今日もまた、負け「HiMERUさん、起きてください」
砂糖と蜂蜜を溶かしたような、甘い声だった。落ち着いたトーンは本来心地よいはずなのに、あまりの甘さに胃もたれしてしまいそうだ。
「(……この、声)」
肩を揺さぶられて、段々と意識が浮上する。そうしてやっと、その声が寝起きに聞くはずの無いものだと気付いて飛び起きた。
「…………巽ッ!?」
上半身を起こして、まだ上手く回らない頭ですぐ横でベッドに腰掛けていた影と顔を合わせる。紛れもない風早巽がそこにいた。しかも、何故か二人して全裸で。
「ど、うして、HiMERUたちは……裸なのですか……?」
「おや、覚えておりませんか?」
かたやHiMERUはぼさぼさの寝癖頭だというのに、巽は寝起きとは思えないほどいやにすっきりしている。服さえ着ていれば仕事現場ですれ違ってもおかしくない程に。
見慣れた自宅の寝室にはカーテンの隙間から光が差し、照らされた巽の髪はキラキラと青磁色が透けている。綺麗だな、なんて現実逃避をしている間にも、冷静な頭の一部がこの状況を分析していた。
だって、この状況、あまりに「ありがち」だ。それでも男同士だから、とか、嫌いな相手だから、とか否定材料を探して、嫌な予感でドクドクと鳴る心臓を落ち着けていた。
それなのに、この空気の読めない男は一言でHiMERUの思考を停止させた。
「シたんですよ、セックスを」
気が遠くなる、というのを何度か経験したことがある。いつだってショックのあまり気絶するのは、この男が原因だ。
□
「すみません、もう一度、いいですか?」
「やから、HiMERUはんと巽はんがベロベロに酔うていつの間にかいなくなっとったんよ」
「ベロベロに……?」
「まさか、本当に覚えてないん?」
HiMERUにとって唯一真面目に、嘘無く答えてくれるだろうと信頼できるのはこはくだけだ。そのこはくがきょとんとした顔で真偽を確かめているということは、この悪夢のような現実は事実なのだろう。
当然のような顔で気絶したHiMERUを看病していた巽は、どうやら仕事が休みのようで再び目が覚めてもなお部屋にいた。やれご飯を作るだの掃除をするだの言い出して「いい加減にしろ」と怒鳴りたくもなったが、ラジオ収録の仕事へ向かう時間が迫っていたので早く出て行くようにだけ言い残して巽を置いてきてしまった。
いくら巽といえど、家主の居ない部屋で好き勝手はしないだろう。鍵は事務所に預けておいてくれと伝えたし、残る心配は「昨日の飲み会から今日の朝までの記憶が無い」ことだけだった。
「なになに? もしかして寝ゲロでもしてた?」
「……二度と、そのような下品な発言をしないでください」
「べっつにさあ、男女が裸で寝てました~みたいなことじゃねぇんだし、メルメルは気にしすぎなンだよ」
その、まさかだから困っているのだ。溜息をつきたくもなったが、変に反応すると燐音は何か勘付くかもしれないと我慢した。
いつだって集合時間だけは守る自身のユニットメンバーはHiMERUが着く頃には当然楽屋に揃っていて、燐音が会話に割って入ってくる。本来はこはくにだけ相談したかったのだが、気付けばニキまでこちらの内容に興味津々だった。
「昨日のお店、ちょ~っと味は薄かったっすけど、量が多くて最高だったっす!」
「大衆居酒屋なんてそんなもんっしょ。まあこはくちゃんとか、まだ酒飲めねぇからESから許可の出てる店しか行けないってのが辛ぇよな」
「別にわしとラブはんを置いてってもええっち言うたやろ」
「寂しいこと言うなよこはくちゃん~そうやってシラフのお子様がいるから、メルメルも記憶飛ばすまで酒が飲めるってもんよ、キャハハ!」
下品な笑い声が楽屋に響く。今度こそ溜め込んだ息を深く吐き出して、頭の中から燐音諸共追い出した。
こはくと燐音が小競り合いを始めるのを横目に離れたソファに座りなおすと、横にニキが座る。相変わらず両手いっぱいにお菓子を持っていたが、普段よりも気遣うような視線はどうやら本物のようだ。
「巽くんと飲み比べして先に潰れちゃったっすもんね~巽くんは平気そうな顔してましたけど。あの後大丈夫だったっすか?」
「……それ、本当ですか?」
ニキも既に飲酒が出来る年齢とはいえ、食事に合う飲酒のみをしている為酔っ払うことはほとんどない。ニキが言うことが本当だとすると、酔い潰れたHiMERUを介抱していた巽が、家に連れ込まれ教われた――という筋書きが出来上がってしまう。
「(俺が? 酒で記憶を? そんなことあるわけが……)」
どうしたって、にわかには信じがたい。思わず頭を抱えていると、幸か不幸かスタッフに呼び出され収録が始まってしまった。
HiMERUは切り替えが出来るアイドルなのです。そんなことを何回も頭の中で唱えながら、ラジオ収録はつつがなく終わらせることが出来た。ただ、寮に帰って巽と顔を合わせることは避けたくて、朝目が覚めた借りているマンションに帰ることにした。
だが、そこに待ち受けていたのは正にその「会いたくない」顔だった。
「おかえりなさい、HiMERUさん」
「なんっ……でまだいるのですか!」
「今日はお休みですので……と家を出る直前にお声がけしましたな」
「むしろ鍵を掛けてさっさと帰れと言ったはずですが!?」
でも気になってしまって。と巽はシャツにアイロンを掛けながら笑う。どう考えても家主の居ない初めて来た家でやることじゃないだろう、とツッコミたかったが、きっとキリがないだろうと飲み込んだ。ちらっと見た限り、出来る範囲で掃除や料理をした後が見て取れた。
「あと、お恥ずかしながら腰が痛くて」
その一言が、知らない昨晩の愚行を指していることに気付いて固まる。自然と顔が強張って、床で正座をしている巽の前にコートも脱がず座り込んだ。
「ほ、ほん……本当に、HiMERUたちは、その、したのですか?」
「ええ」
間髪入れずに返ってくる返事に、がっくりと項垂れる。ここまで断言する相手に「嘘だろう」なんて言いつけも出来ない。しかも、腰が痛いだなんて、つまりHiMERUが突っ込む側で、巽が受け入れたということになる。楽屋で立てた一つの筋書きにまた近付いて、嫌な汗が背中を流れていった。
「あの、大変申し上げにくいのですが、HiMERUには昨日の記憶が無くてですね」
「ああ……だから驚いていらっしゃるんですな」
汗が滲むHiMERUとは対照的に、何事も無かったかのように平然としている巽はやっと話の筋が通ったとでも言いたげだ。
「昨日のHiMERUさんはだいぶ酔っ払っていて、歩くことすらままなりませんでした。肩をお貸ししたまま家に上がると、その……キスをされまして」
「きっ……」
順を追って話すにしてはあっという間に終わりを迎えている。未だに性と無関係そうな巽から直接的な単語が飛び出すと違和感しかない。反芻すら出来ないHiMERUが言葉を失っている間に、話はどんどん進んでいた。
「俺もかなり飲んでいましたから。そうして受け流している間に……」
「ちゃんと拒否しろよ!!」
さも当たり前のように話を続ける巽の胸倉を掴む。話が本当だとしたら完全に強姦、強制わいせつ、エトセトラ――訴えられても仕方が無い。
とはいえ巽だって体格の変わらない男なのだから、酔って意識のない男から逃げることは容易いはずだ。記憶も無いくせに人のせいにしている場合ではないが、巽に非が無いとも言えないだろうと責任転嫁出来る穴を必死に探している。
「俺は、HiMERUさんのことが好きですから。嬉しかったですよ」
そう言って笑う巽は、HiMERUの一番嫌いな顔をしていた。善人で、独り善がりで、相手の気持ちを分かろうとしない顔。
人を好きだなんて、笑わせる。
「……巽の考える好きは、肉欲とは無縁なのですよ。だから、こちらから無理矢理迫った……のだとしたら申し訳ないのですが、昨日のことは忘れて……」
気持ちを抑えつつ話していると、巽の手が口を塞いだ。紡げなくなった言葉は喉の奥で詰まって、行き場を失う。突然の行動に目を丸くしていると巽は自分でも無意識だったようで、同じような顔と目が合った。
「ええと、俺はそこまで清い人間ではありませんよ。そうですな……これで信じて頂けますか?」
手が外れて、今度はもっと柔らかいものが口を塞ぐ。トレードマークとも言える二連のほくろが、やけに近い。ほんの少し離れた瞬間に震える息を吐き出すと、その隙間から舌が入り込んできた。
キスをしている、と気付いたのはその時だった。生暖かい舌はあっという間にHiMERUの舌を絡めとり、くちゅくちゅと音を立てて絡みあう。
「ん、ふぁ……じゅ、ッん……」
巽の腕がHiMERUの頭を引き寄せて、口と口の間に少しの隙間も無い。鼻に抜ける甘い声は聞いたことのないはずなのに、――確かに、聞いたことのある喘ぎ声だ。
搾り取られた唾液はごくりと音を立てて巽の喉へ消えていく。夢中になって貪り合っていたせいで口を離す頃にはお互いに肩でしていた。
「ふふ、いいこいいこ」
「っやめてください!」
巽の手が不自然に盛り上がるスラックスの山を撫でる。あんなキスをしておいて、興奮するなという方が無理な話だ。例えそれが、巽であっても。
股間から手を離そうと手首を掴むが、逆に腕を引かれて巽の方へと倒れこむ。合わせて巽が床に寝転ぶと、まるでHiMERUが押し倒しているかのようだった。
「俺たち、実は身体の相性がいいんじゃないかと。もう一度、試してみませんか?」
HiMERUで出来た影の中で、怪しく光るアメジストが誘惑の言葉を放つ。頭がぐらりと揺れて、昨日飲んだジンの酔いが回っているかのように正常な判断が出来ない。
――ああもう、なるようになれ。そう思ってしまえば身体は欲に正直になり、そのまま覆い被さるように巽に口付けた。甘い唾液を舐め尽くし、舌同士を擦り合わすタイミングに合わせて喘ぐ巽を、どうにかしてやりたくて堪らなくなってしまった。
(サンプルここまで)