飲み友達のみずおき郊外に、「三門」という名前のBARがある。最寄り駅から遠く離れた辺鄙な場所だが、品質にこだわった美味しいお酒と、種類の多いツマミが売りのお店だ。
通な人間の口コミが話題を呼び、一部常連客で賑わっている。
隠岐孝二という男も、その店の常連の1人だ。
「ありがとうございましたー!」
カランカラン、レトロな扉の音を携えて、ひとり、またひとりとお店を後にする。
店員さんの声が右往左往に響き渡る。本日三門は満員御礼。
休日の夜なんてどこもこんなもんだと、頭では理解しながらも隠岐は少しきまり悪そうにスコッチを仰いだ。
(今日に限って混んでるんやなあ……)
繁忙期の峠を越え、20連勤の中無理矢理掴み取った休日。1日中のんびり静かに過ごそうと決めた矢先のことだ。いつもは静かな雰囲気のBARだが、本日は団体のお客様のガヤガヤとした喧騒で賑わっている。
(飲み足りひんけどもうええわ。)
このままではやさぐれた心のまま休日が終わってしまう。
隠岐は会計を済ませ、近くのお店で2軒目にしようかとそそくさと店を出た。
さて、ここらでいいお店があるのか、それとも宅飲みをしようかと決めかねていた時、ふと出入り口のところで店員の謝罪の声が聞こえてきた。
「大変申し訳ございませんっ!只今混み合っておりまして、新規のお客様をご案内できかねる状況でございます………」
「あー。あー、大丈夫です。わかりました。そんなん謝らんと下さい。遅くに来た俺が悪いんですから」
どうやら入り損ねた人がいたらしい。
ここでは見かけない顔だが、おそらく隠岐と同年代。そう目測をたてた隠岐見ていると、ふとその男と目が合ってしまった。
「……どーも。」
「あははどうも~」
ペコリ、とお互いの軽い会釈を交わす。
「いやー、中も凄く混み合っていましたよー」
「ええ、たった今打ち止めをされました。今からお帰りですか?」
そこそこ社会人をやっているだけあるからか、お互い初対面の人間でも特に気後れしない。無難に話しかけられたので、無難に話し返す。水上が余所行きの顔で質問をすると、ニコニコとした隠岐が「そうですねえ」と綺麗な笑みを浮かべた。
「飲み足りないんで、何処かで飲もうかな思ってましたわ。お兄さんはこの後どうされるんですか?」
「あー、俺もそんな感じですかね。今振られちゃいましたけど」
「あちゃー残念ですねえ」
「ええまあ。」
水上は立ち止まり隠岐の言葉を待った。いつものように「ではまた。」とその場を去らなかった。隠岐という男に、無意識に絆されたのかもしれない。
「おれ、今から2軒目行こうかなって思ってるんですけど、お兄さん、なんかオススメのお店ってありますか?」
ここらへん、あんま詳しくなくて。そうニコニコ人懐っこく笑う隠岐に、水上は自身の頭をフル回転させる。いつもならそそくさと話を切り上げるところを、話を繋ぎ止めようと必死に思案している。
「あー、……一応ここのお店よりは品数少ないですけど、せんべろで美味しいところありますよ。個室みたいに区切られておるんで割りと落ち着いて飲みたい時にええです。」
「えっ!ほんまですか?行きたいです……!良かったらいっしょにいきませんか?」
「………………いいですね。………是非。」
思わずニヤけるのを抑える。隠岐には「おっ、お兄さん、いい笑顔ですなあ」とツッコまれた。水上が「ニヤついているのバレましたか」と言うと、「んっふふ、まあ何となく?」と首を傾ける。
「じゃあ、こっちなんで行きましょうか。」
「どうもー、案内お願いしますー。」
何となく隠岐孝二と言う人間を気に入ってしまった、らしい。
初対面で何を、と思うかもしれないが、くるくると表情を変え、ふわふわと人当たりのいい男だ。人に好かれて然るべきだろう。
そう言い聞かせながら水上は、行きつけの居酒屋に向かった。
※※※
「へえ、水上さんって大阪出身なんですねえ」
おれもなんですよ~とけたけた笑う隠岐の横には大量の空きグラス。正直下戸だと思っていた。水上は自分と同じくらいのハイペースで飲める人間を目の前に、少し引いてしまった。
「結構いける口なんやな。」
「んー、まあ、そこそこくらい?」
何処がそこそこやねん。と言うか否や。水上の横に店員さんが追加の日本酒を運ぶ。度数の高い日本酒複数にお猪口2つ。顔には出ていないが、一番ドン引きしているのは店員なのかもしれない。
「んー、水上さんも結構強いんやないです?」
「まあ、同世代の中ではな」
結局酔いつぶれる人間の介抱要因やわ。とため息を吐くと、あー、めちゃくちゃわかります酔う前にお開きで飲み足りんくなったこともありましたわーと隠岐がけたけたと笑った。うわっ。やっぱこいつ絶対ザルやん。カマトトぶりよって。
「やから1人飲み多いんですよねー、わいわいするのは楽しいんですけどねえ。」
「あー。」
ふふふ、と伏した睫毛の長さに驚いた。水上が空になった日本酒の徳利を隠岐に渡せば、手早くひとつの場所にまとめてくれる。
お互い気が利いてて、和やかに飲めて、心無しかほろ酔いでほわほわと酒が回る。ああ、ひとり酒以外でこんなふうに酔うたの久しぶりやな……
酒場特有のふわふわした空気を、二人は久しぶりに感じた気がした。
「今日は久しぶりに楽しかったです。また誘ってもええですか?」
「いいですね。今度飲み放題で元でも取りますか?」
「あっはっはっ、いいですねえ。おれたちなら百万馬力ですわなあ」
あっこいつ、目ぇ笑ってへんわ。決してわかりやすい、という訳では無いが、水上は何となく理解した。恐らく隠岐孝二という人間にとって、「大酒飲み」と言うのは大方地雷である。
「……まあ、飲み放題とかはおいおいでええですけど、またあの店リトライしたいんで今度一緒に行きません?」
「えっ、ほんまですか?!それは嬉しいですわあ行きましょ!」
「それは」ねえ。無意識なのか、それとも水上には取り繕うのを止めたのかわからないが、隠岐はご機嫌そうに笑った。
「あのっ、おれ、来週くらいからあっちに週3くらいおるんで予定合わせて来ませんか?」
「めちゃくちゃ来るやん……ふっ、なんや常連さんでしたか。」
「あっ、じゃあLINE交換でもしますか?」
「そうですね。じゃあ、とりあえずふるふるしますか」
「んっふ、」
「何がおかしいねん……あっ。」
「すみません、て、てっきりIDかQRコードかと……ん、っふふふ、」
「いや、ちゃうんです……昔の癖でつい……」
「……ん、ふふ、け、っこう、前にっ……サービス終了しましたよね、ん、ふふふ」
「いやいやちゃうねん!写真やって送る時でも写メ言うしペンケースも筆箱言うやろ!?あれと同じやねん!!」
「……んっひっ、ん、ひひっ」
「あとさっきから笑い抑えとるくらいならいっその事笑うてくれへん!?逆に喧しいねん!!」
「あっしゃしゃしゃあ~~!!じゃあ遠慮っ、無くっ、んくっふふふふあきませんあきまへんっ、おれっ、ほんまにっツボに入ってもうたわ~~」
ふはははは、としばらく隠岐の笑い声がこだました。
「イケメンがしたらあかん顔してますやん。」
「んっ、ふふふイケメンちゃいまっふ、よっ」
「あーもー、何でもええでしょさっさとスマホ出して下さいよ~」
「んっふふ、スマホのカツアゲっ……んふふ」
「この人何言っても笑うやん」
結局お互い連絡先を交換するのに30分も掛かってしまった。
「はーあ。こんなに笑ったの久しぶりですわ」
「俺もこんなに爆笑されたの初めてやわ。」
「んっふ」
「もう何言うても笑てるやん」
終電を過ぎ、二人はタクシーを待っている間も雑談を交わした。
「はーあ。あっ、あれタクシーですね。おれ先に帰りますわ~」「はいはい、んじゃお疲れ~」「…………お疲れ様でしたー。」
タクシーに乗り込む隠岐を見送ると、水上はそのまま弊社ボーダーに翻した。
「……家よりこっちが近いわ。」
社畜精神の賜物か、水上は慣れた手つきでボーダーの簡易ベッドで横になる。
何時もよりも遅い就寝時間。
でも、何処か満ち足りた気持ちで二人は帰路へとついたのだ。
※※※※※※※※
飲み友みずおき②
「……隣り、ええですか?」
「ええ、どうぞ。」
郊外にあるBAR「三門」。
隠岐はひとり酒を仰いでいた赤髪の男に声を掛ける。男は荷物を引き寄せ、隠岐の隣りに促した。
「……ふふ、お久しぶりです。水上さん」
「思ったけどこの茶番なんやねん。」
水上が余所行きの顔を崩すと、既に注文済みのカクテルを隠岐へと流す。
「さっすがー水上さんわかってますねえ」
「ファジーネーブルとか始めて注文とったわ。」
ジュースの様な色鮮やかなカクテルを手に取る。ああ、やっぱりこいつキレイなもん似合うな。
あのサシ飲みから半年。
隠岐と水上は、定期的に二人で飲むようになっていた。
社会人になってからの友人だからか時折り敬語は抜けないが、お互いフランクな関係になっていた。偶に漏れるタメ口の西のイントネーションに、水上はほっ、と綻びを見せた。馴染みの言葉は、どこか安心をさせる。
じわじわと人生の中には入り込む隠岐孝二と言う男。
端的な話、水上と言う男は、この矯正な顔の男に惚れかけているのである。
「そう言えばここってフルーツにも拘りあるらしいんでカクテルも美味いんですよねー」
「あー、そういやメニューにも書いてあんなあ。なんや前来た時に桃使ったサラダとかメニューにありましたわ。」
「えっ!なんですかそれえ、絶対美味しいに決まってるやないですかあ。ええ~なんで水上さん誘ってくれへんかったんですかあ~」
フルーツ入りの惣菜やサラダ。俺はあり派の人間やけど話しても共感されにくい。と言うか酢豚のパイナップル問題やポテサラにリンゴありかなしか問題は、なし派が体感多数派やねん。俺は断然あり派やけどな。なんでいつもこの問題ふっかける奴は無し派なんや。ふざけんなや。あのハーモニー最高やろが。ケンカなら買うで。
「やから俺がお先に食べちゃいましたわあ。めちゃくちゃ美味しかったです。是非隠岐さんにも食べて欲しかったですわあ」
「うわあ~白々しいですねえ。その見え隠れするドヤ顔を隠してから言うてくださいよお」
「はっはっはっ」
「んもおー」
そんで隠岐もあり派の人間や。
話の中でそれを知った時、俺たちははじめて熱い握手を交わした。
「いやいや、てか隠岐さんこの前『今週繁忙期で飲みに行く時間あらへん~水上さん俺が居らんくて寂しいはずやから先に謝っときます~』言うてたやないですか。」
「あれまあ、そうやったっけ。」
おれのモノマネです?似てないですねえ、とほわほわと言うとる。なんでやねん。特徴誰よりも捉えてるやろ。
「ほんまです。あーあ、さとしくん寂しい思いさせたのは、何処の誰ですかね」
「おれですねえ」
けたけたと笑う隠岐は一見すると酔っぱらいのそれだった。だが寧ろここからや。こいつはこのファジーネーブルとか言うジュースみたいな酒を飲み干した後に日本酒1合を飲み切る。この男はそういう男や。
「はー、ほんまに繁忙期死ぬかと思いましたわあ~聞いてくださいよ~おれ危うく残業超過時間アウトやったんですよお~でも仕事は減らんし上司には最近労基うるさいから時間調整せえうるさいし。しかもベテランが3人も辞めえもうてほんま余計にしっちゃかめっちゃかでしたわあ」
「はあ、大変やったんですねえ」
まあこちとら深夜残業当たり前のクソブラックやけどな。とうに月45時間なんて超えてるわ。
まあ、そうやって残業自慢しとるから日本企業はいつまで経ってもブラック企業が蔓延るんやな。
ひとり心地の横で、追加で頼んでおいた日本酒のお猪口を隠岐に手渡した。こいつは我が物顔で俺が頼んでいた日本酒を注ぎ入れ、ショットのように一気に流し込んだ。
さりげなくファジーネーブルは2杯目に突入している。
ちびちびと味わってカクテルを飲んでいる横で、異彩を放つ一升瓶のいいちこ。隠岐は慣れた手つきでその日本酒を掻っ込んでいた。
「はあ~空きっ腹に甘いお酒と日本酒交互に飲むの最高ですわあ。ええハーモニー奏でてくれてます。」
「てきとーなこと言うなあ」
んくんく、と楽しそうに無茶苦茶な飲み方をしはじめた。ザルであることをええ事に隠岐という男はこうして偶にアホみたいな飲み方をする。
ちゃんぽんしたら酔い回るで。そう忠告する者もかつては居たらしいが、そもそもアホみたいに酒に強い男だ。誰よりも酒を飲み、誰よりも素面の顔をして誰よりも介抱に勤しみ飲みの場で働く。
そういう立ち回りをしているうちに、隠岐は誰からも何も言われなくなった。むしろ余りの素面っぷりに、「ソフドリをアホみたいに飲んでいる男」認定する噂も流れたらしい。アホらし。
「昔の会社では、結構人前でも飲んでたんですけどねえ。……そう言えばこっち来てからは一人飲みが増えましたねえ」
何気なく聞いた過去に、何処か憂いを帯びた返答。
聞かれたくないのか。俺はそれ以降、あまりこいつのことを詮索するのを止めた。
ー嫌われたら元も子もないわ。好きな奴に告っても無いのに距離を置かれるのは勘弁やわ。
チラリと除く隠岐孝二の顔。
今はまだ、このあどけない笑顔を隣で見ていたいんやから。
※※※※※※※※※※※
「すみませーん。隣り、いいですか?」
「ダメでーす」
「いけず言わんでください」
「今日も来れたんか」
「ええ、水上さんが来るって言ってたんで」
おれ急いできちゃいました~そうほわほわとした笑みは、今日は何処か含みのある雰囲気だった。
「今日会社の飲み会言うてへんかったか」
「ええ、やから…」「あっははははははははっはははははははは!!!!!!!!」
どかん、と団体客の笑い声が、隠岐の声をかき消した。
「………………すみません。うるさくしてもうて~」
隠岐はきまり悪そうに指を動かすも、団体客の喧騒が収まる気配はない。
「なんや、飲み会ってここかいな。」
「あはは……そうです。ほんますみません……」
カウンター席の俺と店員を交互に目配せをすると、店員は苦笑いの会釈をした。
「とりあえず日本酒…あ、せや、会社の人の前では飲まないんでしたっけ」
「あはは、覚えてくれてたんですねえ。」
この前言うてたやろ、と軽く流したが、隠岐は何処か嬉しそうだった。俺も「好きな人のことだからな」とたらし込むでも無く、暫く談笑をしていた。
「おっとすみません」
お酒を持った女性が此方を通りたそうにしていたため、イスを軽く引いて通す。女はありがとう、と小さく声を掛けると、隣におった隠岐の肩を叩いた。
「隠岐くん、こっちのお酒は飲みやすいよ。頼んでみたんだけど、どうかな?」
ー誰やこいつ。
「あっはは、すいません部長。おれ、お酒弱いんですよねえ」
どうやら隠岐の会社の上司らしい。咄嗟に睨みを効かせたが、女の目線的に水上の視線には気づいていない。
30代程度の女は続けざまに隠岐に話しかけた。
「ええ~でもこれ、ジュースみたいなものだしアルコール度数もそんなないわよ?」
「いや~それは…」
飲めへん言うてるのに飲ますなよ。しかもそれ9%のさけやないかい。んなもんジュース感覚で飲まそうとすな。ほんでよく見たらこの女ババアやないか。水上は心の中で舌打ちをすると、勢いよく女のグラスを奪った。
ぐい、っと水上は飲み干した。
「はっ…」
目を丸くしてる女の顔。ざまあみろ。立場に幅を利かせている女が俺は一番嫌いなんやわ。
「はは、すんません。代わりに俺がいただきましたわ。余計なお世話かもしれへんけど、さっき話し聞いたんです。こいつほんまにお酒飲めないみたいなんで。」
「ああ、そ、うみたいだね」
ホントにちょっとも飲めないんだね~とそそくさと女は去っていった。知ってる口ぶりやん。じゃあなんで飲ますねん。こいつがほんまに酒弱くてアルコール中毒で大袈裟なことになったらどないすんねん。
「すみません、水上さん。」
「あーいや、別に。というかこちらこそすみません。もっとやりようがあったのにこんなやり方してもうて…」
「あー、いや、おれは助かりましたんで全然…」
スカッとした気持ちといたたまれない気持ち半々。
やってもーた。隠岐が気まずそうな顔でめっちゃ目ぇ泳がせとる。
沈黙に耐えきれへんかったのか隠岐はそのまま「ちょっと手洗いに…」とか言うてこの場を立ち去った。
あーあ、やってもうたわ。こっちこんなお通夜みたいやのになんで店の中は煩いねん。
水上は喧騒した店内の中、居ずらそうにしている隠岐の背中を見送った。
「あー、やっぱり隠岐さん飲まないらしいですよね」
隠岐、その言葉にドキリ、としていると遠くの団体客の中の一人と思わしき女が同僚らしき人間と話していた。
「そーそー、酒飲めないって本当だったんだねえ。じゃあ偶に飲み屋にいるってのはガセかあ~」
「ええー?でもこの写真、隠岐さんっぽくない?お酒飲んでいるっぽいけどソフトドリンクわざわざ飲んでいる訳なくない?」
遠巻きに聞こえてきた女の声。てか普通に盗撮やないかええ加減にしろやカス共。何普通に犯罪嬉々として喋っとんねん俺にもその写真見せろや。あとこの距離で聞こえるとかまあまあのボリュームやぞ自粛せえやボケ
「まあ、本人が飲むの否定してるし無理強いはなあ…」
「あーあ残念。飲んでる姿ちょっと見たかったなあ」
「わかるーイケメンの酔ってる姿ってちょっときになりますよねー」
きゃぴきゃぴ、わいわい。楽しそうに隠岐の話で盛り上がっとる。腹立つなあこいつら。ちょっと顔がいいからって自分が男に選ばれる立場になれるって信じとる。何やっても女やから許させるっていう傲慢さも腹立つわ。まあ、遠目で男どもが聞き耳たてながら女共の顔見て鼻の下伸ばしてんねんからその自己評価もあながち間違ってはないねんな。………………やっぱ腹立つ。
そうしてキョロキョロと隠岐の会社の人間の会話を盗み聞き(聞きたないけど聞こえてくる)をしているが、肝心の隠岐はまだ戻ってこおへん。
(あいつ、まだトイレにおるんか)
隠岐が帰ってきた様子は伺えない。会社の奴らと合流したわけでも無いならまだトイレにおる可能性が高い。
先程の目を伏した隠岐の顔が思い浮かぶ。
(あーしゃない、探すか。どーせトイレの中で篭っているんやろうか。)
「あー、水上、さん」
「は?なんでそんなとこ座ってるん?」
「あー、なんや腰抜けてもうたらしくてえ」
そこでトイレの出入口に座り込む隠岐を発見した。酒場では地べたに座り込む人間をよく見かけるが、酒を飲んでいた訳でもない隠岐に対して純粋な疑問を投げかけていた。
「腰抜けた、って…どっかぶつけたりしたん?さっきなんかあったんですか?」
「さっき…」
力が抜けた様子でくたあ...としている。
地べたに女の子座りをしている隠岐は、何処か泣きそうな顔をしていた。
「おれ、席に戻ろうとしたんですよ。そしたら見ちゃったんですよね。なんや変な薬入れたあと、おれのグラスとそれ交換してんの」
「はあ?!」
「いやー、おれもビックリしてもうてえ…知ってる人やったしおれの使ってたグラスでそんまま飲んでるし…そしたらなんや急に力抜けてたてなくて…多分これ腰抜けてますわ、」
「ほんなやばいやん。あー、肩借りるか。」
「いや、ははは、」
「いや、笑っとる場合ちゃうぞ」
しゃーない。とりあえずこいつをもちあげるか。
そう水上が隠岐の肩を組み、持ち上げようとする。が、ビクともしない。
(いや、なんやこう…せめて頑張って浮かせて欲しいねんけど…!)水上が隠岐に動くことを促そうとした時、ふと隠岐の腕が震えていることに気づいた。
「……」
「…すみません、水上、さん、」
「………」
「………」
「……………」
「…………………」
「…隠岐、わかった。もうええ。帰ろうや」
連絡もわざわざせんでええ。後のことは明日考えるで。だから隠岐、そのまま俺の肩掴まって帰ろうや。
そう水上が促すと、隠岐は暫く考えた後で、こくり、と首を縦に振った。
固く重かった隠岐の体重が、心做しかふわりと軽く持ち上がった。
水上は店員に財布ごと渡して店を出た。
水上と隠岐は、本当に誰にも告げずに店を出た。
店を出てしばらくすると、隠岐の足取りは次第に軽くなっていた。
「水上さん、ありがとうございます。俺、大丈夫です」
「もうええんですか?」
「はい、なんや店出たら急に歩けるようになったんで」
「精神的なものやったんかな。」
「…多分。」
「なあ、隠岐さん。昔もこんなんあったんか?」
「まあ、一応、薬を少々…?」
「おい、茶化すことちゃうぞ。」
ご丁寧にあざとジェスチャーで。普段振られても愚図る癖に変なタイミングでボケるなあほんだら。
「…大したことやないんですよ。」
「薬盛られたことが大したことないわけ無いやろ。」
「いやいや~ほんまに。なんっも無かったんです。よくある連れ込みとか、そういう…なんて言うんですかね、手を出されたりとかそんなんはほんまに、」
「それでも嫌やろ。自分が知らんところでようわからんもん飲まされてたんは。」
ー普通に、怖いやろ。
そう言うた俺を見て、隠岐の瞳は驚きと戸惑いを帯びていた。
なんでや。なんやその目。普通にアカンやろ。お前今何考えてんねん。今までもそうやったんか。
ーなんでお前、誰にも相談せえかったん。
「…そうですね。…怖かったですわ」
「せやろな」
隠岐は噛み締めるように言葉を反芻する。何かを言いたそうに目をさ迷わせている。俺は黙って、隠岐の目を見つめていた。
「……怖いって言うた時、笑われたんですよ。「男の癖に」とか「据え膳やろ」とか結構色々…」
「はあ!?なんやねんそれ。お前の周り頭おかしいんちゃうか?!」
「はは…ほんまに…そうですよね」
「隠岐…?」
ボタボタ。隠岐は静かに零しながら、涙で顔を濡らしていた。頷くように、噛み締めるように下を向いて、瞬きをせんでも零れた涙を拭いもせずに。
口角をあげ、穏やかに笑う顔には似つかわしくない量の涙だった。
「隠岐…」
「俺が自意識過剰とか…やっかみとか…受けて…誰も真面目に取り合ってくれんくて…いつも、いつもやん。いつも俺のこと、わかってくれる人なんていなかったんやなって、色んなこと込み上げて来てもうて…」
ーあほみたいに酒飲んでも酔えない日々ー。
ー周りみたいに酔ってあほになって、人を傷つけたことも、全部酒のせいやって、あほみたいなこと言えたら楽やったんやろうかってー。
こぼしたこいつの本音やった。
なんで、誰もお前のことわかってくれへんのや。
「なんでお前ばっかり辛い思いせんとあかんねん。」
被害者ヅラしている女も、軽んじる男もまとめて全員はっ倒したい。なんでこいつばかり背負わなあかんねん。
こいつが身も心も傷ついて、ほんまにレイプでもされんと誰も気づけないんか。愚かやろ。
何がソフドリガバ飲みじゃ。ボケェ。
大酒飲みで意外といたずらっ子であほなところもこいつやろが。どいつもこいつもスマート部分の隠岐を求めやがって。
よくわからん憤りで震えた。
泣いている隠岐を、抱きしめてあげたかった。下心とか、そんなん一切抜きにして。こいつの抱えてたもんとか全部、全部涙ごと拭ってやりたかった。
「隠岐…さん、そんなん言う奴らのことなんて忘れましょ。運が悪かったんですよ。」
「分かってます。もう、おれの中では過去のことです」
こっちに来たのも半分逃げやったんです。たまたま前職に近い業種がこっちに出来た聞いて。…キャリアアップや言うて。大阪におった家族も宥めて、もう帰らん気持ちでこっち来たんです。
正しい選択を、か。ああ、こいつ結構骨のある人間なんやな。
「あんたは強いな」
泣き顔すら、キレイやと初めて知ったわ。
「いや、全部なぐり捨ててきただけですよ。」
そう言うてあまり自身のことを話さなかった隠岐が、ぽつりぽつりと話しはじめた。俺はただただ相づちを打ちながら話しを聞いとるだけやった。
「昔からそうなんですよ。めんどくさいことに巻き込まれる言うか、なんや気がついたらトラブルを処理する係みたいな役割言うか。ほんまは嫌なんですよねえ。めんどくさいし。…でも、結局気づいて先回りして色々やっちゃうんですよねえ」
「あー、それなんかわかるわ。お前サラダとかとりわけるのもうまそうやし。」
「ふっはっ、なんですかあそれえ。」
「まあ空気読んで動いても、おれが大変な時はだーれも助けてくれへん。はは、アホらし。そしたら薄情やな、って人に不信感持ちたくもなりますって。」
「せやなあ。しかも大したことない奴ほど立場が上の時あるから殺意すら抱くわ。」
「あっははっ!先輩ちょくちょく私怨持ち出さんといてくださいよ」
「…すまん。お前のターンやのにな。」
「いえいえ。…水上さんっておもろいですねえ」
「今の仕事、確かに残業多いしめんどくさいことばっかりなんです。でも給料前のところより断然ええし、めんどくさいこと前提で動くからまだマシやな、って。おれ的には思える仕事なんです。…まあ、ましな地獄を選んだって感じねんですけど。」
「言い得て妙やん。」
「はは、なんや仕事も、友人関係も、全部漠然と嫌やったんですけど、…それでもこっち来て正解でしたわ。…水上さんに会えたんですから。」
「なんやねんそれ…」
何故か俺が泣きそうになった。
強く真っ直ぐなこいつの瞳。知らない土地で、誰のことも信じられず、実は密かに心を閉ざして。
どうして誰もわかってくれへんかったんやろう。ほんまのこいつは、あほみたいに、子供みたいにけたけたと笑う奴やのに。美味そうに飯食うて酒飲んで、楽しそうに笑う奴やのに。
「ふふ…なんで水上さんが泣いてはるんですかあ」
「うっさい。お前が何も言わんかったから悪いんや。」
「えー、今全部話したやないですかあ。はーあ。水上さんってほんまにおれのことすきですよねえ」
「…嫌いならこうやって会ってへんやろ」
「いや、そういうん、別にええです。」
「は?」
「結構前から知ってますよ。水上さん、多分おれのこと恋愛感情で好きでしょ。」
「は。うそやん」
「ほんまですほんまです。えっ、それともちゃいましたか?おれの自意識過剰とか?」
「いや…あってる」
「あっ、ほんまです?よかったー結構確信あったんですけど自意識過剰やったらちょっと恥ずかしいですもん」
え、なんでこいつこんな冷静なん?男に事実上告白されてるようなもんやろ。
「…あー、すまんかった。…気持ち悪いやろ。お前が嫌ならもう会わんわ」
「え、いやいや、何言ってるんですか。気持ち悪いとか思ってませんって。そもそも嫌やったらわざわざこんな風にふっかけたりしてませんって」
「そうか…」
「それに俺、普通に嬉しかったですし」
「は…そ、れって…」
は、なんやそれもしかしてこいつも同類ー
「あ、いや。告白自体は受け付けておりません。」
「ん?」
「いやおれ、ふつーに女の子好きなんで。」
「はあああああ!?」
ふざけんな文脈死んでるんかこいつ…!絶対OKの流れやったやろ両思い案件や思って一瞬でも浮かれた俺が馬鹿やったわ…!
「隠岐くーん?人の純情弄んで楽しいんかあー?」
「はあ、まあ脈ナシないな。」
いや、これは縁切りの可能性もあった訳やしまだましやと捉えるべきか?
「まあ、今は、ですけどね。」
「はあ?」
「おれにとって、少なくとも今までの中で一番好きなんは水上さんですよ。…今すぐどうこう?、って言うのは無理ですけどまあ…えーと、今後の展開によっては…?まあ、ええのかなって。」
なんやねんこいつ…!さっきから脈ナシ発言したりかと思えば思わせぶりなこと言うたり…!
「…言うとくけどお前がストレートやからって遠慮せんぞ。」
「水上さんならええですよ。」
「ホモに迫られてキモイとか言うても責任終わんぞ。」
「まあ、水上さんならやぶさかではない?」
え、なんでこれあかんのや。ほぼほぼOKみたいなもんやろ。…あかんのか。ノンケの考えとることはわからん。チラリ、と見つめると、隠岐は困り顔でこちらをみていた。
コテン、と首を傾けた仕草。あざと可愛い。
「こんっのたらしめ。」
「ふはは。自覚ありますわあ」
ふはは、と憎たらしい声が響き渡る。
恋はしたほうが負けや。どうやらその言葉は本当らしい。それを今身に染みて感じとる。
「あっ、そうや水上さん」
「なんや」
「『隠岐』でええですよ。おれの方がひとつ年上ですし。」
「…どんなタイミングやねん」
あかん、あかん。ほんまあかん。
「えー?ええやないですかあ、やって水上さんの方が『先輩』なんですし?」
「…お前…ほんまに」
くそくそくそ。くそあざとくてほんまに腹立つ。
「お前ほんまに覚えておけよ」
「何処の悪党ですか。」
けたけたと笑う隠岐の顔。確信犯。ああ、どうやら俺は、この憎たらしい男が、あほみたいに好きらしい。
「宜しくお願いしますね、水上先輩。」