たったひとりの僕は師匠に久々に会いに行く。
師匠は今、永く相談所を経営して生活をしてきた愛着のある調味市内のとある介護施設に入居している。
師匠はなんと70歳まで相談所を経営していた。晩年は、できることも限られてきていたが、細々と営んでいた。相変わらず常連さんがおり、もう満足にマッサージも出来なくなってきているのに辞めるに辞めれないんだ。とどこか嬉しそうに笑った師匠を僕は忘れられない。
師匠は、芹沢さんをはじめ、これまで何人も従業員を育ててきた。そして巣立って行くのを見送ってきた。
それは超能力者だったり、そうじゃなかったり、多いときで5人もの従業員を一度に雇っていたこともある。
僕の在籍していたころ、というか通っていたころは暇だ〜なんだ〜という時間も多かったように思うが、なんだかんだ相談所は繁盛しており、軌道にのったまま、惜しまれつつ幕を閉じたようだった。
僕は師匠の弟子。唯一の弟子だ。
師匠は芹沢さんをはじめ、これまで何人も従業員を雇ってきたが、僕以外に【師匠】と呼ばせることはなかった。
師匠はずっと僕だけの師匠だった。
僕は11歳から弟子となり、14歳までは本当に良く通っていた。師匠と過ごした時間は長い。
中学3年生のころから塾などで忙しくなり、通う頻度は急激に少なくなった。その頃、僕と同じ超能力者の芹沢さんが従業員として入社した。
それでも相談所は僕の居場所だし、師匠はずっと僕の師匠だった。高校生のときも大学生のときも社会人になってからもこうして歳を重ねても変わることなく、ときおり顔を出していた。
師匠は毎回とても嬉しそうな顔を僕に向けるし、それは僕にとっても嬉しいことだった。
僕は26歳の時に大学時代に付き合っていた子と結婚した。ささやかではあるけど結婚式を行い、その式には師匠も呼んだ。師匠は泣いていた。そして愛おしい天真爛漫な妻との2人の子どもに恵まれた。それはそれは幸せな日々だった。
一方師匠は結婚しなかった。ずっと独身でこの相談所を経営してきた。奥さんや子どもはいない、だから、本当に僕だけの師匠だったというわけだ。
自惚れかもしれないけど、師匠の一番は弟子である僕。師匠は僕のことがいくつになってもかわいくて仕方がないんだ。
師匠は70歳で相談所を畳み、ゆったり過ごした後に、80歳ですぐに住み慣れたこの調味市の老人ホームに入居を決めた。
霊幻は自分が独り身であると分かっていて、誰にも迷惑をかけないように、事前に準備をしていたようだった。
入居先は自立した元気な人が住む棟と介護が必要な棟に別れており、師匠は元気なうちは自立棟で生活し、介護が必要になったら介護棟に移れるように手配をしていた。
自分の財産管理、決定判断もいずれ自分ができなくなることを見越して、後見人も準備していた。
そういうことに抜かりのない人だった。
僕は調味市の老人ホームに師匠が入居したと聞いてから最低でも二ヶ月に1回は師匠に会いに行っていた。
その頃の僕は会社を退職をしたところだった。
師匠とゆっくり話せることもここ何十年もなかったから、わりと頻繁に会いに行っていたように思う。
師匠は、当たり前に歳を感じることもあるけれども、その年齢にしては若く感じるし、昔と変わらず師匠は師匠だった。
ただここ最近は足が遠のいていた。
5年ほど頻繁に通っていたのが嘘のように、ぱたりと会いに行かなくなってしまった。
僕は師匠に会いたくなかったんだ。
師匠は僕を忘れてしまった。
何かが変だな……と感じることはあった。会いに行く度に感じる違和感に気付かないフリをしていた。
あの日僕は、師匠に会いに施設を訪問していた。前回会いに来てからいつもより少し日が開いてしまった。久々に顔を出すと、ちょうど施設の介護スタッフさんが師匠の居室におり、
「霊幻さん、お弟子さん来てくださいましたよ。久々に会えましたね。良かったですね」
と師匠に声をかけていた。
僕はいつも通り笑顔で師匠に挨拶をした。
「師匠、こんにちは。なかなか顔出せなくてごめんなさい」
師匠からもいつも通り笑顔で
「モブ、元気してたか? 久々だな」
と返ってくると思ってたけど、そうはならなかった。
「…………弟子?」
師匠は誰?って顔をして、僕に少し警戒しているような素振りを見せる。
「小堀さん、この方はどなたなの? 俺に会いに来てくれた? 一体誰だ?」
介護スタッフさんはその言葉を聞いて、ハッとした顔をして急いで師匠に声をかける。
「霊幻さん、ほらお弟子さんですよ。熱心に会いに来てくださってたじゃないですか」
「俺は知らない」
僕は何も言えないまま、師匠の居室を後にした。
そんな僕を介護スタッフさんが追いかけて来てくれた。
「お弟子さん! 先程はびっくりさせてしまって……霊幻さん、最近認知機能の低下が徐々に見られていまして…… ついこの間までお弟子さん来るのを楽しみにしていたんですよ。また是非会いに来てくださいね」
師匠は僕を忘れてしまった。
その事実が僕の頭を真っ白にした。その日どうやって自宅まで戻ったのか覚えていない。
帰ってから僕の顔を見た妻はとても心配していたと思うけど、僕はそれどころではなかった。
師匠は僕を忘れてしまった。
「師匠、認知症とかで僕のこと忘れたりしないでくださいよ」
僕が師匠に冗談でそう言えば、
「俺がモブを忘れるわけないだろ、俺がモブを忘れるときはもう俺の終わりだよ」
なんて師匠は笑って言っていたこともあった。
「僕のこと忘れないって言ったじゃないか……師匠の嘘つき……」
僕は自室でひとり泣いた。
それからそんな師匠に会うのがこわくて、自然と足が遠のいてしまった。師匠と会わなくなって3年ほど経っていた。
そして今日、僕は自らの意思で師匠に会いに行く。
なぜなら、師匠にもう二度と会えなくなってしまうかもしないから。師匠は病気を患い、現在看取りの段階になっていると聞いたからだ。
僕は師匠がそんなに重い病気を患っていることを知らなかった。師匠は認知機能の低下はあっても、身体は元気なはずだった。年齢を考えれば、可能性としてはなくはないのは分かっているけど、いつまで経っても、僕の頭の中の師匠はいつまでも元気でピンピンしていたから想像ができなかった。
歳をとると段々と失うモノが増えると師匠が教えてくれたこともあった。
僕は師匠を失ったらどうなる……?
僕にはこれまで僕だけの霊幻師匠がいてくれた。
僕を置いて行くなんて許さない。絶対にダメです。
僕を忘れてしまった師匠に会うのが怖かった。でも、もっとこわいことは師匠を失うこと。
僕を忘れても良いから、僕を置いて行かないで欲しい。
まだ僕には霊幻師匠が必要なんです。
僕は、震える手で師匠の居室のドアを開ける。
そこには想像よりもずっと痩せた師匠が、ベッドを頭だけ起こして横たわっていた。
ゆっくり僕を方を見て
「おうモブ! 来たのか……依頼人が待ってるぞ! 行くぞ!」
僕を大切に思ってくれてる、優しい笑顔だった。
師匠はあの時の僕を見てるんだな……二人で依頼をこなしていたあの頃の僕だ。
専門家じゃない僕が見ても分かる。もう師匠は先が短い。目を離したら消えてしまいそうな程で、本当に師匠とのお別れを悟った。
僕は泣きながら師匠のそばに行き、その痩せてしまった冷たい手を両手で包み込んだ。
「師匠……会いに来なくてごめんなさい……僕を忘れてしまった師匠に会うことがこわかったんです。でも僕、師匠と会えなくなることの方がこわいです。僕を置いて行かないで下さい」
僕は嗚咽しながらひたすら師匠に伝えた。
師匠は、師匠の手を包み込んだ僕の手をそっと解いて、自分の手をポンッと僕の頭に置いた。
「お前はこんなおじいちゃんになったのに泣き虫なのか? 仕方のないやつだなぁ。……モブ、もうお前は俺がいなくても大丈夫だ」
師匠に頭をポンポンされながら、僕は涙を止められずにむせび泣き続けた。
翌日、師匠は亡くなった。
師匠は最後まで、僕の僕だけの師匠だった。
僕は最後まで師匠のたったひとりの弟子だった。
おわり