「Daybreak Darkness」7話1.
晴天の下、ふわりと銀糸を想わせる美しい髪を靡かせ、目的の場所にレナスは降り立った。
あの青い甲冑姿ではなく一般人と変わらない服装でいるのは「人間世界に馴染むために」と、彼女なりの配慮なのだろう。
彼女を追うように白く光る羽根が地に落ち、粒子へと変化したかと思えばそれぞれヒトの姿になった。
ひとりは海風で傷んだ金髪に褐色肌、赤い洋装に身を包んだ大柄な青年クルトに。
ひとりは風になびく金糸のような金髪、紺色を基調とした装具に身を包んだ小柄な青年アルトフェイルに。
ひとりは色素の薄い髪に黒い外套を纏い、顔の左半分が紫色の鱗に覆われている青年アルフィオに。
「やっぱ慣れないな~。羽根になって運ばれるって」
と、ボヤくように呟きながらクルトは肩を回す。
その姿を見て、烏の姿のままレナスの肩にとまったムニンはクルトの真似をするように翼を広げる。
「クルト達も飛べれば良いのに。人間って不便だね~」
と素直に言葉を述べた。
その言葉にむっとしながらも「まあな」と返すクルト達を見て、アルフィオは微笑ましい気持ちになった。
しかし、その気持ちも束の間、アルフィオは目の前の光景に複雑な気持ちを抱く。
まさか"彼"を追って、自身が住んでいた村の近くへ来るとは思ってもいなかったのだ。
遠目からではあるが、村の出入り口は木で作られた大きなゲートが立っていた。昼夜問わず行商や旅人を迎え入れる為に、と領主が作らせたものだ。
アルフィオはゲートに近づき、手で触れる。少々の傷みはあれど、ゲートはあの時から何も変わっていなかった。
二度と戻らない、きっと戻れないと足取りが重い中、村を出たのをアルフィオは覚えている。
そして自身を見送ったコレは現在もこうして、様々な人を迎え見送っていたのだ。
アルフィオは自身の死後も変わらない光景に安堵するも、もうひとつ複雑な思いがあった。
― ひょっとしたら、リィサもまだいるかもしれない。
一目会いたい。会って、元気な姿だけでも見たい。そう思うも、今更どんな顔をして会えば良いのか。
しかし、アルフィオがエインフェリアになってから、どれ程の歳月が過ぎたのかはわからない。
人間界よりも神界はゆったりと時間が流れる為、自身が思っているよりも数十年経過していると言う事もある。
「自分を知っている者がこの世にひとりとしていない」という事も考えられるのだ。
故に妹がまだこの世に存在しているのではないか、などと言う考えをアルフィオは静かに振り払った。
「じゃあ、僕は……」
と、アルフィオは踵を返し、村の出入り口とは反対方向に歩を進める。
「ここへ来た本来の目的を考慮すれば、こんな事をしている場合ではない」とアルフィオは足早にその場を去ろうとする。
その姿を見たクルトとアルトフェイルは顔を見合わせ、声に出さずともお互いに何を思いついたのか容易だった。
数歩ほど歩いたところでアルフィオは、外套越しに伝わる大きさの違う手のひらが両肩に片方ずつ乗せられたことに気付き「え?」と声を上げる。
「アルフィオは」
「こっち」
軽く掴まれたかと思えば体が反転し、背を向けていたアルフィオの体は村の出入り口に向けられていた。
突然のことに肩越しに見える二人のしたり顔にアルフィオは慌てた。
「二人とも、遊んでいる場合じゃ……」
「アルフィオ。重要な事を任せたい」
うんうん、とアルトフェイルの言葉にクルトは頷き、アルフィオは訝し気に二人の顔を見た。
アルフィオに構わずアルトフェイルは話を続けた。
「俺達は周辺に痕跡がないか探すから、アルフィオは村の中が騒ぎになっていないか見てきてくれ」
「で、でも……」
血の匂いもせず叫び声も聞こえない。どう見ても騒ぎは起きていないのだが、アルトフェイルとクルトから感じる圧力にアルフィオは困惑する。
レナスに助けを求めるように視線を送るも、クルトが「な?レナス?」と言うのが先で、話題を振られたレナスもクルトとアルトフェイルの計らいにため息をつく。
「……そうだな。念のためだ、村の中を見てきてくれ」
その一言にクルトとアルトフェイルはにんまりと笑い、アルフィオは言われるがまま村の中へと歩を進めた。
村の入り口からほどなくして見えてきたそこには、木と石で造られた小さな一軒家が建っていた。
その佇まいは最後に見た時以来、所々に老朽化が見られるも植木鉢が出入り口に置かれており、黄色い小さな花が咲いていた。
― 誰か住んでいる。
アルフィオは遠くからその家を見ていた。自身が霊体だとしても、近くで確認しようか否かと二の足を踏んでいた。
「窓から覗いて家の中を見るか?いや、でも……」と眉間に皺をよせ思考を巡らせていた、その時だった。
キィ、と木造特有の軋む音がしたと思えば家の扉が開かれた。
「では、薬が無くなる前にまた来て下さいね」
扉を開け、中から出てきたのは腰の曲がった老女と妙齢の女性だった。
女性は老女を支えるようにゆっくりと一緒に歩く。
「えぇ、ありがとう。先生」
「先生なんてよして下さい。ただの薬売りですよ」
ふわり、と女性が微笑む。笑った口元も優しく下がった目尻にもアルフィオは見覚えがあった。
幼い頃から変わらない、優しく見守るような温かい眼差し。
少女から女性になっても一目でアルフィオにはわかった。
「それにしても先生、ひとりで住んでいるようだけどご家族は?」
と支えられながら歩く老女の一言に女性は、ほんの一瞬、顔を曇らせた。
そして、懐かしむようにポツリと女性は
「昔、兄と一緒に住んでいました」
女性は何かを堪える様子で「でも、今は遠くに……」と老女に返し
先程の暖かな笑みとは打って変わって、寂しそうに笑う。
その言動に老女も心配そうな顔をするも、女性は
「でも、きっと帰ってきてくれると信じています」
と、口にした。
言葉と共に見せるその表情は、今も帰らぬ兄の帰還をいつの日か暖かく迎え入れられるよう、希望を持ち続けているものだった。
しかし、明るくふるまっているもその女性の微笑みは、どこか物悲しいものを漂わせていた。
そのやり取りを遠くで見ていたアルフィオは込み上げてくるものを堪える様に唇を噛み締め、静かにその場を立ち去った。
「村の中には、居なかったよ」
村の出入り口で待機をしていたレナスにアルフィオは声を掛け、その声にレナスは「そうか」と一言返す。
ふと、目をやれば戻ってきたアルフィオの目元が赤くなっている事にレナスは気付く。
何があったのかはレナスに想像できるが、指摘するのは無粋だとレナスは見なかったことにした。
アルフィオは軽く鼻を啜り上げ小さく息を吐いた。そしてレナスに言葉で語るよりも精一杯の笑みを見せた。
「レナス、こっちに来てくれ!」
と二人は声がした方へと顔を向ける。声はすぐ近く、森へと続く木々の間から聞こえた。
足早に声がした方へ行けば、声の主であるアルトフェイルが跪いてソレを見ていた。
同行していたクルトも、レナス達の姿を見るなり「これを見てくれ」とアルトフェイルの足元付近に目をやった。
アルトフェイルの足元には真新しい獣の死体が複数転がっていた。どれも皆、無惨にも腹部を切り裂かれており
その裂傷具合から武器によるものではないと、その場の誰もが思った。
「なあ、これなんだけど」
アルトフェイルは死体の近くに落ちていた赤い破片を手に取りレナス達に見せる。
アルフィオはアルトフェイルから受け取り、赤い破片をまじまじと見る。
その赤い破片は血で染まったわけではなく基から赤いのであろう、見覚えのある素材感にアルフィオは直感的なものを感じた。
「これってアルフィオの杭と同じ……?」
「うん、遺跡にも同じものが転がっていたね」
アルトフェイルの言葉にアルフィオは頷き、赤い破片を握りしめる。
覚えのある色に材質感。間違いなくアルフィオ自身が長年、愛用していた杭と同じものであり"彼"のものであろう。
「きっと彼は……自分の魔物化を、これで食い止めているんだと思う」
ただの憶測だ。
しかし、最初に"彼"と出会った時の事を思い返すと"彼"の腕や片翼には、この赤い杭が刺さっていた。
出血も無く的確に。魔物の血を止める術を"彼"はおこなっていた。
しかし杭には破損が見られたこと、この手の中にある破片から察するに、杭の役目はほぼ無きに等しい状態なのかもしれない。
「前から思っていたんだけど、この杭って何?」
「魔物の血流を止めるのがこれの役目なんだ。動脈部分に刺して一時的に血液の流れを止めて、素早く採血できるように。この杭の素材が生物の細胞を腐りにくくする性質もあるみたいで……」
レナスの肩に止まっているムニンの問いに淡々と答えるも、アルフィオの頭にはある考えが過ぎる。
杭の破片があるという事は"彼"が刺している杭が全て壊れたら?
魔物の血をせき止めているのだとしたら、杭が壊れたらどうなるのか?
アルフィオは足元から登ってくるような胸騒ぎに赤い破片を再び握りしめる。
その姿を見てレナスも同様に胸騒ぎを感じ、何か手掛かりが無いのかと辺りを見渡す。
ふと、足元に倒れている獣を見れば、道なりに点々と道標の様に血が続いていた。
それはまるで「自分を追ってこい」という様だった。
「そう遠くへは行っていないはずだ、この痕を辿るぞ」
その血の跡は森の奥深くへと続いており、例え罠だとしてもその血を辿らねば"彼"へと近づくことができないと、四人と一羽は足早に追う事となった。
森に入れば昼間でも鬱蒼とした木々が頭上を覆い日差しを遮る。
奥へ奥へと進んでいく内にアルフィオは、とあることに気付いた。鼻腔をくすぐる花の匂い、見覚えのある木。走っていく内に感じる景色の懐かしさ。
アルフィオが懐かしさを感じている頃、レナスはこの続く道に妙な違和感を感じた。
昼間であるはずなのに日が差さないのはこの森の特徴であるとしても、木々の合間から陽の光ではなく月明かりが見えているのだ。
血の跡を追い徐々に光が見え、森の出入り口が見えてくる。直ぐには出ず、一歩手前で四人と一羽は足を止め、その先がどうなっているのかをこっそりと見る。先程感じた違和感の正体は、目の前にあった。
「やはりこれは……」
雲の合間から見える月明かりの下、風が吹き応えるよう優雅に舞う白い花びら。
四人と一羽の前に広がっていたのは一面のスズランだった。
2.
雲の隙間から月明かりが差し、心地の良い風に揺れ光る白い花。鼻腔をくすぐるスズランの香り。
息を呑む程に美しいこの光景は、まるで天国のようだった。
「スズランが……なんでこんなところに」
アルトフェイルが木の影から顔を出し、辺りを見回す。
一面がまるで雪の様に白く、夜闇を月と共に照らしているかのようだった。その後ろで同じくアルフィオもスズラン畑を見渡す。
アルフィオはその光景に覚えがあった。忘れもしないこの光景は、スズランが咲いていたあの西の丘だった。
幼い頃に住んでいた土地が、遠く離れたこの地に出現するとはまず、ありえない。
「まさか…」
と、レナスはここに来るまでの間に感じていた違和感を思い出す。
アルフィオ、クルト、アルトフェイルの三人とこの森に入り、血の跡を追っていた。
しかし血の臭いによって寄ってくる獣はおろか、鳥や獣の声は一切聞こえない。なにより、昼間だったはずが徐々に暗くなっていき、頭上には月が出ていた。まるで作られた空間にいるような感覚がレナスにはあったのだ。
それを踏まえたうえでこのスズラン畑の光景も、誰かによって作り出されたものだとレナスは判断する。
皆、目を凝らし一面のスズラン畑の中央に人影を見る。
"彼"だった。
こちらに背を向けてはいるがアルフィオと背丈が寸分の狂いもなく、鋭い爪を持ち左半身が魔物化した体は
足元に咲くスズランと月明かりによって一層、異質な存在感を際立たせていた。
アルトフェイルが一歩、スズラン畑へと足を踏み入れようとした時だった。
ポン、と軽くアルトフェイルの肩にアルフィオの手が乗せられる。アルトフェイルはすぐさま振り返り、アルフィオを見た。
「僕に行かせてほしい」
でも、とアルトフェイルが言うよりも先にクルトが「いってこい」と声を掛け
アルトフェイルも少し間を開け、こくりと頷いた。
「レナスも、それでいいかな?」
アルフィオはレナスに向き直り、レナスもまたアルフィオを見つめる。
レナスは迷っていた。この空間にアルフィオを行かせても良いものか、明らかな罠だ。
何が起こるかわからない、ひとりで行かせるには危険すぎる。しかし、レナスはわかるのだ。
「罠だと分かっていても行く」と、アルフィオの眼差しは語っていた。
レナスは静かに頷いた。
それを合図にアルフィオがスズラン畑に足を踏み入れようとした時だった。
「アルフィオ」と、レナスの真剣な声がアルフィオを呼び止める。
「必ず戻ってこい」
凛とした声がアルフィオの耳に届く。
レナスのこの言葉は本心だった。彼女だけではない、クルトもアルトフェイルもムニンも同じ気持ちでいる。
仲間を討ちたくない。だから"アルフィオというひとつの魂"で、必ず自分たちの許へと帰ってきてほしいのだと。
しかし、レナスのその言葉にアルフィオは言葉を返せずにいた。
もし、と考えれば考えるほど最悪の結果がアルフィオの頭をよぎった。
アルフィオは右手で自身の首後ろを掻こうとするも、ふ、とその手を止める。
― また、悪い癖が出る所だった。
アルフィオはゆっくりと降ろし、胸の前で拳を固く握る。
そして「うん」と声だけで返事をし振り返ることなくスズラン畑に足を踏み入れた。
前髪を貫通し、瞼に感じる白い月明かり。
鼻腔をくすぐるスズランの甘い香りと湿った土の匂い。
歩を進める度に優しく駆け抜ける風。足元にスズランや草、土の感覚。
目の前に迫る、もう一人の自分とその影。
ザッザッと草を踏む音に目的の主が近づいて来たのだと"彼"は察する。
足音が数歩ほど手前で止まった。きっと自分の背中を緊張した面持ちで見つめているだろう。
その緊張感でさえも、いまの自分達は共有しているのだ。
「ここが、どういう場所なのか"俺達"は知っているはずだ」
目と鼻の先、あと数歩大きく踏み込めば手が届く距離にいる"彼"はアルフィオに向き直る。
その一言にアルフィオの心がざわついた。"彼"もアルフィオのざわつきを感じ取り、表情がより険しくなった。
アルフィオも"彼"もお互いに感じているのだ、片や嫌悪感を伴う怒りに、片や同情のような思いもなにもかもが筒抜けに。
「スズランの毒に苦しむのは、俺達だけで良かった」
呟く"彼"にアルフィオは心で頷く。
"彼"の表情が一瞬、固まりすぐさま険しくなる。
「なのに巻き込んでしまった……妹を、この世でたった一人の家族を…!」
「同情なんていらない」と振り払うかのように"彼"はアルフィオを睨みつけ、肩と拳を震わせて叫ぶ。
「俺達がリィサの人生を狂わせた……!!」
喉に鉛でも詰め込まれたかのような息苦しさを感じる。
その息苦しさは口から外へと出ることはなく、喉を通り心臓に重く圧し掛かり締め付ける。
お互いに共有するこの感覚は二度とないだろう。それ程までに強烈なものがアルフィオと"彼"を結び付けようとしていた。
アルフィオは外套の左胸辺りに手を添え、力強く押す。
「僕は君を止めなくちゃならない。君の心が、魂が」
パシュッと射出音と共に、コートの裏地に仕込まれている小さな針が飛び出る。
その針は、針たちは、シャツを貫通しアルフィオの肌を目掛けて刺さり、精製された魔物の血が針の先とは反対に繋がれた管から
アルフィオの体内へと注入される。
ぐらり、と一瞬だけ視界が霞むが、歯を食いしばる。何も問題はない、アルフィオは自身に言い聞かせた。
そして真っ直ぐ、"彼"を視界に捉えた叫ぶ。
「これ以上、傷ついていくのを僕は見逃せない!」
視線と同じく、真っすぐに。その言葉に"彼"は目を見開いた。
"彼"にとっては予想外の言葉だったのかもしれない。全てを共有できていると思ったのだ。
しかし、やはり自分と目の前にいる人物は個々であるのだと再確認する。
"彼"は翼を自分の方へと寄せ、翼に刺さっていた赤い杭を抜き、ドクン、と心臓が大きく鳴った。
次第に自身の血とは別に、なにかが血管を通して己の体と交ざってくる感覚に"彼"の体は震えた。
「やってみろよ、お前を殺してその血も魂ごと取り込んでやる!」
"彼"は抜いた赤い杭を迷うことなく砕いた。
3.
鋼を弾くような音が二人の空間を包み、響き渡る。
アルフィオの大剣が"彼"の左手に。"彼"の左腕がアルフィオの大剣に。
確実なダメージを与えようと大剣を振るえば、アルフィオの攻撃を読んでいるかのように"彼"は大剣の速度を殺し軌道を曲げた。
アルフィオも大剣だけが武器ではない、右手に持っていた大剣での攻撃が通らないのであれば、"彼"と同じ左手での攻撃へと転じる。しかし遺跡の時と同様、お互いの攻撃が一歩届かずにいた。
アルフィオの剣にはまだ迷いが、そして"彼"の拳にも迷いがあった。
「レナス、俺達も…!」
一進一退の攻防が続く中、その様子をスズランの花畑を囲うように立つ木々の間からレナス達は見守っていた。
アルトフェイルが腰に下げている獲物に手をかけ、今にも飛び出していきそうな彼を見てレナスは首を横に振る。
「なぜ」とアルトフェイルの金色の瞳が訴えるもレナスは静かに言う。
「まだ、その時ではない」
レナスにこう言われてしまうと獲物から手を放すしかなく、クルトもそんなアルトフェイルの背中に手を添え「落ち着こうぜ」と促した。
アルトフェイルは悔しそうな顔をしながら再びアルフィオの姿へと視線を戻す。
一方、レナス達とは別で空からは緋色の死神こと、緋眼の選定者が翼をはためかせながら二人のアルフィオの戦いを見ていた。
傷んだ羽根飾りの兜から覗く緋色の瞳は無機質に、しかし、どこか憂いを帯びていた。
"彼"に頼まれて作り上げたこの幻影空間は、"彼"の命が尽きるまで存在し続けるようにしてある。
レナス達が必ず、もうひとりのアルフィオの加勢に来れば"彼"の思惑通りになる、という事だ。
「アルフィオ……あとは、お前の望むままに」
そう呟き、体の向きを変え死神はどこかへと飛び去って行った。
その際、死神が"彼"に一瞬だけ見せた人間らしい眼差しだったのを誰も知ることはなかった。
再びアルフィオの大剣の刃が"彼"へと向けられる。
しかし激しい攻防の中で完治していない傷も徐々に開きつつあり、次第に自身の動きが鈍りつつあるのをアルフィオは感じていた。
アルフィオの攻撃の勢いが衰えている事に"彼"は気付き、向けられた刃を弾く。
「ぐっ!」
アルフィオは弾かれた刃の勢いで体勢を崩し、すぐさま体勢を立て直すも"彼"の姿が視界から消えていた。
"彼"を視認すべく目だけを動かすも捉えることができず、後退をすればトン、と軽く背中に何かが当たる。
「お前だってわかっているんだろう?」
― 殺気。
いまの今まで感じていた殺気。一瞬だけ消えたソレが再びアルフィオの肌に伝わってくる。それもすぐ後ろに。
自身のすぐ後ろに"彼"が居る。気配に気付けず、背後を取られてしまったのだ。
それでもとアルフィオは振り向きざまに大剣をありったけの力で動かすも、背後の"彼"はいとも簡単にアルフィオの攻撃を止めてしまう。
「自分の中を駆け巡っている血が、自分の魂が徐々に蝕まれているのが」
大剣が"彼"の常人を越えた力によってピクリとも動かない。
"彼"の手から大剣の刃を引き抜こうと試みるも、それは悪手だった。
一瞬、"彼"が力を入れた途端に、まるで花を折るが如く簡単に刃が折れ、使い物にならない武器へとなった。
ならばとアルフィオは大剣を捨て、一突き、空いている左手の拳で応戦するも"彼"はその拳をも避ける。
「お前は俺に勝てない」
すれ違いざまに耳元で聞こえた冷徹な声に、アルフィオは背筋を凍らせる。
しかし、それでも"彼"への攻撃の手を止める事なくアルフィオは向かっていく。
アルフィオが焦る一方で"彼"は淡々と向かってきた拳を避け、アルフィオの渾身の右拳を避けたかと思えば
そのまま手首を掴み、勢いをそのままにアルフィオの体を地面へと叩きつけた。
叩きつけられたアルフィオの体の下に咲いていたスズランの花が、一部は潰れ本体からは数枚、空中へと花びらが舞う。
背中への衝撃に息を詰まらせ、アルフィオはぐらつく視界の中で"彼"を見る。
視界の先には、空中へと舞ったスズランの花びらが雪のように静かに降り注ぎ、逆光でハッキリとは見えない"彼"の無表情な顔。
"彼"の右手はアルフィオと言う獲物を逃がさぬよう肩を掴み、左手の鋭い爪がアルフィオの喉元に狙いを定め高く掲げられていた。
「ここで消えろ」
― 動かなきゃ。
致命傷ではない、ならば動いて"彼"の拳を避けなければ。
踵で数ミリでも体を動かそうとするも、上手く引っかからず動かせない。
まるで、アルフィオの意志とは別にスズランの花達に巻き付かれているのではないかと思う程、体がいう事をきかずにいた。
"彼"はこれ以上「何も見たくない、無意味だ」と言わんばかりに瞼を閉じ、左手をアルフィオの喉元に目掛けて振り下ろす。
二人を遠巻きに見ていたレナス達は"彼"を止めようと木々から茂みから飛び出すも、間に合わない。
"彼"もこの一瞬で終わるのだと、そう思っていた。しかし ―
「……君を、たす、け……たい、……んだ」
あと数ミリでアルフィオの喉は貫かれていたかもしれない、その距離で"彼"の左手は止まり
アルフィオの喘鳴交じりのその言葉に"彼"は目を見開く。
「君の……過去を、心を知って」
言葉と言葉の間に小さく呼吸をする。
スズランの花びらが一枚、二枚とアルフィオの顔に"彼"の左手に落ちる。
「こんな事、しても、元に……戻らない、て」
「黙れ」
アルフィオがぽつ、ぽつと言葉を発する度に"彼"の肩が左手が震え、アルフィオの言葉を聞く度、腹の底が煮えたぎるような感覚に陥っていく。
「本当はもう時間がないって…」
「黙れ!!」
再度、振り上げられた"彼"の左手がアルフィオの顔の横のすぐ横に落ちた。
拳が地面を叩いた音を最後に、二人は視線を合わせたまま静まり返る。
サラサラと風に揺れるスズランの花や草の音、アルフィオの喘鳴に"彼"の荒い呼吸だけが二人の周りに流れる。
"彼"は噛み締めていた口元を徐々に解き、「はは」と呟くような笑い声が静寂を切り裂いた。
「俺を助けたい?元に戻らない?」
低く唸る様に"彼"は言葉を発する。
ゆっくりと地面から左手を引き寄せ戻し、肩を掴んでいた右手を放す。
ゆっくりとゆらりと上体を起こし"彼"は立ち上がり、距離を取る。
今まで近くに見えていた、もう一人の自分の全体が見えた。ボロボロになって、なんと無様な事か。
「……ははっ、あはははは!!」
高らかに"彼"は笑った。
この期に及んでもう一人の自分はなんと甘いことか。命乞いだとしても、他にあるのではないか?
しかし"彼"にはわかるのだ。先の言葉は命乞いでもなんでもなく"アルフィオと言う人物の本心"だという事に。
故に"彼"は腹が立つのだ。
地面に縫い付けられるように倒れているコイツは、命の危険にさらされているコイツは。
自分と同じ姿形で醜い化け物へと化した自分を救いたいと、愚かな事を言うコイツに。
"彼"は渇いた笑いを見せたと思えば徐々に真顔へと表情が変わり、そして自身の左肩に刺さっている赤い杭に手を掛ける。
「ソレを抜いちゃだめだ!!」
ぐらついていた視界が戻りつつあったアルフィオは"彼"に向かって叫ぶ。
"彼"がこれからなにをしようとしているのか、その先になにが待っているのかアルフィオにはわかるのだ。
「お前を見ていると…ぐ、ぅ…っ!」
"彼"は苦悶の声を上げ左肩に刺さっていた赤い杭を、勢いよく抜いた。
人間の形を保っていられた最後の砦はアルフィオの制止の声も虚しく抜かれ、杭よりも赤黒い色の血が左肩と杭の先端から滴り落ち、抜かれた赤い杭は弧を描くように地面へと投げ捨てられた。
アルフィオは"彼"の一連の動きを止められず、悲痛な面持ちで見ている事しかできなかった。
そして、まだ人間である"彼"の顔がほんの一瞬、月明かりによってハッキリと見えた。
その顔は夢に出てきた影法師の諦めた顔、「殺してくれ」と訴えるような表情だった。
しかし、一瞬だけ見えた"彼"の顔はすぐさま険しい顔になり
「反吐が出る!」
と、"彼"の言葉は呪詛のように低い声で辺りに響いた。
ドクン、ドクン…と今までせき止めていた血が、取り込んできた魔物の血が"彼"の体内を駆け巡る。
アルフィオは痛みに耐えながら上体を起こし"彼"の姿を見る。
せき止められていた魔物の血によって細胞が活発化し、人間の形を保てていた箇所はみるみるうちに肥大化していく。
腕や脚等に身につけていた装具はズレ落ち、纏っていた外套をはじめとする衣服は破けただの布切れに。
皮膚は爬虫類を想わせていたものより強固な鋼のように、背丈も倍の大きさへ。
アルフィオは変化していく"彼"を止める術を知らない、それゆえに何もできない自分を悔いる。
変化していく"彼"は自身の体が変化に耐えきれず、苦痛を感じているのか地面を穿つように拳を両足を駆使し暴れ始める。
アルフィオは転がるように、やっとの思いで暴れる"彼"の拳を避けるも、限界がありアルフィオへと目掛けて飛んでくる。
衝撃に備え身を縮め目を閉じるも衝撃が来ず、目を開け視界に入ってきたのは
風になびく金糸のような金髪、紺色を基調とした装具に身を包んだ小柄な背中。
海風で傷んだ金髪に褐色肌、赤い洋装に身を包んだ大柄な背中だった。
「悪い、遅くなった!」
「大丈夫か!?アルフィオ」
その二つの背中は"彼"の拳を剣で受け止め、アルフィオの名を呼んだ。
「クルト、アルトフェイル!」
アルフィオが二人の名を呼ぶと同時に"彼"を剣で力の限り押し返し間合いを取る。
"彼"との距離ができたことにより、アルフィオの体を支えるようにレナスが起こしアルフィオは小さく「ありがとう」と呟いた。
レナスは頷き"彼"へと視線を向ける。
月明かりの下、獣の様な呻き声をあげ、こちらを威嚇する"彼"の姿は最早、人の姿をしてはいなかった。
背丈は先程よりも倍になり片翼が両翼に。角も牙も爪も赤黒く染まり、より鋭くなっていた。
悪魔を思わせるその姿に皆それぞれ、恐怖の眼差しを向けている。
しかし、レナスは腰に携えている剣を静かに抜く。
「三人とも構えろ。ここまで来たら対話は不可能だ」
地を這うような獣の咆哮がスズラン畑に響き渡った。
to be continued.