理想郷 21
「なんでいるんだ」
それは俺のセリフなんだけどなあ、とフィガロは苦笑した。かつては尊敬もした人物だが、こうして改めて見ると実に胡散臭い笑顔の持ち主だ。
入学式から数日経った放課後、一年生の教室。担任ではない教師との接点はあまりなく、ようやっとふたりきりで言葉を交わす機会を得た。
ファウストがわざわざ実家から遠い他県の寮付きの学園を選んだのは、誰も自分を知らないところに行きたかったからだ。
メディアに出ていたこともあるので、多少顔を知られているのかはもう仕方ない。興味本位で近づいてきても現在の無愛想な自分を知れば自ずと離れていくだろうからどうでもいい。
そう考えていたのに、いざ入学してみたら旧知の教師がいたのだ。脱力もしたくなる。
「偶然だよ。俺は俺の都合で学校を変えただけで、今年、入学者名簿を見て驚いたのはこちらさ」
「そうだな。渦中の真っ只中で、うまく逃げおおせたものだと思っていた。今さら僕を心配して同じ学校に来たのか、なんて自意識過剰だったな」
「でも心配はしていたさ。本当だよ」
「……どうだか」
深いため息のような声が出た。フィガロが困ったように眉を寄せる。
西日が窓から降り注ぎ眩しいほどだったが、その光が作る影の方が濃い。照らされている半身がじりじりと熱い。それどころか、いつの間にか制服から焦げ臭い匂いがあがっていた。驚きで声が出たときに、ああ、これは夢だな、と気づいた。
現実ではこのとき、お互い過去のことは忘れて初対面の教師と生徒として接しようとだけ約束して会談は終わったはずだ。
炎は下から上へ全身を舐めるように這い上がってくる。ああ、と声が上がる。火の粉が舞い、熱さも感じているが、これは夢だとわかっているので意識の上で熱いわけはないと打ち消す。
だが、制服からはめらめらと炎が上がっている。いつの間にか教室の中も火の海になっていた。見ていられずに目を細める。炎は赤と言うよりも、眩しいほどの光を放つと、ファウストはよく知っていた。
フィガロは周囲の状況にまるで動揺せず微笑を浮かべたままで立っている。だって、あの男はこの炎を見ていないのだから当然だ。彼は炎が燃え上がる前に姿を消したのだから。
夢の中のファウストはフィガロを呼ぼうとし、夢だと気づいているファウストは愕然とした気持ちになった。夢の中の僕は、助けを求めようとしているのか、フィガロに? こっぴどく裏切られたのに? 自分自身にふざけるな、と思う。思ったときにはもう、ふざけるな、と声が出ていた。
はっと目を開く。
激しい自分の呼吸音が響いていた。白んだ空の光に照らされて、見慣れた寮の壁を認識できるまで、ファウストは荒い息を吐き続けていた。
2
スーパーの入口には小さな喫煙所があった。中年の男が煙を燻らしている。その横で自動ドアが開き、シノが出てきた。きょろきょろとあたりを見回しているのをただ眺めやる。そろそろ声をかけてやろうかと思ったときに目が合い、彼が憮然とした表情になる。
「入口で待ってろって言っただろ」
駆け寄りながらかけられた声に、ファウストは自動販売機に預けていた背中を浮かせた。白い息を吐きながら応える。
「寒いのが好きなんだ」
「馬鹿言うな。今日氷点下だぞ」
シノは呆れながら、買い忘れの調味料の小瓶をファウストが持つ買い物袋に入れた。ふたりで駐車場を歩き出す。
大晦日まで数日もない。昨夜、明日は買い出しに行ってくる、とネロが言い出した。辺鄙な場所にある寮なので、基本的に食料は配達をしてもらっているそうなのだが、業者も休みに入ったのだという。一番近いスーパーはバスか徒歩か微妙に迷うくらいの面倒な距離にあるが、寮の生徒たちがよく使う、もう少し近くにあるコンビニではいまいち用が足らないので、スーパーまで足を伸ばさなければならないらしい。
そして、どうせなら買い出しを罰ゲームにしようとシノが言い出した。ネロは自分で行くと言ったのだが押し切られ、昨夜のアナログゲームの結果、ファウストとシノが買い出しを「実行」する運びとなったのだった。
「どうも昨日のゲームは苦手だった」
シノが口を尖らせる。昨日のゲームは相手には隠してブロックを組み立てて立体を作り、質問を繰り返してどのような形なのか当てる、というものだった。
「きみは勘に頼りすぎている。論理的な思考を身につけるんだな」
「そう言う割に、お前は絶不調だったろう」
ファウストは口を閉じた。いまいち集中力を欠いていたのは夢見が悪かったせいだとは思うが、負け惜しみのようだし、夢に翻弄されている自分を認めたくなかった。おかげで今朝も寝不足である。
ちら、とスーパーの入口をもう一度見やる。紫煙はまだ立ち上っていた。
だらだらと寮までの道を歩きながら、今日の夕飯は何か、とシノと予想合戦を繰り広げる。
「ネロのメシうまいよな。寮のメシもまあうまいとは思っていたんだが、なんか違うんだ。なんでだろうな」
「彼たぶん、僕たちがどれくらい食べられるかも考えて盛り付けてると思う。サラダのドレッシングの量とかも、微妙に調整されてる気がするな」
人のことをよく見ている。その割に、あまり自分のことを見せない人でもあった。にこにこと人が食べているのを見ている割に、気がつけば彼の食事は終わっていて、彼がどのくらいの量を、どんな風に食べているのかはわからない。そんな思考を巡らしたが、純粋に彼の食事を賞賛しているシノに聞かせることではない気がして、口には出さなかった。
ふいにすん、と鼻を動かしファウストは足を止めた。買い物袋が音を立てて揺れる。
「……? なんか焦げ臭くないか?」
シノも隣で鼻をひくつかせていた。
ファウストには覚えのある匂いだった。シノに返事をしようとしたが、泡だった皮膚に汗が浮かび、息がうまく吸えない。
「おいあれ!」
シノがファウストの腕を引く。
寮の建物の裏手から煙が上がっていた。
あのあたりは、夏に寮の周辺だけは草刈りがされたが、それ以上は管理人も手が回らず背が高い草が生えっぱなしで、冬の寒さで枯れるに任せている場所だ。建物の陰からちらり、と鮮やかな炎が見えた。
まだ夢を見ているのか。
そう思って愕然とする。買い物に行ったことも夢か?
「おい。おい、ファウスト!」
激しく肩を揺さぶられ、必死なシノの表情が目に入る。その手の感触に、どうやら夢ではない、と意識がはっきりしてきた。ぼんやりとしているファウストに見切りをつけたらしい。シノがぱっと走り出す。ファウストも意思を総動員して身体を動かした。金縛りになったようだった全身が、ようやく自分のコントロール下に戻ってくる。
下手をすると寮に延焼しかねない。今は冬なので窓を開ける機会も少なく、残っているネロとヒースはまだ異変に気がついていないかもしれない。
「ファウスト、スマホは!? ヒースに、いや消防に連絡を」
「さっき充電が切れた!」
シノの怒鳴り声に簡潔に返事を返すと、シノはあきらめて走ることに集中し始めた。普段の様子から、恐らくシノは自分のスマホを持っていない。寮でネロかヒースから通報してもらった方が早い。
ばたばたと駆け込んだファウストとシノに驚いたふたりは、やはり火災に気がついていなかったらしい。裏庭に面した窓がなかったことも要因だった。寮から改めて見てみると火災の現場から寮までは距離があり、今すぐ燃え移りそうということもなかったが、冬の乾燥も手伝ってかめらめらと燃え上がる炎は素人でどうにかできそうな規模を超えていた。
ヒースがスマホで消防を呼び、すぐに火は消し止められた。
だが思いの外何台も消防車が来てあたりは騒然となった。危機が過ぎ去ってしまうと四人とも、面倒なことになったとげんなりしてしまう。
消防隊員から事情を聞かれ、順番に話していく。ネロはパンを焼いていてうっかり失敗したところだったらしく「言われてみれば焦げ臭い気がしたけど、パンを焦がしたからだと思ってた」と呑気なことを言った。オーブンの中には表面が黒いパンが並んで放置されていた。
ヒースは趣味の機械いじりの作業をしていたらしく、夢中になって何も気づかなかったという。彼の集中力の高さは誇らしく、しかしそのままだとどうなっていたかと思うと平気ではいられないとばかりに、シノは眉を寄せ複雑な表情をしていた。
消防隊員たちは執拗に質問を重ねる。このあたりには学園の校舎と寮の他には森と山しかなく、普段から人通りはないに等しい。居残りしている四人を疑うのは仕方ないこととはいえ辟易としていると、突然オズが寮に現れた。教師で今日、学園に出勤していたのは彼ひとりだったらしい。
「捕まえた」
開口一番言った彼に四人も消防隊員たちも何のことだかわからず唖然とする。
オズは、近所の地元中学生たちがふたり、裏庭から逃げていったところを目撃したのだという。不審に思って捕まえて話を聞いているうちに、彼らは所持したライターで草に火をつけたことを白状した。犯人たちは校舎の教室に留めたまま、消防隊員たちを呼びに来たらしい。
「今、その犯人の中学生たちは教室に放置されてるってことか? 逃げ出すかもしれないだろ」
「問題ない」
シノの最もな問いに、オズは淡々と答える。ネロが顔を引き攣らせている。ファウストもオズについて話はいくらか聞いていたので黙っていた。
オズは一癖二癖ある教師陣の中でも輪をかけて浮いた存在だった。一年生たちは品行方正な学年なのであまり縁がないようなのだが、数年前は問題児たちをしょっちゅう「おとなしく」させていた、という噂を聞いたことがあった。その「おとなしく」する手段は全く伝わっていないのが不気味だ。
急転直下の展開に消防隊員たちが慌ただしくなった中、オズがすいっとネロへと近寄ってきた。彼はびくっと条件反射のように身体を震わせる。
「な、……なに?」
「いつかは世話になった」
「あー……ああ、パンケーキのこと? あれくらい、別に」
「マシュマロが焼きたかったそうだ」
「へっ?」
「火をつけた者たちに聞いた。キャンプでやるようにマシュマロを焼いてみたくて、手頃そうな草に火をつけたらしい」
四人が呆気にとられていると、オズは消防隊員たちを引き連れて校舎へと行ってしまった。後には呆然とした四人だけが残された。
3
「オズはさ、世話をしてる、俺たちと同年代の同居人がいるらしくて。どういう関係なのかよくわからねえし恐ろしいから知りたくもないんだけど。で、居残り組の問題児たちから俺が寮で料理してるのを聞いたらしくて、パンケーキのうまい焼き方とか、失敗したシチューをリカバリーさせる方法とか聞いてくるんだよなあ。こっちはその問題児たちからオズに何されたかを聞いてるから生きた心地がしねえってのに」
ネロは弱った口調で言った。トングを構え、皿に並んだ肉を手際よくホットプレートに移していく。
消防が完全に立ち去っても焦げ臭い匂いは残ったままだった。ネロはうんざりとした顔をして「ホントは正月用に用意してたんだけど、焼肉をして上書きしちまおう」と冷凍されていた肉を取り出したのだ。シノが次々と肉を取るのを見かねてネロは「野菜も食べろ」と言い放った。ヒースには逆に肉を皿に載せてやってと忙しそうに立ち回っている。
「でも、疑いが晴れてよかった。部屋を見せろとか言われたらどうしようか思った」
「ああ、消防士のやつら……オレに、万引きしたのお前だろって言ってきた、中学教師と同じ目をしてた」
ほっとした様子のヒースの隣で、シノが口を尖らせている。
ファウストもふたりと同じ気持ちだったが、高校生たちだけで居残りしている現状、世間からよからぬことをしていると見られても仕方ないとは思った。家宅捜索されても文句は言えなかっただろう。仮に自分たちの部屋には何もなくても、今はいない生徒たちの部屋から妙なものが出てきたらとばっちりを食いかねなかったので危なかった。
「しかしなんだよ、マシュマロが焼きたかったって。オズはあれを信じたのか?」
「オズって教え方が悪いわけじゃないけど……ちょっと変わってるよね。世間慣れしてないっていうか……」
「ま、犯人には消防の人たちがちゃんとお灸を据えてくれるだろ。……先生、肉嫌いだった?」
ネロが、箸が進んでいないファウストをめざとく見つけて声をかける。ファウストは慌てて首を横に振った。
「そんなことないよ。うまいさ」
「ファウスト、さすがに今日はもう勉強はいいだろ? 夜は談話室でゲームしないか、昨日のリベンジをしたい」
「そうだな……妙な一日だったし、僕も疲れた。まあいいだろう」
ファウストは頷いた。他の三人がわっと盛り上がる。
今なら、とファウストは思う。
今ならこの間のシノの気持ちがわかる気がした。
一度燃え上がってしまえば、炎を消し止めることは難しい。
実際に見たからよく知っている。その後も、何度も、何度も夢で見た。
ファウストは目の前の光景でなく、脳裏に散らつく炎を見ていた。
「先生」
「ファウスト」
「え? ああ」
ファウストが顔を上げると、先に上がったネロとシノが怪訝そうにファウストを見ていた。ヒースがわかったって、と言われてぼんやりとヒースを見る。ゲームの最中だったことを思い出した。ヒースはええと、と言って順番に数字を言っていく。
「……で、青の五、それから最後が、赤のゼロ……? ですか?」
「正解だ」
ヒースの答えに、ファウストは観念して自分の札を開示した。ヒースの言った通りの色と数字が並んでいて、先に上がった他ふたりはおお、と声を上げる。
今日のゲームは昨日と少し似ていて、相手には隠された五桁の色と数字を、質問カードを使って推理していくものだった。論理的な思考が必要な、ファウストやヒースの得意な分野のゲームのはずなのだが、質問カードの内容に当たり外れがあり運が絡み、ファウストは最下位になってしまった。シノとネロがにやにやとしている。
「さ、どうする? 『告白』か『実行』か」
「明日の勉強もなしにするって『実行』は?」
ファウストはこほん、と咳払いをした。
「それはいけないな。『告白』にしよう。そうだな……」
僕の、怖いものの話をしようか。
ファウストがそう言うと、ヒースがびっくりしたように言った。
「ファウスト先生にも怖いものなんてあるんですか?」
すっかりネロから波及した「先生」呼びが定着してしまっている。休み明け、生徒会のメンバーたちにはどう思われるだろうかなどと思ってしまうが、とりあえず保留にしておく。
ファウストは微笑んだ。
「もちろんあるさ。僕はね……炎が怖いんだ」
はっと他三人が目を見開いた。特に、今日当初恐慌を来していたファウストを見たシノは次の瞬間には納得したようになるほど、という顔になっていた。
「へえ。何か理由があるのか?」
「ああ。僕が昔なんて呼ばれていたかは知ってる?」
問いに、三人とも微妙に視線を逸らした。知ってたんだな、とファウストは苦笑する。まあずいぶん話題になったし仕方ないとは思う。
「……『革命の神童』、と」
「ああ、正解だよシノ。馬鹿みたいだろう?」
澱みなく答えたシノに笑いかけて問うと、シノは正直にはっきり頷いた。シノ、とヒースが隣で肘で小突くが「いいんだよ」と言う。ファウストは次にネロを見た。彼は渋い顔をしていた。
「きみも知ってたんだ?」
「まあ……噂は耳にしてた。大物が高等部に転入してきたって。興味本位で検索して、あんたを追った密着取材のドキュメンタリーの動画があがってるのも見つけたよ。でもそこまでだ。再生して見てはいない」
「見てもよかったのに。笑えるよ、幼くて、愚かで」
ファウストは皮肉げに笑ってみせるが、普段は使わない部分の筋肉を使っている気がした。案の定、三人は困惑したようにファウストを見遣るばかりだ。
自分語りなど彼らを困惑させるばかりだろう。こんなつもりではなかった。冬休み中、穏便に過ごすつもりだったし、自分の過去を自分から語るときが来るなんて思っていなかった。これは、彼らを使って自分を傷つけたがっているだけだ。巻き込まれた三人にとってはいい迷惑でしかないだろう。わかってはいる。
ヒースはひたすら反応に困っているように見えるのに比べて、シノは凪いだ様子でファウストを見ていた。先日の自分の姿を見ているようなのかもしれない。対してネロの瞳の中にはどういうつもりだ、という色が滲んでいた。
俺たちはここでただひと冬を過ごすだけ。それ以上でもそれ以下でもない。シノの話はイレギュラーだったが、着地点を見たしもうもう掘り返さなければそれでいい。踏み込まない、踏み込ませない。口にして確認したわけじゃないけれど、そういう話じゃなかったか。あんたとならそれができると思っていたのに。
その無言の訴えは理解できるのに、ファウストはもう止まれそうになかった。全部燃えてしまえ、という捨て鉢な気分だった。一度火がついて、燃え上がってしまえば、その勢いを止めることはできない。
手加減してゲームをしたわけではない。だが、このシチュエーションをどこかで期待していた。ひとつ嘘を混ぜるだけで、「告白」をしても良い場。それを提供したたのは、他でもないきみだろう。
そう伝えるように瞬きをすると、ネロの瞳が静かに伏せられた。
ファウストは話したがっていた自分に、もうとっくに気がついていた。
「知っての通り、僕はかつて都内の有名私立中学の生徒会長でね。生徒の要望に応えて、理不尽な校則を変えて話題になった。良いことをしたと思っていたし、これが全国的に広がればいいと本気で思っていた。だから積極的に取材も受けた。尊敬する教師に、頼れる後輩。充実していたよ。僕の父親は、神童の育て方なんて教育術の取材をされて、各地で講演までする始末だった」
おかげで、今ではすっかり父親との関係は微妙になった。このたびの父の海外赴任は、世間で有名になり過ぎたために会社から厄介払いを食らったのではないかとファウストは邪推している。母や妹はとばっちりだったが、海外赴任ってなんかかっこいいよね、と笑った妹を、ファウストは眩しく思った。自分だけがいつまでも囚われていることにうんざりする気持ちにもなった。
「そして生徒会の副会長は、僕の幼馴染だった。周りにいつも誰かがいるタイプで、僕とは互いの足りないところを補い合える関係だった。すばらしいだろう。……だんだん雲行きが怪しくなってきたのは僕の生徒会長の任期が半分過ぎたくらいの頃だったかな。校則を変えろ、っていう生徒の要望が過剰になってきてね。終いには六時間目の授業をなくせとか、わかりにくい教師をやめさせろとか、そんなこと生徒会にどうにかできるわけないだろうってことを言われるようになった。こちらとしては理路整然と無理だという話をしたつもりだったんだが、途端に反旗を翻された。彼らにとってはまるで革命が成功して権威を得たら愚策ばかり行う指導者のように見えたらしい。神童なんて持ち上げられて調子に乗ってるんだ、リコールだなんだって話が持ち上がってね。ショックだったよ。僕はみんなで考えて、みんなの力で学校を良くしていきたいと考えてたいたんだけど、誰もそんなことは思ってなかったんだ。何も考えたくない、何もしたくない、でも心地良い空間は欲しい。なんか勝手にやる気になってるやつがいるから乗っかろう、そいつが使えなくなったら見限ればいい。そういうことだったんだね。途端に不穏な気配になった学校に居づらくなったのか、尊敬していた教師は年度の途中でさっさとやめていなくなった。絶望したね。甘かったよ、そんな絶望なんてまだまだ序の口だったのに」
突然、別れの挨拶もなくいなくなったフィガロの顔が浮かぶが、打ち消すように話し続ける。
「ある日僕は仕事の用事で副会長を探していた。校内にいなくて、やっと見つけた彼は使われていない、立ち入り禁止の旧校舎の教室にいた。そして、お前がリコールされたら僕が会長になるんだ、本当はいつも優秀なお前が嫌いだった、とコンプレックスを告白されたんだ。他にも何か言ってたがなんだったかな……いろいろ言われた気がするけど、その後に起こったことが衝撃的で、よく覚えていない」
寄せては返す、波のよう。思い出そうとするといつも、記憶はするりとすり抜けていく。
ファウストは海辺に立っている。砂浜に沈んだ、裸足の足に波が迫る。優しかった波の満ち引きが突然勢いを増し、影が差し、ファウストの全身呑み込む。海に行ったこともない、実際にそんな体験をしたわけでもない。だが、アレクに言われた言葉を受け止めきれなかった、あのときの感覚を言い表すならそういうものになるのだ。
「僕はその後職員室に一度寄ったんだが、ふと窓を見ると旧校舎から火が出ているのを目つけた。職員室は大混乱、今日よりもっと消防車が来て、大騒ぎになった。副会長が火をつけたんだ。結局、彼は助かったけどね」
今日、火を見たときにそのことを思い出したよ、と言うとシノが口を引き結んだ。
「アレ……副会長の家は厳格でね。生徒会の仕事や僕の存在以外にもいろいろプレッシャーがあったらしい。旧校舎は全焼して、噂には尾鰭がついて、そのショックで生徒たちは大人しくなった。リコールの話は消えて、校則は以前よりも厳しくなった。僕は残りの時間、心を殺して淡々と生徒会長を真っ当した。そしてエスカレーター式だった学校をやめ、外部受験をして、この学園にやってきた。逃げたんだ。こんなに遠くまで逃げて来たのに、結局今でも、教室が燃えている夢を見る」
だから僕は、炎が怖い。
そう締め括ったファウストはぐるりと三人を見遣った。顔色の悪いヒース。痛ましげなシノ。そして、何かを考えているようなネロ。
途端にやってしまった、という気持ちがむくむくと立ち上ってきた。
「僕はもう寝るよ。お望み通り、明日の勉強はなしにしよう……変な話に付き合わせて悪かった。おやすみ」
ファウストは談話室のソファから立ち上がると、逃げるように自分の部屋へ立ち去った。いつも逃げてばかりだ、と思った。
4
眠れるはずもなく、寝返りばかりを繰り返した挙句、ファウストはベッドから起き上がった。充電したスマホを見ると、まだ深夜とは言えない時間だった。喉が渇いたな、とキッチンに向かう。
そこでばったりと上着を着たネロに出会した。ふたりともお互いに反応に詰まる。玄関にある装飾が細やかな古い鏡に、ふたりの姿が映し出されていた。
ネロはカーキ色のミリタリージャケットを着ていた。ボトムのデニムはダメージ加工が施されているもので、冬の外出には少し不向きに見えた。思っていたよりやんちゃな出立ちで、いつもエプロンの印象が強かったので面食らう。
「……外に行くの?」
「ちょっとコンビニに。小腹がすいてさ、肉まんでもなんて思って」
「ふうん。いってらっしゃい」
そのままファウストが踵を返そうとすると、「あのさ」とネロがファスナーを上まであげたジャケットを引き上げ、口もとを隠しながら言った。
「先生も一緒に行かねえ? 飲み物くらいおごるよ」
上着を着て戻ってきたファウストを見て、ネロは爆笑した。
「べ、ベージュのダッフルコートにチェックのマフラー……イメージ通り過ぎて笑える……!」
「部屋に戻っていいか」
「うそうそ! 似合ってるって」
「ていうか昼も見たはずだろう」
「小火騒ぎで突っ込むの忘れてた。いいから行こう」
ネロに背中を押されるようにして歩き出す。笑いの発作が過ぎたらしいネロは白い息を吐くばかりで、ファウストにも特に話題はない。だが、気まずくはなかった。かつての後輩で、自分を追いかけて転校してきたレノックスといるときの沈黙とはまた違う。レノックスの沈黙はこちらを慮ったもので、ネロの沈黙はお互いがお互いを放置しているものだ。波の高くない、穏やかな海でゆらゆら揺れていて、隣を見るともうひとりいた、というような。
ただ、誘われて出てきたものの、わけがわからないとは思っていた。見えない境界線を踏み越えた自分に苛立ってはいないだろうかとちらりと思ったが、だったらそもそも夜の散歩に誘わないだろう。ネロは何か、他のことを考えている気がした。
他人のことなどどうでもいいと思って暮らしてきたはずなのに、彼に対しては関係を維持できていることに少しほっとしてしまう。
コンビニに着くと、ふたりは別行動をとった。ファウストは雑誌を見遣り、ネロは入り口付近とレジのあたりをうろうろとしている。やがて肉まんとブラックの缶コーヒーを手に戻ってきた。
「お待たせ」
「ああ」
コンビニの外に出る。ネロはあっという間に肉まんを食べてしまい、ファウストの方が時間をかけてちびちびと缶コーヒーを飲んでいた。手持ち無沙汰そうなネロに、ファウストは思わず声をかけた。
「別に吸ってもいいけど」
「え?」
「僕なら離れてるし」
ネロはぽかん、とした後、頭を抱えてしゃがみこんだ。あんたさあー、と呻き声を上げる。
「もう、先生ってば、本当……」
ファウストは予想外の彼の言葉と行動に「え? え?」と声を出した。
「何かまずいことを言ったか?」
「俺は煙草吸わないよ。料理の味わかんなくなるし……ていうか、せっかく混ぜた嘘を自分から暴露してどうするんだよ、あんたって本当、そういうとこあるよなあ」
そう言われてファウストは、保たれていたラインを超えてしまったのは今日の「告白」ではなく、今の発言だったことを悟った。
ひとつだけ混ぜた嘘。
一番怖いものは、炎ではなく、煙草だ。
あの日、旧校舎でアレクを見つけたとき、彼は煙草を吸っていた。そのことを詰問し、言い争いになり、アレクは全てをぶちまけた。自分の境遇、両親の仕打ち、息苦しい学校と教師への不満、隣にいるファウストへの劣等感。彼のぎらぎらとした本音の奔流に耐えかね、ファウストは旧校舎を飛び出して職員室に行き、アレクが煙草を吸っていたことを告げた。教師たちは優秀な副会長の所業を信じられず、どうするかぐだぐだと話し合いを始めた。そのうち、外が明るくなり、旧校舎が燃えていた。
それから、ファウストは煙草が駄目になった。元々苦手ではあったが、少しの煙でも匂いでも、アレクのことを思い出してしまうのだ。今日、買い物帰りに歩いていて煙の匂いがしたときには、息がうまくできなくなった。彼とのさまざまな思い出と一緒に、どこまでが本当でどこからが嘘だったのか、という問いが巡って、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったのだ。
彼がなぜ火をつけたのかは、明確な証言を得られなかったらしい。
喫煙がバレて罰されるなら全て燃やしてしまった方がマシだと考えたのか。いや、燃やしてしまえば何もかもなかったことになると思っていたのか。
「わかっていたんだな、僕の怖いもの」
「シノとヒースも指摘しなかっただけでたぶんわかってたよ。そもそもあの小火騒ぎの後にあの話されたらさ」
「マシュマロを焼きたかった、なんて馬鹿な言い訳だよな」
「本当に。あの裏庭ならバレても吸殻は寮の人間のものだって言い張れるって思ったんだろ」
捨てた煙草の火がきちんと消えておらず小火になったのか。それとも、オズに声をかけられパニックになり火をつけたのか。そのあたりはわからないが、理由に関しては四人とも原因は煙草だろう、と検討がついていた。寮は当たり前だが喫煙は禁止だ。煙草が身体的に苦手な者もいるので、どんなに悪ぶったやつでも絶対に吸わない、という不文律がある。だが、外ではどうだかわからない。オズが来る前の消防もそれを疑ったからこそ、四人を執拗に責め立てたのだ。
「オズが面倒見てるっていう子は、話聞いてる限りなんか育ち良さそうなんだよなー。教師してるっていうのに、あいつの男子中高生の解像度がいまいち低いの、そのせいな気がする」
「ああ、たぶんそれはあるな」
「知ってるの、先生」
ファウストは微笑むに留めた。生徒会で関わっているアーサーからオズが保護者であることは聞いていたが、あまり吹聴するものでもあるまいと思ったのだ。
「先生、意外性の塊だよな。人と関わるの嫌いですって雰囲気全面に醸し出してる割に事情通だし」
「向こうが勝手に話してくるんだ」
「予防線張って話をしたはずなのに自分からぶち破って来るし」
ネロの恨みがましげな上目遣いに、ファウストはむ、と口を歪めた。こちらにも言い分はあった。
「じゃあ、どうして散歩に誘ったんだ。こそこそ抜け出そうとしてるから、僕はてっきり、煙草を買いに行くんだと思ったんだ。小火騒ぎの直後だし、僕が煙草を苦手としているのも『告白』でわかっていたかだろうから、外に吸いにいくことにしたんだと」
「あー、小火騒ぎがきっかけではあるけど、逆。捨てに来たんだよ」
ネロはコンビニの入り口を指差した。自動ドアの向こうにはゴミ箱がある。ファウストは怪訝な顔になった。
「吸わないって言ってなかった?」
「俺はね。同室のやつが吸ってたのが残ってたんだ」
「きみの同室? 冬休みが終わったら帰ってくるだろ、勝手にいいのか?」
「俺は一人で部屋使ってんの。留年してる話したっけ? ……あ、その顔は知ってんだ。やっぱ事情通だよなあ。誰でも年上と同室は気まずいだろ? だから今年は一人で使わせてもらってた。で、卒業していった同室のやつが、部屋に吸いさしの煙草、残していっててさ。……捨てられなくて」
ネロがふい、と遠くを見た。ファウストも思わずそちらを見る。そこにはただ夜の闇が広がり、ぼんやりと光る街灯が立っているだけだった。
「そいつは、俺にとっての……なんていうのかな。あんたにとっての、副会長みたいな存在だったわけ」
思わずファウストの身体が固まる。お前に何がわかる、という気持ちになって自分で自分に驚く。あれっぽっちの話で、何も知らないだろう、と叫びそうになり、そんな自分を瞬間的に抑え込んだ。ネロはそんなファウストの感情の動きなど全部承知の上、のような顔をして薄く笑っていた。
「ノックもせずに扉をばーんって開けて、全部受け止めろ! って叫んで土足で踏み込んできて、俺がそうしてくれるのを当たり前だって思ってる、そういうやつ。違った?」
「……いや。違わない。続けて」
静かに返したファウストに頷いて、ネロは乾いた笑い声をあげた後、話を続けた。
「どうしても離れたくて、俺はそいつを出し抜いて留年した。っていうほど、かっこいいもんじゃなくて、単に卒業する努力を放棄したって感じなんだけど。喧嘩別れして、あいつは卒業して寮を出て行って、でも広くなった部屋をよく見たら机の引き出しの中に煙草が残っててさ。単に忘れただけなんだろうけど、何か意味があるんだろうかってずっと考えてた。どうしてこんなこと考えなくちゃいけないんだ、ふざけんなって何度も思った。でも捨てられなくて……」
ネロは言葉を切った。沈黙が落ちた。こんなとき、煙草があればこの間が持つのだろう。昼に見た紫煙を思い出す。
やがて、またネロが話し出す。
今日の小火騒ぎで、部屋を探されたらやばいと思った。元同室の人間が残していったのだといくら言ったところで、現物が出てきてしまったら言い逃れできない。いいきっかけだ、さっさと処分してしまおう……上着を着て、外にでかけようとそう思ったが、まだぐずぐずと迷っていたところへファウストがやってきた。そういうことだったらしい。
「背中を押してもらうために、あんたを連れ出した。悪かったな」
「いや……僕は何もしていない。むしろ、僕の自傷にきみたちを巻き込んだ」
「自傷か。話を聞いてる限り、俺は、あんたが傷つく必要なんてないって思ったけど」
ネロが立ち上がる。正面から絡んだ視線に、ファウストはどういうこと、という問いを込めて見つめ返した。
「あんたは上等な鏡なんだ。寮の玄関にある、装飾の見事なあれみたいなさ。あんたと向かい合ってると、あんたにふさわしい人間になりたくなる。あんたに好かれたくて、あんたに好ましく思われる人間を装いたくなるんだ。でもあんたは、どこまでも実直に本来の姿を映し出す。それに耐えられなくなって、勝手に周りが自滅してく。それだけなんじゃねえのかな」
「……なるほど」
言った当人であるネロがびっくりした顔になる。
「納得したの?」
「一理ある」
ファウストは同室のレノックスを思い出していた。彼だけは、少しも変わらなかった。出会ったときも、会長の地位が脅かされているときも、火事の後も、そしてここで再会したときも。レノックスは装うことなどしない男だった。ファウストという鏡に映した姿も、本来の姿も、きっと全く同じだ。だから彼だけは、ファウストの隣に残ってくれているのだろう。
「でも、僕にも問題があったんじゃないか、と思うことをやめられない。本当に怖いのは煙草じゃないんだ」
本当に怖いのは、煙草をきっかけにわかったことだ。
人には、自分の思ってもいないような面もあること。
自分がどんなに論理的思考を重ねても、想像の及ばない面があること。
たぶん、その真実が怖かった。
自分は無知で、今でもきっと他者を理解する能力が及んでいない。だから、他人と関わることを拒否したがっている。また見誤りそうで、また、失敗しそうだから。
「鏡で真正面を映したら、背中にあるものは見えない。かつての僕はその、背面にあるものの存在を知らなかった。ようやく何かがあることを知ったけれど、結局、今の僕にもそれを見ることはできないんだ、どうやったって。そんなままで、どう他人と関わっていけばいいのかわからないんだ……」
ファウストは言葉と共に冷めてしまったコーヒーを飲み干す。無言のネロを背後にして、コンビニの自動ドアへと歩き出した。店内に入り、店員に会釈すると缶をごみ箱に捨てた。燃えるゴミの箱の中に、煙草のパッケージが見えた気もしたが、気のせいかもしれなかった。
自動ドアから出ると、ネロの姿はなかった。
はあ、と白い息が出る。
そうだよな、境界線を超えて益体のない話ばかり聞かせてしまったもんな。
そう考えていると突然、背中を衝撃が襲った。「わあっ」と思わず大きな声が出る。
「せ、先生、めっちゃ、声デッカ……!」
きんじょめーわく、と笑いながら背中を押したネロが両手を上げながら現れた。ファウストはばくばくと暴れる心臓を抑えながら「きみは……!」と言ったが、驚きのあまりそれ以上声が続かなかった。ネロが笑い過ぎて目に涙を浮かべている。そして「俺はさ」と言った。
「俺はさ、うまくやるよ、ファウスト」
「な、何が? 何を?」
まだ混乱しているファウストを見ながら、ネロは言った。
「あんたっていう鏡に、俺の姿が映らないようにさ、うまーく避ける」
だから安心していいよ。
そう言って笑い、「帰ろう」とネロは歩き出す。ファウストはようやっと心拍数が落ち着いてきて、慌ててその後を追った。ネロの背中をばしりと叩く。
「いった! 何すんの先生」
「お返しだ。本当に驚いたんだからな」
ふたりはじゃれ合いながら、寮までの道を歩いた。
その日、帰った後、ファウストはことんと眠りに落ちた。コーヒーを飲んだのに嘘のように寝ついてしまった。そして夢を見た。
ファウストは砂浜に立っていた。全身は濡れていたが、照らす日差しが温かい。このままここにいれば、身体も服も乾くかもしれなかった。
寄せては返す波を見つめる。波はぎりぎり、足に届くか届かないのところまで迫っている。ファウストはいっそ波に足をつけようか、と考え始めていた。
ふと隣を見ると、ネロが立っていた。彼の琥珀色の瞳が、海の水平線をじっと見つめている。その全身はぐっしょりと濡れている。頬を水滴が伝っていく。
波が、ネロの足元にも迫っていた。だが彼は、ずっと海の向こうを見つめている。
ファウストは彼に声をかけようかどうか悩んでいる。
そういう夢だった。