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    sky0echo

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    sky0echo

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    pixivにあげている曦澄
    空蝉の続き
    多分pixivにあげられるのはまだまだ先
    推敲中なので、直すとこかいっぱいあると思うけど
    とりあえずモチベをあげたいので、応援してほしい()

    泥濘に微睡む② かつて訪ねた不浄世は、良く言えば質実剛健、明け透けに言ってしまえば飾り気がなく質素、無骨な印象を持った屋敷だった。しかし、今はどうだろう。美しく繊細な色合いの花瓶がそこかしこに飾られて、季節折々の花が生けられている。調度品も茶器も決して華美ではないが、一目見て品の良さが分かる逸品揃いだ。
     雅事に造形の深い聶懐桑が宗主となってから、不浄世は少しずつその姿を変えているように思えた。かと思えば、時折以前のような無骨な姿を現す一面もあるからにして、きっと彼は兄の面影を残しつつ、この地を美しく彩っているのだろう。兄が愛した土地を、弟もまた愛しているに違いない。
     清河の地で開催された清談会。姑蘇藍氏宗主として、此度の清談会に藍曦臣は参加した。ここ数年、閉関していた藍曦臣は清談会を叔父の藍啓仁に任せることが多かったのだが、閉関を解いた今、いつまでも叔父に甘えるわけにはいかないだろうと、今回は自身が参加することにした。供をつけようか、と案じる叔父の言葉を断ったことに深い意味があるわけではなかったが、だが、供がいてはあまり自由に彼を訪ねられないかもしれない、という私情があったことは否定できない。
     今もこうして、宴席を辞したというのに、一人不浄世を彼の姿を探して彷徨っている。
    もうすぐ亥の刻になる。そろそろ戻らねば、と思うのだがせめて一言、否、一目彼の姿を見たい、そんな思いが藍曦臣の歩を進めていた。清談会ではその姿をさんざ見たというのに、このように思うのは自身でも少し不思議だった。よく考えれば、宴席はまだ続いているだろうから、彼が廊下を歩いているということはないのだと思うが、せめて辞するときに一目会えれば、という女々しい思いが拭えない。
    これではまるで江晩吟に懸想しているようではないか。
     ふと、それに気付いて立ち止まる。思わず自身の行動に苦笑して、藍曦臣は部屋へ戻ろうと踵を返したその時。彼の耳朶を掠めた小さな声に、藍曦臣は興味を引かれて足音を立てないようにこっそり聞こえた方向へと足を向けた。
     すると、廊下の隅のほうで二人の男がひそひそと話す声が聞こえて来た。立ち聞きをするのは良くない、と思いつつも聞こえて来た名前に藍曦臣は気配を殺してこっそりと様子を窺った。
    「ああ、聞いたよ。全く、よりによってあの江晩吟に、とはな」
     男の声は、小さな世家の宗主の声のようだった。聞き覚えがあるような、ないような曖昧な声で藍曦臣はどの世家のことか判別がつかなかった。揶揄するような男の声に、藍曦臣が思わず眉を顰めると、もう一人の声が相手に呼応するように答えた。
    「さすがは沢蕪君。金光瑶に騙された江家に同情でもしたんだろ。まさか金光瑶の代わりに、あの江晩吟を選ぶとは恐れ入ったよ」
     皮肉を込めた男の物言いよりも、金光瑶の代わり、という言葉に藍曦臣はすーっと頭の先から血の気が引いていくような思いがした。
    「でも、江家を選ぶことはないだろ。江晩吟は金鱗台でも威張り散らしたらしいじゃないか。金光瑶に手酷くやられた家は他に大勢ある。四大世家よりもそっちを贔屓にしてほしかったよ」
    「そりゃ仕方ないさ。ははっ、なんせあの美貌だ。性格はともかく顔だけ見れば女と見紛ってもおかしくない。じゃなきゃ誰があんな狂犬を好き好んで相手にするんだ?」
     身代わり。私は、江晩吟を身代わりにしていたのだろうか? 一体、誰の? 阿瑶。金光瑶の?そうではない、と、咄嗟に否定できない自分がいた。そうではない、と断言できるほどに、私は私自身のことを理解してはいなかったからだ。
     男達は藍曦臣の存在に気付くことはなく、そのまま下世話な話を続けているようだったが、彼の耳にはもう何も入って来なかった。ふらふらとその場を立ち去ると、そのまま自身にあてがわれた客坊へと帰路を辿る。
     その間もずっと男達の揶揄するような言葉が耳の奥に残っていた。
     私は彼の隣に立って胸を張れるようになりたい、とそう思って閉関を解いたつもりだった。だが、そうではなかったのだろうか。金光瑶の代わりに、慈しみ守ることが出来る人間を探していただけだったのだろうか。そのために、私は――――――……

    「藍宗主」
     呼びかけられて、藍曦臣はハッと我に返った。
     気づけば大勢の視線が藍曦臣に集まっている。そうだ。今は、清談会の二日目。各家で対処が難しい妖魔について議論を行っている最中であった。昨夜、どこかの世家の宗主が話していた言葉を聞いてから、随分とぼうっとしてしまっていたらしい。部屋に戻った記憶も曖昧で、今朝何を食したのかすら思い出せない。
    「藍宗主。貴方が居眠りとは珍しい。久しぶりの清談会でお疲れでしょうか。まだ亥の刻には早いですぞ」
     冗談っぽく揶揄うように発言したのは姚宗主だった。藍曦臣は曖昧な笑みを浮かべると、静かな声で謝罪した。
    「申し訳ありません。皆様。どうやら話を中断させてしまったようですね。どこまで進みましたでしょうか?」
     昨日、揶揄するような言葉を聞いてからの記憶が曖昧だ。どこをどう通って部屋へ戻ったのか。臥牀へ着いた記憶さえ思い出せない。
    今この場で、何を話していたのだったか。記憶にない、というよりはあまりに意識が向いてなくて認識できなかったと言った方が正しいだろう。確か、どこかの世家で退治するのに困難な邪祟がいる、という話をしていたとは思うのだが……。
    「さすがは藍宗主。随分と広い心をお持ちのようだ。まだ閉関していた癖が抜けていないようだな。姑蘇へ戻られてはいかがか?」
     嘲笑するような口調で藍曦臣を揶揄したのは、江晩吟だった。藍曦臣は彼の言葉に是とも否とも答えられずに黙り込む。彼の言葉の真意が分からなかった。話を聞いていなかったのは藍曦臣に非があるが、それをこのように批難するような人だっただろうか。それとも、私が彼のことを理解できていなかっただけなのだろうか。
    「まぁまぁ、江宗主、沢蕪君はほんの一月か二月前まで閉関していらっしゃったのですから、まだ本調子ではないのでしょう」
     いなすような姚宗主の言葉に、ふんと鼻を鳴らすと江晩吟は視線をすっと藍曦臣から逸らした。その態度に、ずきりと胸が痛む。私は、彼の隣に立ちたいと望んでいるのに、くだらない世間に流布する噂話に踊らされて、何と情けないのでしょう。前へ進むのではなかったのですか? 藍曦臣。
    「孫宗主。確か、件の邪祟は孫氏が管轄している瞭望台の近くではなかったか?」
     江宗主の鋭い視線と共に突如話題を振られた孫宗主は、びくりと大袈裟なほどに肩を震わせると慌てて首を振る。
    「じゃ、江宗主。確かに直線距離で考えればうちが近いかもしれませんが、間には大きな山があります。うちよりも、呉氏の方が平地を通って近いのでは?」
    「おい、うちに押し付ける気か⁉ そもそもこの案件は、越氏に持ち込まれたものだろう? 自身のところで解決してはどうかね」
     一人が押し付けると、押し付けられたほうはまた別の誰かに押し付け出す。議論は徐々に白熱し、泥沼化していく様相に、藍曦臣はぽつんと置いてけぼりになっていた。どうやら、厄介な事案だったようだ。それをぼんやりとしていた藍曦臣に押し付けてしまおうという魂胆だったのだろう。普段であれば藍曦臣もうまく躱すなり、解決策を提案するなり、対処するところだったが、ぼうっとしていたばかりにあわや誰もやりたがらないような案件を抱え込まされる寸前だったらしい。それを江晩吟は嘲るふりをして庇ってくれていたのだ。
    「皆さま、話が纏まらないようですので、ここは主催者として私がまとめさせて頂きます」
     ぱんと扇子を叩いて皆の注目を集めた此度の主催者、聶懐桑。にこにこと微笑みを浮かべた彼は、複数の家で行う合同夜狩りを提案し、あれよあれよと言う間に話を纏めると手早く今日の清談会を終わらせた。
    「では、他に議題のある方はいらっしゃいますか? 無いようですので、此度の清談会はこれに閉会と致しましょう。どうぞ皆さまお気をつけてお帰りください」
     閉会の合図を皮切りにわらわらと各々談笑しながらも、一人、また一人と聶宗主に挨拶し広間を出て行く。ぼんやりとその様子を眺めていた藍曦臣だったが、ハッと我に返ると江宗主の姿を探した。しかし、さっさと退出してしまったのか、広間には彼の姿は見当たらない。せめて、一言先ほどの礼を言いたい。
     藍曦臣はさっと立ち上がると軽く身なりを整えると、聶懐桑の元へと足を向けた。藍曦臣が近づくと挨拶と称し、世間話をしていた各家の宗主たちがさっと道を譲ってくれる。
    「談笑中申し訳ございません。私はこれでお暇させて頂きますので、ご挨拶を」
    「曦臣兄様、そんな堅苦しくなさらないでください。お体は大丈夫ですか?」
     こてん、そんな表現が似合いそうな様子で首を傾げた懐桑の姿に、藍曦臣は穏やかな笑みを見せるとゆっくりと首を横に振った。
    「心配をかけてすまないね。懐桑。……こんな私では不甲斐ないかもしれないが、何かあればまたいつでも力になろう」
    「……曦臣兄様、そんなことありませんよ。今でも曦臣兄様は皆の憧れですから……」
     一瞬言葉に詰まったように見えた懐桑は、しかしすぐに首を横に振るとそう答えた。
    「ありがとう。……では、皆さま、ご歓談中のところ失礼致しました。私はこれで失礼させて頂きます」
     丁寧に拱手して踵を返した藍曦臣は気づかなかった。ほんの一瞬、聶懐桑が瞳に浮かべた激しい嫌悪の色に。
    「いやぁ、閉関し一時はどうなるかと思いましたが、相変わらずのご様子で安心いたしましたな」
     にこにこと笑って話した宗主に、聶懐桑は愛想笑いを浮かべながら適当に相槌を打つ。
    「ええ、そうですね。本当に……」
     曦臣兄様。貴方は本当に相変わらずです。何もお変わりがないようで、私は…………。
     昨夜、江晩吟に吐き出したことで、忘れ去ろうとした感情が激しく胸の奥から湧き出してくるような心地がした。しゃんと伸びた背中は、決して聶懐桑を振り返らない。輝くほどに白い校服が嫌味なほどに美しく見えた気がした。


    ***


    「阿凌」
     優しく蕩けるような声音で呼ばれたその名前に、藍曦臣はぴくりと耳を動かした。
     普段の厳しく強張った声とは異なり、相手を甘やかすような調子なのだから、彼は我が耳を疑った。なぜなら、蘭陵金氏の若宗主、金如蘭をそのような愛称で呼ぶのは、今やたった一人だけ。そして、その人物が先ほどのような甘い声を出すところなぞ、彼は終ぞ聞いたことがなかった。
     きょろきょろと周囲を見渡して、その人影が自身の視界にいないことにわずかに落胆した。それから声がしたほうへと自然と足を動かす。彼はもしかしたら、今自分と会うことを良しとしないかもしれないが、この機会を逃せば礼を言う時は訪れないだろう。声が聞こえたということはきっと近くにいるのだ。
     そう思って歩みを勧めていると、なにやら諍っているような声が聞こえてくる。
    「もうっ、叔父上はいい加減放っておいてよ! 俺は子供じゃないってば」
    「一体、その減らず口は誰に似たんだ⁉ お前が何歳になろうと俺は躾けるぞ。大体お前はまだ、……、誰だ⁉」
     近づいてきた藍曦臣の気配に気付いたのだろう、厳しい口調で振り返った江晩吟に、藍曦臣はおずおずと廊下の角から姿を見せる。
    「申し訳ありません。江宗主。盗み聞きするつもりはなかったのですが……」
    「沢蕪君⁉」
     驚いた顔をする金宗主とは反対に、江宗主は藍曦臣の姿を視界に入れると、元々深かった眉間の皺を更に深くした。苛立ったように息を吐き出すと、じろりと背後にいた金宗主を見やる。
    「金凌、話はもういい。今日はもう帰れ。寄り道なんかするなよ」
    「言われなくても分かってるよ。大体、叔父上が引き留めたんじゃないか!」
     口を尖らせて反論した金凌に、江澄はきっと眦を吊り上げた。ここに魏無羨がいたならば、その顔を見て虞夫人そっくりだ、と評したことだろう。さすがの金凌も、うっと言葉を詰まらせると、藍曦臣に拱手していそいそとその場を後にした。
    「それで、何か用か? 藍宗主」
    「いえ、あの、先程はありがとうございました。庇って頂いたようで……」
     藍曦臣がそう答えると彼は軽く舌打ちをした。
    「別に大したことじゃない。そんなことを言う暇があったらさっさと帰ったらどうだ?」
     素っ気なく返した彼に、藍曦臣は慌てたように首を振った。
    「いえ、それだけではなく……、その、少し話せないでしょうか?」
     困ったように眉尻を下げた藍曦臣に、江晩吟は今度は溜息を吐いた。その様子にぴくりと肩を震わせた藍曦臣だったが、江晩吟は顔を背けながらもちらりと視線だけを投げて寄越した。
    「ここじゃまずい。場所を変えよう」
     ぱっと表情を明るくさせた藍曦臣は柔らかく微笑むと、軽く拱手した。
    「ありがとうございます」
    「清河の境にある瑞老という店は分かるか? そこで落ち合おう」
     彼はそれだけ告げると、足早にその場を立ち去って行ってしまう。その後ろ姿を見送りながら、藍曦臣はまたぼんやりと考え事をしていた。凛と真っ直ぐに伸びた背は、大きく何物をも寄せ付けることを良しとしない。
     常に厳しい表情を浮かべている江宗主だが、ときおりその顔が幼く見える。それは気のせいなどではなく、実際そうなのだと思う。金丹を若いうちに鍛え上げれば、それだけ早く身体の年齢は止まる。それはつまり、それだけ早く彼が強くならなければいけなかったことを示しているのだ。一族を滅ぼされ、一人で雲夢江氏を元の大世家まで復興させた彼は、他の誰よりも早く強くなる必要があったのだろう。
     それを考えると、悔しいような気持ちが込み上げてくる。私はどうして、彼を放っておいてしまったのだろうか。強い貴方は最初から強かったわけではなかっただろう。一人でも立って前へ進んでいく貴方は、最初からそうだったわけじゃないはずだ。貴方を取り巻く環境が、貴方をそうさせざるを得なかった。
     雲深不知処が焼き討ちに合い、温氏から逃げた先で蓮花塢の惨劇を知った。各家に助力を求めて放浪していた折に、江晩吟と再会し彼が無事であったこと知った。一時は彼と共に、寝食を共にしていたこともあった。だが、その時の私は一体何をしていただろうか。彼の事を知ろうともせず、彼の苦悩を分かろうともしなかった。お悔みを申し上げる。そんな当たり障りのない言葉をかけただけだ。
    どう温氏に対抗するか、どう攻め落とすか、そんな話ばかりして、彼が当時どんな顔をしていたのかさえ思い出せない。あれだけ、側にいたはずだったのに、私は――――……、彼に一体何をしただろうか?
     雲夢江氏の復興で彼が奔走していた時は?
     魏無羨の独断と横暴で彼が仙門百家から責められている時は?
     彼の姉が亡くなった時も、私は何か一つでも彼の手助けをしただろうか?
    そんな彼に私は今、寄り掛かっている。それが正しい行いだと言えるのだろうか。そんな疑問が頭に浮かばないでもない。
     身代わり。
     その言葉が昨夜から頭の中でずっと反芻している。私は江晩吟を金光瑶の身代わりにしているのだろうか。私がかつて、江晩吟に手の一つどころか、励ましの言葉一つかけなかったのは、当時は阿瑶がいたからか?
     金光瑶がいなくなった今だから、私は彼の境遇に痛みを感じ同情しているのか?
     この感情は、同情、なのだろうか?
     貴方が一言、私を慮ってくれるだけでこの胸は高鳴り、満ち足りたような心地になる。貴方の言葉に気遣いに、私は救われている。貴方の過去を思うだけで苦しくなるというのに、私は――――……。
     待て。今、私は何と言った? 救われている?
     私はいつから救いを求めていたのだ?
     まるで暗闇の中に立たされたように、藍曦臣は自分のことが分からなくなった。手を伸ばしてみてその姿形さえ掴むことが出来ない。これでは閉関を解いた意味がない。出口も分からぬまま藻掻いて必死に答えを求めていた。それだと言うのに、今もまだこの手は宙を掻いている。
     江晩吟。貴方に縋りたいわけじゃないのに、貴方がいないと私は、答えを探すことすら出来ないというのか……。


    ***


     瑞老は、清河の東端にある長く続く老舗で、個室を用意しており、密会にはうってつけの店だった。店主や店員の口が固い為、商人たちだけでなく仙師も多く利用する店だ。藍曦臣も幾度か利用したことがあり、茶葉の種類が豊富で、香り良く品の良い味わいで絶品だったことで印象深い。そういった会談がなくとも、清河に寄った際は茶葉を買う為だけに寄ることも少なくないほどに。
     藍曦臣が店に出向き、人と待ち合わせをしているのだと言うと、店主はすぐに上等な個室を用意してくれた。どうやら江晩吟はまだ到着していないようだった。来たら案内してもらうよう店主には伝えたので、待っていればすぐに来るだろう。それまでに自分の気持ちをもっと整理しておかなければ。
     ここへ来るまでの間に御剣して風に当たったことで少し冷静になれた。私は、江晩吟。貴方に縋り過ぎている。貴方の言葉を、貴方の意見を、聞きたい。私の悩みを、私の苦しみを、貴方に照らしてほしい。そんな思いで貴方の元へ通ってしまった。私の弱さで貴方に縋ってしまっている。それだと言うのに、貴方の側に立ちたい? 貴方の助けになりたい?
     なんと傲慢なのだろう。私は貴方を勝手に弱い者へと変換して、貴方をその枠に押し込めて、結局のところ、私は江晩吟を金光瑶の身代わりにしているのかもしれない。
    「随分と酷い顔だ」
     藍曦臣が一人考え込んでいると、江晩吟はすぐに店主に通されてやってきた。かけられた声に顔を上げると、江晩吟はいつものように眉間に深い皺を刻んだ表情をしながら藍曦臣の前の席へと腰かける。
    「江晩吟……」
     すんなりと彼の名前が出てきたことには自分の方が驚いてしまった。私の中で彼はそんなにも親しい人間となっていたのだろうか。わずかに驚いた表情が見えた江宗主は、即座にその表情を消すと店主から茶を受け取り、彼が部屋を出て行くの確認してからこちらに向き直った。
    「待たせてしまったな。話を聞こう」
     淡々と話を促した江晩吟に、藍曦臣はまた視線を伏せた。一体どこから話したらよいのか。
    「私……、私は……」
     声が震えて、その先の言葉が出てこなかった。
     口籠る藍曦臣の様子に、江晩吟はすっと目を細めると、茶を一口飲んだ。それから試すように口を開く。
    「どうした? 俺との関係をまるで金光瑶の身代わりにしているようだ、とでも揶揄されたか?」
     その言葉に驚いたように顔を上げた藍曦臣の姿に、やはりな、と嘆息した。鎌をかけたが、どうやらその通りだったようだ。仙門百家が集まる清談会。下世話な噂話が藍氏宗主の耳に入ってもおかしくはない。
    「それで、沢蕪君ともあろう者が他人の言葉に踊らされているわけか」
    「申し訳ありません」
    「別に謝ってほしいわけじゃない。事実を言ったまでだ」
     江晩吟がそう答えると、藍曦臣はますますしゅんと落ち込んだ様子を見せた。その様子にわずかな苛立ちを覚えて溜息をつく。暇なわけでもあるまいし、わざわざ時間まで取ってお人好しも甚だしい。俺はいつからこんなに愚かになったのだろうか。
     目の前では、あの沢蕪君が酷く落ち込んだ様子で座って自分の言葉を待っている。きっと仙門百家の誰もが羨むであろう地位に、今自分は座っている。あの沢蕪君に救いを求められている。それは誰もが嫉妬と羨望混じりに視線を向けることだろう。きしりと胸が痛んだような気がした。
     友のように接することを彼に望んだ。彼が友として振舞うことを許した。それは一体どんな感情からだっただろうか。罰と許しを求めて、喘ぐ彼に救いの手でも差し伸べたつもりか? 江晩吟。
     聶懐桑との語らいは、懐かしさを含んでもいたが、それ以上に自らの頭に冷水を浴びせ掛けられたように、冷静に自身の行動を見つめ直すきっかけにもなった。
    藍曦臣が憎いか、と問われればそれほどの激情を彼には抱けない。では、友情を抱いているのか、と問われればそれも違うと言えよう。彼に抱く感情は友情と言うには、冷淡なものだった。同情かと言われればそれも否だ。同情する価値などない。憐れむべき人間がこの世界には多すぎる。悲惨な目に合った人間は彼だけではなく、苦しんでいるのも彼だけではない。恵まれた環境にいる彼に、同情する余地があるだろうか。
    では、利害から手を貸したのかと言われれば、それにしてはこちらの利益が少なすぎる。姑蘇藍氏は元々争いを好まないし、他者を故意に蹴落とすことも良しとしない。利にもならないが、害にもならない。そんな存在だ。嫌われないに越したことはないが、好かれる必要もなかったはずだった。
     珍しい、と聶懐桑は言った。
     確かにその通りだ。江晩吟自身、それを理解している。では、一体、なぜ彼に手を貸しているのか。わざわざ時間を割いてまで、彼の手助けをしてやる理由は……?
     ただ、一つ理由を上げるのなら、見ていられなかった、と言えるかもしれない。
     凛と立つ貴方の背中を覚えている。その背に憧れ、その背を目指した。穏やかに微笑むその姿に、父を重ねたこともある。憧れだった。そんな期待も羨望も全て、虚構だったと知っても尚、貴方のそんな姿を見ていられなかった。
     かつて抱いた羨望が地に落ちて尚、その相手が地に膝を付いている姿を見ていられなかった。
     貴方の助けになりたかったわけじゃない。
     あの日、藍曦臣を訪ねたのは、魏無羨が俺に、きっと奴自身も会うことを躊躇っていただろう俺に、会いに来て頼んだから――――……。この感情を何と名付けるべきなのか、俺にはよくわからない。少なくとも俺は、藍曦臣の為を思って行動したことなど一つもない。それだというのにここまで縋られては気味が悪い。
     けれど、喉元まで込み上げてくる感情は何と呼べばよいのだろう。
    「それで? 貴方は俺を身代わりにしているのか?」
    「それはっ……」
     江晩吟が問いかけると、藍曦臣は俯いていた顔をぱっと上げて何かを言いかける。しかし、ぱくぱくと鯉のように口だけが動いて、後が続かない。
    「仮にそうだったとして、何が悪い?」
    「え――――?」
     戸惑ったような藍曦臣の声を意図的に無視して、手にした茶杯に視線を落とす。その小さな水面には酷く冷めた顔をした男の顔が映っていた。
    「誰を、誰の身代わりにしようが貴方の勝手だろう。それを揶揄したければ、好きにさせておけばいい。どうせ面と向かえば、媚を売るしか能のない奴らだ。そんな奴らの言葉を気に掛ける必要があるか?」
     彼らはころころと手のひらを返し、有益なものにすり寄る寄生虫だ。そんな人間の戯言など気にする価値もない。
     ふっと視線を上げた江晩吟は、藍曦臣の顔を見て思わず息を止めた。持ち上げかけた茶杯を掴み損ねて、カタンと小さな音を立てて中身が零れていく。しかし、それを気に留めるよりも彼の表情に気を取られた。悲しいような、傷ついたような、怒っているような。終ぞ見たことがない複雑な表情に、江澄は何を言えば良いのか、どうしたら良いのか分からずに黙り込んだ。
    「貴方は、それでよいのですか?」
     たっぷりと間を置いて、そう尋ねた藍曦臣に、江晩吟は眉を顰めた。
    「良いも何も、俺がどうこう出来る問題でもないだろう。それとも何か? 噂話に興じている奴らに、そんな話はやめろ、と制止して回れとでも?」
     皮肉めいた江澄の答えに、今度は藍曦臣が顔を顰めた。怒ったような顔で、首を横に振ると、じっと江澄の目を見た。
    「そういう話ではありません」
    「では、どういう話だと言うんだ」
     藍曦臣には、江晩吟が怒らない理由が分からず、江晩吟には藍曦臣が怒っている理由が分からなかった。
     互いの視線が交差して、お互いに長い時間一言も語らず見つめ合っていた。しかし、やがて羅曦臣のほうから視線を逸らした。怒りを抱くべき相手は江晩吟ではない。彼に怒って欲しかったのは自分勝手が過ぎる、というものだろう。
    「……申し訳ありません」
    「それは何に対する謝罪だ?」
     謝罪を口にした藍曦臣に対し、江晩吟はそう問い返した。その声はとても冷えていて、縮まったと勝手に思っていた距離が再び開いたように藍曦臣は感じた。
    「私は、貴方を阿瑶の……、金光瑶の身代わりにしているつもりはありませんでした。ですが、私は貴方に縋って、救いを求め、あまつさえ、貴方を私が支えられるようになりたい、だなどと驕ったことを考えていたのです」
     藍曦臣が震えながら、吐き出した言葉を江晩吟は黙って聞いていた。
    「私は、貴方に何一つ、力を貸してこなかったのに、貴方はなぜ私を助けてくださるのですか? 江宗主。私は貴方に縋って良い人間などではないのです。貴方に助けを求められる立場などではない。救われて良い人間などではないのです」
     そう言うと藍曦臣は座ったまま頭を抱えだした。嘆息するように首を振る姿は、悲哀に満ちていてほんの数カ月前までの閉関していた姿を連想させた。
    「私は、真実を知りたかったはずだった。私は罰せられることを望んでいたはずだったのに、いつの頃からか、貴方に出会って知らず知らずのうちに救いを求めるようになっていた。あまつさえ、私に手を差し伸べて助けてくれる貴方をっ……、阿瑶の代わりにするだなんて……」
     目の前で苦悩する男に、江晩吟は静かに息を吐いた。面倒な男だ、とそう思う。彼が何をそんなに思い悩んでいるのか、結局のところ江澄には理解できない。
     慈しみ守り愛していたはずの義弟、金光瑶。
     彼を悪だと断じることも出来ず、彼が善だと信じることも出来ない。それならばいっそ忘れてしまえばいいものを、藍曦臣はそうすることも出来ずに懊悩することしか出来ないのだ。江晩吟からみた金光瑶は卑劣で卑怯で矮小な悪党だ。救う価値もなく、信じる必要もない。それでも彼がそのように断定できないのは、一重に、道連れにと掴んだはずの藍曦臣を、最後の最後で突き飛ばし助けたからなのだろう。
     なぜ、あの時、金光瑶は藍曦臣を助けたのか? その問答の答えを知るのは金光瑶ただ一人で、他の誰も答えることは出来ない。その問いがあるから故に、藍曦臣は彼を諦めきれないのだろう。
     諦めきれない、とは我ながら良い例えかもしれない。
     自省と悔恨と自罰の果てに疲れた彼は、偶然訪れた江晩吟に縋ることを覚えてしまった。そこに自身の答えがあるのだと妄信して。だが、江晩吟に縋ったところで、答えは得られるものでもなく、結局彼に与えられたのは更なる苦しみだったというわけだ。
     真っ直ぐで純粋で、それ故に愚かだ。
     楽になる道も選べず、苦しみ抜く道も選べなかった、というのか。
     何が彼をそうさせているのか、といえば、やはりそれは金光瑶で、彼もまた死人に捕らわれているのだろう。
     江晩吟はここまで来ても、自分がどうしたいのかよく分からなかった。彼の気持ちに寄り添いたい、などという感情はやはりなく、同情心など込み上げてはこない。だが、しかし彼に対して以前暴言を吐いた時のような怒りもなく実に凪いだものだった。かといって、優越感に浸っているわけでもないし、悲しいだとか、悔しいとかそんな気持ちも込み上げてはこない。
    「貴方に助けてほしい、だなどと思ったことはない」
     自分でも驚くほど淡々と冷たい声が出た。それでも彼の中に憤怒があるわけではなかった。身代わりにしていた、と言われて俺は傷ついているのか? 馬鹿な。最初からそんなことは想像がついたはずだ。それとも、藍曦臣ならばそんなことはしないとでも思っていたのか?
     江晩吟は、彼を訪ねてから一度として彼に期待したつもりはなかった。
    「身代わりにしたいのなら、好きなだけしたらいい。俺が良いと言っているんだ。誰に迷惑をかけるわけでもない。なら、貴方の気が済むまで好きにしたいい。それで自分を責めるのはやめろ。自罰など、誰も徳をしない」
     普段の江晩吟であれば、他人の身代わりにされるなど我慢ならず、怒声をあげていてもおかしくなかった。けれど、今、感情は酷く凪いだもので、どんな激情も込み上げてはこない。藍曦臣に向かって冷静に告げた江澄とは対照的に、珍しいほど感情を顔に出して彼を見返した。
    「貴方はっ……、それで良いと言うのですか? 江晩吟」
     顔を歪めた藍曦臣は、苦しげにそう俺を問い詰める。その顔を見て、ようやく江晩吟はわずかな怒りと苛立ちが自分の中に芽生えるのを感じた。
    「では、俺にどうしろと⁉ 貴方は一体、どうしてほしいんだ? 俺が貴方に施しを与えているとでも言いたいのか⁉」
     江澄は、決して藍曦臣を憐れんでなどいないし、施しているつもりもない。自分が何を望んでこのように藍曦臣と相対しているのか分からずとも、それだけは断言できる。
    「貴方は、なぜ私をそうも思ってくれるのですか?」
     怒気を返した江晩吟に、藍曦臣はそう問い返した。その瞳を見た瞬間、江晩吟はぞっとした。藍曦臣の虚ろな瞳に、椅子に座ったままわずかに後退る。椅子の足と床が擦れた音がやけに大きく耳の内側に響いた気がした。まるで大きな虚がそこにあるような、ぞっと悍ましいような気に体を縛られる。しかし、それはあくまでそんな気がしただけで、実際には江澄の体を縛るものは何もなく、藍曦臣を殴ろうと思えばいつでも殴れたし、ここから逃げようと思えばいつでも走り去ることが出来たはずだった。
     けれど、彼の体は指先の一つ動かすことが出来なかった。
     藍曦臣が放つ気配に圧倒される。これは一体何だ? 俺は今、何を見ているのだろう。
    「…………貴方が……っ」
     このままではまずい、と何とか口を開けて声を出す。
    「貴方に、……腹が立ったからだ」
     なんとか絞り出すようにして、そう答えると藍曦臣は虚ろな瞳にようやく生気のようなものを宿した。金縛りがほどけたように、ぴくりと指先が動いた。相手に悟られないように、静かに息を吐き出す。
    「それは、どういうことでしょうか?」
     尋ねる藍曦臣に、江澄はわずかに視線を逸らした。それから視線を戻すと、彼の目を見て話し出す。
    「貴方は自分を高潔だと信じて疑わない。まるで仙人のごとく、貴方の掲げる理念も、理想も、行動も、言葉の一つとっても貴方は美しく清らかだ。だが、貴方はそれに縛られてまるで罪人のごとく苦しんでいる。……ハッ、俺に言わせればおかしな話だ。どんなに貴方が清らかに振舞おうとも、貴方は人間で、貴方にも醜い一面がある。そんな簡単な事実にも気づいていない貴方が、俺は腹立たしかっただけだ」
     話しながら、江晩吟は自分の気持ちがどこかすとんと落ちていくような気がした。
     いっそ腹立たしい程自分が見えておらず、いっそ憎たらしいほど清廉で愚かな藍曦臣。貴方に腹が立っていたのは事実で、貴方も自分がただの人間だと気付けばいいとそう思った。でも、そうして触れた貴方が、……あの時の貴方が、まるで子供みたいだったから――――……
    そうか、俺は、そんな藍曦臣に金凌に抱くような庇護欲と慈愛のような感情を抱いたのか。我ながら不遜だ。かの沢蕪君を子供と同列に語るとは。
     貴方に対して腹を立てていたのも事実で、でもそれ以上に苦しむ貴方を俺は見捨てられなかったのだな。同情で憐憫していたのではなく、貴方の痛みと愚かさに仁愛を抱くとは、俺は藍曦臣以上の愚か者だったのかもしれない。
     どうりで身代わりにされても腹が立たないわけだ。
     江澄は、ふっと息を吐くと机に手をついて立ち上がった。すると、藍曦臣は江澄が帰ってしまうと思ったのか、わずかに腰を浮かせて縋るような眼差しを向けた。その視線がおかしくて思わず笑みが零れた。
    「藍曦臣、貴方は愚かすぎる」
     純粋すぎるがゆえの愚かさとでも言うべきか。
     まるで子供みたいに。
     江晩吟は、椅子に腰かけた藍曦臣のすぐ横へと経つと、その胸倉をいきおいよく掴んだ。
    「純粋すぎるのも考えものだな、いい加減、学習したらどうだ? 暖かい繭の中に包まっていてはさぞ心地が良かろう」
    「私が、世間知らずだと、おっしゃりたいのですか?」
    「違うというのか?」
     即座にそう返せば、藍曦臣は胸倉を掴まれたまま項垂れるように視線を伏せた。

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    Replies from the creator

    sky0echo

    PROGRESSpixivにあげている曦澄
    空蝉の続き
    多分pixivにあげられるのはまだまだ先
    推敲中なので、直すとこかいっぱいあると思うけど
    とりあえずモチベをあげたいので、応援してほしい()
    泥濘に微睡む② かつて訪ねた不浄世は、良く言えば質実剛健、明け透けに言ってしまえば飾り気がなく質素、無骨な印象を持った屋敷だった。しかし、今はどうだろう。美しく繊細な色合いの花瓶がそこかしこに飾られて、季節折々の花が生けられている。調度品も茶器も決して華美ではないが、一目見て品の良さが分かる逸品揃いだ。
     雅事に造形の深い聶懐桑が宗主となってから、不浄世は少しずつその姿を変えているように思えた。かと思えば、時折以前のような無骨な姿を現す一面もあるからにして、きっと彼は兄の面影を残しつつ、この地を美しく彩っているのだろう。兄が愛した土地を、弟もまた愛しているに違いない。
     清河の地で開催された清談会。姑蘇藍氏宗主として、此度の清談会に藍曦臣は参加した。ここ数年、閉関していた藍曦臣は清談会を叔父の藍啓仁に任せることが多かったのだが、閉関を解いた今、いつまでも叔父に甘えるわけにはいかないだろうと、今回は自身が参加することにした。供をつけようか、と案じる叔父の言葉を断ったことに深い意味があるわけではなかったが、だが、供がいてはあまり自由に彼を訪ねられないかもしれない、という私情があったことは否定できない。
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