ふたり渦中にいるとわからないものだが、少し離れてみるとその場の喧騒の大きさが身に染みる。宴会場と化している大広間から一つ部屋の角を曲がった縁側は、月に照らされた中庭の静けさがしっとりと満ちていた。だからこそだろう、時折ドッと湧き起こる波のような笑い声と、それに覆いかぶさるような囃し立てる声が遠い別世界のことのようだ。
部屋に籠った熱気と、さぁさぁ飲めや食えやで絶え間なく注がれた酒はこの身の血流をぐんぐんと早め、いつのまにか、冬の夜風を気持ちがいいと思えるほどに火照らせていたらしい。
いつもなら元より高い襟にさらに首を縮こませてしまいそうなキンッと冷えた空気が心地よくて。きっちりと閉め上げていた内番着のファスナーを寛がせて、ふぅと息をついた。幸いこの場には、自身を連れ出してきた清麿という気の置けない相手しかいないので。
「寒くない?水心子」
「あぁ、大丈夫。むしろ夜風が心地いい」
「そう、よかった」
清麿は首をかしげるようにこちらを覗き込んでいた。淡く色付いた紫陽花の花弁が朝露に溶け込んでいくような、独特で唯一の階調に色づいた髪がゆるりと揺れる。月の明かりを反射して、きらきらと輝く毛先が一層綺麗だと、昼間の明るさの元では知らなかった気づきを得てなんだか嬉しい。
「なにか嬉しそうだね」
「え!あ、いや、なんでもない」
「そうなの?教えてほしいけどな」
「んん……いや、清麿の髪は、月明かりの元で見ると普段と違うんだなぁって、気づいたら、うん」
「へぇ、僕の髪って違って見えるんだ……ふふ、水心子はおもしろいね」
「面白くはないだろう」
じろじろと見てしまって悪いことをしただろうか。しかし、それに気を悪くするような清麿ではないことを自分は知っていた。今もなんだか当の本人の方が嬉しそうに、自分の髪の先を摘んで月の明かりに透かしている。
隣同士並んで腰を掛けた縁側。放り出した足は汚れないようにと地面につかぬ位置でゆらゆらと並んで揺れる、なんとも穏やかな時間だ。
「それより清麿、どうして僕を呼んだの」
「え?あぁ……ごめんね、特に用事があったわけじゃないんだ」
じゃあなんで、という疑問は言葉にする前にふわりと霧散する。少し申し訳なさそうに眉尻を下げた清麿の、瑞々しい果実にも似た紅紫色の瞳が、ちらりちらりと所在なげに自分を見つめてくるとき。それは“少し、寂しい”とき。宴会の席で、思い思いの刀と語らっていたから気づかなかったが、何かあったのだろうか。詮索するつもりもないから聞かないけれど、何かがあってもなくても清麿に求められることに悪い気はしない。
「……そうか。僕も少し外の空気を吸いたいと思っていたところだったから、ちょうどよかった」
「ほんと?」
「うん」
無造作に投げ出していた指先に清麿の指がそっと重なる。偶然じゃないことはすぐにわかった。指の形を確かめるようになぞる清麿の指先がくすぐったくて、ちらりと盗み見れば、その手は隙間を埋めあうようにきゅうっと重ねられる。
「水心子」
「ん」
「水心子は優しいね」
甘えを帯びた声と一緒に、清麿の反対の手の指先が頬をなぞる。引き寄せられるように向き合ったのは見慣れたはずの清麿の顔。優しげに下がった眉尻と反対に、涼しげな鋭さを持つ目元。紅紫色の瞳はその色を内側から光らせているように鮮やかで。それは、とても、蠱惑的だと思う。ずるいと思う。源清麿はやはり、どこまでも美しい。
指先はするりと耳元まで伸ばされて、この頬は清麿の掌に包まれていた。冬の夜風にいつのまにやら冷やされていた肌に、清麿の存外大きな掌の熱が心地よく。目を細める。
「清麿がそうさせているんだよ」
耳朶の感触を楽しむようにゆるゆると動いていた清麿の指先が止まる。僕が、と零すように呟く清麿のその手に己の手を重ねて頷けば、この胸の内が少しでも伝わるだろうか。伝わるといいな。あなたが僕を大切だと、愛しいと、必要だと思ってくれていることが感じられるように、僕からの思いも余すことなく伝わればいいのにと思った。
「そう、清麿が僕を大切と思ってくれる分、僕だって清麿が大切だ。だから、不安な時はいつでも僕を呼んで」
今みたいにね。と少し意地悪い笑みを作れば、清麿は目を丸くしてから、ふっははっと声をあげて笑った。ひとしきり笑った清麿はそのまま僕の肩に項垂れるようにその顔を突っ伏すと、はぁーと大きく息を吐いた。
「水心子はすごいね、敵わないなぁ」
「清麿はわかりやすいからな」
「そんなことはないと思うけど」
ぐりぐりと頭を擦り付ける清麿がなんだか可愛く思えて、頭をぽんぽんと軽く撫でれば、悪くないのだろう、そのまま大人しくなった。清麿は人当たりが良い方だと思うけれど、何を考えているかわからないんだよねなんて声を時々聞かなくもない。基本的に他の刀の前でにこにことふわふわとしながらもきちんと与えられた役割をこなす清麿は、感情の起伏やさまざまな物事への頓着が薄いように見えがちだが、僕の前ではこの通りだから。わかりやすいと言っていいだろう。まぁ、そんな清麿の一面を知っているのは自分だけということに、優越感を感じていないといえば嘘になる。
「僕は、水心子だけが僕を知っていてくれればそれでいいよ」
「えっ」
どきりとした。胸の内を読まれたのかと思った。
肩口から顔を上げた清麿のとろりとした上目遣いに見上げられて視線がぶつかれば、清麿は口の端を綺麗に上げて悪戯っぽく笑う。まるで猫のようなその表情に、心臓がまた跳ねた。
「僕には水心子だけいればいい」
ぐいっと近づいて吐息を交わすの距離で囁かれた言葉は、この口からの返答を待たず、ふたりの間に飲み込まれてしまった。清麿との口付け。やわらかく湿った感触が唇に重なり、それから、優しく喰まれる。ちゅ、ふちゅ、と、空気を含んだ小さな水音が、やたらと大きく聞こえてきて、呼吸が震えた。きよまろ、と溢すように名前を呼べば、唇の動きを追うように、この形をなぞるように、柔らかなそれに追従されて、たまらない。
「んぅ……だめだ、もう」
「ダメなの…?」
喉から漏れてしまった情けない声を恥じながら静止をかけるも、清麿の声はどこか楽しそうで。内緒話のようにお互いの唇を触れさせながら紡ぐ言葉は、熱い吐息に乗って、どうしてもそういう気分になってしまう。加えて、清麿の指先が先ほどからずっと耳の裏や首筋の薄い皮膚を意図を持って撫でるから、所在なく体が震えてしまった。
「僕と口付けるの、いや…?」
「そうじゃ、ない」
わかっているくせに。紅紫色の瞳に見つめられることが堪らず閉じていた瞼を、薄らと開けば、目の前に映るのは、熱と欲を孕んで濡れた二つの瞳。先ほどよりも色濃くなった紅紫は赤色に近く、じとりと長いまつ毛の下からこちらを射抜いた。可愛い言葉と裏腹なその獰猛さに、体温がカッと上がっていくを感じる。どくんどくんと心臓がうるさい。もう駄目だ。そんな風に求められたら、どうしたって、逃げられるはずがない。
うっとりと目を細めた清麿が、かぶり付くように唇を重ねてから、導くように口を開けば、あっという間にねっとりと柔らかい清麿のその舌がくちの中に侵入してきた。はふ、と下手くそな息継ぎをする間に、柔らかく器用な舌先はこちらの縮こまった舌を見つけ出すと、すりすりと甘えるように絡みつく。ねっとりとした粘膜同士の擦り付け合いに、あぁ、頭の中が気持ちいいでいっぱいになってしまう。
「ん……ぅ……きよま、ろ……」
譫言のように名前を漏らせば、ん、と喉を震わせて返事をしてくれる清麿が愛おしい。ここは二人の世界だと言わんばかりに両の手で耳を塞がれれば、くちゅりくちゅりと粘っこく響く水音と、どちらのものかわからない吐息に混ざった細い声に何もかも支配されて。頭が真っ白だ。気づけば自ら舌を必死に伸ばして、積極的に清麿のそれと擦り合わせてしまっていた。あぁ、駄目だ。わかっているのに、酸素が不足して、代わりに清麿の吐き出した呼吸をたっぷりと胸に吸い込んでしまっている頭はもうずっと回らない。清麿のことしか考えられない。
「……ねぇ、ふたりの部屋に戻ろっか」
有無を言わさぬ清麿の可愛らしいおねだりに、頷くことしかできない僕は、とっくに、みっともないくらい源清麿のことしか考えられなくなっていた。