bite at neckこの世には、自分によく似た人間が最低三人いるという。
ドッペルゲンガーとも言われるそれに出会ってしまうと、寿命が縮むだの大病に罹るだの、様々な不幸が降りかかるらしい。安っぽいバラエティで声ばかり大きい芸能人が話していたことを、妙に覚えている。
――じゃあ、自分の大嫌いな人間にそっくりなやつに出会った時は、何の不幸と言えるのだろうか。
「~っああもう! どうして言うことが聞けないのですか! 巽……!」
フローリングを駆け回る足音がリビングに響く。自分のものではない軽いそれは、ろくに物を置いていないマンションの一室を縦横無尽に駆けていた。
現在進行形で住んでいる寮とは別に借りていたここを、契約し続けていてよかったと思う日がこんなに早く来るとは想像も出来なかった。病院にも近く、仕事にも行きやすい立地で選んだだけで、決して今手を焼いている男の為ではないけれど。
「う?」
「お風呂に入ったら必ず水を拭いて、乾かさないと。濡れた床を拭くのもHiMERUなのですよ」
やっと捕まえた頭をタオル越しに捉えて、問答無用で抑え込む。ガシガシと音が出そうな程強く擦っているというのに当の本人――巽は、嬉しそうな笑い声を上げていた。
そう、今こうして世話を焼いている男は、紛れもなくあの風早巽だ。憎き因縁、同時期デビューのライバル。アイドルとして多少なり認めていたはずの男が、どうしてHiMERUの家に居るのか。実のところ、理由はさっぱり分からない。
人間のはずの巽の頭には大ぶりな動物の耳が、臀部からは尻尾が生えている。しかもまるで本当の動物かのように言葉を話せず、意思疎通を図ることさえ出来なくなってしまっていた。
「ん、ん~……」
「うわっ」
左右に揺れる頭が気に入らなかったのか、巽の手がHiMERUを振り払う。鋭利な爪の餌食になる前に慌ててタオルごと手を退けたものの、その遠慮の無さに心臓が跳ねた。
フルフルと乱れた髪を振り回し落ち着いたのか、巽はそのままこの数日で定位置となっているソファの足元へと寝転んだ。
「(まったく、手に傷でもついたらどうしてくれるのですか)」
そんな小言が出そうになるが、今の巽に何を言っても仕方が無い。自分の中に積み上がるストレスを溜息にして外に出すと、幾分か落ち着いた。
――アイドルだった巽は、この動物じみた巽が現れたその日に消えてしまった。
ALKALOIDは三人グループになり、発売したアルバムも雑誌にも、テレビや社内資料のどこにも巽の姿は無い。本人達に聞いても、メンバーは最初から三人としか答えなかった。
巽が精神的支柱だったせいか、HiMERUの知る「本当のALKALOID」と比べると三人のグループは知名度もアイドルとしての完成度も劣っているようだ。人数差もあり、Crazy:Bと一緒の仕事をしてきたことも無かったことになってしまっている。
へらへら笑うその顔が嫌いだったはずなのに、今のこの世界はどうにも居心地が悪い。そう思ってしまう程には、ALKALOIDのことを気に掛けていたのだと気づいてしまうのも皮肉だけれど。
「……のんきに寝ている場合ではないのですよ」
何事もなかったように丸くなって眠る巽を横目に、HiMERUも寝室へと向かった。
この人間とも動物ともいえない存在がHiMERUの家に現れてすぐに調べてみたところ、巽はリカオンという動物らしい。日本に住んでいると聞き馴染みはないが、サバンナに生息している肉食動物だというサーチエンジンの結果を見ても、いまいちピンとこなかった。
というのも、巽は肉を食べようとしない。試しに色んな食材を並べると、真っ先にきゅうりを手に取ってそれをゆっくり咀嚼して食べる。ただそれだけだ。
「最強ハンター」なんて肩書きがついているリカオンのはずの巽は毎日数本のきゅうりだけを食べて、教えた通りにトイレを使って排出し、与えた場所で眠る。この不思議すぎる存在は何度かHiMERUの夢なんじゃないかと思うことが何度もあった。そう思って誰にも話さず飼い続けてしまっているが、日を重ねるごとにHiMERUと巽の二人暮らしは続いてしまっている。
所謂獣人と言われるだろう今の巽が、もし夢じゃなかったら。最悪の場合捕らわれて、研究対象にされて、人間の扱いなんて受けられやしないだろう。
それでもいい、「俺」には関係がない。そう思っているはずなのに、無防備にHiMERUの肩に凭れる言葉も話せない巽を見る度に、心臓の奥のほうが締め付けられて――行動を起こせずに、いる。
□
HiMERUの朝は早い。仕事のある日もオフの日も、人一倍掛かる身支度を済ませないと誰の前にも出たくはないのだ。ただ巽が現れてからというもの悩みの種が頭から離れず寝不足で、ただでさえ得意でない朝がより一層苦手になってしまっている。
それでなくとも、巽は寝るのも早ければ起きるのも早い。どんなにHiMERUが眠い目を擦って起きても、決まってリビングのカーテンの隙間から天に祈りを捧げていた。
ただの動物的知能しかないはずなのに、朝の祈祷だけは人間の時と変わらない。その後ろ姿はよく知る巽で、何度も錯覚した。
だからこうして朝起きてまずその姿を確認するのだが、ゆっくりとリビングへの扉を開けた向こうに、その背中は無かった。
「巽?」
起きたての喉は渇きのせいで張り付いてしゃがれている。ごほ、と軽く咳払いをしつつソファの足元を見ても、もぬけの殻だ。
「巽、どこです?」
大きめの声を響かせても、返ってくるのは朝特有の乾いた空気だけ。どくどくと嫌な予感が胸を打って、思わず早足でリビングの隅から隅まで歩き回る。カーテンの裏側にも、テレビの影にも、巽はいない。
でも、その捜索はすぐに終わりを告げた。らしくない大きな足音を鳴らしながらキッチンを見やると、巽は冷蔵庫を背に座り込んでいた。
「あ」
「~っ巽!」
勢い迫るHiMERUに「怒られている」ということは理解したのか、耳をペタンと伏せて下を向いている。それでもその両手に握られたきゅうりは離さず、更にはしゃくしゃくと音を立てていて、その図太さに関心すらした。
ふと時計を見ると、午後からの仕事だからと遅く起きたせいで普段朝食を摂る時間を一時間以上過ぎている。HiMERUの溜息と巽の咀嚼音が重なって、磨いたばかりのシンクに響いた気がした。
「……すみません、いつもより遅くなってしまいました。お腹が空いているのですね」
しゃがみこんで頭を撫でてやると、それまで落ち込んでいたのが嘘のように笑顔になる。パタパタと大きな尻尾が床を叩く姿を見ると、不思議と口角が緩んだ。
ごろごろと喉を鳴らす様は猫のようで、頭から頬、首元に手を撫で下ろすと巽はとろんとした眼で見上げてくる。どこかイケナイことをしている背徳感に、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「、ぁ……?」
「ッ朝ごはんにしましょう! 巽も、そんなところではなくソファに座って食べてください」
慌てて引っ込めた手を、巽が名残惜しそうに辿る。それを無視するように冷蔵庫からきゅうりと自分が飲む水を出して、さっさとキッチンを離れた。
「今日は仕事で遅くなります。冷蔵庫に、もう少し食料を入れておくべきですね」
「う~」
「巽、きゅうりはお腹が空いたら勝手に食べてください。HiMERUが必ず一緒に食べれるわけではありませんから」
HiMERUがソファに座るとついてきた巽は足元に座り込む。そしてHiMERUの手を持って、そのままきゅうりを銜え込んだ。こうして誰に頼るあてもなく懐く姿は、少し可愛い……気がする。あの巽であることに変わりは無いが、今の巽は歌うことも踊ることも、誰かのために犠牲になることもない。気味の悪い自己犠牲の代わりに生きる術を失うことは、巽にとって――「俺」にとっては、悪夢ではなく瑞夢なのではないか。
「なあ」
「はぅ」
「ずっと、このままでもいいのかもな」
意味も分かっていない癖に笑う巽に、むしょうに泣きたくなった。
巽が現れてすぐは休みやレッスンだけの日が続いていたけれど、有難いことに絶えずある仕事で家を空ける日が続くことも珍しくないだろう。巽に好きなだけ食べていいと言った手前、留守中に食べきってしまう危険性もある。加えて学習能力が高いせいで家から出てしまったり、不測の事態が起きないとも限らない。
なるべく、家に居てやりたいと思っている。でも、調整出来る仕事ばかりでもない。誰にも言えないトップシークレットを抱えたままというのは無理があることを、午後からのレッスンに遅れてきたHiMERUを取り囲むメンバーを見て思い知った。
「お~メルメル、今日は随分ギリギリじゃねぇの」
「最近お休みも多くないっすか? もしかして体調が悪いとか……」
「そうなん? HiMERUはん病院嫌いや言うとったし、あんま無理はあかんで」
「……体調は、悪くは無いのです。お気遣い無く」
ドライで個人主義のグループだと思っていたのは遠い昔の話になりつつある。駆け込みでやってきたHiMERUをじろじろと見回しながらストレッチをするメンバーの視線を無視して、汗が滲むトップスを脱ぎ捨ててレッスン着に着替えた。
怪しいと思いつつ深くを聞く気はないのか、そこからダンスレッスンが始まった。翌月に発売するシングルは広告も大々的に打ち出し、テレビの出演も増えライブツアーの計画もそろそろ立つだろう。既に四人揃っての練習はかなり時間が限られている。
集中しなければいけないことは、分かっていた。それでも、HiMERUの頭の中はどうしても巽のことですぐにいっぱいになった。
――どうしてか、こうして踊っていると合同ライブで隣に立っていた巽のことを、思い出してしまう。頭の中は家にいる獣の巽と、アイドルの巽が二人いる。世界が変わってしまったあの日からずっと、HiMERUは今いる現実が本物なのかも分からず、ずっとふわふわと夢の中にいるようだった。
「はい、ここまで」
パン、と手を叩く音で全員の動きが止まる。燐音は小さく溜息をついて休憩を告げた。それを聞いたこはくとニキはそれぞれ水や補給食を取り出して座り込んでいるが、そこまで息はあがっていないようだ。
むしろ、気付かない間に肩を揺らすほど息が乱れていたのはHiMERUだけ。気を遣われていることがありありと伝わってきて、HiMERUは鞄から取り出したペットボトルを勢いよく煽った。
「先に連絡事項な」
各々が休憩をしている間に、自身のリュックサックから資料を取り出した燐音が文字を棒読みで読み上げる。内容が半分を超えたところで大体のことを察したHiMERUは無意識に手に力が入っていたようで、ペットボトルがベコリと音を立てた。
「で、俺たちが大阪ローカルの舞台に代打出演することになったっつーわけ」
最後に燐音が要約した一言で、ニキは「へ~」と返答した。おおよそ、それまでの説明はろくに聞いていなかったのだろう。
「遠征になる、と?」
「そりゃそうっしょ」
「地方遠征っていいっすよね~! 美味しい食べ物屋さんをぜ~んぶリサーチしておくっす!」
「たった一泊二日やろ? 回りきれんのとちゃうか」
「いや、こいつの場合マジでやりかねねぇな」
盛り上がるメンバーを他所に、HiMURUは眉根に皺が寄る。つまり、巽を一人、家に取り残すことになってしまうのだ。
「(一泊……不安が無いとは言えませんが……)」
こんな急に家を離れることになってしまうとは思わなかった。そして顔が陰るその様を、燐音だけはジッと見つめていた。
「巽、月末の土日は一人になってしまうと思います」
「?」
「二日間、一人で過ごせますか?」
レッスン後、本来なら寮や病院やスーパーに寄るはずだったのに、真っ直ぐ帰宅してしまった。遅くなると伝えていた割りに早く帰宅した主人に巽は笑顔だが、焦って捲くし立てるHiMURUの言葉はいまいち理解出来ていないようだ。
「そうだ、これを渡しておきますね」
帰りながら考えていた。一番安心できるのは生存確認が出来ることだ。教えたことを一つずつマスターしていく巽なら、覚えてしまえばタブレットの操作くらいは出来るだろう。自分用に使用していたタブレットからアカウント情報やアプリを最低限にしてしまえば、文明の利器もただのおもちゃになる。
「巽ならすぐに覚えて使いこなせますよ」
チャットアプリと、暇が潰せるだろうと動画配信アプリを操作して見せる。食い入るように見つめる巽を横目に、スマホから適当な文字を打って送信すれば、巽の持っているタブレットに同じ文字が映った。キラキラと目を輝かせているが、文字自体は読めないはずだ。もしかしたら少しずつ覚えていくかもしれないと、HiMERUは学習アプリもインストールしておいた。
「ああこら、爪を当ててはダメなのです。ここで、撫でるように」
巽の爪は人間離れした長さだ。危険だから切ろうと何度も試みたが、普段動じない巽がそれだけは嫌がった。かつんかつんと液晶に当たってしまうことを考えると、やはり切ってやりたいところだけれど。
こうやって動画も見られますよ、とCrazy:Bのライブドキュメントを再生する。画面の中にいるHiMERUが不思議なのか、何度もタブレットと目の前の顔を往復する姿は、やはり可愛らしい。
「……巽、こちらも良いライブですよ」
横にスライドすると、今度はALKALOIDの動画が再生される。ただ、巽は不思議そうに、その画面の中に映る三人を見つめていた。
「……これを見ても、巽は何も思い出せないのですね」
こんな風に、赤子を育てるように、巽を匿って生きていくのか。いつまで? 本当に夢じゃないのか?
――もしかしたら、もう。頭の何処かで考えないようにしている結論が頭の奥で警笛を鳴らしているようで、耳鳴りがした。