深淵IF? ゴーン、ゴーン、と教会の鐘が鳴り響く。
どこまでも青く晴れた空が、まるで王国に住まう人々と共に祝福を与えているかのよう。
「オクタヴィネル王国、万歳!!」
「国王陛下、万歳!!」
「王子様、お誕生おめでとうございます!」
いつもは賑わっている市場には人の影はなく、代わりにオクタヴィネル王国中央部、国王の住まう王宮の周囲を、国民たちが取り囲んでいた。
オクタヴィネル王国は周囲を海に囲まれた、海洋国家。
円を描くような地形に合わせ、外側から貧困層、中央に向かうにつれて富裕層へと変化していき、そして国の中央部に王宮がそびえ立っている。
その王宮。人々が歓声を上げ、口々に万歳、万歳、と叫ぶ中、バルコニーに、国王と、女王、そして、女王の腕に抱きかかえられた、小さな命。
姿を現した途端、集まっていた国民たちの歓声が一際大きくなる。
王子の誕生を祝う国民たちの声。その声を一身に浴びて、女王の腕の中の赤子がにこりと微笑んだ。
父親に似たターコイズブルーの髪に、一房だけ黒に染まったメッシュが左を向いて垂れていた。
******
王宮の地下。通常は囚人を収容するための空間に、しくしくと子どもの泣き声が響いている。それを聞きながら、小さな王子はこつこつと靴音を響かせ、目的の部屋まで歩いて行く。その靴音が、泣き声の主に恐怖を与えていることを、王子は分かってやっているので、なお性質が悪い。
地下収容施設、その一番奥。王子――フロイド・リーチは、立ち止まった牢獄の中を覗き込みながら、声を掛けた。
「あはっ、おはよぉ、ジェイド」
ジェイドと呼ばれた少年は、ゆっくりと顔を上げる。
その顔は、誰しもが双子だと分かるほど、フロイドと瓜二つ。唯一違うのは、黒のメッシュが右に向いて垂れていて、一見穏やかな印象を受ける垂れ目なフロイドに対し、ジェイドはきりりと吊り上った瞳をしていた。オリーブとゴールドの瞳は、左右対になっている。そして、見るからに上等な服を着ているフロイドに対して、ジェイドは継ぎはぎだらけのボロボロの服を身に着けている。何よりも身体中に散らばる痣、場所によっては皮膚が切れて血を滲ませている。そして、足首には枷をつけられ、牢屋の隅に繋がれていた。
「……、ぁ、」
「あ?なあに、ちゃんと反省した?おはようって言ってんじゃん」
フロイドががん、と勢いよく牢屋の檻を蹴り上げると、大きな音にびくりと身体を跳ねあがらせたジェイドの瞳から、ころりと涙が零れ落ちた。
「ご、ごめんな、さい……」
「あ?謝れなんて言ってねーし」
フロイドがもう一度がん、と檻を鳴らすと、ジェイドは切れた唇を震わせながら、掠れた声で呟いた。
「お、おはよう……ございます」
「ちゃんと言えんじゃーん」
打って変わってフロイドがにっこりと笑いながら、看守から奪い取った鍵を使って中へ入ってくる。怯えたジェイドがずりずりと奥の方へ下がっていくのを、愉快そうに眺めながら、ゆっくりと近づいて行く。
「いい子にしてたらここまで苛められないのにさあ、なぁんで学習しないわけ?ジェイドってバカなの?」
見開いた目をフロイドから離せず、かくかく震えるジェイドの前髪を乱暴に掴んだフロイドが、勢いよく後ろにひっくり返した。勢いのままジェイドの身体がひっくり返り、固いコンクリートの床に強く頭を打ちつけられ、ジェイドは呻いた。
「ぅあッ……!」
頭が裂けない程度に上手く調整されているとはいえ、強く叩き付けられたせいでがんがんと響くようなひどい痛みに、目を回しかけながらも、掴まれたままのフロイドの手を振り払うことはしない。ジェイドの腕はだらりと垂れさがったままだ。抵抗すればするほどどれだけひどい目にあうか、幼い身体に嫌と言うほど叩き付けられているからだ。
その様子を見たフロイドは、満足そうににんまりと笑った。
「あは、ジェイド、良い子良い子」
掴んでいた前髪を離し、フロイドは立ち上がると、倒れたままのジェイドを見下ろした。
「起きろよ」
フロイドから、すん、と表情が抜け落ちたのを見て、ジェイドは慌てて起き上がった。無理矢理起こした頭が立ちくらみを起こし、目の前が真っ暗になったのもお構いなしに、その場に正座する。
「ジェイドは、俺の何?」
お互いにまだ幼い子ども。背丈もそんなに変わらない。だというのに、フロイドから溢れるこの威圧感は何なのだろう。王子として育てられた故なのか、元々フロイドが持って生まれた物なのか。
「僕は……、フロイドの、召使い、です」
「正解。良く出来ました」
期待されて生まれてきたはずだった。
長年願い続け、ようやく授かった尊い命。
生まれてきた、二つの小さな命。
祝福するのは、教会の鐘のみ。
双子は古来より、跡取りを巡って争いが起こり、縁起が悪いとされていた。国王の決断は、早かった。
こちらの子を、次の国王に。
こちらの子は、必要ない。
大人たちの勝手な都合で、双子の未来は二つに裂けた。
「フロイド王子!」
不意にドタドタと騒がしく足音が鳴り響き、叫びながら近づいてくる人物に、フロイドは分かりやすく機嫌が悪くなり、ちっ、と舌打ちをした。
「ああ!やっぱり!こんな汚らわしい所に来てはいけませんと、何度も申し上げたでしょう!さあ、訓練に戻りますよ!」
「うるさいなあ、俺がどこにいようと俺の勝手じゃん」
やって来たフロイド付きのメイドが、フロイドが牢の中に入っているのを見て、信じられないと悲鳴を上げた。次いで、鎖に繋がれ座り込んでいるジェイドを見て、汚らわしい獣を見るかのような蔑んだ視線を投げる。
「どこにいようとフロイド王子に口を出す権利は私どもにはございませんが、ここだけは別です。国王より申し付かっておりますので。さあ、早く出てきてください」
「うるさ……」
国王の名前が出たからか、フロイドはそれ以上ごねることはせず、素直に牢から出ると、再びガチャン、と鍵を掛けた。メイドが黙って手を差し出すのに、フロイドは不満そうに唇をアヒルのように突き出しながら、握っていた鍵をメイドの手のひらの上にぽとんと置いた。
「さあ、それでは行きますよ」
「はぁい……。ジェイド、また来るねぇ」
「また来てはいけません!!」
騒がしく悲鳴を上げるメイドに無理矢理手を引かれながら、フロイドはジェイドの方を振り返り、にまあ、と笑って見せた。
その、凶悪な顔に、ジェイドはぶる、と背筋を震わせた。
国王はフロイドを選んだ。
だから、生まれてすぐに、ジェイドは処分されるはずだった。
だけれども、赤子ながら、何故だかフロイドがジェイドを決して離そうとしなかったらしい。無理に引きはがそうとしようものなら、泣いて喚いての大騒ぎ。加えて、異常なほど魔法の発動が早かったフロイドが、制御できない魔力で周囲を破壊し始めたのだ。
ジェイドを隣に置いておくだけで、フロイドの暴走がぴたりと止まるので、国王が下した決断は、生かしておく代わりに、ジェイドの自我を徹底的に破壊しろ、というものだった。
決して王になりたいなどと思わないように。
それは、いっそのことそのまま殺してくれていた方が、ジェイドにとっては幸せだったのではないかと思う程。
不思議なことに、ジェイドの命を奪おうとしない限り、ジェイドがすぐ隣にいなくてもフロイドが暴走することはなかった。だから。
ジェイドは暖かい部屋ではなく冷たい地下牢を、お腹いっぱいのパンや甘いケーキではなくカビの生えたパンくずを、そして愛情ではなく暴力を与えられた。
フロイドが部屋で勉強をしている間、ジェイドは何かを喋ろうとするたびに鞭で打たれ、痛みに泣けば腹を蹴り上げられた。
フロイドが柔らかい毛布に包まって眠っている間、ジェイドは冷たい床の上で、自分の腕で身体を抱きしめながら気絶するように眠った。
言葉を発せないよう、物を考えないよう、ジェイドが自発的に何かをしようとするたびに罰が与えられ、教育は一切与えられなかった。
母を恋しがり泣くことも許されない。
そうして、双子が生まれてから五年、ジェイドの前に、突然フロイドが現れた。
鏡を一度も見たことのないジェイドは、自分の顔が分からなかった。だから、目の前に立つフロイドの顔を見ても、その顔が自分にそっくりだとは露程も思わなかった。
いつも自分の前に現れる人間とは違う、しかも自らとそう背丈の変わらないフロイドを見て、ジェイドは思わず、あー、と声を上げた。
「あはっ、何、お前喋れないの?」
意味のない母音しか発しないジェイドを見て、フロイドは一度目を見開いて驚いて見せた後、馬鹿にするように嘲笑った。
「ジェイド可哀そー!!」
ひとしきり笑った後、フロイドはその日から、毎日メイドや執事の目を盗んで、ジェイドの所へやって来ては、ジェイドに文字を教えるようになった。
自分がいつも使っている教科書をこっそり持ってきては、読み書きから算数まで、自分が教わっていることをそのままジェイドに教えるのだ。
そして、別れ際には必ず、『絶対に誰にも喋るな』と言い残して去っていく。
「ジェイドは俺の召使いになるんだから、ちゃんと勉強しなきゃだめ」
フロイドの教え方はかなり雑で、長年虐げられるだけだったジェイドの脳では処理しきれないことの方が多かった。出来なければフロイドも容赦なくジェイドを殴るので、決して心を許すことは出来なかったが、元来好奇心旺盛・知識欲の高かったジェイドは、たとえ恐ろしくて厳しくとも、フロイドとの勉強の時間が唯一の楽しみになっていった。
「ジェイド」
「ジェ、イ、ド」
「フロイド」
「フ、ロ、イ、ド」
「ん」
ジェイドが、自分の名前と、フロイドの名前をすんなり言えるようになった頃。
楽しい時間は唐突に終わりを迎えた。
フロイドがジェイドの元へ通っていることが、国王にバレたのだ。
怒り狂った国王は、フロイドではなく、ジェイドに罰を与えた。
三日間食事も水も与えられず、ひたすら人格を否定され、殴られ、蹴られ、ジェイドの心は再び殺された。
地獄のような三日間が過ぎ、次に現れたフロイドは、もうジェイドに勉学を教えることはなかった。
代わりに、今まで下っ端や国王自ら与えられていた折檻に、フロイドが混ざることが多くなった。
時に拷問の訓練だと、国王の目の前で楽しそうに笑いながら自分を甚振るフロイドを見て、ジェイドは与えられた言語と仄かに育った自我で、ようやく理解したのだ。
ああ、自分はいらない存在なのだ。
生まれてきてはいけない存在だったのだ、と。
生まれて六年。たったそれだけの幼子が、自分は必要ないのだと認識し、理解した。それが、どれだけ酷なことか。指摘する者は、いや、指摘できる者は、この場には誰一人として存在しなかった。
******
「失礼いたします、フロイド殿下。仰せつかった件、恙なく完了しました。もうじきこちらに到着するかと」
「んー、ありがとぉ」
フロイドは扉の傍で執事が頭を下げるのを、机から顔を上げることもせずひらひらと手だけ振って返した。
「あ、」
用件はもうないかと執事が部屋を出ようとするのを、フロイドは思い出したように声を上げ、執事の動きがぴたりと止まる。
「鏡、取っておいてね。全部」
「は、承知いたしました。では」
あれから数年。フロイドは十七歳に成長していた。国王について政治に関わることも増え始め、赤子の頃に開花した魔法の才も申し分なく、国王に相応しい、神童だ、ともてはやされていた。
少なくとも、王宮の中では。
机に頬杖をつきながら机の上に広げた書類を眺めていると、コンコン、と控えめに扉がノックされた。
「どうぞー」
フロイドが間延びした声で返事をすると、数秒してから、キイ、とゆっくりと扉が開いた。
「あはっ、いらっしゃぁい、ジェイド」
「お待たせいたしました、フロイド殿下。本日より殿下の身の回りのお世話をさせて頂きます。よろしくお願いいたします」
「可愛そうなジェイド。冷たぁい牢屋から出られて良かったねえ。誰のおかげかちゃんと分かってる?」
「ええ。殿下の御口添えと伺っております。大変光栄です」
「ふうん」
フロイドは椅子から立ち上がると、入り口に佇んだままのジェイドにゆっくりと近づいて行った。
フロイドと同じように十七歳になったジェイドは、背丈は幼い頃に比べれば見違えるほど成長していたが、栄養失調気味の生活の影響か、身体はかなりやせ細っていた。鍛えられ筋肉がつき、厚みのあるフロイドに比べれば、風が吹けば飛んで行ってしまいそうなほど。
身なりも、王子であるフロイドとまではいかないものの、一応フロイドの傍に付くということで、いくらか上等な物を与えられている。きっちりとマニュアル通り着こなされたスーツが、上品さを醸し出している。しかし、フロイドとそっくりな整った顔立ちに、表情はない。感情を一切消し去ったかのようなその顔に、フロイドは満足そうに笑った。
白く透き通り病的にも見えるその頬にフロイドが手を伸ばしても、ジェイドは身体を震わせることすらしなかった。
「じゃあ、ジェイドの部屋はこっちね。俺の部屋の中の一室。着替えも必要な分はもう入れてあるから、それは自由に使っていいよぉ。あと、お風呂は俺の部屋に備え付けられてんのを使って」
「はい、承知しました」
事前に躾けられたのだろう、その後、フロイドが執務机に座れば完璧な所作で紅茶を淹れて見せ、フロイドが判を押した書類は一度指示を出せば間違えることなく処理をする。
「……まるでロボットみたい」
「……?何か仰いましたか?」
「んーん、別に」
「では、食器を片付けて参りますね」
少し席を外します、とジェイドが空になったカップとポットをトレーの上に乗せ、恭しく礼をするのを、フロイドはん、と短い声で返事をした。また静かに出て行ったジェイドを顔を上げないまま見送って……、フロイドははっ、と顔を上げた。
「しまった、今日……!!」
ガシャン、と食器が床に叩き付けられ激しく割れる音と、ガツ、と何かを殴打する音が廊下に響き渡って、その場にいた使用人たちが一斉にこちらを振り向き、そして関わり合いたくないと目を逸らし、何事もなかったかのようにその場を通り過ぎて行った。
「何故、貴様がこんな所を歩いている!?」
思い切り強く頬を殴られ切れた唇から、ぽと、ぽと、と血が垂れる。汚れ一つなかったはずのスーツに赤い花が一つ、二つと咲き、ぼんやりとそれを眺めていたジェイドが気に食わなかったのか、目の前の男――この国の王、そしてジェイドの父親であるはずの男は、無防備に晒されたままのジェイドの腹を蹴り上げた。
「んぐっ……!」
「私は許可した覚えはないぞ!まさか逃げ出したのか!?誰から服を盗んだ、この恥さらしがッ!」
蹴り飛ばされて、簡単に吹き飛ぶジェイドの身体。呼吸ができず、はくはくと口を開くジェイドが気に食わないのか、丸まった身体を上から勢いよく踏みつけた。
「っ……!!」
「このっ、このっ!」
「――っも、もうしわけ、」
「黙れ!」
何かを言おうとしても、それすらも許されない。ジェイドはせめて頭を庇いながら、ただひたすらこの理不尽な暴力に耐えるしかないと、抵抗を止めた。
「ぁー、親父、それ俺のー」
そこへ、間延びした声で割り込んでくる男がいた。
「……フロイド。一体どういうつもりだ」
フロイドはだるそうに後ろ頭をがりがりと掻きながら、床に転がっているジェイドを冷たい目で見下ろしている。
「どういうつもりって、別に。おもちゃで遊ぶのに、いちいち下まで降りるのが面倒くさくなっただけ」
言いながら、必死に呼吸を繰り返すジェイドの前髪を掴み、無理矢理持ち上げた。ぶちぶちと何本か髪の毛が抜ける音がする。
「ぁ、ぐ……」
「ジェイドぉー。ちゃんとお使いも出来ない訳?カップもぜぇんぶ無駄にしちゃってさあ。ホント、なぁんにも、できないんだ、ね!!」
「がっ……!」
身体を持ち上げられたまま、膝で思い切り中心に蹴りが入り、ぽき、と嫌な音が響いた。
「あ、ごめぇん。肋骨折っちゃったかも」
フロイドがぱっと手を離すと、ジェイドの身体は力が入らず重力に従って再び床に這いつくばる姿勢になった。蹴られた個所を腕で押さえ、浅い呼吸を繰り返しては呻き声を漏らす。あまりの痛みに悲鳴も上げられないのだ。
「ね?いいでしょ、もう俺のモノで。別に壊しちゃってもいいよね?」
躊躇なく人の骨を折った直後に無邪気な笑顔を向けられ、さすがの国王も引き気味だ。
「お前がそれでいいなら構わん。好きにしろ」
「あは。ありがと、ぱぁぱ」
元々、処分する予定のものだったからな、と国王は吐き捨てるように言うと、それよりも、と話題を変えた。
「頼んでおいた仕事はもう済んだのか?」
「え~、あれ?よく分かんなかったから、適当に判子押しておいたよ。あとで持っていくねぇ」
「全く……いつまでも甘えん坊では敵わんぞ」
言いながら、満更でもない顔でじゃあまた後で、と去っていく国王を、姿が見えなくなるまで見送ってから、フロイドは床に転がったままのジェイドを見下ろした。
「いつまで寝転がってんの?早く立てよ」
「ぅ……は、はい、―――っ」
掠れた声で返事をし、何とか身体を起こそうとするが、痛みのせいで上手く力が入らないらしい。その様子を見て、フロイドはちっと舌打ちをした。
「ほんと役に立たねえな……おい、お前」
「はっ、はい!」
フロイドはたまたま通りかかった使用人を呼びつけると、ジェイドを部屋まで運ぶよう指示を出した。
「適当にベッドに転がしといて。あと、お前。これ片付けといてね。あ~あ、飽きちゃった。散歩でも行ってこよ~」
ふわあ、と欠伸を一つすると、フロイドはもうジェイドから関心が移ったらしく、伸びをしながらさっさと歩いて行ってしまった。
それを見送ってから、呼びつけられた使用人が恐る恐るジェイドに手を伸ばす。
「ほ、ほら、大丈夫かよ」
「すみませ……」
手を貸してもらいながら、ジェイドはゆっくりと立ち上がる。声こそ出さないものの、痛みが走る度に息を詰まらせるジェイドに気づいたのか、使用人はなるべくゆっくり、ジェイドの腕を自分の首の後ろに回した。
「ほんとはおぶってやりたいけど、俺の身長じゃ無理だからさ~。おいデュース、終わったら後から来いよ」
「分かってるよエース」
エースと呼ばれた使用人は、もう一人フロイドに食器を片づけるよう言われた使用人…デュースに声を掛けると、ゆっくりと歩き始めた。
「部屋、どこだ?言える?」
「ええ、そこの角を、っ、曲がって」
「りょーかい」
ジェイドの言われる通りに廊下を進んでいく。
「ねえ、あんた、何でそんなに目の敵にされてんの?」
歩きながら、エースが訊いた。俺新参者だから分かんなくてさ、と付け加えられる。
「何で、とは……?」
「いやだって……さ、」
「僕は、捨て子だったそうですよ」
「は?」
幼い頃の記憶。暴力と暴力の間に擦り込まれた事実をそのまま伝えると、エースはハトが豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「え、マジで言ってる?」
「そう聞きました。だから、仕方ないんです。僕は養ってもらっている身なので。僕の存在価値はないんですよ」
「……」
「着きました、ここです」
ピタリと二人の足が止まる。
「送ってくださってありがとうございました。もう大丈夫です」
「――ここが、アンタの部屋?」
「いえ、フロイド殿下の部屋です。僕の部屋もこの中なので」
「へ、へえ……」
腹を庇いながら、エースの肩に回していた腕を外す。
「……アンタ、名前は?」
「僕ですか?ジェイドです」
「――そっか。俺はエース。エース・トラッポラ。またどこかで会ったら、よろしくな。じゃっ」
慌ただしくエースが去っていき、ジェイドも部屋の中へと滑り込む。途端に、ジェイドはその場に蹲った。
「……はぁっ、はあっ、」
痛い、痛い、痛い。
どんなに取り繕っても、心を閉ざしても、痛いものは痛いし、辛いのだ。
ジェイドはフラフラとよろめきながら、自分にあてがわれた区画へと入り、用意されたベッドの上に身体を投げ出した。その衝撃でまた痛みが走り、ぎり、と歯を食いしばった。
海老のように身体を丸め、折れた肋骨に響かないよう浅い呼吸を繰り返す。
痛い、痛い、痛い、苦しい、辛い、―――寂しい。
―――どうして、僕だけ。僕ばかり。
ジェイドは、ぽろ、と涙を零した。
どうして僕は生きているんでしょう。
顔も知らない自分の両親を想い、そして今まで自分を甚振って来た国王やフロイドの顔が浮かぶ。
お前なんて、生きる価値はない。
散々言われ続けてきた言葉だ。
だったら、どうして―――、殺してくれないのでしょう。
いらないのなら、どうしてもっと違う場所に捨ててくれなかったのでしょう。
そうしてくれたなら、こんな痛くて辛いこと、もっと早くに終われていたかもしれないのに―――。
熱が出てきたのか、頭がぼんやりと霞んでいく。
このまま寝ていたら、またフロイドが帰って来た時に、殴られるかもしれない。
そう思っても、もうジェイドは起き上がることは、できなかった。
******
「~~~、~~~ですよ」
「―――ってるよ」
「だったら、~~~~」
微かに聞こえる人の話し声に、ぼんやりとジェイドの意識が浮上する。
重たい瞼をうっすらと開くと、明るかったはずの室内は、蝋燭の炎だけで淡く照らされているのみ。フロイドの部屋へ続く扉が開きっぱなしになっていて、その向こうで誰かが喋っているようだ。片方はフロイドの声だと分かったが、もう片方は聞いたことのない声だ。
「全く、少しは加減をしろ。魔法薬で治すにしても負荷がかかるんだぞ」
「分かってるってー。ちょっとやりすぎたかも」
「かもじゃない、やりすぎだ。かなり熱も高く上がってきているし……、おや、起きましたか」
ひょい、と部屋の中を覗いた見知らぬ男が、目を開けているジェイドに気づいて部屋の中へ入ってきた。綺麗な銀髪に、スカイブルーの瞳。シルバーのフレームの眼鏡をかけ、きっちりと着込まれたスーツにグレーのコートを羽織り、薄紫のストールが歩く度に揺れている。
「気分は如何ですか?眠っている間に、回復薬を飲ませたのですが」
「あ……、えっと」
「失礼。愚問でしたね。かなり熱が上がっています。もし食べられそうなら何か食べた方が回復も早いですが、無理そうなら眠ってしまった方が良いですよ」
「ん……」
ジェイドがふるふると首を横に振ると、その男は一瞬ふ、と微笑むと、ジェイドの瞼の上にそっと手を置いた。
「――眠れ」
男がそう唱えると、また強烈な眠気が襲ってきて、ジェイドの意識はまたふわりと飛ばされていった。
ジェイドが完全に寝息を立て始めたのを確認してから、男――アズールは、扉の傍でこちらを伺っているフロイドを振り返った。
「――そんなに心配するくらいなら、最初から優しくしてやったらどうだ」
「――それじゃダメなんだって」
「逃がすなりなんなりできるだろう、幼い頃のお前ならともかく、今のお前なら。何でしたら、僕が協力して差し上げましょうか?」
「えー、アズールケチだからやだ」
「ケチとはなんですかケチとは!人がせっかく助けてやろうとしているのに」
「……でも、最後はアズールに頼むから」
アズールは、ジェイドに向けていた視線を、フロイドに戻した。
「――。察しろ、は止めてくださいよ。頼むときはちゃんとお前の口から、僕の目の前で頼みなさい。正式な契約を結びますので」
「あはっ、アズールこえー」
「ちゃかしていません。僕は真面目に話をしています」
アズールの言葉に、フロイドは何も返さなかった。ただ、何も言わず、顔を赤くしながら眠り続けるジェイドを見つめている。そんなフロイドを見て、アズールははあ、とため息をついた。
「では、僕はそろそろ戻ります。明日の朝には骨も繋がっているでしょうが、もしまだ熱があるようならあまり身体を動かさない方がいいでしょうね」
「うん」
コツコツ、と靴音を鳴らしながら扉の方へ向かうアズールが、フロイドのすぐ横で、一度止まった。
「―――ハーツとの会合は三日後。リドルさんには話を通してあります。道中は僕の信頼する方に依頼を掛けてありますので、目立たないように待っていてください」
「―――ん。ありがと」
「待ち合わせ場所はいつもと同じ方法で追って連絡します。では、くれぐれも悟られないよう、気を付けてくださいね」
ぼそ、とそれだけフロイドの耳に吹き込むと、今度こそアズールは部屋から出て行った。
******
「出かけ、る……?のですか?」
「そ。別に何も持たなくていいから、さっさと準備して」
「はい、承知致しました」
翌朝には無事にすっかり完治していたジェイドは、何やら忙しいのかフロイドに暴力を振るわれることもなく、国王に捕まるでもなく、比較的穏やかな日々を過ごしていた。
そうして三日後。急に出かけるとフロイドに声を掛けられ、ジェイドは困惑していた。
それもそのはず、ジェイドが知っている世界は、暗く冷たい牢獄と、ここ数日で行き来した王宮内部、それとフロイドの部屋くらいだ。窓から外を眺めるくらいで、しかし窓から見渡せるのは王宮の敷地内が精一杯。急に出かけるから準備をしろと言われても、何を準備したらいいのか分からず困惑しているジェイドを見て、フロイドは笑った。
「服だけちゃんとしたのに着替えてくれればいいから。どうせジェイドは外で待っててもらうし」
「はあ……」
そう言われて、ひとまずいつも以上にきっちりとスーツを身に着け、ブラシをかける。準備を終えて部屋から出ると、フロイドもさっさと一人で準備を終わらせたようで、窓から外の様子を伺っていた。ジェイドが黒のスーツに対して、フロイドは少し灰色ががった、ストライプ入りのスーツ。いつもより装飾が抑えられ、何も知らない人が見ればどこぞの貴族くらいにしか思わない様な出で立ちだ。
「いい?一応お忍びで行くから、俺がオクタヴィネルの王子だってことは誰にも言っちゃダメ。それと、ジェイドも自分のことは極力喋らないように。破ったら、今度は骨三本折ってやるからな」
「は、はい」
「ん。じゃあ、こっち来て」
「へ!?」
腕を引かれ、よっこいしょと肩に担がれ、ジェイドは立場も忘れて思わずフロイドの背中にしがみ付いた。
「ま、窓!?殿下っ、そっちは窓ですよ!」
「分かってるけど?」
「ひ、ひいぃぃぃぃ!?」
勢いよく窓を開け放ち、フロイドはジェイドもろとも飛び降りた。
未だかつて感じたことのない浮遊感に、ジェイドは思わず悲鳴をあげながらぎゅっと強く目を瞑った。
落ちる、と思ったその刹那、フロイドの温もりが消えたと思ったら、背中に何か柔らかい物が当たって、ジェイドは恐る恐る閉じていた目を開いた。
そこに広がったのは、澄み渡るような、蒼。
「なっはっはっ!空の旅へようこそ!歓迎するぜ、お二方!」
「カリム、あまり動くな!落ちるぞ!」
そして、にこにことまぶしい太陽のように明るく笑う、男の顔。白髪に肌は褐色で、今までジェイドが見たことのないタイプの人間だ。
「全然目立たないように待っててねじゃねえんだけどあのタコちゃんさあ」
「すまん……。カリムがどうしても絨毯で迎えに行くと聞かなくて」
「だって、初めての旅だろ!?どーんと盛り上げてやりたいじゃないか!それに、空から行けば誰が乗ってるか分からないだろ?」
カリムと呼ばれた男が、悪びれもなく笑う。
「それはまあ、そうだが……」