登別の幽霊登別の温泉に幽霊が出ると言う噂。
明治時代に療養していた軍人の霊が誰かを待っている。顔に大きな傷のある、恐ろしい幽霊らしい。
浴衣姿の菊田はそんな話を観光に来た女性から聞いた。
「へぇ、そいつは恐ろしいな」
待ち合わせていたらしい女性は軽く会釈してぱたぱたと旅館の出口で待つ友人の元へ駆けて行った。
誰と話してたの?
なんかナンパ?イケおじだったよー
そんな人いたー?
「とは言っても中々出会えないもんだ。いい加減、全身ふやけちまうぞ、有古よ」
──また一緒に温泉入ろうな
湯船に浸かりながらか細い月を見上げる菊田。
いつかまた温泉に行こうと言ったあの日を、ぼんやりと思い出す。
すると湯煙の向こうから姿を現す大きな影がひとつ、有古だった。
「──やっと会えたな」
目を細めて微笑みかけると、ゆっくり湯に浸かりながらうつむき加減のまま有古がゆっくり口を開いた。
「…よく、菊田特務曹長は俺の向かいに座っておられましたね」
「そうだったか?」
「あんたは寒がりだから。いつもいつのまにか俺より先に湯船に浸かってて、それでいつも奥の方に」
「ああ、なるほどな。そりゃ、お前がいつももたもたしてるからさ。こっちはとっとと温まりたいしよ」
しばしの沈黙、仕方無い様に菊田は笑う。
「本当は、積もる話のひとつやふたつあるけどよ、こればっかりはどうしようもねぇよな」
有古の目の前に立ってみても、彼が顔を上げることはない。
触れられないと分かっていても、その頭に手を伸ばした途端顔を上げる有古。
合わなかった目線が、不意に合った気がした。
「月だけは、あの頃と変わらないんだな」
「ああ、そうだよ。有古」
「もし、あの噂が本当で、それがあんただったとしたら──」
月を見上げながら苦しそうに笑う有古。
「こんなとこに、ずっと居たら駄目ですよ」
「せっかくの特等席に座り損ねちまったってな。でもよ、地獄じゃお前には会えないだろ?」
「俺は結局、あんたには助けてもらってばっかりで…」
「生まれ変わったお前に会えた。お前が地獄に行かなかったってわかったんだ、俺もこれであの世に行ける」
「俺なんか、待ってたって…」
「覚えててくれてありがとな、有古。じゃあな」
額の銃槍から血を流した軍服の男が、何処かへ歩いていったのを見たという。