隔絶エスケイプ2「ある日の疑似親子」「うん、げんき」
風呂掃除をして戻ってきたら最近やっと落ち着いてきた生活に慣れ始めたところ、という微妙な時期である幼児が何やら独り言を言っている。
「だいじょーぶ、げんき。えっと、おとうさんの、しん…… しんえ、き? のひと。こーちってとこからきたんだって」
おや、と引っかかったのはその口振りがどう受け取っても「会話」だったからだ。鍵は閉めた(最近これを気にする回数が段違いに増えた)、知らない人を招いてはいけないというのは教えるまでもなく知っていたし、何より子供本人が他人を非常に警戒するトラウマを発症中だ。万が一にも顔見知り以外が勝手に上がろう物なら比喩でもなんでもなく噛み付くか、泣き叫ぶか何かして追い払っている。
まさかゆうれい。
一瞬馬鹿馬鹿しく、だがいっそそれでも良いから会いにきてやって欲しいくらいの人がいるのでそんな考えすら過った。とにかく驚かせてはいけないとそーっと居間を覗くと。
「いまね、おふろじゃーってしてる」
でんわ。
なるほど、電話か!!
脱力する勢いで小さな手にあると大きく見える子機を抱えて「おはなし」をしている子供から見える位置に移動した。
「あ! むつきた。おでんわ!」
ひょい、と無造作に差し出された子機に自分が出るのか、と顔を指差すとうんうん、と小さい頭が頷く。
「相手さんは誰かの?」
「おばーちゃん!」
祖母のことか親戚の老齢の女性のことかは相手に聞けば良い。子機を受け取り、少し緊張しながらもしもし、と口にした。
「ほうか、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんには会うたことあるんか」
「うん。おとうさんの、とこ? ……えっと」
「うんうん、ご挨拶した時じゃな?」
こく、と頷いて思い出したようにぱっと顔を上げた。
「でっかいとこだった」
それは家か庭のことだろうか。いや、もしかすると。
「富士山のことかにゃあ。でーっかいお山じゃ」
日本一でっかい山じゃ、と続けるとおおー、と小さな歓声が上がる。
「にっぽんいち!」
「ほうじゃよー、日本一じゃ」
ももたろー、と続く辺りが可愛らしい、と思いながら聞き出したところによると、どうやら実の父親の実家が山梨にあるらしく、「遠くまでお参りに行った」のはその実家近くのお寺さんのようだ。
その時かまた別口かは解らないが、実家にも寄って子供が顔と声を覚えられるくらいには接触しているということだ。
慌しすぎてすっかり後回しになっていたが、昔と言うにはまだ早い数年前には息子と縁あって子供まで成した女性が亡くなったこと、遺された子供の処遇について一番上の伯父が連絡を入れてくれたらしい。
それで驚いて聞いていた連絡先に電話をしたらちびちゃん本人が出たのが先ほどの電話ということだ。よく解らないまま突然電話口に出たので、どういう態度で臨むか腹も決まらないまま何となく会話を始めてしまったことを後悔したのは言うまでもない。
だが、悲しみの含まれた柔らかな声は挨拶のないことを叱責するでもなく、むしろこちらを気遣ってくれた。
それから、落ち着いたらで良いから孫の顔を見せるためとでも思って遊びに来て欲しい、と言うのが主題のようだった。
まずは自分達の存在を知らせるためにも、ということで電話してくれたようだが、また今度、という言葉には僅かな引っ掛かりが残った。
何しろ文字通り人生が変わるほどの急展開の中、兼定の祖父母については複雑な経緯や急がなければいけない手続きに追われてすっかり後回しになっていた。没交渉だと決め付けていた訳ではないが、結果的に蚊帳の外だったのは事実だ。
緊急連絡先にも登録されていなかったからといって、仮にも孫と認めている子供の境遇について赤の他人、それも若造が大きく関わっていることをどう受け止めるかは何とも想像が及ばない。
「おばーちゃん、おやさい送ったっていってた」
あ、と思い出したように兼定が言うので、その届け物が到着したらお礼の電話ということで次の連絡をしよう、とひとまずの段取りを付ける。
「山梨から言うたら何じゃろうのう?」
「むつはいったことある?」
「行ったには行ったけんど、富士山見てキャンプしただけじゃから知っとるっちゅうほどは知らんなぁ。楽しみじゃの!」
何が来るかな、と水を向けるとまだ難しかったらしくてたのしみ、とだけ返ってきた。
数日後、ねこのひときたー、という声に呼び出されてハンコ片手に玄関へ向かうと、クール便のシールが貼られた大きな段ボール箱が一つ届いた。「重いですから気を付けて」とお馴染みの制服のお兄さんが忠告してくれたそれは、確かに若者でも腰を意識せざるを得ないほどずっしりと重かった。
宅配の人は見慣れているのか、ご苦労様です、と頭を下げた自分の横からするっと離れると、サンダルを突っ掛け三和土まで下りて愛想良くばいばいのお手振りをしている子供の背後でさっそく箱を開けてみる。
「こりゃすごい!」
振り返った子供の目も大きく見開かれた。
「いっぱい!!」
米に野菜に傷まないよう保護された果物の甘い香りに、何やら瓶とタッパーに入った物、と箱一杯に詰め込まれた食べ物には驚いた。
同じ田舎でもイメージからして海と直結する実家とは採れる物が違うというのが良く解るし、大学に上がると同時に東京に住み始めて物価の違いに慄いた経験のある者にしてみれは紛うことなき救援物資。何より産地直送の新鮮な食材は立派な贅沢品だ。
「ひゃー、こりゃあすぐお礼言わんといかんな!」
そういえば米の袋がそろそろ心許無いことになっていて、週末セールを狙って買い出しに行こうかと思っていたところだ。しかし他にもやりたいことはあるし、と迷っていたのでこのタイミングで届いてくれたのはありがたいことこの上ない。
バタバタしていることを見越して沢山送ってくれたのだということは言われなくても解った。
一番上にひっそりと置かれていた封筒には丁寧な字で気持ちばかりですが、と書かれた短い手紙が入っていた。
「兼定、これしもうたらお祖母ちゃんとこにお礼の電話しような」
「うん!」
小さい手が仏壇に備えたのは届いたばかりのさくらんぼで、いくつか洗って二人でつまみ食いしたそれは大層甘かった。
おいしー、あまーい! とご機嫌のところでお礼の電話を掛ければ孫の嬉しそうな様子に弾む声が漏れ聞こえる。替わった陸奥守の謝礼にもそれは嬉しそうに良かった良かったと繰り返す優しい声は、自分が祖父母に可愛がってもらったのと何も変わらなかった。愛情深い人なのだということがよく伝わってくる。
『陸奥さんも兼くんも苦手なものありませんでした?』
「兼定くんはほとんど好き嫌いせん良い子じゃし、食べさしちゃいかんもんは今のところないらしいです。一応本人にも初めて食べるものがないかは聞いちょりますが。わしはなんでも食べますき、ありがたくいただきます」
『ああ良かった。最近はアレルギーとか何とか色々気にしなきゃいけないから…… 一緒に暮らしてないとどうしても知らないことが多くて』
「ああー、解ります。今わしも猛勉強中ですき、保育園の先生やお母さん達からは纏めて子供扱いされちょります」
ふふふ、と機嫌よく笑う声が聞こえて、それから、主人と替わっても良いかしら、と遠慮がちに言われた。
来たか、と思わなくもなかったが、今日はきっとそうなるだろうと覚悟の上だったのでもちろん、と答えると電話の向こうで受話器をやり取りする音が聞こえた。
『初めまして。孫がお世話になっとります』
耳に届いた声はいかにも真面目そうな、しっかりした人だと思わせる声だった。歳を重ねている深みと渋さもあるが、若い頃はさぞかし張りのある良い声だっただろうと思うような聞き取りやすい声だ。
「は、初めまして、陸奥守吉行言います。この度は、その……」
ご愁傷様というのは何か違う気がするし、いきなり届け物の礼で良いのだろうかとか何か急に迷ってしまって言葉が詰まった。
『ああ、そう緊張…… いや、私もそれなりに緊張しているかな。……息子が、居なくなってから若い人と話すことも減ってしまったので』
少ししんみりとした空気が流れたが、すぐに気を取り直したように兼定の祖父は言葉を繋いでくれた。正直こちらから何か言える空気ではなかったから助かった、と思いながら話が進む。
「ほうですか! それはありがたいです。お察しと思いますけんど、まだあれこれ手続きもありまして…… そちらのお嫁さんと再婚したんが父やったらまた違ったですけんど、わしとの血縁関係からしてちぃとややこしいのと、まあ、あれです、いっぺんに手続きせにゃあいかんもんで」
あと、と兼定が少し離れた縁側に絵本を広げて夢中になっていることを確認してから告げる。
「今はまだちょっと、この生活に慣れてもらうことに集中したい言いますか。身内が構ってくれる環境だけに甘えさしてしもうて保育園行きにくくなっても困りますき……」
環境の激変に何も感じない子供などいない。陸奥守が引っ越しにあたって頼んだ業者が何回か家に上がったのだが、その時の異様な反応は見ているこっちが動揺するくらい酷い、可哀想としか言えないものだった。
あんまりな様子にあちこちに立ち入ってもらう予定だった電気工事など日を改めて貰ったほどだ。
『そうだろうね…… 孫のことなのに何も手伝えないのが申し訳ないが…… じゃあ夏休みに入ってからで。ああ、それから』
万が一にも金銭的に困ることがあったら絶対に連絡するように。特にそちらの親御さんや親戚の方に言い出しにくい時は必ず。
兼定の祖父が幾分強い声で言ったのはそれだけだった。
嫁と孫が生活に困っている様子はまったく窺えなかったが、自分達に気を遣って隠していたかも知れないし、それでなくても突然の生活の変化には何かと入用になる。今のところは何ともなくても、幼い子供がいることで考えたこともない事態が色々起こるのも当然のことで、あらゆるサービスは積極的に受けるべきだ、というのが離れて暮らす祖父母としてのアドバイスだった。
そしてそれを可能にするのが金銭なら遠慮なく使えるようにするべきで、不足があるならいつでも頼って欲しいと思っていると。
望んで得た我が子でさえ時には鬱陶しいものなのだから、突然母どころか父ですらない若い男が子供を引き取ることがどんな負担になるか解らない。子供を邪魔に感じることはいっそ当然と言ってもいいのだから、手を上げるようなことになる前に周囲を頼りなさい。
これは少々耳に痛かった。何しろ初対面のその日に子供を持て余した馬鹿男とすれ違っている。
自分はそんなことはしないと口で言うのは簡単だが、この先子供の反応次第では苛々したり瞬間的に怒鳴りたくなるような場面があるかも知れないということは忘れてはいけないことだ。
何より子供のために、それから自分のためにも。
「ありがとうございます、十分肝に銘じます。困ったら必ずご相談しますき、よろしくお願いします」
素直に申し出を受け入れる言葉を告げればホッとしたような吐息がマイクに触れたのが解る。
『年寄りの苦言は煩く聞こえると思うが、まあ通過儀礼とでも思って…… 苦しい時に思い出して貰えればそれで良いから。じゃあ、掛けてもらった電話で長くなってしまって申し訳ない。またいつでも連絡してください』
そういえば、と思い出す。
「あ、ちょお待っとって下さい!」
慌てて話しながら縁側に移動し、大人しく本を読んでいた兼定の肩を軽く突く。
なあに、とこちらを向いた子供に受話器を渡してお祖父ちゃんとお話ししよか、と告げるとぱっと嬉しそうな表情になった。
おじーちゃん、と早速話しかける声が元気なことにホッとして、孫の呼び掛けに少し高くなる声に和みながら少しの間拙い返答を見守る。
しばらくして、「ばいばい、またね」という声で長い電話が終わった。
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんからな、夏休みになったらお家においでー、って言われたぜよ」
「おうち!」
「おう、お休み近くなったらいつ行くか決めようにゃあ」
「いっぱいとおいけど、いける?」
「まっはは、わし高知まで運転したこともあるき大丈夫じゃ! 任せちょき! もう少し大きゅうなったら高知にも連れてっちゃる!」
「おー!」
多分よく解ってはいないのだろうが、なんだか楽しいことがあるらしい、と子供の機嫌が良くなったので、当分はこのネタも使えそうだなと脳内メモが捗る。
好きな食べ物、好きな遊び、仲の良い子、苦手なこと、少しずつ少しずつこの子供の情報が増えていくのを楽しみにしているあたり、自分で思っていたより子供好きだったらしいことに一番ホッとしているのが陸奥守自身だった。
愛車を売る算段が着々と進んでいる寂しさよりも、ゴツいチャイルドシートを乗っけて山ほど買い物をしてもへこたれないファミリー向けを新車で買う日を楽しみにしているくらいだから多分大丈夫だ。
差し当たって今日の晩ご飯は届いたばかりの野菜をどう使おうか、と独身男の一人飯レシピから子供受けの良いメニューにブックマークが塗り変わろうとしているレシピサイトを開いてお子様の反応を見る。
「これー、これすき。おいしかった」
「おー、ロールキャベツとポタージュスープか。えいのう、キャベツももろうたことじゃし、今夜はこれにするか!」
「むつ、つくれる?」
「おぅ、何とかなる!」
それに多分、今日も国広くんが押しかけてくるしの。
という当てがあるのは当分バレないようにしたいところだが。
「なるほど、それでロールキャベツですか。あ、このレシピ干瓢使ってますね。どうしようかなぁ…… うーん、干瓢だと兼さんが噛むの大変かも知れないのでパスタ買ってきますね!」
お手伝いなら任せて! と公言して憚らない近所の大学二年生は軽やかに宣言して、来たばかりの玄関からスーパーへ向かった。
「ほんに頼もしいのう……」
「くにひろー! いない……?」
パタパタ足音を立てて走ってきた幼児が確かに聞こえた馴染みの声の主が居ないことに一瞬で寂しそうになる。
「お! 大丈夫、大丈夫じゃ、お買い物行ってくれただけやき、すぐもんてきちゅうよ」
「もん……?」
「すぐ帰ってくるき、わしと一緒にまっちょれ」
「ほんと? すぐ?」
「おう、すぐじゃ。お土産あるかも知れんのう」
「おみやげ、はなくてもいい。くにひろかえってくるなら」
あああ、と声もなく崩れ落ちそうになりながら玄関を気にする幼児を抱き上げる。
「ほんとにすぐ?」
「おぅ、すぐじゃ! 準備して待っとったらほんにすぐじゃ」
野菜取りに行こうなぁ、と勝手口に向かうと届いたばかりの野菜の出番と察して少し気が紛れたようだ。
「おいしーのつくってね」
「ほうじゃの、美味しく作らんと申し訳がないしのう」
「できたら、しゃしんとって?」
写真と言いながら指差されたのはいつもスマホを入れていると認識されているパンツのポケットだ。多分それで撮って欲しいということだろう。
「ん? どこか送るがか?」
「おばーちゃんと、おじーちゃんとこ」
「おお、えいの! きっと喜んでくれゆうよ」
へへ、と褒められたことを喜ぶ顔はもう寂しそうではない。
調理の方に気が向いたと見えて、ずっしりと重い大きなキャベツからいくつ包みができるのかとか、明日のお弁当もそれが良いとか楽しそうな質問やおねだりが飛ぶのに一つ一つ答えながら、今夜の材料を選んでいく。
トマトは大好きだけど酸っぱいとちょっと苦手、にんじんは食べられるけど甘いと嬉しい。スープ、汁物は甘いポタージュもオニオンスープも味噌汁もなんでも好きだし、意外と渋好みで、友人が見たら驚かれること間違いなしに慎ましくなった晩酌のお供が狙われていることも覚えた。これまで狙われたものはといえば、スルメに塩辛にタコわさ(のワサビ抜き)にビーフジャーキーに、と定番からエイヒレやモツ煮まである。
こりゃおじさんが教えたな? と睨んでいるが真相はどうだろう。今度母親の好みも聞いてみよう。その時は寂しさに繋がらないように気を付けなければいけないな、などと二人で宝の箱の中身を吟味しているところで再び玄関のガラス戸を開けるガラガラ、という音が響いた。
「ただいまー」
「くにひろだ!」
「おー、行ってきんさい」
満面の笑みで戻ってきただろう大好きなおにいちゃんのところへ、これまた満面の笑みで飛びついて行くだろう幼児を想像している間に予想通り「兼さん!」「くにひろー!」と嬉しそうな声が飛んできた。
この二人の間に一体何があってこんなに仲良しなのか、多分惚気になるに違いないそれも聞いておかねばなあ、とまた一つ楽しみが増えたのだった。