理想郷1
ファウストがその冬、穀雨寮に残ろうと思ったことに深い理由はなかった。両親が海外赴任となり妹もついていってしまったため、現在実家には誰もいない。光熱費も余計にかかるし、交通費をかけて帰る意味もあまり感じなかったのだ。
「あんたも残るんだってな。よろしく、ラウィーニア」
終業式の放課後、人気の少なくなった校舎の廊下。軽く手をあげて声をかけてきた一学年上のネロ・ターナーという男は初対面ながらファウストのことを知っていたようだった。同じ寮に住んでいるが、寮の活動は学年ごとのことが多く、これまで面識はなかった。
「ファウストでいい……です、よ」
「ああ、敬語とか別にいいよ。あんたの方がよっぽど優秀なんだから」
彼の口調にやっかみや皮肉の気配はなかった。ひと冬を一緒に過ごすことになる人物として、少し緊張して相対していたファウストは強張った身体の力を抜いた。
「じゃあお互い好きなように話そう。よろしく頼む、他には一年生のヒースとシノが残るらしい」
「あのお坊ちゃんと幼馴染コンビが? にぎやかになりそうだな」
お坊ちゃん? と思わず呟いてファウストは呆然とした。
ブランシェットグループの御曹司として有名なヒースクリフのことを、そんな風に呼ぶ者を校内で見たことがない。ヒースは成績優秀かつ眉目秀麗で家柄も性格も良く、とにかく恐れ多い存在という感想を持っている者が大半なのだ。捻くれた生徒が陰口で叩くならあり得る話だったが、彼の言い方の響きはどこか近所の町内会の古株が小さい頃から見守ってきた子どもについて言及するかのような慈愛がこもっていて、嫌な感じはしなかった。だが、尊大と言えば尊大だ。
変わった男だな、と思う。ひょうひょうとしていて掴みどころがない。
「きみはいつも残っていると聞いたけど」
「去年の冬は俺ひとりだったな。直近の夏は実家が改装してるっていうやつがいて、二人きりだった。四人も残るのは初めてだよ」
ファウストは驚いてネロを見つめた。彼はきょとんとしていて、薄い青色の髪が揺れ、首が横に倒される。
普段はにぎやかな学園併設の寮でひとりきり。雪がほとんど降らない地方とはいえ寒々しさが想像される。しかも、ひとりで年越しをしたというのだろうか。
それは、と声に出してしまってから少し間が空いた。
何か事情があるのか、と尋ねるのには抵抗があった。
自分のようにたいして事情らしい事情がないのならさっさとそれを説明してくれるだろうし、あるのなら話を逸らすだろう。質問されるというそのこと自体がストレスであるとファウストはよく知っていた。
寂しくはなかったの、と言おうとしてその問いはあまりに幼子に対するようなものだし、内面に踏み込み過ぎているとも思った。結局ファウストは「不気味ではなかった?」という言葉を選んだ。ネロは別段気にした風もなくあっさりと答える。
「ファウストって幽霊とか詳しいクチ? 美術教師のスノウそっくりの少年の幽霊が出たって噂があるけど、生憎俺は見たことがないな」
「幽霊はわからないな。僕が詳しいのは呪いだけ」
「ああ、あんた研究発表でこのあたりの風習についてとかやってたよな」
「見ていたのか」
「うん。旅人にふるまわれる食事の話とか面白かった」
ふと、生徒会で関わった中等部のリケの話を思い出す。今回は寮に残るという話をしたとき、長期休みにいつも寮に残っているネロという男に食事を出してもらったことがあるという話をされたのだ。頑ななところもあるリケにしては珍しく手放しでその美味しさを力説していた。
「食事と言えば、居残りの間は各自で準備? それとも当番制?」
「こだわりないなら俺作るよ。多少食費はもらうけど。ファウストって朝メシ抜くタイプ?」
「普段は食べているが……それは三食とも君が作るっていうこと?」
「うん」
「それはとても助かるけど」
「いつもそうしてるし。ていうかキッチン好きに使いたいから俺にやらせてくれると嬉しい」
頭をかきながら、ネロが率直に言った。こちらの申し訳なさを叩っ切る口調にファウストは思わず笑ってしまった。
広い寮の中、四人だけの生活。休み期間中も他人と顔を合わせるという煩わしさに少しだけ気怠さを感じてもいたが、まあ、なんとかやれるかもしれない、という予感がした。
2
ファウストやネロが通うこの学園は、県内では有名な歴史の古い名門校として通っている。そして学園併設の穀雨寮はかつてどこぞの貴族が一族で住んでいたという大きな洋館を改装してできている。文化遺産に指定されているなどという話があるが、中に住んでいる人間にとってはただの古臭い建物だ。主に実家が他県の者、県内でも遠方の者たちが入居していて、ふたりで一部屋、管理人が用意する食事もある。
寮生たちは改装しないかな、などとよく言っているが、時代の波に取り残された年季の入った建物を、ファウストは存外気に入っている。
寮生たちが慌ただしく故郷へ去った後の寮は閑散としていた。普段はどこかかしらで大声が上がっているのに静けさに耳が慣れない。
ファウストは普段、レノックスという堅いの良い男と同室だ。彼がいないと空間が広いように感じる。新たな発見だった。
「実家にもあるので」とレノックスが残していった筋トレのグッズが主人を失って寂しそうに見える。使ってもいいですよ、と言われて「僕が筋トレを?」と目を丸くして断ったが、運動不足になりそうだし少し手を出してみてもいいかもしれない、などと思う。
早速の夕食はおでんだった。昨日から仕込んでおいたらしい。大根や卵、こんにゃくにはよく味がしみていてかつちくわやつみれは食感がしっかり残っている。ファウストは大根は面取りがされ、こんにゃくには隠し包丁がされていることに気づき、ネロの腕前やこだわりが素人の域を超えていることを悟った。
初対面のネロに対してヒースは緊張気味、シノは警戒心満載だったがおでんで一気に絆されたらしい。ネロもふたりの食べっぷりに大いに満足した様子だった。
「一応、ざっくりと決めておきたいんだけど」
そう言ってネロがスケジュールを提示する。
朝食は七時、昼食は十二時、夕食は十九時。ネロの気が向いた日には十五時におやつ。
午前中は各自の部屋で勉強、寮の管理人もいないので昼食後には自分たちの使うところだけでも掃除。最低限決めておかないとただ無為に過ごすから、ということだった。居残りの際にはいつもそうやって過ごしているらしく、特に他三人に異論はない。
翌朝、これもまた仕込んでおいたというフレンチトーストの朝食を食べ終わった後、皆が自室に引っ込んだ。
二時間ほどしてヒースクリフからメッセージが入っていることに気がつく。スマホを見なくて気づかないならそれでいいと思ったのであろう、数学の課題についての質問だった。
これは直接話した方が早いと思い、部屋に行くとメッセージを送る。ではお礼にコーヒーを淹れます、と返って来たため、ふと思いついてネロの部屋のドアをノックしてみた。
「ネロ、ヒースがコーヒーを淹れてくれるっていうけどどう?」
返事が返ってこない。もう一度大きな声で呼ぶがやはりしんとしている。
メッセージを送ってみたくとも、自分はネロの連絡先を知らない。
きっと寝ているのだ。そう思ったがファウストはふいにぞっとする。
もしも体調を崩していたらどうすればいいのだろう。普段は同室の者がいるし、管理人もいる。だが、居残りをしている今は気を遣った結果、実は体調不良の者をそのまま放置してしまった、などという可能性もあるのだ。
飛躍した考えだが、もしも、みすみす死ぬようなことがあったら。こんな壁一枚の隔たりだけで何かが起こっても気づかなかった、なんてこともあり得る。
悪いとは思ったが、ドアノブに手をやる。かけ忘れていたのか、鍵はかかっていなかった。
そっと中に入ると、こざっぱりとした部屋の中、ベッドでネロが寝こけていた。胸が上下し、穏やかな寝息が聞こえる。
ファウストはへなへなと床に座り込む。気配に気づいたのだろう、その目が緩慢に開いた。
「ん〜? どしたの、ファウスト……」
「どうしたのは君の方だろう。午前中は勉強、と言ったのは自分のくせに……」
ファウストが部屋に入ってきてもあまり頓着してないネロにますます脱力してしまう。そのときふと、無造作に床に落ちた紙切れが目に入った。
「あ」
「きみ、これ……」
模試の結果だった。見ようとしたのでなく、目に入ってしまったのだ。
さんざんたる点数に見事にE判定が並ぶ結果にファウストの血圧が一気に上がった。
「おい君、三年生だろう!? しかも年末にこの結果って、もしも最初から浪人のつもりだとしても今寝ている場合なのか!?」
思わず大声を出してしまったところで、ネロがわたわたと手を振った。
「わーーー、タンマタンマ! 俺、大学には行かねえって!」
「え?」
学園は進学実績が良いと全国的にも名高く、就職の生徒もいないわけではないが珍しい。ファウストの想像の中でもネロの言葉は想定外だった。
聞くと、ネロは卒業後この穀雨寮の管理人のひとりになりここに住みながら主に食事を担当する予定だという。
「街のレストランのバイトと掛け持ちして、実地経験積みながら調理師免許の取得を目指すつもりで、まあいつかは飯屋でもやりたいなって。うちの学校模試は強制だろ? だから仕方なく受けて、そのへんに適当に捨てたの忘れてたんだわ」
「事情はわかったけれど、じゃあ午前中は勉強っていうのは……」
「いやあ、勉強する気だったんだけど、今日は朝食の準備に時間がかかって疲れちまって」
「さっき朝食の席でフレンチトーストは焼くだけだったから楽だったと言っていなかったか」
「……居残りしているからってずっと同じ部屋にいても疲れるだろ? そう決めておいた方が部屋に引っ込む口実になるかなって」
ファウストはため息をついてしまった。呆れたのではない。その思考はわかる部分もあるな、と思ったのだ。
「正直に二度寝したいから寝ると言えばいいし、ちょっと人といるのがしんどいから部屋に戻る、と言えばいい。僕もヒースもシノもそれを受け入れられない人種じゃないよ」
ファウストは少しの手伝いではあるが生徒会の活動に参加している。次期生徒会長と目されるヒースとも、その幼馴染で生徒会にちょくちょく顔を出すシノとも面識があったが、ネロとはこれまで面識がなかったので警戒するのは無理もない。
だがそれにしたってこれから一緒に過ごすのに、人前から姿を消すのにわざわざ理由を探すのも疲れるだろう。そう思って告げたのだが、ネロは肩をすくめた。
「だって、この学校で就職なんて珍しいし、あんたたちは勉強するだろ? 四分の一がグースカ寝てたら腹立つかなって……」
もごもごと言うネロにファウストは難儀な性格だな、と目を細めてしまう。
「じゃあ、きみも勉強するか」
「はっ?」
「模試の点数、いくらやる気ないって言ったってひど過ぎるだろう。フィガロから聞いたけど、きみ、休み明けに追試あるんだろう? 落ちたら就職決まってても留年するよ」
「げっ、なんでそれを……フィガロと仲良いの?」
「最悪の悪口だよ、それ。生徒会の顧問だから、否応なしに関わりがあるってだけ」
午前中はリビングでみんなで勉強。午後は掃除の後各自で自習。
改めてそう決まったスケジュールにネロは肩を落とした。ファウストは慰めるように言う。
「ちょうどいい、シノもひとりにしておくとジョギングだ筋トレだと言って勉強をサボるからね、みんなで勉強しようじゃないか。それに、ヒースがコーヒーを淹れてくれるよ。君と話がしてみたくて昨日からそわそわしているのさ」
「わかりましたよ、『先生』。じゃあまあ、ご相伴に預かりますか……」
新たな呼称で呼びかけられながら、ファウストはネロと連れ立ってリビングへと向かった。
3
嵐がやってきたのはその日の夜だった。
夕食のしょうが焼きを食べていたときに、派手に扉を開く音がした。
「ばーーーーん!」
大声を上げながらリビングに現れたのはラフな格好をしたおかっぱ髪の男だ。ネロが頭を抱える。
「ムル……」
「あれぇ、今年は人がいっぱいいる!」
ファウストもその名前に顔をしかめ、他のふたりは初対面の珍入者に目を丸くした。
「ムル? って、あのムル?」
「噂で聞いたことがある。天才で狂人だと」
「おい、本人を目の前にして言うんじゃない」
卒業生ムル・ハートは、一年生のふたりだけでなくファウストとも在学年がかぶっていない。だが、数々の伝説は嫌と言うほど耳にしていた。
チョコレートをカカオから作ろうと校舎の裏庭で栽培しているとか、DNAをいじった動物を敷地内に放ち生態系を壊したとか、グラウンドで手作りした気球を飛ばして落下して怪我をしたとか、真偽がわからないものばかりだがそのどれもについて「あいつならあり得るだろう」と上級生たちが口を揃えて言うのだ。
神童と呼ばれ、幼少期から国内、海外の研究機関に協力しているという噂もあった。卒業後は海外の大学で宇宙工学を専攻しているらしい。
ファウストはシノを諌めたが、当のムルはにこにことしている。
「ぜーんぜん、気にしなーい! そういうきみたちはなんで寮に残ってるの? 帰るところないの?」
ムルの一線を越えた問いかけで、空気がピンと張り詰める。シノの言葉に意趣返しをしたというわけでもなく、本当にただ疑問に思ったから聞いた、といった感じだった。しかし内容が内容だけに、無邪気だから許されるというわけでもない。
「オレは里親に養育されている。他にもガキがたくさんいて、オレが帰れば少しの間とはいえその分食い扶持が増える。だったらここにいた方がいい」
答えなくてもよい、とファウストが言おうかとしたところで先にするりとシノが言った。ヒースは知っていたのだろうが、ネロもファウストも驚きを持ってシノを見つめてしまう。ムルは「へえ!」と言って今度はヒースに向き合った。ヒースはどぎまぎとしながら「あ、いや……ええと……」と言葉を探し始めた。シノが不服そうに言った。
「帰ればよかっただろう。旦那様も奥様もお前が帰って来るのを待っている。年末年始はグループ関係のパーティーもあるんだろう?」
「そんないいものじゃないよ。その……寮の方が楽しそうだったから……」
消え入りそうな声になっていくヒースを、ムルは面白そうに見ていて、それがまたヒースの焦りをふくらませていくのを感じる。ファウストが割って入って自分の理由を言うべきか、それともムルに物申すべきか、火に油にならないだろうか、と考えていると、一旦姿を消したネロがいつの間にか立っていた。手にした皿には作ってあったのか、カボチャのキッシュが乗っている。
「ほらよ」
「わーい! あっちにいたら、ネロの料理食べたくて食べたくて!」
いただきます! とムルがぱくぱくとキッシュに夢中になる。ファウストがネロを見遣ると、今度はスマホを手にして何やら操作をしている。そして「今、『保護者』呼ぶから」とファウストに囁きかける。それが文字通りの保護者ではないことは察せられて、ファウストは頷きつつ尋ねる。
「ずいぶんと勝手を知っているようだが、ムルも居残り組だったのか?」
「いや、あいつは寮生じゃないよ。実家がすぐ近くなんだ。ほぼ入り浸りで、寮でも数々の騒ぎを起こしてた」
「自家製ビール醸造してたって聞いたぞ。寮のあちこちにまだ残ってるらしいって」
「ワインも梅酒も隠してあるよ! 教えてあげよっか!」
口元をキッシュのかけらだらけにしながら、ムルが声をあげた。シノの目がきらりと輝く。「酒税法!」とファウストが一喝し、ヒースが「『二十歳未満』の方は……?」と苦笑した。ネロがぱたぱと手を振る。
「やめとけやめとけ。ビールは失敗していて飲めたもんじゃなかったよ。よく居残り組でアナログゲームやって、最下位のやつが飲むっていう罰ゲームのネタにしてた」
「懐かしい! 『告白と実行』!」
ムルが叫び、他の三人が説明を求めてネロを見た。
それは、居残り組やムルのような珍入者で人数が多いときにやっていた遊びらしい。談話室にあるアナログゲームを行い、最下位になった者は「告白」か「実行」を選ぶ。「実行」ではゲームの最上位者の言うことを必ずきかなければならず、よく失敗した自家製の飲み物を飲まされていたという。「告白」はいわゆる『黒歴史』のような面白い、当人にとっては恥ずかしい話を披露する、というものだ。
「消し炭を食べろって『実行』とか、たまに思い出して頭を抱えて叫び出したくなるような思い出を教えろって『告白』とかな。エグかったもんだよ」
「ブラッドリーがいたときは金銭賭けてた!」
ネロの説明の後でさらりと言ったムルに対し、ファウストが「誰?」とネロの方を向いたところで、寮の玄関からチャイムの音が聞こえた。ネロがさっと飛び出して行く。
「ムル。帰りますよ」
現れたのはどこか浮世離れした雰囲気を纏った長髪の青年だった。
「ムルの幼馴染のシャイロック。二年前にはここの寮長だった」
短くネロが説明している間に、シャイロックは何やらムルを言いくるめている。
「かつてのOBがやってくることほど、若い人の迷惑になることはありませんよ。さあ」
「うん! ネロのごはん食べたら満足した!」
シノとヒースは明らかにほっとした顔になる。だが、シャイロックが振り向くとにっこりと微笑んだ。
「ところでネロ。私も久しぶりにあなたの料理が食べたいのですが」
ええ、仕方ねえな、と言いながらもネロがキッチンへと消えて行く。シノとヒースはムルから梅酒ではなく、梅ジュースを隠した場所を聞き出そうとしているようだった。
「ネロは繊細でしょう? うまくやれそうですか」
いつの間にやら、シャイロックがファウストの横に立っていた。
「ネロとは親しいのか?」
「ええ、私も居残り組で、彼の料理にはずいぶんとお世話になりました。だから心配しています。今年こそ卒業できるといいんですが」
「え?」
ファウストはシャイロックを見つめ返す。同じ寮に住んではいるが、人数が多いしファウストはそれほど社交的でもない。そういえば留年した者もいる、と聞いたことはあったが、それがネロだとは知らなかった。
シャイロックは人差し指を唇にあてて艶やかに微笑んだ。あちらが秘密を開示したからと言うわけではないが、特に口止めもされていないのでファウストは今朝方聞いたことを伝えた。
「……春からはこの寮の管理人になる、と聞いた。卒業の目処は立っているんじゃないか」
すると、シャイロックは眉をひそめた。
「ここに就職を? それはないですね」
「なぜわかる?」
「私は理事長の孫です。卒業生、しかも寮生を雇うつもりなら、非公式ですが人柄や評判など、問い合わせを受けますが、今のところは何も聞いてはいません」
ファウストは無言になった。目の前の人間が学校の経営者の血縁者ということにも驚いたが、ネロがついた嘘もわけがわからなかったのだ。いや、まだ嘘だと決まったわけではない、シャイロックが聞いていないだけかもしれない。そうファウストが考えていたところで、シャイロックは「私は経営学を学んでいます。ゆくゆくは跡を継ぐつもりですので、そういった内内のことも聞いているんですよ」と言ってきた。発言の信憑性が増し、思わず渋い表情になってしまう。
シャイロックはファウストの顔を見て「本当に困ったお人ですね」と微笑んだ。
そのとき、ネロが再びカボチャのキッシュの乗った皿を手にして戻ってきた。
「先生、シャイロックと何話してんの?」
「あなたの悪口を、少々」
「え」
「きみに料理をねだるコツを教えてもらっていたんだ。ちなみに僕は明日の朝ガレットが食べたい」
さっとファウストが言う。ごまかすにしても冗談にしても「悪口」という物言いではネロは疑心暗鬼になりそうだと思ったのだ。シャイロックはファウストのフォローも折り込み済みだったのか「ええ、ストレートに頼むのが一番いいです、とお教えしていたんです」とさらりと付け加えた。
「ガレット? わかったよ」
「そば粉があるのか」
「あるある」
幸い、ネロは特に疑問にも思わなかったらしく頷いてみせた。そのまま、シャイロックはムルを引き連れて帰って行ったが、ファウストはシャイロックからもたらされた情報をどう扱うべきか持て余してしまった。
解散して、まだ若干ひとりであることに慣れない部屋で、ネロのこと、その進退についてを考える。
また留年するのか、卒業するが就職しないのか、ここを出てどこへ行く気なのか。
そういったことを尋ねるほどの間柄ではないし、この居残り期間が終われば終わる関係だ。これまでほとんど関わってこなかったのだから、居残りの期間で多少親しくなったとしてもその後はせいぜい廊下で会釈するくらいだろう。自分とネロの性質的にも。
まあ、とりあえずは頭の隅に置いておくことしかできない。そう考えているうちに眠りについていた。
4
次の日、ファウストが先生役になっての勉強会が始まった。午前中だけ、午後は自習という話のはずが、シノとネロの出来が良くないために午後にも課題が与えてみっちり絞る羽目になってしまった。シノはさっさと終わらせたいがために即物的なやり方を求め、それをファウストが諌める。その間にネロはぼうっとしていて、真面目なヒースクリフはおろおろとしていた。
夕方になってそろそろ飯の仕込みを……と言ってネロが席を立ったとき、シノがずるいと喚き、夕飯の間もずっとむすっとしていた。キムチ鍋をつつきながらもシノは撫然としたままだった。
仕方がないので夕食の後はみんなでアナログゲームをすることになった。シノの機嫌を取ろうと思ったのである。すると、シノは「あれをやろうぜ」と言い出した。
「告白と実行。ムルが言っていたやつだ。何かゲームをやって、一番負けたやつがどっちかをやる」
「わかったわかった」
他の三人が仕方なしに承諾し、談話室に移動した。普段は人でごった返している談話室も、今は四人で伸び伸びと使える。シノに好きなゲームを選ばせてやることになった。
彼が棚に並んでいるアナログゲームから選んだのはお化けや赤いソファ、緑のビンに青い本、灰色のネズミの小さなマスコットを使うゲームだった。カードをめくり、任意のものを素早く取るゲームだ。反射神経の良いシノには有利そうだ。
だが、予想に反してシノは苦戦した。カードを見ての判断が速いファウスト、手が素早いネロ、着実なヒースクリフにどんどん推されていく。結局負けが込んだのは言い出したシノだった。
むすりとしたシノはしかし、「自分が言い出したことなのでちゃんとやる」と宣言する。ネロはにやりと笑った。
「それじゃあ告白と実行、どっちにする?」
「実行なら明日五時間は集中して勉強してもらおうか」
「ご、五時間……先生厳しい……」
「『告白』にする」
シノが叫ぶように言って、ヒースが苦笑いする。なんだかんだと打ち解けてきたような空気に、ファウストも軽くため息をついてソファに身を沈めた。
そのとき、ネロが挙手した。
「あのよ、この告白と実行をよくやっていた者としてひとつ提案があるんだ」
「何だ?」
「告白にひとつ、嘘を混ぜてくんねえかな」
シノがきょとん、とネロを見つめる。ネロは苦い顔をしながら言った。
「昨日のムルを始め、居残り組っていうのは変なやつが多くてよ。おっと、あんたらがそうだって言いたいわけじゃないんだが……告白のスケールが俺みたいな凡人じゃついていけないことが多いわけ。先月教師が辞職したのは私が誑かしたからですとか、学会で気になったことを質疑応答したらその教授がノイローゼになっちゃったとか、街角で喧嘩売られて避けただけで相手がすっ転んで負けましたって言われて見逃してくれって有金押し付けられたとかさ」
突拍子もない例に他の三人は言葉もない。
「だから、一つ嘘を混ぜてほしいわけ。どっかに嘘があると思ったら安心して聞いていられる」
ネロの心配はわかる気がした。秘密の告白は重いものだ。告白した方はすっきりするかもしれないが、それを背負わされた方はたまったものではないだろう。ファウストもそれがいいと思ったし、ヒースも異論はなさそうだった。
シノは「わかった」と言って頷く。話の順序でも考えていたのか、逡巡した後話し始めた。
「……オレが里親に養育されている、というのはこの間言ったよな。これはオレがオレを産んだ母親と暮らしていたときの話なんだが」
シノが語り始めた物語に、空気がピリ、とする。ヒースは顔を強ばらせ、ネロは明らかに困った顔になっている。
ファウストも不味い、という気持ちになった。
おそらく、かつて行われていたこの「告白と実行」ゲームの告白は、例えば卑猥な言葉を別の意味に取り違えていて大勢の前で恥をかいたとか、そういうものが望まれているのだろう。他の者に話されて「こいつやべーよな」と指差して笑われることになっても、まあギリギリ許せるレベル、というものを本人が見極めて話す。そして笑って終わるはずだったのが、予想よりもシノが話そうとしている話が重いような気がしたのだ。
だが、ストップ、というのも気まずい。ファウストがどうすべきか悩んでいるうちにもシノの話は続いた。
「オレは、里親の家に来るまで冷蔵庫には冷凍室っていうのが普通はついてることを知らなかった。何せ母親と一緒に暮らしていた家には、小さな冷蔵庫しか家電製品がなかった」
シノの顔色も口調と平然としたものだった。重い話に思えてたどり着く先はそうでもないのかもしれないし、「そんな話は聞きたくない」というのも失礼な話のような気がした。
ふと百物語を思い出す。
話し始めてしまえば、物語を止めることはできないーー。
「父親のことは知らない。母親以外の家族に会ったこともない。オレは物心ついたときから母親とふたりだけで暮らしていた。田舎の、近くに店もない、ボロいアパートの二階の狭い部屋で、オレは毎日毎日重たいランドセルを背負って、踏み抜いてしまいそうな階段を降りて学校に行ってた。母親はいつも疲れてた。なんか、役所からの援助とかも頼めばあったのかもしれないと思うんだが、オレが知ってる限り家に他人が来たことはなかった。母親はいつも、オレのことを見ているんだ。寝ているときにもじっと。お前さえいなければ、って声が聞こえてくるようだった」
シノは一節一節、区切るように話した。いつも自信満々にヒースを揶揄っている彼からは考えられないほど慎重な語り口だった。ファウストは話がどこに向かっているのかわからぬまま、やはり不味い気がする、という気持ちだけを抱えていた。ヒースは緊張したように、膝の上で手をぎゅっと握っている。
「小学校二年生の誕生日の日、夕飯は揚げたてのコロッケだったのを覚えている。確かカニが入っていた。夜になって母親はテーブルに座って、じっと、何かを考え込んでいるようだった。オレはなんだか不安に思いながらも眠りについた。朝起きたら、母親はその姿勢のまま同じ場所にいた。オレは見てはいけないものを見てしまった気がして、慌ててランドセルを背負って家を出た。学校に行かなきゃ、と思った。ここにいてはいけない、となぜか思ったんだ。若干早足でオレは家を出た。階段に差し掛かったとき、背後で音がした。母親がオレの後から家から出てきたんだ。待ちなさい、と言われた次の瞬間、オレは空中にいた」
シノが一旦言葉を止める。
ヒースが青冷め、ネロがじっとシノを見ていた。やがて、すうと息を吸うとシノが再び話し始める。
「次に目を開けたら空が見えた。オレは階段を転げ落ちたらしく、頭と背中がとんでもなく痛かった。首を動かすと、母親が信じられない、という顔をして二階の階段の上に立っているのが見えた。一階の住人や通行人がやってきて、口々に心配していく。ああ、突き飛ばされたんだ、と思った。目撃者がたくさんいて、オレは母親と離されることになった」
しん、と沈黙が落ちた。シノがすいとヒースを見る。
「オレは、実の母親にすら邪魔に思われるようなやつだ。オレはヒースの活躍を近くで見たいと思ってはいるが、おまえと並び立つのは嫌だ。そんな人間じゃない。お前の隣には立てない」
「シノ……」
ヒースクリフがショックを受けた顔をしている。ファウストはふたりを交互に見遣り、ネロは顎に手をやったまま黙っていた。
5
「先生はさ、昨日のシノの話、どこが嘘だと思った?」
ネロはテーブルに肘をつき、ファウストに向かって尋ねる。ファウストはたった今し方目の前の彼にやらせた小テストの丸つけをする手を止めた。
昨日の「告白と実行」は歯切れが悪いまま解散となった。そして一番早く起きて朝食を準備したネロによると、シノは朝食だけはしっかりと食べて走りに行くと言って出て行ったきり、午前中の学習をすっぽかした。ヒースクリフも今日はちょっと、とスマホで連絡してきて部屋から出てきていない。よってネロとファウストはふたりだけで朝食を食べ、授業をしていた。
どうやら勉強に飽きたらしいネロの問いに答える気になったのは、ファウストも同じことを気にしていたからだった。
「……きみの提案に対して、『わかった』と言ったところ」
ファウストの言葉にネロが目を見開く。
「『嘘をひとつだけ入れる』っていう提案を承諾したのが嘘ってこと?」
「ああ。嘘はひとつも入れていない、全部本当なんじゃないかと思っている」
ファウストの言葉にネロはふうん、と顎と口を手で覆う。何かを考えているらしい。お茶でも淹れよう、と言ってファウストは立ち上がった。するとネロが「俺が」と言って立ち上がりかける。
「食事関係はきみに任せきりなんだからこれくらいはさせて」とファウストが言うと彼は大人しく座った。キッチンで茶器を用意していると「棚にクッキーあるよ」と声がかかる。見てみると、誰かが実家から帰省した際のお土産の缶に、手作りらしいクッキーが入っていた。器用な男だな、と思う。
ファウストが茶葉を見繕っていると「うーん」と唸り声が聞こえた。
「なーんか、しっくり来ねえっていうか」
「ふうん?」
「一日二日の付き合いだけどさ、シノってすげー素直じゃん」
「そうだね」
「条件に対して、そんな捻くれた解釈するかね。……あっ、あんたが捻くれてるって言いたいわけじゃなくて」
「いいよ別に。そうだな、きみの言いたいこともわかる」
ファウストは水をいれた薬缶を火にかけた。つまみを回すとボッと音を立ててついた火をじっと見つめながら言う。
「そもそも昨日、『告白』をシノがすることになったのは、それがシノの狙いだったからだと僕は考えている」
「ん? そうなのか?」
「やっている最中はさすがに気づかなかったけどね。シノがああいう反射神経が勝負のゲームで負けたことが既におかしかった。得意であれば勝率をいじることもできるだろう」
ピンと来ていないらしいネロに、ファウストは告げた。
「いや、きみが納得いかないのも無理はないんだ。僕はシノがああいうことをヒースに言いたがっていたことを知っている、というだけ」
解答を見てやり方を考えるみたいなことだ、と言うとちょうど薬缶の中のお湯が沸騰した。湯を注いだポットとカップ、そしてクッキーを皿に盛って盆に載せ、ネロのいるテーブルまで運ぶ。
ふたりで紅茶を飲みながらファウストは説明する。
「実は、来年の生徒会長はヒースが務めることになりそうなんだ。本当はアーサーにやってもらうという話があったんだが、彼は実家がごたごたしいるらしくて」
「へえ? アーサーは知ってる。あの立ち振る舞いが王子様然としているやつだろう。今の生徒会長は顔はわかるんだけど名前がわかんねえや、あだ名が賢者、だっけ? あの見るからに人が良さそうなやつだろ。ていうか詳しいな、ファウストって生徒会入ってんの? 」
「僕はただの手伝いだよ、正式には入っていない。目立つのは好きじゃないんだ。……それでまあ、ヒースに声がかかったわけだが、彼は優秀だが奥ゆかしい性格だからね。自分ができるのか、と不安らしく即答しなかったんだ。シノはお前ならできると断言したんだが、だったら副会長をやってほしいとヒースがシノに提案してね。ヒースは正確な仕事をするが、対外的に強く言われた場合うまく反応できないこともある。そこに物怖じしないシノが隣にいてくれれば確かに良いだろうと周囲も賛成したんだが、とうのシノが見事にきっぱりと断ったんだ」
俺はヒースの活躍を間近で見たいから生徒会の手伝いをしているだけで、ヒースの隣に立つなんてとんでもない。
何を当たり前のことを、という態度でそんなことを言ったシノに周りは困惑し、ヒースは激昂した。ヒースクリフが怒るところを生徒会の面々は初めて見て度肝を抜かれたのだ。
「それでふたりは大喧嘩してね、まああれから二、三週間は経ったから仲直りしたんだろうと思っていたんだが、冬休みにここにいる間は停戦しただけなのかもしれない。生徒会長の件は保留のままになっている。普段からシノは仕事をすれば褒めろと威張ってくるんだが、最後には必ずヒースの方を立てる。ヒースは普通の友人としての関係を望んでいるようなんだが、シノはまるで自分を家来のように扱えと要求してたまにすれ違っているんだ。なんでも、シノがいる里親のところに資金援助しているのがヒースの家らしくて、そのへんが関係しているんじゃないかと」
「先生詳しいな、ホント」
「いや、本当は全然知らなかった。僕は基本的に引きこもりだからね、最低限の関わりしか持っていないし情報も入れないようにしていた。昨日ルームメイトに連絡することがあったんだが、彼も生徒会の手伝いをしているから、ヒースとシノがまた喧嘩したことをついでに伝えたたら教えてくれただけだよ。本人の口からでなくいろいろ聞くのは心苦しくもあったんだが、里親とヒースの実家との関係なんかは、むしろシノが自分から誇らしげに吹聴していたらしい」
ファウストは紅茶を口に含んだ。しゃべっているうちにぬるくなった紅茶がほんのりとした苦味を持って喉を潤していく。
普段寮にいても、ファウストは極力部屋から出ない。ルームメイトが旧知の仲のレノックスなのは本当にありがたかった。ルームメイトの人選について、自分の過去を知るフィガロあたりが口添えをしたのではと考えてたまに苦々しくなるが、感謝などしてやる気はさらさらなく淡々と利益を享受している。寮生ともクラスメイトとも最低限の関わりしか持ってこなかった。普段は一日中誰とも話さなかったという日もあるくらいだが、この冬休みの居残りで関わる人数は極端に少なくなったはずなのに、一日あたりにしゃべる量はむしろ増えているような気がしてなんとなくちぐはぐな気分だった。
「……まあ、というわけで僕は、シノはヒースに、隣に自分が立つことをあきらめてほしいと思っている、と考えているんだ。ヒースと並んで立つにふさわしい人間じゃないと伝えたかったんだろう。シノはあの話をヒースに聞かせたかったんだろうし、最後に言ったことをヒースに言いたかった。だからわざと負けてあの話をする機会を作ったんじゃないか、というわけだ」
紅茶の入ったカップをソーサーに置く。ネロはなるほどねえ、と言って口に自ら作ったクッキーを咥えると、行儀悪く椅子の重心を後ろに傾けてぐらぐらと揺らし出した。どうもまだ怪訝な顔をしている。
ファウストもネロのクッキーを摘む。ほろりと溶けていくような口溶けがたまらなく美味しい。正直売っているものよりも好みだった。
「きみ、お菓子もいけるのか……」
「ん? いや、前はそんなでもなかったんだけど、居残り組にすげー甘党がいた年があって、『実行』でなくてもずっと菓子を作らされて」
「作らず買ってくればよかったんじゃないか?」
「最初はケーキとかアイスとか買って来いって命令だったんだよ。でも、年末年始って店閉まるだろ? 懐も痛むし作って出すようになった。もっと甘くしろとかさんざん悪態つかれたけど注文きいているうちに腕は上がったな。そりゃ手間はそれなりにかかるけど……」
ネロは話しながら何かを考えているようだった。やがて「うーん」と唸る。パンを捏ねるように空中で手を動かしていたかと思うと、やがてぱたりと手を下ろした。
「やっぱさあ、おかしいと思うんだよな」
「何が?」
「シノの話。全体的に違和感があるんだよ。だってさー、カニクリームコロッケだぜ」
揺れていた椅子の足を床につけ、だん、とネロがテーブルを拳で叩いた。何の話だ、とファウストは眉をひそめる。ネロはなんでわからないんだともどかしそうに言った。
「言ってたじゃん、夕飯は揚げたてのコロッケだったって。カニが入ってたならたぶんカニクリームコロッケだろ」
ファウストは記憶を探り、確かに言っていた気はするが、と困惑して言った。
「それが何?」
「先生、カニクリームコロッケ作ったことある?」
「ないが……」
「すっげえ、面倒なんだよ」
促音に力を込め、真剣な表情でネロは言う。ファウストは彼の言わんとすることがわからない。ネロはだらしなく肘をつきながら、しかし鋭い目つきでファウストを見た。
「子どもにいなくなってほしい母親がさ、誕生日にカニクリームコロッケ作る?」
ネロの琥珀色の透き通った瞳がファウストを映す。
ファウストはなんとなく、生唾を呑み込んだ。
「それは……」
ふたりで見つめ合っていると物音がした。一旦廊下へ目を向けて、もう一度ふたりで見つめ合う。
そのときガチャ、と音がして廊下とリビングをつなぐドアが開く。そこにはヒースクリフが立っていた。
「先生、ネロ……」
昨日の夜、シノの言葉を聞いてどこか泣きそうだったヒースクリフは、今やきりりとした顔をしていた。
「お願いがあるんです」
6
夕方に帰ってきたシノは、一日中身体を外で動かしていたらしい。風呂から上がってきて「腹が減った」と騒ぎ立てた。すっかりシノの調子はいつも通りで、ヒースクリフがそわそわとシノの様子を伺っているのに気づいていてもあえていつも通りを通しているようだった。
ネロの作った食事をぺろりとたいあげられた後、ヒースが決意を込めてテーブルから立ち上がった。シノが彼に視線を向けると、ヒースクリフが箱を差し出した。
「シノ。俺と勝負してほしい」
それは談話室にあったアナログゲームだった。昨日のものとは異なり、一対一のふたり用のゲームだ。
「先に三回勝った方が勝ちだ。もしも俺が負けたら、俺は『実行』する。シノが副会長にならなくても、俺は生徒会長になる」
「……オレが負けたら?」
シノが静かに問いかけた。ヒースがふるりと首を振ると「それは勝ったら言う」と言った。シノはじっとヒースクリフを見つめた。
「ずいぶん自信があるんだな。……いいぞ」
皿洗いをしていたネロと、ふたりの会話を聞いていたファウストは視線を交わした。談話室に場所を移し、ふたりは相対する。
ゲームは将棋のように並んだお化けの駒を進めて相手側の陣地に入りゴールを目指すというものだ。お化けの駒は全部同じようでいて、実は本物と偽物があるのだが、印は背中についているだけなのでお互いに見えない。ゴールするのは本物のお化けの駒でなければならず、偽物でゴールしても勝利にはならない。向かい合った相手のお化けの駒は取ることができるので、もしそれが本物のお化けの駒なら相手のゴールのチャンスを潰すことができる。本物のお化けの駒がゴールするか、相手の本物のお化けの駒を全て取るか、逆に偽物の駒を全て取ってしまうかで勝利が決まる。
取った駒が本物か偽物かで残りの本物と偽物の数を推理し相手の手を読む、心理の読み合いと論理的思考の必要性が合わさったゲームだ。
論理的思考が得意であろうヒースクリフにとって有利なゲームに思えたが、勝負の勘が鋭く、攻めるべきところで攻められれるシノが案外押している。お互い二勝二敗、最後の勝負にもつれ込んだ。カチャカチャと駒を動かす音だけが響く。
食後のコーヒーを運んできたネロが、向かい合っているヒースとシノの傍らにカップを置いた。少し離れたソファにもたれているファウストにもカップを渡して隣に腰掛ける。ちらりと戦況を見ると声をかけた。
「そういやさ、シノ。今日の夕飯どうだった?」
「うまかったぞ」
シノが目を輝かせて頷く。ネロはふわりと微笑んだ。
「そっか。そりゃよかった、そう言ってもらえると報われるよ。作るの面倒なんだよな、カニクリームコロッケって」
ネロは肘をついて殊更に何気なさを装って言った。
「お前のお袋さんも、よく作ったもんだと思うよ」
「……」
シノがすっと無表情になった。対してネロは飄々と続ける。
「シノ、昨日家の近くに店がなかったって言ってただろ。スーパーもコンビニもないならコロッケを惣菜コーナーで買うこともできないよな。冷凍食品かな、と思ったけど冷蔵庫しか家電がなかったって言ってたし、電子レンジもないってことだろ。揚げる冷凍のコロッケもあるけど、冷凍庫がないならそもそも保存できない。ということは手作りだったってことになる。カニクリームコロッケを手作りだぞ。もちろん、たかがひとつのメニューで人となりを決めることなんてできないし、人間、追い詰められたら何をするかわからない。だけど俺なら、大事な人に冷たい食事は出さない。逆に温かい手のかかった食事を出すならそれは大事な人だと思うんだ」
シノの動かした駒を、ヒースが自分のターンで取った。くるりと回されたお化けの駒、その背面には本物を示す印が付いていた。ヒースの手元には、既に本物の駒が積み上がっている。
「俺の勝ちだ。シノ」
ヒースクリフがほっとしたように言った。
シノは苦々しい顔になると、「ネロ、卑怯だぞ」と顔を向けて睨む。ネロはひょいと肩をすくめるに留めた。
「で、オレに『実行』で何をしろっていうんだ。副会長になれって言うのか?」
シノが撫然として言うと、ヒースクリフが首を横に振った。
「こんな回りくどくゲームをして勝って『実行』を指示しなくても、シノはいつも俺に命令されたがっているだろ。でも俺は言うことをきかせたいわけじゃない。副会長をやってくれたら心強いなって思ったから頼んだけど、シノが自分で選んでくれなきゃ意味がないよ」
そうしてヒースクリフはすっと姿勢よく立ち上がり、一度息を吸った。毅然としてシノに向かって言う。
「シノ。『告白』をしてほしい。昨日の話に、嘘は一つだけだった。シノはネロの提示したルールを守ったんだろう。でも、嘘を言わなかっただけで、あれは本当とも言えない話じゃないか?」
シノが黙り込み、視線を床へと逃す。ヒースクリフは動かない。
ぼそぼそと「じゃあどこが一つだけついた嘘だったっていうんだ」とシノが呟く。対してヒースクリフは決然として言い放った。
「ランドセルを背負ったってところ」
シノがはっと顔を上げ、しまったというように再び床を見遣る。ヒースクリフがそっとファウストに目線を投げかけ、ファウストは頷いた。
「……きみはランドセルを背負って家を出たという。なのに、階段から落ちた後頭と背中が痛かったと言っていた。頭は落ちた拍子に手すり等にぶつけたこともまだ考えられるが、背中が痛いというのはおかしい。ランドセルが盾になってくれたはずだろう。だから『本当はランドセルを背負ってなかった』んじゃないか、と考えた」
ファウストは午前中に授業をするときのように懇々と話して聞かせていった。三人の生徒たちは優等生のように聞き入っている。
「『背中が痛かった』というのが嘘なのかとも考えた。そうすると『ランドセルを背負った』は本当ということになる。でも、ランドセルを背負っていたなら母親が家から出てきて、きみに待ちなさいと言う理由がなくなるんだ。ランドセルを背負っていなかったから、母親はきみにカバンを忘れていると声をかけるために家から出てきたんだ。さて、そうなると、なぜ幼いきみはランドセルを背負わなかったのか?」
まるで犯人を追い詰める探偵のように、ファウストはすっと人差し指を真っ直ぐに立てた。それをゆらゆらと揺らしながらさらに言葉を紡いでいく。
「きみは言った。役所からの援助も頼めばあったのかもしれない、と。もしかしてきみは、幼いながらに自分の家のような家庭には何らかの援助がなされると知っていたのではないか? そして考えた。どうすればその助けが得られるのかと。それで、虐待されていると思われればいいと思った。ランドセルを背負って階段を落ちてもたいした怪我にならないと考えたきみは、ランドセルなしに自分から階段から落ちた。母親が背後からランドセルを忘れていると声をかけるために、自分を追いかけてきたタイミングを見計らって、虐待されたと思われるように」
「……母親は、誤解を解こうとしなかった」
ぽそりとシノが言った。
ヒースが目を見開き、ネロが息を吐き出す。ファウストは視線が合わないシノを見つめた。
「『ぎゃくたい』されているなら家から連れ出されて他のところに連れて行ってもらえる、とどこかから聞いた。母親は子どものオレから見ても、なんというか……とても頑張っていた。手も上げず、怒鳴らず、毎日働いて、メシを作って、掃除をして、洗濯をして、オレの勉強を見てくれていた。だがオレにはよくわかっていた。母親がとんでもなく無理してるということが」
シノの両手が握りしめられている。爪が食い込むように、その手が力を込められすぎて白くなっているのが見えた。
「母親のため、なんて綺麗な理由じゃない。オレはもっと腹一杯毎日メシが食いたかった。新しい服だって欲しかったし、クラスメイトのようにゲームだって欲しかった。でも母親は虐待なんてしない。誕生日には精一杯豪華なメシを作ってくれたし、ずっと家計のやりくりを考えて夜も眠らないほどだった。オレは知っていたんだ。母親が頑張っている限り、助けは来ないって。だから、虐待されていることにしよう、と思った。母親はオレが階段から落ちたことにパニックになっていたが、やがて疑われていることに気づくと狼狽し始めた。そしてオレと目が合うと、オレがやったことに気づいて表情を強ばらせた。そうして母親は自分が突き落とした、と認めた。オレの虚言に乗ったんだ。以来、一度も会ってない」
シノはヒース、と呼びかけた。目にいっぱい涙を溜めたヒースと視線を合わせる。
「オレは、おまえに並び立てるような人間じゃない。おまえの隣で会長と副会長として並ぶなんて絶対できないと思った。だって、オレはお前に隠していた。オレはオレのために尽くしてくれた人を平気で裏切ったし、またやるかもしれないってことを。自分がどんなやつかなんて、それをおまえに伝えるのは怖かった。でも、オレにとってヒースは、オレの目の前に現れた、これまでの人生でいっとう素敵なものだったんだ。離れたくなかったし、ずっと見ていたい。だからなんとかこのままの状態でいたかった。そのためにはオレがお前と対等にあるにはふさわしくないとわかってもらわないと思って、嘘でもないけど本当でもない話をした」
「シノ……」
ヒースクリフがふらりと歩き出してテーブルを迂回し、シノの座るソファの傍らに膝をついた。先ほどまでとは逆に、ヒースがシノを見上げる。
「俺は、シノとこれからも一緒にいたい。別に、シノが過去に何をしてようがかまわない。でも、シノが気にしているのをなかったことにしようなんて軽率にも言えない……どうしたらいいかわからないけど……でも、ただ友達でいたい。それだけはわかってほしい」
固く握られたシノの拳を、ヒースが開いていく。こくりとシノが頷いた。
その後ろで、ちょいちょい、とネロがファウストの肘を取る。ファウストはちょっと微笑んで笑い返す。
「じゃあ、おふたりさん。明日の朝食の時間には遅れんなよ」
「明日は今日の分もしっかり勉強するぞ。おやすみ」
あっとヒースが声をあげて「ありがとうございました」と礼をする。シノはぼんやりとふたりを見ていた。ふたりは静かにリビングを後にする。
「はあ。なんとかなったな。ヒースが勝ってくれないと『告白』を指名できないからちょっと焦って口出しちまった」
「よかったと思うよ。ヒース、練習よりも少し緊張していたから、あのままじゃ危なかったかも」
シノの話に違和感があったが、どこなのかがうまく指摘できない、口を割らせるために協力してほしい。
そう言ったヒースに対し、ネロとファウストは全面的に協力した。三人で昨日のシノの話を思い起こし、おかしなところを推理した。さらに、ヒースがシノに勝てそうなゲームを選び、夕方までひたすら研究したのだ。ネロは途中から頭脳労働はお任せとばかりにわざわざ材料を買いに行き面倒と自ら言ったカニクリームコロッケを作っていたが。
「後はまあ、あのふたり次第だろう……しかし、カニクリームコロッケというのがあんなに面倒だとはな。おいしかったが」
「ははっ、まあ自分で言い出したことだけど、検討外れでなくてよかったよ。俺なら大事な人に冷たいごはんなんてださねえけど、温かいごはんを出すからって大事にしているとも限らねえしな」
ファウストは少し驚いてネロを見た。やはりどうにもつかみどころのない男だった。とうのネロはふいににやりと童話の中の猫のように笑った。
「先生、この後俺の部屋で一杯どう? ヒースクリフがムルから聞き出して見つけたっていう瓶譲り受けたんだよね。赤!」
「え、ジュースの場所を聞いてたんじゃないのか?」
「それが、開けてみたらどう味見してみてもワインでさあ。ムル自身どこに何隠したかもうわかんなくなってんだろ」
「なるほど、僕たちたちは寮内で見つけた正体不明の飲み物を飲んだだけ、と……」
「そうそう。先生って真面目そうだけど話わかるよなあ」
ふたりはネロの部屋に向かって廊下を進んでいった。