怡然自楽「あーあー、師匠大丈夫?」
話の最中で師匠が咳をし出したから、うちはとっさに背中をさすった。咳き込みすぎて涙の滲んだ茶色の瞳がうちを見上げて、目が合ってから、あ、と思う。ぱっと手を離す。
「あっ、ごめんごめん! うちってばつい気安く……」
しかしまだ咳の止まらない彼は、苦しそうに肘を口にあてながら、うちの行動の意味がわからないかのように少し眉を寄せた。あれ。怒ってない? そんな余裕がないだけかもしれない。その間にも息ができないほどのひどい咳が続いてる。困って、一応周囲を見るけど、ここは琥珀街にある白家が所有する店の中で、今はうちらの他には誰もいない。
うちは再び師匠の背中をさすった。師匠はちょっと肩を丸めたけど、振り払いはしなかった。
苦しそうに背を曲げていると、その背中は小さく見える。出会ったばかりの頃に見た師匠の背中は今より大きかった気がするけど、初めの頃はとくに、恐怖が大きかったからかもしれない。 だって白家の当主としての権力と実力と、街を覆えるほどの影を操る力を前にして、うちみたいな庶民は足が竦んだって仕方ないだろ。でも時間が経つうちに、この人にも人の子らしいところがあるって少しは見えてきたんだ。かわいそうだけど、特にこうして咳き込んでるときなんかは。
手の下で背中が揺れる。体格のわりに貧弱で、薄い胴が折れてしまわないか心配になる。でも貧しさで痩せ細っている人とは違い、肌艶は悪くないのがやはり尊い身分の生まれらしかった。これほど咳に苛まれながら、彼が地面にうずくまるところを見たことがないのも立場ゆえの意地なんだろうかと考える。ゆっくり手のひらを動かすと、激しい呼吸に肺が膨らんでは潰れるのがよくわかった。上等で厚い生地の服の何枚か下に、背骨のおうとつが指に触れるような気さえした。
「――っ、は、……松雀」
やっと咳がおさまった師匠は、息を整えながらうちに視線を向けた。
「すまない。見苦しいところを見せてしまったね」
「いいって、いつものことだろ? それより座って休みなよ。ソファまで支えるからさ」
部屋の奥のソファを視線で示すと、師匠は「ああ」と頷いた。背中に添えたままの手には何も言わない。貴族の人って案外パーソナルスペースが狭いのかもしれない。セルマ様もたまにすごく距離が近いし。いや、まあ、あれはあの人の趣味だろうけどね。
師匠を座らせる。滅多にお目にかなれないつむじが見える。さっきの咳の勢いのせいか、結んだ髪がいくらか解けているのが目についた。ふむ。師匠を見下ろせるめったにない機会だからか、さっきセルマ様を思い出したせいか、うちは妙な興味が湧いて、ついこう言っていた。
「髪が解けてるよ。よかったらなおそうか?」
師匠はちょっと驚いた顔をして、それからたしなめるように、
「君は弟子であって、身の回りの世話のために呼んでいるのではない。従者のようなことはしなくていい」
「でも今はいないだろ? それにうちはほら、セルマさ……セルマのところで慣れてるし!」
うちの勢いに押されたのか、師匠はごほごほと咳をしながら微妙な顔をした。
「ヌートリスクの従者に世話になるというのも……まあいい。君に任せよう」
「ホントに? へへ、任せてよ。手先は起用だからさ」
浮かれてそう言ったものの、人の髪を触る機会なんて街の子ども相手に何度かあったくらいでしかない。ましてや簪の扱いなんて分かるわけもない。それでもうちは見よう見まねというのがそれなりに上手い。元の形を覚えていればきっとそれなりになるだろうと思い、えいっと簪を抜いて飾りを外した。長い髪が解放されてするりと腰に流れる。
「うちの櫛でいい?」
「構わない」
櫛は持っててよかった。よーし、と気合を入れて袖を捲った。
「えーと、ここがこうで……」
「……松雀?」不安そうな声が下から聞こえる。
「もう、頭を動かさないでよ!」
きれいに束ねた一房を括ろうとしていたところだったのに、頭が揺れた拍子に髪の一筋が手の中から出て行ってしまう。やり直しじゃないか、まったく。
「我が弟子は修行でも今くらいの集中力を見せてくれないものか」
「静かにしてったら」
そんな応酬をくり返しながら、なんとか最後まで結い上げた。
「できたよ」と声をかける。
すると師匠は片手で自分の頭を触って、ふふんと笑った。
「い、いま笑った!?」思わず大きな声が出た。うちの努力をこの人は……。
「器用と名乗るには少し……不足かもしれない」と、言い方は控えめに、しかしはっきりと駄目出しされた。
「そんなあ、よく出来てるだろ!」
「では鏡を持って来てくれるかい」
「あーだめだめ、見なくても大丈夫、きれいだから! ね!」
師匠は笑うとまた咳をし始めて、うちもまた背中をさする。くつくつ笑う音が咳に混じってリズムが変わるのを手に感じた。
咳き込んだあとの細い息を吐き切ると、諦めたように言う。
「ふ、仕方ない。自分で直そうかと考えたが……今日のところは弟子の体面を優先してこのままにしておくよ」
うんうんと勢いよく頷きかけた頭を横に傾けた。
「ん? 待って。師匠が外を歩いてその頭をやったのがうちだって話したら、逆にうちの体面が傷つくんじゃ」
「よく出来ているのではなかったのかい」
「ええっ、もちろん出来てるさ……」
どんどん萎れていくうちの様子をよそに、師匠が立ち上がる。
「さて、弟子の介抱のお陰でよくなった。松雀、琥珀街の見回りに行こう」
見上げた横顔はまだ笑いを含んでいた。
うちは慌てて彼を追いかけながら、まあ、いいかと思った。今日は怒られないだけラッキーだ。それに、人を笑顔にするのだってうちの本望だし、そこには師匠だって含まれてるんだから。たぶんね。