未来の憧憬【主な登場人物とか説明とか】
イリア
ウリックから女の子に戻りました。シオンが助かったので名前もイリアに戻れているけど一人称や喋り方はウリックだった頃と変わりません。十三歳になりました。てゆーか原作二巻で十三歳到達と解釈してよいのでしょうか。
髪と目の色はレヴァリ時の黒髪碧眼。
シオン
一度間違いなく命を落としたのを聖石によって生かされました。異世界で随分と思いの丈を吐露したので、以前よりちょっと素直になってわがままも減っています。十四歳になりました。
レム
まだ不安定なところのあるイリアを見守ります。シオンとはかなり腹を割って話せるようになりました。
ザード
回想シーンに少しだけ登場。私には兄さんの喋り方は難しすぎます…………。
その他、名前のないモブが少し喋ります。
原作の出来事はすべて発生しています。
魔物は今のところは沈静化して、世界に平和が戻っている状態です(今のところは)。
通貨は『幻想大陸』のコマ外の説明にあった1アル100〜200円です。
書いてる人の手元に現在ある原作はレヴァリ1〜3巻、幻大1〜2巻、刻大1巻、そして今年令和7年になってからようやく読んだ塔の戦い完結編のみです。
4コマのげんそーたいりくも参考にしています。
以下本文開始。
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朝日に金の髪を透かして、少年の白い手が小川に差し込まれる。
息が白むような季節は過ぎたが、春はまだ浅く流れは冷たい。緑の双眸が歪む。
彼は水魔術を得意とする魔法使いだが、水の方ではそんなことに斟酌なくすべてに等しく応えるから、ひたすらその温度に耐えるしかない。旅の只中にあっては水場は限られる。朝食に使った食器を洗うには必要なことだった。
──ああ冷てーな。とっとと終わりにしてー。
しかし、冷たいと感じることができるのは今も自分に命があるからだということをシオンは充分に知っていた。
快も不快も喜怒哀楽も、ぜんぶ、生きた命の感じるもの。生きているからこそ感じるもの。
最初の旅はシオンに大きなことを教えた。
かつては頑として手を付けなかった炊事をこんなふうにこなすようになったのも、そうして起きた心境の変化のひとつだ。
とは言っても冷たいものは冷たいので、物思いに浸る暇はない。シオンは手早くかつ着実に汚れを落とすと水から手を抜いた。
食器と、それから自分の手についた水気を丁寧に拭き取り、小鍋の中に木椀を三つ──そのうちの一つは人形遊びに使うような小ささの──要領良く入れ子に収め、おたまやら匙やらと一緒に通気性の良い袋に詰める。拭いた布巾は袋に括りつけておけば歩いている間に乾く。
彼はもう、すっかり慣れた旅人だった。
今日を歩けば日暮れ前には街に辿り着く。今夜は草に枕を結ぶことなく、宿屋のベッドで体を休めることができるだろう。
──俺様はデリケートなんだからな。
誰に言うでもないことを心の中でつぶやくと、荷袋をひょいと肩に掲げて歩きだす。
ここの上はごく小さな崖になっていて、炊事当番のシオンの帰りを仲間がそこで待っている。
立ち去り際、崖を回り込んで小川が見えなくなる前に後ろを振り返る。
澄んだ流れ。風に立つさざ波。濡れた石は濃く、乾いた石は白く。朝日に光る川辺。水と土と草の匂いが包む。
野にしかないその姿を綺麗だと、シオンは思った。
崖を上った先は街道沿いの草地だ。旅人が自由に使えるように簡易な竈が置かれていて、野宿に大いに役立った。草地と崖の境には柵と風除けを兼ねた木々が植えられ、シオンの連れである二人──少女と妖精はその根本に座りこんで何やらきゃっきゃとはしゃいでいた。
「ここをこうして……こっちに通して……はい、できあがり! どうぞ、レム」
「わ〜、イリアありがと〜!」
透き通る羽でふよふよと浮かぶレムの小さな頭に、イリアが花冠を載せる。
──ったく。洗い物が終わったらすぐに発つって言ったのに、なに遊んでんだか。てゆーかまだ寒いのに花なんてよく見つけたもんだな。
とはいえ荷物の詰めこみはあらかた終わっているようで、クッション代わりにイリアと木の間に挟まれている。編まれた花もレムのサイズだから冠になるが、人間だったら手首に通すのがやっとだ。大雑把なようで細々とした手作業の得意なイリアにとっては、時間のかかることではないのだろう。
シオンに気付いたイリアが青い瞳でこちらを見て、ぱあっと輝いて笑った。
「シオンおかえり〜!」
長いスカートを払って駆け寄ると、日向の恵みを受けた色のイリアの手が、水に白さを増して青い血管も露わなシオンの手に懐炉を握らせる。熱した石を詰めたものだ。かじかんだ指はすぐに温もった。
ついでにレムも飛んできて、頭の冠を得意気に見せてくる。
「ねえねえ見て見て〜! イリアが作ってくれたの。ステキでしょ?」
「ほ〜そうか。アブラムシがついてないといいナ」
「い・な・い・わ・よっ! ちゃあんと確かめながら作ってくれたんだからっ!」
すごむレムをあしらいながら、洗い物の為に外していたマントを身に着ける。それを見てイリアも木の傍に置いていた荷物に手をかけはじめた。
くるり、後ろを向く。ひょい、しゃがむ。すっ、姿勢を倒す。
その度に肩上で揺れるものがある。
イリアの髪。靭やかで毅い、黒い髪だ。
幼い頃、イリアの兄であるザードに写真を見せられたとき。振り分けた髪は左右それぞれ高く結い上げられ、リボンと共にたっぷりと垂がっていた。初めて出会ったときもそうだ。向こうは覚えてはいないけれど。
次に会ったとき──最初の旅が始まったとき。何度刃を入れたのだろう、それはばっさりと断ち切られていた。イリアという名前と共に、彼女自身の堅い意志で。
ウリックと名乗った男装の少女との出会い。それからいろいろな──本当にいろいろなことがあって。
今ウリックはイリアに戻り、ふたたび伸びはじめた髪が揺れている。笑ったり泣いたり怒ったり、ほんの小さな仕草でも彼女の心そのままに。
心地よく揺れる。シオンの心も。
そして共に過ごした時間を思う。
あれが自分と“イリア”の旅の長さ。いつか、もっと長くなる。
「あら〜あ? シオンてばなあに? イリアの後ろ姿をじ〜っと見つめちゃって〜え!」
びくっとシオンの上体が跳ねる。さっきまで憤慨していたレムは一転、にやにやとシオンの前を飛び回り、イリアもきょとんと振り向いた。
──しまった油断した。この妙なとこだけ目聡いミーハー妖精の前で!
咄嗟に大声で否定したくなるが、見ていたのは事実なので分が悪い。
あったことをなかったと偽る必要はない。かといって何もかも白状する必要もない。
「べ、別に」
落ち着け、程よい按配でかわせばいい。そう思うのに口は出だしを言い淀む。
動揺はマントの金具を止める仕草に忍ばせ、頬の色は整える襟に隠して。
「…………髪、伸びたなと思ってただけだ」
内緒を見られた少年は、決まりが悪そうにつぶやいた。
「髪? うん……」
イリアは自分の毛先に手をかける。どうやら目前の挙動不審には意識が向かなかったようで、シオンはほっとした。
「ホントね〜。ウリックだったときはざっくり短かったもんね」
「そうだね」
だが安堵は一息を吐く間に終わった。
「そろそろまた切らないと」
庭の草の話でもするように、事もなげにイリアが言う。
「ぇ」
予期しなかった言葉。あまりに反射的だったので、呼気に乗っただけの声が掠れたのは幸いだった。レムの甲高い叫びに紛れたからだ。
「えええ〜〜〜っっっ!? 切っちゃうの!? なんで!? どーしてよイリア〜〜〜!?」
──そうだ。どうしてだ。
「どうしてって……今の長さだと中途半端だからさ。動くと揺れるし、結ぶには短いし。何をするにもちょっと邪魔なんだ。ずいぶん鎮まったけど魔物との戦いもたまにはあるでしょ。だから短いほうがいいかなって」
「でもでも、ザードと暮らしてたときは長かったのよね?」
──そうだそうだ。そんなに昔の話でもないだろう。
「うん。このくらいまであったよ」
「腰まであったんだあ。その頃は邪魔に思わなかったんじゃないの?」
──そうだそうだそうだ。もっと言えレム。
「小さい頃からずっとだったからなあ。当たり前だったというか。それに、髪が長いの好きだったから」
それはシオンが十歳を過ぎた頃の記憶。
「イリア 髪」
「むあ?」
「長い いろいろする」
世界を救いし勇者ザードとの会話は、いつも唐突で難解だった。
アドビス城を──否、シオンを訪ねてきてくれた敬慕する恩人であり風変わりな友人。
相変わらずなんだかよくわからない、がらくためいた土産をどっさり受け取り、何処ぞの名物饅頭がその日の茶請けとなった。
茶はどうしようかと考えて、松葉で燻された紅茶を選んだ。薬湯のような味わいで好き嫌いの分かれるものだが、以前ザードが「いぶりがっこによく合う」と大層気に入っていたことをシオンは忘れていなかった。それとはだいぶ趣きが異なるけれど小豆餡も独特の癖を持つから、この茶はそこそこ合ってくれた。
誰かのために何かを選ぶ。こういう楽しみは、シオンにはほとんど得る機会のないことだった。
待ち人との茶会は無口な王子の舌を滑らかにした。
書庫に新しく入った数学の論文集が面白かったこと。経典に使われる古語の新しい解釈を見つけてわくわくしたこと。愛用しているインク工房の配合が変わり、書き味が馴染まないので他を探そうか検討していること。
輪をかけて無口な勇者のほうは土産の解説の他はほとんど相槌を打つ程度で話を引き出すのに苦労したが、孤独な王子の閑寂とした部屋に明るい日射しが射し込むようだった。
そうしてひとしきり話し終え、シオンが饅頭を頬張ることに集中しはじめた際にザードが話しはじめたのだった。
饅頭を紅茶で喉の奥に流し込んでからシオンは応じた。
「あー……お前の妹は髪型をよく変えてるってことか?」
こくりとザードが頷く。
「一つ結び 二つ結び 三つ編み 四つ編み」
「お?」
「ツイスト ポニーテール ローテール サイドテール ツインテール ハーフアップ おだんご 編み込み くるりんぱ 何もしないときも ある」
「お、おおお?」
普段シオンの耳には入らないような単語がザードの口からぽんぽんと飛び出しては翻弄してくる。
別に男が髪に拘らないわけではないし、シオンだって王子として周囲に一分の隙も見せないように身だしなみには気を遣う。だがこの城で最も美しくその身を調えるのは現王妃であるあの女性だから、そういう話題には関心を向けてこなかったのだ。
「組み合わせは無限大 かわいい どれも」
「あ〜わかったわかった、お前の妹自慢は」
常には感情の読めないザードだが今ははっきり読み取れる。こいつ、うきうき兄バカモードだ、と。その証拠にいつもより口角が上がり、心なしか血色も良い。
「いつも違う髪型 帰る度 いつもおしゃれ」
「そりゃ帰ってくるお前に見せたくてめかしこんでるんだろ」
少し拗ねたような口調になったのは無意識だった。
「そうじゃない イリア自身がそれを好き」
「……ふうん」
女のファッションそのものには関心の向かないシオンだが、“あの子”がどんなものを好きなのか──そういう話には、興味はある。
「土産に髪飾り 喜ぶ」
「お前、そういう気の利いた土産もちゃんと買えたのか……」
カップに注がれた茶に映るのは、閉じた窓硝子を擦り抜けて届く午後の太陽。シオンはそこに“あの子”を見出す。そして様々な髪型をしている姿を思い浮かべようとした。
と言っても実際に会ったのは一度きり、ほんの幼い頃のことだ。あれから何年も経っている。成長した“あの子”の姿を空想するのは難しかった。
傷を見ただけで泣いた子。泣いたと思ったらすぐ笑ってた子。
いつかまた、会うことがあるだろうか。
シオンがひとり昔の記憶に耽っていることなど露知らず、イリアとレムの問答は続いていた。
「好きならいーじゃない、すぐに結べる長さになるわ。せっかく伸びてきたのに勿体ナイわよう!」
「ん〜、でも旅をしてるなら短いほうがエーセーテキだし」
「私だって長いわよ? ほらほら!」
ひらりくるりと踊るように、レムは足まで覆ってなお余る豊かな髪を見せつける。瞳と同じ濃い蜂蜜色。動きに合わせて冠から花弁がひらひらと舞い遊んだ。
「レムは飛んでるから……。それに妖精の髪は人間のものとは違うって聞いたよ」
イリアはあくまでのんびりと笑って、ひとつひとつに答え続ける。
けれどレムが自分の髪を差し出したので、少女は小さな妖精の髪を傷付けないようそっとその一房に触れ、指先に巻き取るように滑らせる。向けられた眼差しはやわらかく、ひとつまみの羨望を溶かしているように少年には見えた。
イリアの物言いは何処か違和感がある。まるで髪を切る理由を探しているようだ。
シオンの見たところ、旅に邪魔だというイリアの言葉は本心ではない。にもかかわらず、何故もっともらしい理屈を並べてまで切ろうとするのか。
ウリックだったときに巻いていたターバンは故郷のファンエティレネでは男物だとのことで、今は身に付けていない。
短くとも髪型を凝らすことはできるし飾りなんていくらでも付けられるのに、イリアに戻ってからというもの成り行きで他人から着付けられた時を除いて、彼女は自分からはそうしようとはしなかった。
イリアは考えていることがすぐ表情に出る。まっすぐで、駆け引き隠し事は出来ない性分だ。
だから、もし意図的に誤魔化しているならシオンには一目でわかる。シオンにわからないということは、その理由はイリア自身にもわかっていないのだ。
──まったくこいつは……。
イリアが本心から髪を切りたいと望むのであれば、シオンも止めだてはしないのだが。たとえ、自分の個人的な願いには沿わなくとも。
「レムの言うとおりだ。好きなら伸ばせばいいじゃねーか」
少女と妖精のやりとりに少年が割って入った。お喋りはこれで終わりと打ち切るような、ちょっと澄ました顔をして。
「髪の長い旅人なんざ男も女も珍しかねー」
「シオン?」
イリアと、同時にレムもそちらを見る。
「今の長さが邪魔だってんなら、次の街で俺様が髪留めを買ってやる。当座はそれでいいだろ」
「シ、シオン!?」
思いもかけなかった言葉にイリアが叫ぶが、シオンはさっさと彼女を通り過ぎて、木に立て掛けてあった杖と自分の荷物を手に取った。そして街道へ向かって歩き出す。
再びイリアを追い越すとき、シオンはぴっと杖で指して言った。
「いつかのカメオの礼がまだだったからナ。知っているとは思うが俺様は義理堅いんだ」
そうしてそのまま行ってしまった。出発だ。
「で、でもボク」
慌てて残りの荷物を持ったイリアが、背中に呼びかけながらシオンを追う。彼は振り向かなかったが、代わりにレムがすいと飛んできた。
「そーよそーよイリア、買ってもらいなさいよ! それで私と一緒にい〜っぱいヘアアレンジしておしゃれしましょうよ〜! 私、シング・サの森を出てからそういう友達がいなくて寂しかったの。ねっ!」
両手を組んでうるうるとした眼差しで請われてはイリアは弱い。
「う、う〜ん……レムがそう言うなら……?」
「やった〜! きゃ〜楽しみね。はやく次の街に着かないかしら!」
すたすたと先を歩きながら、シオンは今さっきの自分の言動を反芻する。
大丈夫だ。特に力むことも照れることもなく、普段の調子でさらりと自然に言えたはずだ。
すると追いついてきたレムが、今度はシオンの許へやって来てこっそりと囁いた。
「ね〜えシオン。この貸しは高いわよ?」
あくまで冷静にシオンは応じる。
「ほー。そりゃどんな菓子だ。飴玉か。キャラメルか」
「なぁんでもいいわよお? シオン王子様のお志で」
こちらを試すような、いたずらめいた物言いだった。
──くそっ。足元見やがって!
思うだけで口にしなかったのは、レムの誘導にシオンなりの感謝があるからだった。
先程自分で言ったとおり、彼は義理堅いので。
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道の下を流れる小川のせせらぎを聞きながら歩きどおし、その日の午後、夕日が辺りを赤く染めはじめる少し前に三人は街に辿り着いた。街の奥のほうからは鐘の音が聞こえていた。
宿はイリアとレムで一部屋、シオンが別にもう一部屋を取り、荷を解き夕食を済ませ湯を使い、久しぶりにゆったりとした時間を過ごせばあっという間に夜は更けた。当然街に出る時間はなく、逗留第一日目はもう就寝である。
「あ〜疲れた。今夜は早く休みましょ」
レムのベッドは組み立て式の籠だ。野にあるときは梢の上や花の中で眠るが、人間の宿屋に泊まるのであればそれらしさも味わいたい。イリアが荷物の中にわざわざレムの為の籠を持っていてくれて、ミニクッションを詰めてその都度ベッドを作ってくれるのだ。妖精の女王だって知らないようなふかふかの寝床を。
一日じゅう被っていた花冠を名残惜しく外し、布団代わりの肌触わり良いタオルに潜り込もうとしたとき、レムはイリアが何か考え事をしているのに気が付いた。ベッドの上で枕を抱えて座り込んでいる。
「どうしたのイリア。なに考えてるの?」
「うん……」
そのままの姿勢で返事が返る。いつも相手の顔をきちんと見て話す彼女にしては珍しいことだった。
「ちょっと、前にあったことを思い出して」
イリアの前まで飛んでいくべきか、レムは少し迷って、そのまま自分の寝床で話すことに決めた。
「どんなこと?」
母が娘に、あるいは姉が妹にするような優しい声で続きを促す。
「…………ボクがウリックになったばかりの頃、住んでいた森を出て何日か経った頃かな。通りがかった村で、家に泊めてくれたおばさんがいたんだ」
住み慣れた森は既に遠くなり、さりとて仇討ちという目的はあっても宛て処はない旅路。細々とした辺境の道は頼りなく、だけど確かにそこにあったから、ウリックはその上を進んでいくしかなかった。
名前を捨て、聞き分けよく家で待つ少女の姿を捨て兄のお下がりに身を包み、髪を切った分だけ軽くなった頭で前を向けば、きりりと歩いて行ける気がした。
通りがかったのは小さな村。まだ明るい時間だったし商店も宿もないようなところだったから、ウリックは水の補給だけをしてすぐに立ち去るつもりでいた。
「あんた、一人なのかい」
声をかけてきたのは五十がらみの女性で、大きなシニョンをきっちりとピンで止めたすっきりとした人だった。
はい、とウリックはしっかりと応えた。
「そんな……まだ小さいのに」
痛々しいものを見るような眼差しを彼女はする。ウリックは当たり前のことのように微笑んでみせた。
「ボクはもう十二です。ボクの兄さんはこの半分の歳で一人で旅をしました。だから、遅すぎたくらいです」
何か堪らないものがあったようで女性はウリックを家に招き入れ、一夜の宿を施した。
彼女には家族があるが、行商を生業とする夫は旅に出ており、子供も遠くの街にいて今はひとり住まいだという。
「最近は魔物が暴れるようになって、森のほうでは襲われた村もあるって聞いたよ。なんでも、勇者様もお亡くなりになったとか。うちの人も旅を切り上げて帰ってきてくれればいいんだけど」
振る舞われた食事はとても美味しかったし、家の竃で拵えられたものを口にするのは旅に出てからは初めてで、彼女のもてなしは幼い旅人をあたたかいような泣きたいような気持ちにさせた。
次の朝、宿賃代わりの水汲みと薪割りを済ませ発とうとしたところ彼女は食糧まで用立ててくれ、そしてウリックの髪に手をやった。
「切ったばかりなんだね。自分でやったのかい?」
「………………はい」
答えるのに少し間があったのは、好きだった長い髪をざくりざくりと小刀で切り落としたときの感情も感触も、まだ生々しく焼き付いていたからだ。ぐっと両の拳を握りしめることで、涙が零れるのを堪えた。
「……そうかい、やっぱりね。ちょっとバランスが崩れてるし、後ろのほうは毛先がばらばらになっちまってる」
ウリックを椅子へ座らせて彼女は言った。
「少しばかりあたしに手を入れさせとくれ。若い頃は大きな街で髪結いをしていてね。今でもこのあたりで行事のあるときはあたしが呼ばれるくらいの腕前だよ。切るほうだって素人よりは上手いさ」
その眼差しと手付きがとても優しかったから、ウリックは申し出を受けることにした。
丁寧に鋏を入れながら、髪結師は自分の来し方を語った。
「あたしが働いていたのは大きな神殿のある街でね。お坊さんていうのは位の高いほど御髪が長いものらしくて、男の人も女の人もみぃんなあたしが綺麗に結い上げたもんだよ」
そうか、男の人だって髪が短いとは限らないんだなと、今更のように耳を傾ける。
「その街で行商に来ていた夫と出会って、あの人の故郷であるファンエティレネに移ってきたってわけ。と言っても、うちの人は旅から旅への仕事が根っから性に合っているみたいで、年の半分も家にいちゃくれないんだけどね。あたしは待ってばかりさ」
そんな話を聞かせながら、彼女はあっという間にウリックの髪を整えてくれたのだった。最後に両手で優しく梳るように撫でながら。
「旅をするなら頭にも気を遣いな。ちゃんと地肌を洗って櫛を入れて清潔にすること。……男の子だってそうだよ。体を大事におし」
一人旅なら健康第一。そう言って送り出してくれた。
「──今にして思えばあの人、ボクが女だって気付いてたんだろうな。なんか、そんなことを思い出しちゃった」
そこまで話して、イリアはようやく枕から顔を上げてレムを見た。
「優しい人に会ったのね」
「……うん」
応える笑顔はうれしげで、今日の朝に髪を切る理由を並べていたときとは別のものだった。
多くの人間に触れてきた髪結師は、荒々しく断たれたばかりの男装の少女の髪に何を読み取ったのだろう。
ひとりぼっちの──まだレムにもシオンにも出会っていなかった頃のウリックが、そういう人に労ってもらえて本当に良かった。顔も名も知らぬその人に、レムはそっと感謝する。
「ねえイリア。明日、ちゃんとシオンに髪飾りを買ってもらうのよ」
「髪飾りっていうか、髪留めだよ。ヘアピンとかだって充分……」
「いーえ、飾りよ! アクセサリーにするべきよ! と〜っても可愛いやつ!」
「う〜ん……」
レムの力説の前に、イリアは再び曖昧に笑う。
以前の旅で街を歩くとき、ウリックが綺麗な服やアクセサリーによく目をやっていたことをレムは覚えている。当時は深く考えなかったその視線がどんな意味だったのか、今ならわかるのに。
どうしてだろう。何がこの子を躊躇わせてるんだろう。でも明日には解決するはずよ。シオン、頼んだからネ!
このときレムは、そう思っていた。
翌日もすっきりと晴れた朝だった。昨日よりゆるんだ春の空気も心地良い。宿の食堂の採れたて新鮮サラダもつやつやと光って見えた。
イリアが女の子に戻ってから初めて髪飾りを買うにふさわしい日!
レムは自分事よりもずっとわくわくとしていた。正しくは髪飾りではなく髪留めであるが。
それなのに。
「うわ〜、すごくいい天気! 今日はお洗濯日和だね!」
なんとイリアは宿屋の庭を借りて、旅で汚れた服や毛布を意気揚々と洗いはじめたのだ。
「こんなに晴れてあったかいんだもん。井戸水は川の水より冷たくないし、今日お洗濯しなかったら勿体ナイよ」
「いやまあ……確かにそうなんだケド……」
わくわくを挫かれてレムはがっくりと項垂れる。
「ついでだからシオンの毛布も洗っちゃうよ。あ、服は自分でやってね」
明るいはずのイリアの笑顔は、いよいよ奇妙としか思えなくなってきた。
「……毛布ぐらい自分でやる」
更に奇妙なことにシオンも髪留めのことには一切触れない。粛々と洗濯に加わり、イリアの向かいに陣取った。
機嫌良く鼻歌を歌い楽しげに、ごしごしざぶざぶと泡立てながら汚れ落としに励む少女。その視線はずっと盥の中に注がれていて、目の前にいるはずの少年とは交わらない。
少年のほうは手はきちんと動かしながらもじっと少女を見つめている。レムはその表情に見覚えがあった。出会ったばかりの頃によくしていた、何を考えているのかわからない、けれど対象を観察する目付きだ。
──何なの何なの一体全体何なのよ、この空気は!?
うららかな日射しにシャボンの泡もきらめいているのに、妖精は戸惑いに揺蕩いながらふたりを眺めるしかなかった。
それでも洗濯は無限に続く訳ではない。濯いで絞って物干し竿に架ければ、乾くまでは一旦終了である。
「やっと終わったわネ。それじゃそろそろ……」
「そうだね、街に出て」
──いよいよ髪飾りを買いにいくのネ!?
と、拳をぐっと握るレムだったが。
「薬草とかの消耗品を補充しに行こうか」
「へ!? や、薬草?」
「うん。あと食材も買い込んで、街を出るまでに保存食を作っておかないとね。この宿屋さん、頼めば厨房も貸してくれるんだって。パンと、ペーストと……出来ればジャムなんかも作りたいな〜」
「イ、イリア? 確かにそれも大事だけど、何も今日今じゃなくても……」
「せっかくだから、ついでにこの街の名物も食べちゃお〜!」
わざとらしいほど元気に宣言するが早いか、イリアはさっさと街へ繰り出していく。どうしたものかとレムがおろおろしていると。
「……行くぞ」
背中からシオンの声が掛かり、レムが表情を確かめる間もなく追い越して行ってしまう。その声音は不満よりも、挑むようなものに聞こえた。
何に対してだろう。イリアに?
それともシオン自身に。
この街の名はラダマスカと言う。
昨日三人の道行きに沿うように流れていた小川は、この街の傍でより大きな川と合流する。高台の上に築かれた街の外れに見物がてら立ち望めば、大きいほうの川を行き交う舟を見取ることが出来た。
下った先にもっと大きな街があるので、比べればラダマスカはそれほどの規模ではない。だが小さいながらも川岸を備え、舟運のおかげで人も物資も往来する活気のある宿場町だった。
薬草も食材も難無く揃い、名物は何かなと歩き回ったところウナギライスバーガーなるものに行き当たる。街中に設えられた泉の縁に腰掛けてランチタイムとした。
泉の真ん中に立つ一抱えもある石柱には街の歴史が碑文と絵で刻まれていて、そこにも図案化されたユーモラスなウナギの姿が描かれている。このあたりの川ではウナギ漁が盛んなのだ。
淡白でふっくらと蒸した身に甘じょっぱいタレを焼き付けたウナギは、湯気立つライスに絡んでよく合った。ぴりりとした山椒を少しだけ効かせた爽やかな風味はイリアには初めてで、興味を大いに引いたらしい。「わあ美味しいね! ボクも今度作ってみようかな」などと話しながら始終にこにこと喜んで食べていた。
確かにレムも美味しいとは思ったけれども。バーガーと一緒にテイクアウトした緑茶はタレとは逆に渋めに淹れてあり、レムは唇を尖らせて啜った。
魚嫌いのシオンは嫌だのなんだの文句を付けるかと思いきや、意外にも静かに口に運んでいる。と言うより、思考を一つのことに集中させていてそんな暇がないのだった。いつもなら聞けるはずの、一帯の地理やら歴史やらに関する蘊蓄も出てこない。
結局日中はあれを見たいこれを見たいというイリア主導の探検で街中を、しかし装飾品を扱うような店は近寄らないか足早に通り過ぎて廻った。傍目には実に和やかな観光客に映ったことだろう。
そして夕刻と呼ぶには少し早い頃、気温が落ちる前にと宿に戻り洗濯物を取り込んで、その日の外出は終わってしまった。
これがラダマスカの街でのニ日目だった。
明くる三日目。
「昨日はたくさんお洗濯したから、今日は繕い物だ〜!」
もはやレムは何も言わなかった。イリアが理由をつけて髪留めを避けることは明白だったからである。
「あ〜……でもちょっと糸が足りないかも。シオン、レム。悪いんだけど、おつかいを頼まれてくれない? ボクは出来るところまで先に進めておくから。あ、お散歩がてらゆっくり行ってきてくれて大丈夫だよ!」
とうとう厄介払いをされてしまった。仕方なくシオンとレムは連れ立って街に出て、イリアの望む糸を買い求めた。
たったこれだけの用だからすぐに戻ることはできるが、依頼主に「ゆっくり」と念を押されたのだから仕方がない。街外れから川岸に降りる石段にふたりで腰を下ろしていた。
空は引き続き晴れ晴れと、青い布に白い綿を千切って置いたように広がる。視界の端で流れる川面はちらちらと、さながらビーズ刺繍のひらめき。下流のほうに目をやれば、彼方は繊細にぼかした染めのように春霞んでいる。
早船だろうか、この街に停まらず行く舟の漕ぎ手たちの掛け合う声が過ぎていく。吹く風はシオンたちには少し冷たいが、彼等にとっては順風だろう。
「ここ、邪魔にならないかしら」
「今の時間は舟の出入りが無いようだし、荷は滑車を使うか向こうに巻いてる坂を通るから問題ねーだろ」
がりっとシオンが噛み砕いたのは、これまた周辺地域特産だというサツマイモを使った芋けんぴだった。
「どうしちゃったのかしらイリア。ずっとああいう……愛想笑い、みたいな……。冠を編んでくれていたときまではあんなんじゃなかったわ」
レムは心配でいっぱいの溜め息をひとつ吐いてから、シオンが小さく割ってくれた──それでも妖精の体格に比すれば長大な──芋けんぴを抱えて齧った。ちょうど、街に着いた夜にイリアが枕を抱きしめていたように。
「私が無神経だったのかも……。あの子が煮えきらない返事ばかりしてるときから、何か理由があるってわかってたのに」
「俺様も乗ったしな。お前が反対しなかったら、あいつたぶん何も言わずに切ってたぞ。本心じゃ切りたくねーくせに」
暗に、お前のせいじゃない、むしろよくやったとシオンが言う。
「後悔してるのよ。出会った日からあの輝月宮の重なる夜まで何ヶ月も毎日毎日一緒にいたのに、ウリックが女の子だって、私ちっとも気付けなかった」
イリアが話してくれた髪結師は勿論、シング・サの森で会った修行僧セリアだって見破っていたそうなのに。手に乗り肩に乗り一番近くにいた自分が見過ごしていたことを、レムはずっと情けなく思っていた。
「気付いていたら、あの子にあんなに負担をかけずに済んだかもしれないわ。そしたら今頃は……」
苦い気持ちは糖蜜掛けの菓子でも紛らわせられるものではない。
「お前みたいな精霊種の妖精は、肉体という実体への認識がにぶいんだろ。性別に関係ない魂の本質を見るか、服装とかの見てくれを見るか、両極端てことだ」
「それ、慰めてるの? えぐってるの?」
「種族が違うんだから仕方ないとシオン様は仰っているのだ」
だとしてもこうして心を寄せようとすることはできる。それはひとえに、イリアの持つ素直な優しさが呼び招くものだ。
誰かのせいと言うのなら、シオンのほうがずっと負うところは大きい。
なにせウリックの性別も本名も端から知っていて黙っていたのだ。もしも最初にすべてを打ち明けていたら。ザードからお前のことを頼まれたんだと伝えていたら。そうしたら。
だがイリアにとって“ウリック”は儀式だった。絶望の底から立ち上がり、這い上がって生きる。そのために必要な魔法だったのだ。
シオンにとってもウリックと、そしてレムとの旅は何物にも代えがたい。あの旅のなかった自分達なんて、考えることはできなかった。
だから考えるべきことは今これからをどうするか、それだけだ。過去に、もしも話に求めるべきはその糸口であって感傷ではない──そのはずだ。
直接的な原因なんてひとつきり、わかりきっている。霧と砂に覆われたあの異世界でシオンはウリックに言ったのだ。
兄貴の仇討って自分のこと許せたらさ、女に戻れよ。
仇は討ったとは言える。だが復讐を手放そうとした彼女にとって、それは喜べることでも誇れることでもなかった。
何よりもシオンが──シオンが目の前で死んだことが。
自分のこと許せたら。
じぶんのことゆるせたら。
ジブンノコトユルセタラ。
シオンはウリックに唱えるべき呪文を間違ったのだ。
厳密には、呪文の効力を発揮させるための条件を整えられなかった。シオンの見込みの甘さと、力の限界によって。この手に貼り付いた神懸りの水晶が命を繋ぎはしたが、ウリックが心に負った傷は無かったことにはならなかった。
──俺のせいだ。
レムのせいでも、ましてやあいつのせいでもない。俺の。
蹴り飛ばしたはずの感傷とある種の自惚れが一巡りしてのしかかる。シオンは必要以上に強く菓子を噛み砕いて磨り潰した。
「名前を戻して女物を履けるようになっただけで、今は精いっぱいなのかもね……」
「…………本音が何処にあるにせよ、他人が口を挟むのは大きなお世話ってことだな。あいつの髪はあいつのもんだ」
本心に蓋をしてでも髪を切ることで、彼女が守ろうとする何かがあるのなら。
今も自分をボクと呼ぶ少女が何を考えて男装を止めたのか。
理由の大部分がシオンへの負い目ではないかとシオン自身は推測しているが、本当のところは他人にはわからない。そして他人には、今より多くを求める権利もないのだった。
助けたい支えたいとどんなに願っても、心の中に一方的に踏み入ることは誰にもできない。少女はウリックだったときシオンにかけがえのない言葉をくれたが、それが決してシオンを救ってやろうという思いから生まれたものではなかったように。
ずたぼろに裂けたものを縫って縢って継ぎ当てながら、少女は今も自分のかたちを探している。シオンやレムにできるのは、もしも繕う手が迷うときに糸や布や、手元の灯りをそっと足してやることぐらいだ。
それが出来るくらいには近くにいる。この程度は自惚れてもいいだろう。
イリアは自分のかたちを探している。
どんなに苦しくとも何度だって、今も新しく生きて歩いていこうとしている。
かあん、かあんと、腰掛ける階段の下で鐘の音がする。
もっと大きな街であれば時計として一定の時間経過を告げるものもあるが、ラダマスカの鐘はそこまでの堅苦しさを持たない。単純に舟の出入りの合図として使われていた。
川のほうへ首を廻らせれば、旅人を載せた舟が岸に着こうとしているのが見えた。つまり今からここを人が行き来する。切り上げ時だ。
「そろそろ戻るか」
「そうね。あ、お菓子ご馳走さま」
「は? こいつはただのおやつだ。お前、この一袋一アルの大衆菓子が俺様のお志だと思ってんのか」
「あら、美味しかったから充分よ。……でも、そうね。今度はもっと悩みの少ないときに食べたいわね」
宿に着いたらイリアとどんな話をするべきか、あるいはしないべきか。もういっそ髪留めのことは触れずに有耶無耶にして街を発ったほうがいいのかもしれない。
そんなことを考えながら戻ったふたりを出迎えたのは、イリアと、自分たちの荷物よりずっと大量に山積みになった服やら布やらだった。
「ど、どーしたのコレ!? なんで繕い物が増えてるの!?」
「ああ、うん。この宿屋さんのパジャマとシーツだよ。ついでにどうかなと思って宿の人に声を掛けたんだ」
「自分からわざわざ!?」
「代わりにごはんをサービスしてくれるって。やったねえっへん! ボクって交渉上手でエライでしょ」
腰に手をやり胸を反らせる自慢気なポーズは、ちょっと芝居がかっていた。
「というワケでボク今日はこれにかかりきりになるから、ふたりはゆっくりしててね!」
レムは頭をかかえる。これではイリアと話す時間も取れない。
「そうか。感心だな」
応えたのはシオンだった。
「それじゃあ俺様は遠慮なく、この街の水運と文化のフィールドワークに勤しむことにする。戻りは遅くなるからメシは勝手にとれ」
喋りだしから終わりにかけて、シオンの声は低くなっていく。おつかいを頼まれた糸と土産の芋けんぴをテーブルの上に置く仕草は特に乱雑なものではなかったが、かえって不釣り合いだった。
初めて、シオンは不機嫌を表に出して立ち去った。
四日目の朝が来た。
前夜、せっかく食費を節約できたというのにシオンは夕食時をずっと過ぎて戻ってきた。だがイリアとの間にこれといった軋轢を起こすわけではなく朝食時には顔を出したので、レムは落ち着かない胸の中でほんの少し、食べたものが食道を通過できる程度にはほっとした。
そう大きくはないこの街で滞在四日目というのは長いが、急ぐわけでも明確な目的のある旅でもなく、路銀も今のところ足りているから特に不都合はない。ここしばらくは野宿が多かったから、骨休めにも問題があるわけではないのだが。
「今日は保存食作りだ〜!」
えいえいおうと拳を突き上げ、イリアが元気よく本日の目標を掲げた。
二日前に買い込んだ食糧を加工するのだ。
別に既製品を買ったっていいのだが、料理好きな彼女は厨房を使える機会に行き合うとここぞとばかりに腕を振るう。単に楽しみのために限らず、必要に駆られてのこともあればストレス発散を託してのこともある。今回の目的は──逃避だった。
静かな声でシオンが言った。
「ふむふむ、精の出ることだな。でもそうするとその髪は障りがあるんじゃないか?」
ぴたりとイリアの動きが止まる。シオンは淡々と続けた。
「昨日も繕い物をするとき、鬱陶しそうに掻き上げてたもんな」
イリアの体が面白いほどに強張っていく。
「一昨日の洗濯のときも、前に下がるのを背中側に流してたっけな。何度も」
笑顔だけは貼り付いたままだが、それもいつまで保つだろうか。
「“今の長さだと何をするにも邪魔”。そう言ってたな、三日前は」
「シ、シオン、ちょっと」
昨日、イリアの髪をどうするかはイリアの決めるコトだから自分たちは見守ろうって話をしたんじゃなかったっけ!?
慌ててレムが口を挟もうとするが、シオンは意に介さない。そしてとうとう宣告を下す。
「それじゃあ買いに行こうか。イリア、お前の髪留めを」
ぎろり。とてもじゃないが女の子に装飾品を贈ろうという男の目付きではなかった。
シオン。王子という高い身分と複雑多難に込み入った環境に生い立ち、それに相応しい振る舞いと自制心を自らに課して育った。非凡の一語では表せないほどの知性と魔力を宿し、考察と実践を繰り返して世界の理を学ぶことを歓びとする、客観冷静忍耐の徒。
しかし彼はわずか十四歳の少年であった。
つまり、そこまで大人ではなかったのである。他のどんなことをそつなくこなせても、目の前のこの、たったひとりの少女に関してだけは。
少女の腕をむんずと引っ掴んで、少年は外へと連れ出す。彼が苦手なはずの異性に触れていることも忘れて。
「えっ、ちょ、ま、待ってシオン、ボクはっ」
ようやく硬直が解けて踏みとどまろうとするイリアだが、最初にバランスの主導権を取られてしまったのでずるずると引きずられていく一方だ。シオンはばっと振り向いて、真っ直ぐ目を見て言い放った。
「忘れたとは言わせねーぞ!! 嫌なら断わりゃいーのにずるずると誤魔化しやがって、俺様はもう我慢ならねえ!!」
「うっ……」
「要らねえなら要らねえとはっきり言え! そうでなきゃこのまま店まで連れてくからな!!」
「……っ、ボ、ボクは…………」
シオンはきっと見据えたまま、イリアがなんと答えるのかを待つ。
躊躇いの訳までは求めない。ただ答えだけ聞ければいい。通行人が何事かとふたりに視線を向けるが、そんなこともどうでもいい。
しかし焦りか慄きか、逸らして伏せた少女の瞳も表情も見えなくなり、やがてふるりと小さく肩が揺れる。
その姿は、これほど威勢良く啖呵を切ったはずの少年の腕を全く無意識に、ほんのわずかに弛めさせた。
瞬間、少女は腕を振りほどき。
「なっ!?」
猛スピードで逃げ出した。
宿屋前の通りには、啞然とした少年がひとり残されたのだった。
予想外のことにさしもの彼もしばし事態が飲み込めない。
は? なんだこれ? 逃げた? 逃げられたのか俺は? 物理的に? てかあいつ速ーよ。なんだあのスピード、なんだあの素晴らしいフォーム。もう道の先の曲がり角まで走り着いてやがる。いや感心してる場合じゃない。逃げられたんだな俺は? ──イリアのやつ、逃げやがった!!
やっと整った思考でシオンが最初にしたことは。
「こ……っっっんの…………っっっバッッッッッカヤローーーーーー!!!!!!」
絶叫。
道行く通行人は一斉に足をとめ振り返り、屋根の雀とそれを狙っていた野良猫は驚いて逃げ去るほど。
細い体の何処から絞り出したのか見当もつかない大声が、朝の出立時間に混み合う宿屋通りを貫いた。あまりの声量のためか、シオンは深く俯きぜえぜえと息をついている。
「あの〜シオン、大丈夫……?」
様子を見守るしかできなかったレムがようやくふよふよと寄りついて、恐る恐る声をかけると。
「…………ふ……」
「ふ?」
「ふっふっふっふっふ…………」
笑っている。胃の腑の底で蛇がとぐろを巻くような声。人間がこんな声で笑うことがあるのだと、妖精は初めて知った。
「そーかそーか、お前の考えはよおっくわかった……と言いたいところだが生憎さっぱりわかりゃしねえ」
ぶつぶつとつぶやく言葉も、目の前のレムに向けているのではない。常ならば周囲に目を光らせ耳をそばだて複数の情報処理を同時にやってのけるシオンだが、今はレムが意識に入っているのか疑わしい。そんな彼を怖がればいいのか心配すればいいのか、はたまた呆れればいいのかもはやレムにはわからない。
「そっちがそうならこっちも好きにやらせてもらう。遠慮も気遣いも本日は品切れだ」
やがてシオンはがばっと勢いよく顔を上げ。
「逃さねえからな!!!!!」
宣言すると、イリアを追って駆け出した。
喧騒の去った空間には、ぽつねんとレムが漂う。
「あ〜あ……。なんでこうなるのカシラ……」
ぼやきまじりの独り言。
だが、程なくくすりと吹き出して。
「でも、このほうがあの子たちらしいわよネ」
誤魔化したり、不自然に明るく振る舞うよりよっぽどいい。今のシオンの宣言だって、大声ではあったけれど怒るというより縺れた糸を両断するような思い切りの良さがあった。
あの子たちなら大丈夫。
ふたりの駆けていったほうを見つめ、ほっとしてレムは笑った。
さっき食べた朝ごはんが、ようやくお腹の中まで届いた気がした。
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ラダマスカの街を、イリアは全力で走る。
宿屋通りは土を突き固めた道だったが、泉に近い目抜き通りと商店街のあたりは部分的に舗装されている。ブーツが石畳をだっだっだっと鳴らしていく。
堪らず飛び出したはいいが、逃げ込む宛てがあるわけではまったくない。ひとまずスタートダッシュでシオンを引き離す必要があった。朝の宿屋通りは旅人たちの出立に重なりそこそこの人出があったのであまりスピードを出せなかったが、商店街が開くのはまだ少し後の時間だ。
道を曲がった今からが勝負だ。
シオンは体力面では自他共に認めるへなちょこだが、それは決して身体能力が低いという意味ではない。
たとえば異世界のあの城で“剣で倒されたディアボロス”を目にしたウリックが半ば狂乱して走りだしたとき。シオンはちゃんと追いつき、腕を掴んで押し留めてみせた。ウリックの──イリアの腕を掴んで。ちょうど、さっき宿から外へと連れ出したように。
あんなに細い体つきをしているのに、シオンの掌はイリアより大きい。靴だってそうだ。だから歩幅もイリアより大きい。
シオンは少年だから。
ちらりと腕に目をやると、なんだか触れられたあたりが熱い気がする。
ううん、気のせいだよ!
ばっと視線を前方へ戻す。余所見をしている場合ではない。
とにかく、シオンに無いのはあくまで持久力なのだ。そこを見誤ってはいけない。
「くぉぅらイリア! 待ちやがれ!」
「わわっ!?」
突然、そんなに遠くないところから大きな呼び声が届く。
驚いて振り向くと、物凄い形相でシオンが追いかけてきていた。ほとんど宿に引きこもっていたイリアと違って、数日出歩いていたシオンのほうは街の構造が頭に入っている。横道をショートカットして距離を詰めてきたのだ。
イリアはスピードを上げた。
イリアはひたすらに走る。
ロングスカートをものともしない。膝を蹴り上げ、裾を軽やかに後ろへ打ち靡かせる。スカートは動きやすさを、戦闘も考慮したスリットの入った作りになっていて、こういうときにも役に立つ。
単に男装をやめるというだけなら必ずしもスカートである必要はなかったはずだった。けれどイリアが森にいた頃、兄の帰りを待ちながら魔物たちと共に暮らしていた頃の姿がそうだったから、女に戻るということとスカートを履くことは彼女にとって不可分だった。
ウリックになるために外見を変える必要があったことの裏返しに。
「待てっつってんだろ! なんで逃げる!」
「なんでって、なんでもないよ!」
「んなわけねーだろーが! 今日までの……っ」
シオンの息が切れはじめている。
「今日まで何日もあった、のに……髪留めが要るとも要らねえとも言わなかった理由がっ、っっあんだろ!!」
それでもシオンは足を止めない。
罪悪感を覚えるけれど、イリアも止まるわけにはいかない。空気を裂いて突っ走る。裾や帯は見えない空気を象り、道に水平に浮いて棚引く。
旅装束の一式は今の旅に出るときにアドビス国王が──シオンの父が用意してくれたものだ。
前の旅の終わりはアドビスだった。
王に旅のあらましや異世界で見たものを報告し、そこでイリアは自分が女であることを明かした。
王はたいそう驚きはしたが、騙していたことを深く謝る少女を責めはせず、快く受け入れてくれた。父は息子に何か含むような視線を投げかけていたのだが、その意味まではイリアにはちょっとわからなかった。
服の手配は王だったが、動きやすさについては忍衆が、可愛らしさについてはオババがそれぞれの審美眼を光らせ選りすぐったものの中からイリアが決めた。
おかげで今のイリアは持ち前の運動能力を余すことなく発揮しつつ、誰がどう見ても女の子だ。
新しい旅装束をシオンの前で披露したとき、シオンは茶化しもしなければぶっきらぼうな素振りをすることもなかった。
滅多に見せてくれない、頬も眉間もほどけたとびきり優しい表情で「ん。いいと思うぞ」と言ってくれた。
イリアはすごくほっとしたし、なんだかとってもうれしかった。
違う違う! 今はそんなこと思い出してる場合じゃなくて!
……でも。
その顔があんまり優しくて。
まるであの最後の魔法を放った後、ウリックの手を握って昔のことを語ってくれたときのように屈託がないほどやわらかくて。
──ボクはそれが、少し怖くもあったんだ。でも……どうして?