曦澄(cqlベース)「美しいところですね」
隣に立ったその人は、蓮花塢の広大な湖に咲いた蓮を見てそう言った。
真っ直ぐに前を見つめ、背筋が伸び、凛としたその姿はかつての姿と寸分変わりないように思う。
とても閉関していたようには、見えない。
────いや。
よく見れば少し痩せただろうか。
けれど、穏やかな微笑みと真っ直ぐ伸びた背からやつれた雰囲気は微塵も感じられなかった。
「もう少し早い時期であれば、もっと花が咲いていたのですが、申し訳ない」
藍曦臣が蓮花塢を訪れたのは、9月に差し掛かった頃で、蓮の見頃からは大分逸れていた。というのも、蓮花塢を訪問したい、という藍曦臣の文をもらってから、出来る限り早く招待したかったのだが、如何せん仕事が詰まり過ぎていた。
何とか仕事を片付け、文を返したころにはすでに8月の中旬に差し掛かった頃だった。
「いえ、私も急に言ったものですから。お時間を作って頂き、ありがとうございます」
そう言って、丁寧に拱手する沢蕪君に、慌てて頭を上げるように言う。
「いえ、そんなに畏まらないでください」
拱手を解くようにその腕に触れれば、彼は拱手を解いて逆に俺の手をそっと掴んだ。
「では、あなたも。そんなに畏まらないで。忘機にはもっと楽に話していたと記憶しています」
穏やかに微笑まれ、江澄は思わずぽかんとしてしまう。
きゅっと握られた手は、意外にも大きく骨張っていた。それから、指が少し硬い。意外な発見に少し鼓動が早くなるのを感じた。
「しかし……」
「二人きりの時だけでも構わない」
遠慮する江澄に、藍曦臣は一歩詰め寄るとそう譲歩して言った。
にっこりとした笑顔で、頑固なのだな、ともう一つ意外な一面の発見に、江澄は思わず笑みが零れた。
「分かった。沢蕪君。楽に話させてもらう。俺もこっちの方が気が楽で助かる」
そう答えた江澄に、藍曦臣はふわりと目を細めて笑った。
その姿がまるで、絵に描かれた仙女のように美しいものだから思わず見惚れた。
しばらくの間、そのまま互いに見つめあっていたが、憧れのその人が目の前に立って、自分の手を握ってこちらを見ている。その状況に突然恥ずかしくなった。
慌てて目を逸らし、一歩下がって手を引けば、するりと離れていく。
「すみません。あなたの手が少し冷たかったものですから」
「いや、問題ない。……どうせなら、船に乗ろう。その方がよく見える」
気恥ずかしさから話題を逸らそうと、そう提案すると、彼はゆっくり頷いた。
踵を返して、船に乗るため、湖に面した桟橋へと向かう。
文では色々やり取りしていたが、いざ実際に会うと、今まで直接話した機会が少なく何を話してよいのか分からない。
面と向かうと、言葉がうまく出てこなかった。
平時ならともかく、相手は閉関を解いたばかりだ。話しづらい話題もあるだろうし、こういったことに気を回せるほど自分は器用ではない。なぜ、閉関を解こうと思ったのか、自分には分からないし、突然、蓮花塢に来たい、と言い出した理由も全く見当がつかない。
まさか、しつこく出される文にうんざりしたから、というわけではないだろうし。
蓮の花托を送ったから実物を見たくなったのだろうか?
しかし、姑蘇にも蓮は咲いていたはず。勿論蓮花塢ほどではないし、蓮花塢ほど美しく蓮が咲く場所はないと思うが。
わざわざ、閉関を解いてまで、というほどのことではない気がする。
一人悶々と悩んでいると、つい後ろをついてくる沢蕪君の存在を無視していたことに気付いた。
歩く速度を緩めて、ちらりと後ろを振り返れば、穏やかな顔で歩く沢蕪君がそこにいる。
振り返ったこちらに気付くと、どうかしたのか、と目線で訴えてくる。
「すまない。つい、いつもと同じペースで歩いてしまったが、早くなかったか?」
「いえ、大丈夫ですよ。そんなにお構いなく」
その答えに安心しつつ、速くなりすぎないよう注意して歩いた。
湖に沿って歩いていくと、小舟が泊まった桟橋が見えてくる。馴染みのじいさんが、いつものように船を管理していた。
「これはこれは、江の坊ちゃん。今日はお客さんとご一緒ですか」
人の良い笑みを浮かべて、じいさんはそう言った。この老人は、俺がまだ小さくて魏無羨と一緒にこの辺りを駆けずり回っていた頃からの付き合いなので、いまだに坊ちゃんと呼ばれる。
「坊ちゃんはやめてくれ。こちらは姑蘇藍氏の宗主だ。船に乗せてもらってもよいか?」
思わず眉をしかめて言ったが、じいさんはどこ吹く風といった様子だ。
船を繋いだ縄を手繰り寄せながら、笑って話し出す。
「船は構わねぇが、坊ちゃんは坊ちゃんだ。このじじいは、まだ坊ちゃんがいたずらっ子だった頃から知ってるんでさ。姑蘇のお客人、坊ちゃんはこんな風に眉を吊り上げちゃいるが、根は良い人なんだ」
そう言って豪快に笑って見せる。気は良い人なのだが、いまだに子供扱いされて少し困る。
隣に立った沢蕪君の顔を伺えば、彼は困った様子もなく、ニコニコとした笑顔を浮かべている。
「初めまして、ご老人。知っていますよ。江宗主はとても親切で優しいお方だ」
そのまま、そんな言葉を言われてしまうのだから居た堪れない。
じいさんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに豪快な笑い声をあげる。
「こりゃ失敬。お客人、あんたは坊ちゃんのことをよく見ているようだ。さっ、船を出そう。乗った乗った」
この調子じゃ、先が思いやられる。思わずため息をついたが、どうやら老人と沢蕪君は意気投合したようで、船に乗り込みながら、熱心に話をしている。
しかも聞こえている単語から察せられる内容は、どうにも自分の幼い頃の話題のようだ。全く沢蕪君もそんな話を聞いて、何が楽しいのか。
やめてくれ。俺が湖に落ちた話をするんじゃない。
二度目の深いため息をついて、江澄は気を重くしながら船に乗り込むのだった。