二人の歩幅「……にがい」
「あー……あはは、やっぱり?」
眉間に皺を寄せた橙真の顔を一瞥して、ひゅーいは苦笑いを浮かべて焦げのついたフライパンをシンクに隠す。上手くいった試しのない料理は、やっぱり今回も失敗だった。明らかに黒くなってしまったそれを橙真に食べさせる気なんてなかったのに、フレンチトーストになる予定だったそれは隠蔽するより早く、横から伸びてきた手に連れ去られてしまった。
指についた粉砂糖を舌で舐め取る橙真から見えないようにカードを出して、小さい声でマナマナと呟く。パッとシンクの中のフライパンが黒から綺麗なシルバーに変わって安心していると、カードを持つ手を咎めるように掴まれた。
「あっこら、マナマナ使っただろ」
「さすがにこれぐらい許してよ〜、チュッピって不便すぎない?」
橙真と一緒に暮らすようになってまず、可能な限りマジを使わないことを約束させられた。最初はどうして不便なことを強いるのだろうと疑問でしかなかったけれど、数週間過ごすうち何となくその意図を察せられた。
移動は自力で動くこと。服を着替えること。洗濯に、お風呂、料理。買い物に行くこと。きっと橙真は同じチュッピとして生活がしたいのだろう。
産まれながらに強大なマジを持つひゅーいにとって、それに頼らず生きていく術を知らない。移動だって、着替えだって、洗濯もお風呂も料理も買い物も、マナマナを使えば一瞬なのに。
でも、そう思っても橙真の約束通り努力しているのは、収納ラックの一番奥に「恋人との同棲で気を付けること十選」なんて文字がデカデカと書いてある雑誌が仕舞われているのを見てしまったからだ。そんなものを見て拒否できるはずがない、だってこの同棲に誰よりも浮かれているのはひゅーいなのだから。
「終わったら俺が洗い物するから、いい」
「はぁい」
「これ、上に蜂蜜かけたら結構イケる気がする」
「……橙真、天才? もういいやーって余った食パントーストしようと思ってたけど、食べられるかな」
皿に乗せた表面が黒くなってしまったフレンチトーストをくんくんと嗅ぐ。においはやっぱり焦げ臭いけれど、中までダメになったわけではなさそうだ。
橙真は既に食べる気満々なのか、蜂蜜やカラトリーを集めている。その姿を横目に二人分の皿をダイニングの赤と青のランチョンマットの上に置けば、あっという間に朝食らしくなった。
橙真が持ってきたカラトリーを分け、たっぷりと蜂蜜をかける。サイドに牛乳を注いで、二人は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまーす」
既に一口サイズになっている欠片を、フォークで刺して口に放り込む。意外にも焦げの苦味を蜂蜜の甘さがちょうどよくカバーしていて、むしろ甘すぎず程よい甘みに落ち着いている。
とはいえ、すごく美味しいかと言われれば及第点というところだろう。
「今日も上手くいかなかったなーって思ったけど、昨日のあれより上手くいってたんだ」
「……ってことは、昨日も食べる前に捨てたのか?」
「あー……えへへ」
昨日は目玉焼きを焦がして、橙真に見つかる前に処分してしまった。何事も無かったかのようにコンビニで買ってきたおかずを出したけれど、どうやら墓穴を掘ってしまった。
「ひゅーいが頑張って作ったんだから、失敗しても捨てるなよ。ちゃんと食べるから」
「……橙真って、相変わらず恥ずかしいことサラッと言うよね……」
もしかして、あの雑誌に「料理が下手な恋人のフォローの仕方」なんてものが載っているのだろうか。それにしたって、生真面目な橙真は本心から言っていそうなところが末恐ろしい。
「今日はレッスンだよね」
「ああ。晴れてるし、洗濯物干していくか」
「そうだねぇ」
フレンチトーストを口に運びながら、今日の予定を組み立てる。
――橙真と居ると、時間の流れが遅く感じる。マジを使わない、不便で面倒なことが沢山なのに、二人だと不思議と嫌じゃない。むしろ、橙真と肩を並べて生きてるって実感が、ひゅーいの胸を温かくさせた。
「? どうした?」
「うんん、これが幸せってやつかー、って」
「なんだそれ」
緩んだ口元を、牛乳の入ったグラスで隠す。橙真はそんなひゅーいをけらけらと笑って、最後の一欠片を食べきった。