に、炭治郎は入り口へと急く。
     二重の硝子扉を抜けると、すでに正規の診療時間は終わっているらしく、受付には誰も居なかった。並んだ三列の椅子にも座るものはなく、空洞になったロビーに降りるのはうそ寒い空調だけだった。とりあえず、誰かしらに自分が来たことを告げないと。確か、カウンターに呼び出し用のベルがあったはず。
     あまり足音を立てないようにして、炭治郎は椅子の間を抜けていく。まだ陽は昇っているものの、確実に夕の気配は忍び寄ってきている。吹き抜けになった高い天井から、窓を通して青を薄めた空が見える。光と影に波立ったリノリウムが、炭治郎の足の下で不安定に揺れた。
     いちばん前の列の椅子を追い越したところで、ふとカウンターの車椅子が止まっている事に気づいた。目を凝らせば背もたれの上からちょこんと飛び出した黒い頭が見える。入院患者のひとりだろうか。こちらに背を向けているから仔細はよくわからないが、おそらく背格好からすると炭治郎とそう年の変わらない子供なのだろう。彼の向く先には、エレベーターホールがある。誰かを待っているのだろうか。訝しげにその背中を観察する。いつの間にか、足を止めてまで。
     そうしているうちに、正面の薄暗い通路の先から誰かが歩いてきていた。三つの影が、段々と光を得て鮮明になる。医師の珠世と愈史郎、それから看護師の後藤だ。後藤は手にボストンバッグを提げている。とすると、この子は入院だか退院だかするのだろうか。後藤が声をかけると、彼は大きく腕を伸ばして、大きく息を吐いた。消毒液の匂いが漂う潔癖な空気に、彼の呼気が混じり合う。
    「……ああ、寝てたんか」
    「ちょっと、寝不足でね」
    「だからって車椅子で寝るかねぇ……ったく、図太いやつだな」
     ぼやく後藤の声に、薄い笑い声が被さる。その音が、炭治郎の耳朶を擽る。予感にざわめいた心臓。けれど、それを確信に変えるには彼の声はあまりにも幽かで。
    「あと三十分くらいで親御さん着くってよ。だから、もうちょい待ってな」
    「うん。長いことありがとうございました」
     後藤に押されて、車椅子は向きを変える。呆然と立つ炭治郎へと、相対するように。きゅらきゅらと回る車輪の音。
     その向こうで炭治郎は、彼の顔を見た。
     勿忘草色の、わすれるべくもない、その瞳を。
     ほう、と喉を息が滑る。
     その幽かな響きも、病院の停滞した空気の中では強すぎるゆらめきだった。呼応して、彼が微笑んだ。肩の上で切り揃えられた黒髪が、柔らかくも薄いくちびるが、赫灼の瞳から射す強すぎるひかりを軽やかに受け止めて。
    「たみ、お……先生?」
    「ここじゃ、先生じゃないんだけどね」
     困ったように笑うその顔立ちは、あの夢で見たものより大分幼い。それに、声も変声期を経て間もない境に立った、ゆるやかな響きだった。けれども、そこに残る面影は、まぎれもない夢のなかの彼のもので。
     炭治郎はひとつ、頷いて、駆け出した。
     白い床から伝わった摩擦が真新しい雪のように足を取る。それでも、炭治郎は踏みとどまることはない。ほんの数メートルの距離が、余りにも遠い。終いには弾みをつけて、彼の膝元へと飛び込んでいた。勢いに、後ろへと押し出された車椅子を、背後から後藤がすかさず押さえる。
    「な? 車椅子にして良かったろ」
    「ほんと……立ってたら危なかったよ」
     苦笑する民尾に縋り付いて、炭治郎は大粒の涙をこぼす。膝元に掛けた薄いガーゼケットが濡れるのも厭わずに、民尾は癖毛の頭を優しく両手で慈しんだ。ひとつ、ふたつと雫が落ちるのに合わせて、炭治郎の髪がきしと細い指の間を通る。
    「あーあ、仕方ないな。たまたまこいつが退院のところにお前の診察が重なっただけだからな! 偶、然、だしな!」
     がなり立てる愈史郎が、やれやれとばかりに大きく両手を広げた。その明け透けな呆れに、二方向からぴしゃりと声が飛ぶ。
    「愈史郎!」
    「ばっか、お前そういう事はこの場で言うもんじゃねーだろ!」
     後藤に後頭部をひっぱたかれてローキックで応戦しながら、愈史郎は盛大にため息をつく。
    「ふん、お前、珠世様に感謝しろよ。珠世様が機転を利かせてくだすったおかげなんだかならな」
    「珠世先生が……?」
     弾かれたように、炭治郎は顔を上げる。涙の詰まった声を絞り出した彼に向けて、珠世は唇を引き結びながらも、しっかと頷いて見せた。
    「……私たち医者は、患者の健康を、ひいては幸せを守るためにいるのですから」
     その言葉に、また胸から熱いものがたちのぼる。
     彼女に向けて、皆に向けて、炭治郎は告げる。幾度とも知れない、感謝の言葉を。
     たくさんの人達に導かれて、ここまで来れた。無数の夢を抜けて、現実に、民尾の手を取ることが出来た。自分の道行きを、真っ直ぐにあると信じてくれたひとたちのおかげで。
     見上げれば、民尾の青い瞳が潤みきっている。喫水をぎりぎりに保つかに見えたそこからひとすじの軌跡が流れ落ちた。それを額で受け止めて、炭治郎は口を開く。けれど、そこから紡ぐはずだった名前は、より合わされては解けて、うまくまとまってくれなかった。観念したように、炭治郎は涙を拭うこともなく笑った。
    「民尾先生……たみおくん……いや、なんて呼んだら良いのかな……はは……」
     夢の中で何度も形を変えて呼びかけたはずの彼を、呼ぶための名前が見つからない。きっと、これから作り上げていくものなのだろう。現実に出会った彼と、自分との間で。
     なんどでも言葉を紡ごう。語り合おう。夢から醒めることを恐れなくとも、うつつに立ち戻った今、時間は無限にあるのだから。
    「炭治郎。俺は精神科医の先生でも、ほんの小さな子供でも、人食い鬼でも、電車ですれ違う変人でもないよ。それでも……いい?」
    「うん、うん……っ」
     炭治郎は何度も頷く。それに応えるように、民尾は炭治郎の耳飾りへと手を伸ばした。ちり、と鳴る金具に反射する光が、いちばん星のようにふたりの間に冴え渡った。

     沈み始めた夏の日射しが天窓から落ち、時ならぬ目覚めを告げる。

     夢路の終わりにあるふたりの人間の幸いを願って。
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    斑猫ゆき

    MAIKING精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。『ジョハリの箱庭』本編の裏で起こっていたことをタンジロとむざさま+上弦が解説してくれる話。長いので複数回に分けての投稿です
    Lycoris radiataの生活環・Ⅰ「こんな山奥に、よく来たなぁ。疲れたろう?」
     先導する男が笑う。
     童磨と名乗った医師の、白橡の髪を視線でなぞりながら、炭治郎は白い廊下を進んでいた。リノリウムの床に、歩幅のまるで違うふたつの足音が輪唱する。
     今いるこの四階に、自分の病室があるのだという。
     先程上がってきたエレベーターの中で説明された筈の情報ではあるが、どうにも実感が湧かなかった。それどころか、今日からこの診療所に転院してきた自分を、童磨が施設の入り口で出迎えてくれたときの情報も、もう既に酷く遠い。記憶は確かなのに、まるで、ほんの少しだけ過去の自分と現在の自分が、透明な壁で隔てられてしまっているかのように。
     視界は明るく、そして白い。右手にある窓の外には先程車を走らせてきた樹海が犇めいている筈なのだが、壁側に寄っているせいか、炭治郎の位置からは雲の張り詰めた空だけが見える。白と黒と、その濃淡だけで構成される景色。ときたま視界を掠める色は、雲間から零れる日射しの白から分けられたものでしかなかった。
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